「木野」について 井上英作

前回同様、文芸春秋に掲載されている村上春樹の短編について、書くことにする。気付かなかったのだが、この企画には「女のいない男たち」という副題がついていた。本作は「ドライブ マイ カー」、「イエスタディ」に続く3作目となる。

 本作の題名は主人公の名前のことである。木野は、妻の浮気をきっかけにサラリーマンを辞め、バー「木野」を始める。簡単に言えばそれだけの話である(村上春樹の作品は、あらすじだけを書けばこのようにとりとめのない話が多い)。が、本作においても過去の作品から一貫してひとつのことが描かれている。それは、主人公はいつも女の人から逃げられる、あるいは女の人がいなくなるという事実である。

 これまでの村上春樹の作品を振り返ってみた場合、「羊をめぐる冒険」では、主人公の妻は、最後に「あなたのこと今でも好きよ。でも、きっとそういう問題でもないのね。」と言って主人公の元を離れる。また、「ノルウェイの森」では、恋人の直子は死んでしまう。
 このように村上春樹の作品において男と女は決して交わらない。描き方は違うが、このことは、「村木」と「名美」を描き続ける、石井隆の世界観にも通じる。では、村上春樹が繰り返し、このことを描き続けるのはなぜだろうか?

 僕は、前回の「イエスタディ」の感想文の中で「村上春樹の作品は、「他者」とどのように関わっていくか」を描いているというふうに書いた。その「他者」の中でも最たるものの一つは、僕は「女」ではないかと思っている。つい最近まで、「男」と「女」というのは単に種類の違うものだと思ってきたが、実は「女」というのはまったく別の次元の、よくわからない「他者」ではないだろうかと思っている。かつてジャック・ラカンは「女は存在しない」といった。中沢新一によるとこのことは、「不確個な多」の象徴らしい(余計に分からなくなってきた)。もし、村上春樹が「「他者」とどのように関わっていくか」について描いているとすれば、「女」と上手く折り合いをつけられないでいるのも納得がいく。

 本作の中で木野は、かつての妻との会話を回想し、自分が傷つくべきときに「十分」に傷つかなかったことに気付く。「他者」=「世界」と関わっていくということは、もしかしたら、傷を伴う作業なのかも知れない。しかし、私たちはその痛みを通じて、初めて「私」という「他者」に出会っていくのかもしれない。