月別アーカイブ: 2014年10月

多田先生写真集『気の錬磨』のご案内

多田先生の写真集、『気の錬磨』が刊行されます。

イタリア合気会50周年を記念して、東京の月窓寺道場から発刊されます。
道場生の写真家 山本カオリさん撮影の写真とともに、多田師範の言葉が稽古の流れに沿って簡潔な文章でまとめられています。
ゲラ版(ていうんでしょうか、完成前の見本)を見ましたが、すばらしいです。
多田塾門下生のみ、また今回初回のみ、下記の価格で斡旋され、道場単位で注文します。
定価2300円→1700円税込
清道館でまとめて注文しますので、購入希望者はすみませんが、10/25中に井上までご連絡ください。
井上

10/26(日) 稽古時間を延長します

26日(日)は、西スポーツセンター(阿波座)で、12:20~14:30の予定でしたが、続く15:00~の枠を押えることができましたので、稽古時間を18:00まで延長します。
もともと抽選で当たっていた15:00~の枠を手続きの途中、他の団体に取られてしまったのですが、その団体が結局手放したようで、再度取り直すことができました。
もともとは二部制で予定していましたが、一部制として稽古時間を長くし、前半は気の錬磨の稽古を多くとり入れた体術稽古とします。

たびたび変更して申し訳ありませんが、ご都合の合う方は参加してください。

井上

平均化訓練の講習会に行ってきました。  多田塾甲南合気会 松原弘和

平均化訓練の講習会に行ってきました。
多田塾甲南合気会 松原弘和

広さは三〇畳ほどだろうか。襖を取り外した和室二部屋にまたがる会場に、集った人達は凡そ40名。私が到着した頃には既に部屋の外周部が参加者の列で埋められ、座る場所を確保するのに些か戸惑う。
座が静まってほどなく、上下黒一色の細い男性が入ってきて、ホワイトボードを背にして座った。自己紹介と簡単な説明をした後、参加者一人一人にワークを施していく。男性の示した掌に自らの掌を重ねて全力を込めていく参加者達。その男性は向けられた力を難なく受け流し、受け手はそのひと毎の独特のポーズへと導かれていく……。

私がいるのは「平均化訓練」の講習会場。そしてこの黒ずくめの男性こそ本日の講師、野口晴胤先生。「野口整体」の創始者、野口晴哉氏のお孫さんである。今行われているのは、平均化訓練のワークの一つ「草書体」。百人百様の、まるでオブジェのような姿勢をとることで各人の弱い筋が明らかとなり、鍛えられるというのだ。
晴胤先生は参加者を一通り相手にしてから、再び着座し、平均化訓練のコンセプトとご自身の思いを語り始めた。私なりの理解による要約をここにまとめておく。(文責は勿論私にある。)

「何事においても具体的なトレーニングを重ねていくと、上達の早いひととそうでないひととの差がどうしても生まれてくる。上達の早いひとというのは繊細な身体感覚を持ち、人生の早い時期から無意識的にトライアンドエラーを繰り返して、筋が目的のために協同して働く身体をつくりあげてきたひとである。」

「ただそれを才能という言葉で片付けてしまうと、そこで話は終わってしまう。私は、弱く殆ど使われることのない筋を意識化して鍛えることで、様々な物事の上達が早まる可能性を考えている。何故ならば、全身の筋肉が無駄なく均等に働くようになるからだ。」

「私は元々、整体という治療術に携わっていたが、ひとそれぞれ身体の使い方に癖がある。そのため、何度身体に施術を行っても大抵同じような箇所で故障が再発してしまう。」

「スポーツトレーニングにおいても、どこの筋肉が働いているのかいないのか、自覚がないままに筋トレを行うと、筋の偏りが強化されてしまう。」

「偏りには色々なパターンがある。左右、前後、首、肩etc……。」

「身体を意識的に連携して使おうとしても、筋の強さに偏りがあると、強い筋で詰まりが生じ、筋肉のつながりが途切れて局所に由来する小さな力しか出せない。」

「会社に喩えると、働きすぎの社員を休ませようとしても、なかなか休んではくれない。
それよりもあまり働いていない社員に仕事をあたえることで、彼らもほどよく休息をとるようになる。」

