辞書をめぐるはなし──映画『舟を編む』雑感── 佐藤龍彦

辞書をめぐるはなし──映画『舟を編む』雑感──

いくら辞書を買えども、次から次へと欲しいものが出てきます。世の中には「広く浅く」から「狭く深く」まで、初心者向けから玄人向けまで、軽いものから重いものまで、数多の辞書が刊行されています。

私のような産業分野の翻訳を仕事にしている人達の間で、「海野さんの辞書(うんのさんのじしょ)」と呼ばれている辞書があります。正式なタイトルは『ビジネス/技術 実用英語大辞典』。編纂者である海野さんご夫妻自身が翻訳者です。ご両人が既存の辞書を使用されてきた経験から独自の視点で辞書を作ろうと試み、世に出されたのだそうです。たった2人で完成させた辞書。現在、第5版が出ています。

「海野さんの辞書」を含め、私は一日に何百回と辞書を引きます(多い方ではないので自慢ではありません)。一度に二十冊近い辞書に当たることもあります(これも多い方ではないので自慢ではありません)。ひとつの語に対し複数の辞書の記述を読み、さらにインターネットで実際の使用例や使用頻度を確認します(Google さんありがとう)。初めて出会う語はもちろん、既に知っている言葉に対しても、ちょっとでも悩んだら同じことをします(「知ってるつもり」だったことはしょっちゅうのこと)。

これらをすべてパソコン上で行います。紙の辞書にはできない注文です。全ての辞書は小さな小さなN極とS極の列になってハードディスクに収まっています。どれだけ辞書を入れても重くはなりません。そしてわずかなキー操作で瞬時に全ての辞書を引けるようにしています。なんといいますか、味気ないですよ。でも、たとえば明日東京で人と待ち合わせしているときに大阪から歩いて行くのが現実的でないように、私にとって紙の辞書を引くのは現実的ではないんです。ときおり辞書を「粗末に」しているような気分になりますが。

一方で、私自身も小さな辞書を作り、日々面倒をみています。その日出会った言葉を採り集め、整理する作業です。すでに記録している言葉にも、新しい使い方を書き込んだり、「これ間違ってるよ……」と冷や汗をかきながら修正したり。結構手間です。でも、楽しいんです。

先日『舟を編む』を観ました。見出し語24万語の大型辞書「大渡海」の編纂をめぐるおはなしです。コンセプトは「今を生きる辞書」。この映画には世間で使われる言葉を「採取」する場面がたびたび出てきます。「大渡海」監修者の松本先生は、若者の言葉使いにも決して否定的な態度を取らない。「私はそういう言い方はしませんが」と前置きしつつも、実際に使われているのだからと辞書に採り入れていく。あるがままを受け入れる。変化する言葉への謙虚な姿勢。議論を巻き起こす変化もあるはずですが、それらも仲間だといったん認めるのが大人の作法なのでしょう。

「大渡海」編纂の過程でPHSが登場し、ブラウン管モニタとデスクトップパソコンという組み合わせがノートパソコンに変わり、インターネットが普及する。世紀が変わり、ファッションも変わり、白地だった「大渡海」の張り紙は日に焼け、主人公の馬締(まじめ)は下宿先の大家の孫、香具矢と結婚する。世の中も言葉も変遷しますが、人も変わっていきます。余談ですが、恋文のくだりは特に気に入っています。

そして「大渡海」の完成を見ることなく、松本先生はこの世を去る。自分が生きている間にプロジェクトが終わらないかもしれないなんて、そんな「悠長な」仕事が今日どのくらいあるのでしょうか。

とりまく世界に対する当座の落としどころを形に表し、移ろいゆく現実との隔たりを再び縮めてゆく。私が『舟を編む』から切り取った相似形はこんなところです。

馬締君には深く共感しました。ちょっとうらやましいです。

清道館門人 佐藤龍彦

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