他人に委ねる

自分の技の受けを取ることはできない。
受けの自分に取りの自分が技をかけることはできない。

自分と組むということは永遠にできないのだ。
というあたりまえの事実の前に愕然とする。

自分に何が足りないのか、何が問題なのか、昨日よりどう進化しているのかしていないのか、今試そうとしている仮説がうまくいっているのかいないのか。
勝ち負けがない、技量を数値化することのない合気道においては、それを自分自身で確かめる方法はない。
しかも、うまくいった、と思った技は大抵うまくいっておらず、うまくいった技にはうまくいったという実感がない。
「受け」もしかり。「受け」も「取り」も、自分で自分を投げることができない以上、自分に自分を投げてもらうことができない以上、確かめようがない。
やっかいなことに、その確認、良し悪しの査定は、「他人」に委ねるしかない。
技を受けてくれる、または技をかけてくれる、自分ではない誰かに。
その「他人」もうかつには信じられない。なぜなら、受けの上手い人はどんな下手な技でも上手く受けることができる。
先にも言ったが、「できた」、という「やった感」こそが最も曲者なのに、その「やった感」のあるなしを確認するのも相手の「受け様」。
相手が上手く受けてもらえない、という時、自分の技に問題があることを教えてもらえるが、それも相手の受けの技量についての信頼がなければ成立しない。
しんきくさくてすみません。

このバカみないな堂々巡りについて、先日、甲野先生に思い切って尋ねてみた。
答えは「(それは自分で)わかるでしょ」
という一言で終わった。
もちろん、わかります。
うまくいったと思う時は、抵抗やぶつかりがなく、相手がきれいで無理のない放物線を描いて空を舞って落ちた時とか、相手がいかにもパワフルに投げられたという感じにパンと畳を打ったとか、投げられる相手の投げられ様のスピードとか。
・・・そうやっぱり、「相手」がどうか、なのだ。

つくづく、相撲や柔道は、わかりやすくてよいと思う。

夫にも同じ質問を投げてみた。
合気道をやっていない門外漢の彼にはどうせわからないだろうけどと、なかば愚痴ってみたら、
「それって人間が生きることと同じなんちゃうん、他者によって自分が存在するという」
とあっさり。

そうか。
多田先生の常のお言葉を思い出してはっとする。
「合気道は生き方である」

一本取られた気分だが、そうだった、合気道の稽古は生き方の稽古。
技を掛け合う相手は「受け」「取り」ともに自分の鏡。

合気道はひとりではできない。
受けをとってくれる相手がいて、また自分を受けとして投げてくれる相手がいて稽古が成立する。
地球上に誰もいなくなって、ひとりで生き残っても意味がないのと同じ。
技を掛け合う相手こそが、わずらわしくて厄介でよくわからない「他者」こそが、生きている「私」の存在を証明してくれる。

ああ自分は何を学んできたんだろう、とまたうなだれるばかりであった。