「脳科学によると、人間は脳の2割しか使っていないという。この話を聞いたとき私は、筋肉もこれと同じではないかと思った。」

「体幹の筋に偏りがあれば、これに連なる四肢の筋にも偏りが生じる。近頃はトレーナーの間で体幹トレーニングが注目されているが、筋の緊張度を平均化するというところまで深めていけたらなお望ましい。」

「この平均化訓練の講習会に出た翌日は身体が軽くなった、運動の質が変わったというひとが多い。毎日走りこんでいても下半身に筋肉痛を覚えなかったひとが、数分のワークで翌日筋肉痛となったという。」

「精密なバランスの下で身体の中心軸が一瞬にして動く。武術家が古来より追求してきた理想の動きで、これには筋の平均化が前提となる。彼らは筋の平均化が実現されるような稽古を知らずしらずのうちに行っていた。」

「(筋の偏りは放っておくと元に戻ってしまうのか?という参加者の質問に答えて)戻ることはない。日々無自覚に行っていた運動が意識化されるので、自然と動きのパターンを変えたくなる。」

「平均化訓練に熟達すると、わざわざ訓練の時間をとらずとも日々の行住坐臥に溶け込ませることができるようになる。」

「平均化訓練は、まさにカスタムメイドの体操。」

私がこの講習会に参加したのは2回目。晴胤先生に出していただいたのは1回目と同じくうつ伏せになって右腕右脚をくの字に折り畳んだポーズ。左腕を伸ばしてみれば、あたかも「みちに倒れて誰かの名を呼び続けている」かのようだ……。

翌日から数日間、右脚に体重が乗るのを実感していた。脚の長さが違うせいだろうか、私は普段左脚に体重をかけがちなのだが、意識の与らないところでこのような変化が起きたことに身体メカニズムの精妙さ、複雑性を感じずにはいられなかった。

平均化訓練のワークの全貌、そして効果は如何ほどのものなのか?経験値と理解が浅く、うまくまとめることができない。

ただこの不可思議な体操が、合気道のお稽古、日常生活の諸々に対して何らかの波紋を及ぼしていきそうな予感がある。心身の変容への期待を記せないのが何とももどかしい限りだが、今後も講習会と独習で体験したことは随時まとめていくつもりだ。

