「ずっと思っていたこと」(井上英作)

                                      「ずっと思っていたこと」

 僕には、兄がいた。「いた」という風に過去形で書いているのは、今はもういないからである。もう少し正確に言えば、僕は兄に会ったことさえない。兄は、僕が生まれる前に、交通事故で亡くなっている。僕は、兄のことを生前の写真や母が語る「物語」の中でしか知らない。

 僕は、時折周りの人に長男的な性格を指摘される。それは、変な責任感のようなものを自分で勝手に背負い込み、周りの人に対して横柄に見えることがよくあるらしい。本人にはまったく自覚がないので困ったものである。もし兄が生きていたなら、この長男的な性格から解放され、どんな風な人間になっていたのだろうと、兄という存在が僕に与えただろう影響について、僕はしばしば夢想した。今と同じような性格になっていたのか、あるいは、全然違うものになっていたのか、しかし、それはどんな風に夢想してみたところで全く現実感を伴わなかった。僕は、兄の存在を体現してみたかった。

 「先輩」とは、同じ職場で知り合った。年は一つ上だ。どういうわけか、先輩は僕の変てこなとこが気にいったみたいで、僕たちはよく話をした。話をしてみると、僕たちには、共通して好きなものがあった。それは、映画であり、音楽だった。しかし、その趣味は、正反対だった。先輩の好きな映画は、「天国から来たチャンピオン」で、好きなドラマは「北の国から」。好きな音楽は、山下達郎だった。一方僕は、高橋幸宏と村上春樹が好きで、映画「レオン」を見ては何度も涙を流すような男で、二人に共通点と呼べるようなものは、殆どいっていいぐらいなかった。それでも、僕たちは馬が合った。

 僕たちは、今から5年ほど前から、突然山登りを始めた。最初、僕はトレッキング程度の軽いものをイメージしていたのだが、どういうわけか、先輩の方がはまってしまい、その年の夏には、北アルプスに登っていた。山登りを一緒にするようになってから、以前よりもはるかに、僕たちは一緒に過ごす時間が長くなり、僕の本質的な核のようなところが、彼の前に露呈し始めた。僕の受動的で、向上心に乏しく、雑な性格が露わになってしまったのである。そんな僕の性格を、見越したように、先輩は僕に、次々と新しい険しい山へ連れて行ったり、自分の友だちを紹介したり、僕を、外の世界へと引っ張り出していってくれた。

 また、本当なら、年下の僕の方が、連絡をして食事を誘ったりするものなのだろうが、人に甘える術を知らない僕からは、連絡しないことをよく知っている先輩は、いつも絶妙なタイミングで、僕を食事に誘ったりしてくれた。そんな、彼とのやり取りを通して、僕は、初めてリアルな「兄」のような存在を感じることができた。兄は、死んでもうこの世には存在しないが、「兄」は生きていたのである。

 先日、どこで聞きつけたのか仕事上のミスでへこんでいる僕を心配して、急に先輩から食事の誘いがかかった。僕たちは、いつものおでん屋に行き、先輩は、出汁で真っ黒になった卵を、僕はたこぶつを食べながら、延々とくだらない冗談を言い合って二人で笑い転げた。