審査のあとさき ささの葉合気会 中野論之

審査のあとさき
ささの葉合気会 中野論之

午前6時前、凱風館の前へ着く。
日の出を10分ほど過ぎており、東の空が白っぽく光る。もう中へ入ってよいものか、朝稽古に参加したことがないのでどうも勝手がわからない。誰かが出入りする気配もなく、少し離れた場所でしばらく待つことにする。あまり緊張は感じなかった。それでも、気分爽快にはほど遠い。合気道を始めて以来、これほど重い気分で道場へ来るのは初めてだ。
これから5級審査を受けることになる。ささの葉合気会の稽古に体験で参加したのが2013年3月の20日、入門は28日。今日が9月19日だから、ざっと半年で初審査の運びとなった。
8月の末からは普段の稽古のあとで審査に向けて自主稽古にも参加してきた。おかげでそれぞれの技の不確かな部分はじょじょに減っていった。とはいえ、「今回の5級審査ではみんな二教をやっている」「昨日は後ろ両手取りが出た」などと聞けば内心穏やかではいられない。それに本番では緊張のあまり頭が真っ白になることもありうるだろう。
審査に落ちたところで破門にされるわけではない、もっとしんどい局面だって今までの人生に何回もあったじゃないかと、そう自分に言い聞かせてみても大して効果はないようだった。不安なものは不安なのだ。当日までに出来ることといえばなるべく稽古をすることぐらいしか思いつかなかった(もちろん一人稽古を含めての話)。
結局、いくら追加の自主稽古をしても「これでもう大丈夫」という境地に達しないまま、とうとう今日を迎えてしまった。ともかく審査に臨むときは、速く技をかけようと急ぐよりも落ち着いて丁寧に動こう、とだけ改めて思う。——誰か来たようだ。
自転車に乗ってきた米澤和代さんから「もう開いてると思いますよ」と声をかけられ、凱風館の玄関へ入る。靴を脱いでいると、玄関口の引き戸が開いて篠原拓嗣先生と御令嬢の鈴音ちゃんが現れた。17年前、中学3年生の頃の私が、よほどの事情がなければこの時間は常に寝ていたのをふと思い出す(午前3時ぐらいまでラジオを聴くことはあった)。
更衣室で着替え、道場へ入った。入り口のそばで井上清恵先生と会う。とりあえず掃除を済ませる。
道場後方(南側。入り口に近い側)の左すみで身体をほぐしているとだんだん人が入ってくる。きょう審査ですね、頑張って下さい、と顔見知りの人たちから言われる。私と一緒に本日の5級審査を受ける南原淳さんも来た。実は朝稽古の始まる前に南原さんと私とで技の確認をしましょう、という約束をしていたけれど、すでに道場内の門人のほとんどが後方に並んで座っている。人数は2列分と少し余りが出るていど。木曜の朝は人が少ないと聞いていたとおり、前回の金曜の夜稽古(2013年6月=拙文「60個目のハンコ」を参照)と較べれば多くはない。しかし私にとってはささの葉合気会でのお稽古拡大版の人数に匹敵するようなもので、「それでも多いのでは」との印象を受けた。そのせいもあって、袴を穿いた女性が2人だけ技の手順を確かめていたものの、内田樹先生を静かに待つ状況に何となく気圧されて確認作業はやらずじまいとなってしまった。気にせずやればよかったのかもしれないが……。
また雰囲気に吞まれているぞ、と感じる。よくない兆候だ。前回の凱風館の夜稽古に参加したときも同じ感覚を味わった。そうなるとどうしても身体が硬くなる。このまま審査に臨むのは何とか避けたいところ。が、焦っても状況が改善されるとも思えないのでひとまず放置しておいた。
内田先生が来られる。準備体操と阿吽の呼吸、呼吸合わせと呼吸操練を行なう。片手取りの転換の受けは篠原先生が呼ばれた。転換6種をやってみせたあと、内田先生が急に「輪ゴムある?」と永山春菜さんに声をかけた。今日の稽古は両手の親指と小指に輪ゴムを掛けてするように、とのこと。これは9月14日に凱風館で開かれた韓氏意拳講習会で、講師の守伸二郎先生が紹介した方法である。親指と小指の間に引っかけた輪ゴムの張りを失わないように動くというものだ。
内田先生の説明が終わる。永山さんから輪ゴムをいただき、米澤さんと組んで片手取りの転換をする。そのあとは天地投げに始まり、入り身投げ・四方投げと両手取りの技が続いた。何回も稽古してきて手順を覚えている技ばかりのせいか、はたまた輪ゴムのおかげなのか、いつの間にか道場の雰囲気に自分がもう吞まれていないことに気づく。もっとも取り受けの交代のたびに輪ゴムを付けたり外したりする余裕が私にはないので、途中からゴムは手首に はめっぱなしにしておいた。