「1975年 夏」   井上英作

内田樹先生と釈徹宗先生の共同PJ「聖地巡礼」の事務窓口をしている友人の青木君から参加者向けに「私が訪れた聖地」というテーマで原稿募集があり、応募したものです。

「1975年 夏」

それは、真夏のある暑い日のことだった。僕は、8月生まれのため、10才になったばかりだった。その日は、珍しくいつも一緒に遊んでいた近所の年上の友だちがいなくて、僕は同級生の家をあちらこちらと自転車で訪ねてみたが、どういうわけか、同級生も誰ひとりいなかった。僕は、ひとりぼっちだった。
今から約40年前、今のように、スマホもパソコンもなかったので、こどもたちの遊びといえば、野球か、虫取りか、かくれんぼぐらいのものだった。本当に、それぐらいしかなかったのである。今からたった約40年も前のことなのに、日本も随分変わってしまったものだとつくづく思う。
 周りの子供たちといえば、王選手や長島選手に憧れ、一生懸命野球に打ち込んでいたが、運動が苦手だった僕は、どうしても野球に馴染めなかった。むしろ僕は、絵に描いたようなテレビっ子で、毎週放映される「八時だよ全員集合」や「仮面ライダー」の放送を楽しみにしているような子供だった。そんな、どちらかというと内向的な性格だった僕が、唯一、はまった外での遊びが、「虫採り」だった。かぶと虫、クワガタ虫、蝉、トンボ、蝶々、亀、カエル、ヤゴ、カミキリムシ等、ありとあらゆる虫や爬虫類を捕まえては、家に持って帰り、その度に母親を驚愕させ激昂させた。どうしてそこまで虫採りが好きだったのか、今ではその理由が僕自身にもよく分からない。
 その日、僕には遊び相手がひとりもいなく、暇を弄ばせていたので、僕は一つの大きな決心をすることになる。「約束」を破ることにしたのである。その「約束」とは、通学していた小学校に隣接している神社の中にある大きな一本のクヌギの木にひとりで行くことである。そのクヌギの木は、こどもの手が回らないほどの太い幹で、数か所から樹液が滴っていて、常にカナブンがおいしそうに樹液をすすっているような木だった。僕たちはそんな宝物のような木を長い時間をかけてやっと見つけることができた。だからその木は僕たち仲間のものなので、その木に行く時には、必ずその仲間全員でいくことになっていた。
 僕は、その神社の石段の手前にある橋の手前で、自転車を止め、その石段を眺めた。
その神社には、何十回と行っているのに、生まれて初めて一人で行くことになってみると、あたかも初めて行くような気分になり、なぜか僕は緊張し、手のひらにうっすら汗をかいた。僕は、小さな橋を渡り、40段ほどある石段を登り、境内に出た。だだ広い神社の境内には、僕以外には、誰ひとりいなくて、真夏の太陽の光と狂おしいまでの蝉の鳴き声が僕の孤独に更に拍車をかけた。この広い境内に存在するのは、僕一人だけである。思えば、この瞬間に、僕は生れて初めて「孤独」を知ったのかもしれない。僕は、何だか怖くなってきた。 
それから、僕は境内の裏手に向かい、いつものクヌギの木を目指した。林の中へ足を踏み入れてみると、太陽の光が木々で遮られ、少しうす暗く、ひんやりとしていた。汗ばんだTシャツが少し冷たくなっていた。僕はクヌギの木の前に立ちすくむと、僕と僕以外のものとの境界が溶解していくようなそんな気がしてきて、僕は本当に存在しているのかどうか、だんだんと不安でいっぱいになってきた。虫採りどころでなくなった僕は、一刻も早くその場から逃げたくなり、走ってその場を去った。
 それから数十年後、僕は、なぜか急に登山を始めた。僕が登山をしていると、必ずといっていいぐらい「登山の何が楽しいの?凄くしんどいと思うけど…」と聞かれ、僕はその質問をされる度に、いつも困惑してしまう。なぜなら、僕自身にもその理由が分からないからだ。確かに、山登りは、しんどいことだらけである。殆ど徹夜に近いような状態で、早朝から15kgはあるリュックサックを背負い、高い確率で雨が降り、晩御飯もカップラーメンで、もちろん風呂に入ることもできない。実際、今このように文章を書いていて、僕自身何が楽しいのかと思ってしまう。ところが、下山していて、車道を走る車が走行する音が聞こえてきたりすると、何だか悲しくなり、今度はいつ登ろうかと思ったりもするのである。これだけ倒錯したものって、山登り以外に僕は思いつかない。
 ただ、ひとつだけはっきりしているのは、登山の途中で、疲れがピークを越え始めると、自分という存在がだんだんとなくなっていくような感覚に襲われ、この感覚こそ、10才の僕が、あの真夏の暑い日に、神社で体験したあの感覚と同じものだということである。もしかしたら、僕はあの時のあの感じをもう一度体験したくて、山登りを続けているのかもしれない。
 先日、仕事でその神社の近くに行くことがあったので、久しぶりに神社に行ってみることにした。神社のまわりにあった、田んぼや畑は、建売住宅に変わり、風景はすっかり変わっていた。大人になり子供の時に観ていた景色を改めて見てみると、道幅など、大きさが違うことに驚くことがよくあるが、その神社だけは、あのときのあのままの姿のまま静かに佇んでいた。

平尾剛さん『近くて遠いこの身体』出版記念講演会

続いて、下記の講演会のご案内です。
参加希望者は井上まで。

平尾剛さん『近くて遠いこの身体』出版記念講演会
日時:10月23日(木)18時半~(予定)
場所:凱風館
料金:無料(*当日、本の販売+サイン会を予定しています)
〆切:10/12(日)

