審査、合宿、結婚式

怒涛の9月が終わった。
甲南の後輩たちの昇級審査と合宿での昇段審査に向けた数週間にわたる自主稽古、秋合宿、永山春菜の結婚式。

審査のための稽古、については賛否両論あると思う。
普段の稽古の成果をただ発揮すればいい。そのとおりだ。

同じ時期に合気道の稽古を始めて、同じように稽古していても個人差がある。
体格も身体能力も千差万別であるように、同じ先生の指導で同じ技を稽古していても、当然ながら全く違う。

ものすごくがんばって稽古をして審査に臨んだ人と、さらりと本番に臨んでなんなくクリアできる人。
後者の方がカッコいいに決まっている。

彼女らの稽古に付き合いながら、稽古年数も進度も体格も年齢もまったく違う者同士が、審査と言う同じ査定の場に晒されることの非情さついて思わずにはいられない。まるで指導している自分までも査定されるようで、「稽古しすぎ」と廻りから揶揄されても、最後までやれるだけやらずにはいられない彼女(彼)らの心情に、私自身完全にシンクロしていたような気がする。
もっと簡単に言えば、自分の参段の審査の時、同じように揶揄された自分、努力する姿を人に晒してしまうカッコ悪い自分を思い出して重ねていた。審査が終わって泣いていた彼女らの気持ちが、私には痛いほどわかる。上手くいって嬉しいのも、上手くいかなくて悔しいのも。

人の技を批判してはいけない。人の技の巧拙を論じてはいけない。

全員が等しくよかった、などときれい事を言うつもりはない。
愚直でいいじゃないかと開き直るつもりもない。
さらりとやれる人はカッコいい。しかし、一所懸命やるしかない、カッコ悪くてもそれしかできない、そういう人にせめて自分は拍手を贈りたい。

ただ、審査もまた実験の場だ。
命を取られるわけではない。何かを失うわけでもない。
プレッシャーに挑む稽古、自分と闘う稽古。
本番は道場の外、本当の修羅場は審査以外の場所にある。
強弱勝敗を問わない合気道において、審査はまた本当によくできた稽古だとつくづく思う。

さて、永山春菜の結婚式。
大披露宴でのスピーチは、これまた大変なプレッシャーであった。
やはりああいうことは本当に苦手だ。
内田先生もめずらしく褒めてくれたことだし、とりあえず大役は無事果たすことができたとしよう。
なんでも修行である。
終わった後、なんでも出来るような大きな気になっている自分であった。