「心中天網島」 井上英作

「心中天網島」

長く生きていると思ってみないことに遭遇するものだ。友人から、植島啓司先生が主催する講義の存在を知り、しかもその内容というのが1960年代の日本映画を題材に「男と女」をテーマにするとのこと。植島啓司と言えば、20代の頃、リブロポートから出版された「分裂病者のダンスパーテイー」を本屋で立ち読みをし、とても気になる存在だったのだが、当時の僕の知性では、太刀打ちできず、約30年の時を経て、友人を介して出会うことになったのである。僕は今回の講義のテーマに大変興味を抱いたが、連続講義で、毎週の参加は無理かなと思っていると、最後の講義だけ単独参加可能で、しかも題材は「浮雲」(@成瀬巳喜男)である。これは行くしかないと思い、すぐに申し込むと、直前でこの作品に変更となった。

本作は、1969年に篠田正浩監督が近松門左衛門の人形浄瑠璃「心中天網島」を映画化した作品で、天井桟敷他当時のアングラの才能が結集した実験的な意欲作である。人から「好
きな日本映画は?」と聞かれれば、間違いなく挙げる作品のひとつである。

映画は、冒頭、武満徹のガムラン音楽をバックに人形浄瑠璃の開演準備の様子が写しだされ、篠田監督と脚本を担当した富岡多恵子との電話でのやり取りが挿入される。このことは、これから始まる映画が虚構に過ぎないことを、予め観客に叩き込むことに成功している。この冒頭のシーンは、この作品を貫いている、ひとつの思想のメタファーとしてとても効果的だ。

さて、本編が始まる。主人公治兵衛は、橋の上を足早に急ぐ。こちらの世界からあちらの世界へ急いでいるのである。つまり、治兵衛は、死にたがっているのである。治兵衛は橋の途中で、僧侶に出会い、橋の上から心中した男女の死体を眺める(死体の周りには黒子がひしめく)。橋を渡り色街に繰り出すと、その街は、美術を担当した粟津潔が製作した浮世絵や大きな字が描かれた壁や床で構成された家屋、黒子(天井桟敷担当)たちがうようよいる、死臭が漂う、現実とはかけ離れたどこにも存在しない街である。ストーリーについては、これ以上詳しく話さないが、治兵衛と遊女小春との恋は成就せず、最後に二人は心中するという所謂心中物である。

近松門左衛門は、当時、実際に起きた心中をすぐに「物語」として変換した上で、一般の人に披露し、大衆もこれを受け入れた。このことは、「生」と「死」を二項対立として捉えるのではなく、大阪人の「死」に対する近親性の現れではないかと思う。換言すれば、「生」自身もまた、実際には存在するのかどうかは疑問で、この宗教的な大阪人の心性を、本作は、冒頭から見事に描ききっているといえる。
今回、この講義で題材にされた他の作品「赤い殺意」(@今村昌平)、「媛という女」(@今井正)も合わせて観てみた。これら3作品に共通しているのは、主人公が死を切望しているということである。かつて、大島渚は、インタビューで「あの時代に僕は死にたかった」と告白している。この3作品の中で、主人公が死ぬのはこの作品だけである。しかし、
「死」は「生」と対立するものではなく、「死」は「生」に内包され、同様に「生」も「死」に内包されているというのではないかという根源的な問いを、当時の才能を結集して表現したこの作品に、僕は共感するのである。