平尾剛さんプロフィール:
神戸親和女子大学講師(スポーツ教育学)
ラガーマン(バックス)として同志社大学、神戸製鋼などで
活躍。日本代表としてワールドカップ出場の経験もある。
試合中に負った怪我を契機に日本古来の身体運用研究の道に入る。
日本独特の部活や体育における指導への考察も鋭い。
内田樹先生との共著に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)。

26日の稽古時間変更のお知らせ

10/26(日) は、当初、二部制を予定しておりましたが、後半15:00からの稽古時間の枠を、他の団体に取られてしまいましたので、申し訳ありませんが一部のみの稽古に変更させて頂きます。
12:20から、気の錬磨も取り入れた稽古をします。

井上

「さよなら まおー」   井上英作

「さよなら まおー」

 その日いつも通りに帰宅すると、家の中の様子が違っていた。今から20年前、初夏のある晩のことである。当時僕たち夫婦が住んでいた家は、山の中といっても過言ではないほど、まわりに木がたくさん生い茂っていて、真夏でも、夜になるとひんやりするような場所に建てられた2階建の小さなハイツだった。ところが、その日は、室内は蒸し暑く、なぜか、窓もすべて閉まっていた。何か特別なことが起こったことは明らかで、そのことは、嫁さんの表情からもすぐに見て取れた。

 「少しの間でいいから、この子を飼っていい?」と嫁さんが言いながら、指を指す方を見ると、手のひらほどの小さな子猫が、肩で息をしながら、バスタオルにくるまれて、リビングに横たわっていた。体全体は白色と黒色が入り混じり、尻尾が途中で切れた、耳の大きな猫だった。
 
僕は、困惑した。なぜなら、このハイツは、僕が懇意にしている不動産業者が管理している物件だったからだ。しかし、それより僕を困らせたのは、その子猫があまりにかわいかったからだ。 
 
色々思案した結果、僕たちは大家さんに正直に話し、相談することに決めた。大家さんは、同じハイツ内に住んでいて、丸顔の人のよさそうな、50才ぐらいのおじさんだった。
断られたらどうしょうか、ドキドキしながら、大家さんの部屋のインターフォンを押すと、
少しお酒も入っているのか、赤い顔をした大家さんがいつものようにニコニコしながら、
玄関に現れた。僕たちが事情を説明すると、大家さんは二つ返事で了承してくれた。
 
それから、彼は、僕たち家族の一員となった。僕たちは、まず彼の名前を考えた。せめて、名前だけでも強そうなものがいいとの思いから、「魔王」とすることにした。常にクシャミばかりしていたので、「ハクション大魔王」とも掛け合わせてみたのである。自分で名前をつけておきながら、ひらがなで書くと「まおー」、カタカナで書くと「マオー」、あるときは、「まおにゃん」など、どれもこれも可愛く、僕たちはその名前をとても気に入った。
 
猫というのは、実際に飼ってみると、いろいろと発見の多い動物で、飽きることがなかった。特に、まおーは愛嬌のある表情豊かな猫だった。
 
当時、僕たちの住んでいたハイツは、急な坂を登り切ったところにあって、その坂からは、借りていた部屋の白い出窓が見えた。まおーは、毎日その出窓から坂の方を眺めて
僕らが帰宅するのを待っていてくれた。坂の途中から、まおーに手を振ると、彼はリビングにジャンプして飛び降り、僕たちが玄関の扉を開けると、玄関先で、お腹を見せながら、何度も何度も体をくるくるとくねらせて、出迎えのダンスを披露してくれるのである。
 
真夏の晩、僕たちがダイニングで食事をしていると、リビングの壁に向かって何か話かけているなと思ったら、その壁に向かいジャンプし、そのあと僕たちの足元に、何かを咥えたままやってきて、その何かを口から吐き出して誇らしげに僕たちに見せるのである。ゴキブリだった。他の日にはセミだった。嫁さんのそのときの反応は言うまでもない。
 
