スキーあれこれ~高橋先生のス道会~

ただ雪の斜面を不自由な板を履いて滑り落ちるだけの、スキーの何が面白いのか、スキーをする人の気持ちが長いことよく分からなかった。(同じ理由で、水泳や陸上競技をする人の気持ちが分からなかった)

スキーは面白い。
と最近思うようになった。
その楽しさは、合気道に似ている。

スキーはただ一人で、雪山を滑って降りてくる。
合気道では「受け」という「相手」がいる。
スキーは雪山そのものが「相手」である。

スキー板をかちっとはめて雪の斜面に立ち、そのエッジを緩めたとたん、それは始まる。
「相手」は様々な表情を変えて、待ったなしで次々現れる。
斜度、雪の量、滑走面の幅、視界の良し悪し、こぶの有無大小、降雪量や気温、板や靴のコンディション・・・どれかが少し違うだけで、全てががらりと変わる。なんてことない緩い雪の斜面が、突如猛スピードで滑り落ちる恐ろしい斜面へと変貌する。
合気道の「受け」を取る相手の、背丈、手足の長さ、骨格、筋肉の感じ、堅さ柔らかさ、技の熟練度、性格・・・
合気道の「受け」は攻撃を仕掛け動くが、雪面はその「変数」を次々と変化させて挑んでくる。つまり常に動いている。

合気道では相手があるが、相手と戦わない、気にしない。
スキーでは雪面と戦わない、友達になる。やっかいな「こぶ」は抱きしめる。

やっていることは、「ただただ雪の斜面を滑るだけ」、「勝ち負けはなく、相手を型どおり投げるだけ」、なのに、その「変数」はどちらも実に多く、同時多発的だ。
合気道で技が理合いに通じ「相手」と同化した時、技を「やった感」はない。
雪山をただただ重力に逆らわず落ちていく時、上手くスキー板をコントロールして綺麗に滑れた時、「やった感」はたぶんない。(と高橋先生の師匠である丸山先生も仰っていた)

細かい動きでもいろいろ共通点がある。
谷側に向かって立ち板が滑って落ちるその時の感じは、合気道の歩み足で相手の裏に入る時の、するりと吸いこまれる感じと同じだし、谷側に落ちる側の板のエッジを立てる時に股関節を畳むのは、合気道の転換で股関節を畳む(内田先生が稽古で股関節を畳めと指導され始めたのは去年のス道会以降)のと同じだし、やはりスキーで回転する時に、谷側の胸をふっ、落とすのも、これは今年の新しいトピックだったけど、まさに内田先生がここ最近の稽古でテーマにされているものとドンピシャ同じで驚いた。

しかし何より今回のスキーで「これはっ」と思ったのは、「身体イメージを先取りする」だ。
「少し先」を先駆的に一瞬一瞬、先取りしていく。
先取りした「未来の雪面」で「すでにそこを滑っている未来の自分」に、身体を放り込んでいく。
身体を放り込んでいくそこは、瞬時瞬時先にあり、それは「常に動き続ける」。

この理合は、まさに合気道そのものである。

なんでも奥が深い。

あともうひとつ。
高橋先生の教え方。
これは今の私には得るものが大きかった。
何だか楽しくしているうちにスキーが上手くなってカニが美味しかった去年までと今年では、これが決定的に違った。
去年も感じていたことだし、内田先生はすでに日々そうなさっていることだが、改めて自分の稽古指導方法を反省した。
早速、明日からの稽古で実践するのみである。