「矛盾」を稽古する

6/22(日)

日曜日。
今日は二部制で、前半を合気道体術、後半を剣・杖。
甲南から8名もの参加があってとても賑やか、しかも前半は全員女子!というのは初めてで、なんだか華やかな感じになりました。

執着は居着きとなり「すき」となる。
集中と傾注は違う、頚注するな。

多田先生がいつも仰る言葉です。

相手を良く感じる。
感じたうえで気にしない。

合気道ではこのように矛盾した二つのことを同時にやる、という理合がよく出てきますが、これもその一つ。
とても難しい。

よく感じるためには、まずよく観察しなければなりません。
合気道で言う観察とは、視覚的に見るとういうことではなく、体感的に、触角的に、動的に相手をみるということ。

例えば手。
相手(うけ)が手(手首)を取り握ってくる。
その相手の手のひらと五本の指の握りの圧力や、温度と湿度、そこにつながる手首、下腕、肘、上腕、肩、と繋がって身体全体の堅さ柔らかさ、方向性といった細かな情報が全てその握りから、握られている手首の皮膚を通して伝わってくる。
もっと言うと、その人の「人となり」、みたいなものもわかっちゃう。心がかたくなであるとか、こっちに興味がないとか(笑)

そんなことあるのか?怪訝に思われるかもしれませんけど、稽古をしているとわかる、そういうもんなのです。
そして問題は、よく感じたうえで気にしない、ということです。傾注しないこと、執着しないこと。

これってそのまま、生き方、というと大げさですが、普段のふるまいに直結します。
例えばちょっと苦手な人っていますよね(笑)
そういう人とどう折り合っていくか。
合気道の稽古はそのままそういうことに繋がったりする。

苦手な人を遠ざけるのではなく、まずは仔細に観察し感じる。
まずは敵をよく知る、そのうえで気にしない。
気にしないで、(稽古で言うと)好きな人とするのと同じように稽古する、技をかける。

そうすると、不思議なことに本当にどうでもよくなる。
それがつまり「同化」するということ。
合気道が目指す究極の境地「同化」に、少し近づけたと思う、そういう瞬間が訪れるのはは9年稽古していても稀です。

同化するべき「敵」は人とは限らない。
日々起きる不快な出来事であったり、病であったり、老いであったり。

敵を知り、よく感じて同化する。

日曜の一部のお稽古では、「受け」に手首を取らせて「取り」は手首を動かしてみる。
ということをやってみました。
「受け」は相手の手首を感じる握り、皮膚表面の内側で骨や筋肉が動く感じ、方向性や柔らかさを感じ取る。
「取り」は、その「受け」が握ってくる手の平と指の感じをよく味わう。
明らかに「受け」の人たちの手の握り方が変わったような気がしました。

手のひらで手首を取らせる。
その接触面積は、身体全体からしたらほんの何十分の一なのに、そのわずかな入力から入ってくる情報のいかに豊かなことか。

その豊かな情報をよく感じながらもそれに囚われない。
更に大事なことは、その情報、
相手の握ってくる、切ってくる、打ってくる力とは、絶対に拮抗しない、対抗しないということ。
相手を投げよう、固めよう、打ち返してやろう、というように、相手の力と少しでも対峙したら、絶対に上手くいかない。
手順としての型は間違ってなくても、技がかからない。
でも実践するのはとても難しいのです。

心を煩わす他者も日々のさまざまな出来事も同じ。
よく感じ全てをわかったうえで気にしない、対峙しない、戦わない、執着しない。

合気道の稽古はそのまま心の修行と直結することを日々痛感しています。
なのでこの修行に終わりはないのであります。