冬になると、まおーは僕たちのベッドによく潜りこんできた。それも、必ずといっていいくらい、僕と嫁さんの間に入ってくるのである。彼は、八方美人でもあった。冬の寒い日は、まおーのふかふかの毛が気持ちよく、僕がまおーのお腹に手をあて少し手をずらしてみると、嫁さんの手にも触れたりした。
 
それから20年。まおーもすっかり年を取り、ここ一年ぐらいは歩くのもつらそうな感じだった。三か月前ぐらいからは、胸に水がたまり、毎週その水を取りに動物病院に通った。
「もうすぐかもしれないな」という覚悟はしていたものの、胸水を抜く時に大声で医者を威嚇する声を聞いていると、そんな心配もすぐに吹っ飛んだ。
 
しかし、その時が来てしまった。秋晴れの日曜日だった。僕の大好きな、高橋幸宏の歌詞に「こんないい天気に 君にさよなら」というのがあるが、まさにそんな一日となってしまった。僕たちは、宝塚動物霊園で供養を済ませたあと、彼を拾った場所、住んでいたハイツを見に行くことにした。20年ぶりにそれらを見ていると、新婚当時の僕たちの生活は、恋愛の延長線上でしかなく、まるでままごとのようなものだったと思った。そんなとき、まおーという他者と出会い、そして、まおーを媒介に僕たちは互いの心地よい距離を作り出していった。まおーと一緒にいることで僕たちは、すこしづつ大人になっていったのかもしれない。改めて彼に感謝したい。
 
 そんな彼に、弔辞を送りたいと思う。
 
 「君と出会ったことで、僕たちはとても豊かな時間を過ごすことができた。ありがとう。
僕たちはこれからも、酒を飲んでは、君と過ごした日々のことを懐かしく思い出し語りあいそうだ。そう、僕たちは君のことを決して忘れたりはしない。だから、安心してゆっくりと過ごしてほしい。さよなら、まおー」

2014秋 審査

今年度の秋の進級審査がすべて終了した。
今回は3級審査2名、4級審査2名、初審査4名の、計8名が審査を受けた。

それぞれの演武を見ながら、気持ちが高揚してくるのを感じる。
彼らが初めて清道館に来た頃の姿をありありと思い出す。
手前みそながら、みんなよく稽古したと思う。稽古した分、着実に成長している。

何より、少なくとも何人かは確かに、私のもとで合気道を始めて、合気道を好きになってくれたようだ。
好きにさえなれば、あとは其々、終わりのない道を歩いていくだけ。私と同じだ。

審査は通過点である。級や段位は目印程度のものである。
が、審査という少し高いハードルを越えたとき、そこには超えた者にしか見えない世界がある。
その世界は個々人により異なるだろうけど、何か新しい世界が見えたよね、という感慨を共に分かち合える仲間を大切にしてほしいと思う。

私が合気道を始めた初心の頃、前後に入門した人たちは次々とドロップアウトしていった。
そのような、折々に共鳴しあえるような同期の人はいなかった。
だから、正直いうと羨ましい。

技がどうとかいうことよりも、少し高いハードルを前にして互いに励まし合う、うちの門人たちの姿に、私は素直に感動する。
後輩の審査の稽古に付き合ったり、審査の応援に互いに駆けつけ合ったりする彼らを、とても誇らしく思う。
それは、熱くも、緩やかに(というところが良いのだが)繋がり合いつつ、閉じることなく常に外に開いていて、なんとも「大人」な共同体の有りようなのである。

門人たちが少なからず合気道を好きになってくれたこと。
彼らが仲間を大事にし合い、稽古を続けてくれること。
それだけで、清道館を立ち上げてよかったと思える。

私もほんの少しは、合気道を世界に拡げることに貢献できているのかもしれない。

そんなことを思わせてくれた今回の審査。
みんなにありがとうと言いたい。

もちろん、彼らを指導してくださった甲南合気会のみなさん、系列傘下道場のみなさんにも心から感謝したい。