「さよなら まおー」   井上英作

「さよなら まおー」

 その日いつも通りに帰宅すると、家の中の様子が違っていた。今から20年前、初夏のある晩のことである。当時僕たち夫婦が住んでいた家は、山の中といっても過言ではないほど、まわりに木がたくさん生い茂っていて、真夏でも、夜になるとひんやりするような場所に建てられた2階建の小さなハイツだった。ところが、その日は、室内は蒸し暑く、なぜか、窓もすべて閉まっていた。何か特別なことが起こったことは明らかで、そのことは、嫁さんの表情からもすぐに見て取れた。

 「少しの間でいいから、この子を飼っていい?」と嫁さんが言いながら、指を指す方を見ると、手のひらほどの小さな子猫が、肩で息をしながら、バスタオルにくるまれて、リビングに横たわっていた。体全体は白色と黒色が入り混じり、尻尾が途中で切れた、耳の大きな猫だった。
 
僕は、困惑した。なぜなら、このハイツは、僕が懇意にしている不動産業者が管理している物件だったからだ。しかし、それより僕を困らせたのは、その子猫があまりにかわいかったからだ。 
 
色々思案した結果、僕たちは大家さんに正直に話し、相談することに決めた。大家さんは、同じハイツ内に住んでいて、丸顔の人のよさそうな、50才ぐらいのおじさんだった。
断られたらどうしょうか、ドキドキしながら、大家さんの部屋のインターフォンを押すと、
少しお酒も入っているのか、赤い顔をした大家さんがいつものようにニコニコしながら、
玄関に現れた。僕たちが事情を説明すると、大家さんは二つ返事で了承してくれた。
 
それから、彼は、僕たち家族の一員となった。僕たちは、まず彼の名前を考えた。せめて、名前だけでも強そうなものがいいとの思いから、「魔王」とすることにした。常にクシャミばかりしていたので、「ハクション大魔王」とも掛け合わせてみたのである。自分で名前をつけておきながら、ひらがなで書くと「まおー」、カタカナで書くと「マオー」、あるときは、「まおにゃん」など、どれもこれも可愛く、僕たちはその名前をとても気に入った。
 
猫というのは、実際に飼ってみると、いろいろと発見の多い動物で、飽きることがなかった。特に、まおーは愛嬌のある表情豊かな猫だった。
 
当時、僕たちの住んでいたハイツは、急な坂を登り切ったところにあって、その坂からは、借りていた部屋の白い出窓が見えた。まおーは、毎日その出窓から坂の方を眺めて
僕らが帰宅するのを待っていてくれた。坂の途中から、まおーに手を振ると、彼はリビングにジャンプして飛び降り、僕たちが玄関の扉を開けると、玄関先で、お腹を見せながら、何度も何度も体をくるくるとくねらせて、出迎えのダンスを披露してくれるのである。
 
真夏の晩、僕たちがダイニングで食事をしていると、リビングの壁に向かって何か話かけているなと思ったら、その壁に向かいジャンプし、そのあと僕たちの足元に、何かを咥えたままやってきて、その何かを口から吐き出して誇らしげに僕たちに見せるのである。ゴキブリだった。他の日にはセミだった。嫁さんのそのときの反応は言うまでもない。
 
冬になると、まおーは僕たちのベッドによく潜りこんできた。それも、必ずといっていいくらい、僕と嫁さんの間に入ってくるのである。彼は、八方美人でもあった。冬の寒い日は、まおーのふかふかの毛が気持ちよく、僕がまおーのお腹に手をあて少し手をずらしてみると、嫁さんの手にも触れたりした。
 
それから20年。まおーもすっかり年を取り、ここ一年ぐらいは歩くのもつらそうな感じだった。三か月前ぐらいからは、胸に水がたまり、毎週その水を取りに動物病院に通った。
「もうすぐかもしれないな」という覚悟はしていたものの、胸水を抜く時に大声で医者を威嚇する声を聞いていると、そんな心配もすぐに吹っ飛んだ。
 
しかし、その時が来てしまった。秋晴れの日曜日だった。僕の大好きな、高橋幸宏の歌詞に「こんないい天気に 君にさよなら」というのがあるが、まさにそんな一日となってしまった。僕たちは、宝塚動物霊園で供養を済ませたあと、彼を拾った場所、住んでいたハイツを見に行くことにした。20年ぶりにそれらを見ていると、新婚当時の僕たちの生活は、恋愛の延長線上でしかなく、まるでままごとのようなものだったと思った。そんなとき、まおーという他者と出会い、そして、まおーを媒介に僕たちは互いの心地よい距離を作り出していった。まおーと一緒にいることで僕たちは、すこしづつ大人になっていったのかもしれない。改めて彼に感謝したい。
 
 そんな彼に、弔辞を送りたいと思う。
 
 「君と出会ったことで、僕たちはとても豊かな時間を過ごすことができた。ありがとう。
僕たちはこれからも、酒を飲んでは、君と過ごした日々のことを懐かしく思い出し語りあいそうだ。そう、僕たちは君のことを決して忘れたりはしない。だから、安心してゆっくりと過ごしてほしい。さよなら、まおー」