「レキシ」 井上英作

「レキシ」
 
友人にあるアーティストのアルバムを勧められて、聞いてみることにした。そのアーティストの名前は「レキシ」。アルバムのタイトルは「レキミ」。これだけで、このアーティストの本質がすべて分かる。この友人とは、昨年の夏、エゴ・ラッピンのライブを一緒に見に行った。エゴ・ラッピンに対する僕と彼の評価は一致した。その彼が勧めるアーティストなので、今回聞いてみることにしたのである

 聞いてみて、音楽には、いろいろな聞き方があるものだと改めて再確認した。それだけ、音楽自身の持つ懐の深さということなのだろうか?

僕が、音楽に求めているものは、緊張感なのかもしれない。若い頃、美術館で観た、メープルソープの写真に写し出された大きな花弁といえば分かりやすいだろうか?いや、余計に分かりにくいか…。例えば、僕の好きな曲があるとする。では、その曲の一体どこが好きなのかと探っていくと、それは、その曲の中での、わずか一瞬のことだったりすることが多い。例えば、ベースのワンフレーズだったり、コーラスの入る瞬間だったり、そういう一瞬だ。その一瞬を聞きたいために1曲まるごと聞いているようなものである。贅沢な話だ。誤解のないように言っておくが、その一瞬というのは、当然ながら全体の大きな流れがないとそこが際立たないのは、言うまでもない。

 一方、友人が、音楽に求めているのは、「ズレ」ではないのかと勝手に想像する。物事を一旦俯瞰してみたあとに、そのものを解体し、似たようなものにずらすことにより、そのものの存在自身の意味を問うという、ある種の暴力性を彼は希求し、このずらす態度に彼は「かっこよさ」を感じているのではないだろうか。歴史→レキシ→レキミ、これは単なる言葉遊びではない。このアーティストは「歴史」という概念そのものを問うているように思う。僕もこういう態度をとても支持するが、音楽にはそれを求めない。なぜなら、僕の中ではその役割は「笑い」に任せているからだ。

そう考えると、彼がエゴ・ラッピンとレキシを好きな理由がよく分かる。エゴ・ラッピンの魅力も同様に、「ズレ」であると思っている。彼らは、スタイリッシュで気取ったことをしようと思えばきっとできるはずなのに、敢えてそういう態度は取らずに、少しだけわざと、ずらしているのである。さらに、もう一人の友人が、オリジナル・ラブを離れたあとの田島貴男とレキシが好きだといった。その理由も何だか分かるような気がする。

僕の中で散らばっていた点が一つの線になった。僕は、夜中にひとりでにやりと笑った。