両手取りの一教を内田先生が解説される。足を踏み替えて半身を変えつつ、受けに摑ませた手を斜め後方へ引いてから返す際、二次元的にではなく三次元的に、動きを止めずに手を返していく、という説明を聞く。近くの人と組んで一通り一教をする。「はい、組みを変えて」と内田先生の声が飛ぶ。別の人と組もうとしたら運悪くあぶれてしまった。前回ならここで大人しく引っ込むところだが、今日はぱっと目に留まった袴姿の2人組のそばへ素早く寄って「混ぜてください」とお願いした。誰かと見れば清恵先生と鈴音ちゃんだ。お二人の御厚意で、私だけ余計に取りをさせてもらう。もう本当に審査のぎりぎり直前なのに それでも清恵先生が「ここで一歩、足を出して。そう」とアドバイスしてくれる。
いよいよ審査が始まる。内田先生以外の門人の全員が、道場の後方へいったん下がり、並んで正座する。人数は合計で2列分と少々。齋藤剛さんと南原さんと私の名前が呼ばれた。前へ出て内田先生と向かい合って礼。それから審査の受けとして加わる熊切秀昭さんと我々の4名でお互いに礼をした。輪ゴムは両手首に はめたまま。
最初は齋藤さん、次に南原さんの順で審査が行なわれていく。受けを取るときはとにかく流れを遮らないよう気をつけた。特に、取り手を間違えては申し訳ない。
取りの人が緊張しているのを感じながら受けを取る。いくら緊張していても滞りなく進めばよい。しかしこちらが受けのとき、私に両手首を摑まれたまま取りが固まる場面もあった。それは両手取りの技で、つい先ほどまで実際に身体を動かして行なっていたはずのものだ。と、そうは言っても とっさにどのような動きだったか分からなくなるのは、審査の場面で決して珍しいことではないだろう。自主稽古で、審査に準じた模擬形式で技をかけていたときに私も同じ体験をした。他人事ではない。それはともかく、このような場面で口を出して手助けするわけにもいかないので、いったん離れてから再び取りの手首を摑み直すことしか私にはできなかった。
2人の審査が終了した。少し、息が荒くなってきている。疲れ果ててはまずいので、その前に自分の番が来て助かった。「中野さん」と内田先生に名前を呼ばれて私の審査が始まる。まずは天地投げから。そして入り身投げと小手返し、四方投げの表・裏と両手取りの技が続く。緊張のあまり身体が硬い、という感じはない。うっかりするとつい動きが速く雑になりそうな気がして、ややゆっくり技をかけようと心がける。居並ぶ門人から見て最前列の左端では永山さんが立ったままカメラを回し続けている。審査のときはギャラリーの視線がかなり気になるのでは、と予測していたけれど、まったくそんなことはない。彼ら・彼女らの存在を認識はするが意識はしない、そう表現すれば私の感覚に最も近いと思える。——両手取りの技が続く。「一教」と内田先生。一瞬、さっきの清恵先生の言葉が脳裏を掠め、熊切さんの手を返すときに足を出す。一教の裏を齋藤さんに、二教の裏を南原さんにかける。8月末の時点では二教の動きがよくわからず、9月に入ってから何度も繰り返すうちにようやく手順を覚え込んだ(ただし後ろ両手取りや諸手取りの二教はそれなりに稽古をしたものの未だにあやふや)。自主稽古に参加できていなければ ここで立ち尽くして流れが止まっていたかもしれない。次いで正面打ち一教の表と裏、入り身投げ・小手返し・内回転投げを行なう。さらに相半身片手取りの入り身投げと小手返し、四方投げの表、一教の表と続く。最後は座技呼吸法を熊切さんに受けてもらった。
審査を終えて門人の列の右端へと戻る。ほどなく動悸が激しくなり、それが鎮まると一気に汗が噴き出してきた。激しく動いたつもりはないのに、知らず知らず身体にかなりの負担をかけていたらしい。落ち着いてくるとさすがに疲れを感じる。私たちのあとにも他の人の審査が続いており、せっかくだからよく見ておこうとはするけれど、何だか気が抜けてしまい、もうぼんやりと眺めるだけで精一杯だった。
本日の審査がすべて済み、それから少しだけ稽古をして終了した。そして内田先生から審査の結果が伝えられる。齋藤さん・南原さん・私には3人とも4級が授与された。
朝稽古のあと、「おかげさまで4級をもらえました」と顔見知りの人たちに挨拶をしてまわる。相手から祝福の言葉をかけていただいた——おめでとう、よかったね、素敵でしたよ、と。
一緒に稽古をしている人たちに、少しは何かを返せた気がした。