11/27(金) 阿波座

金曜はハードな一日。
清道館稽古→凱風館で神道夢想流杖道稽古→凱風館稽古
にもかかわらず、最近、土曜のロング稽古よりは疲れが少ない気がする。
杖道の稽古を始めた頃は、消耗が異常に激しかった。
杖道の後の合気道の稽古がきつく、わざと杖道の稽古には半~1時間ほど遅れて入って、合気道の稽古に備え消耗を軽減するようにしていた(先生スミマセン)。
ところがこのごろ、フル稽古しても、あれ?前ほど疲れていない。しかもその前に清道館の稽古を一本やっても、だ。
たぶんやっと体が慣れてきたのかもしれない。
杖道的な剣・杖の動きと同化できてきたのかも。
何より、杖道ががぜん面白くなってきた。
合気道とは違う、相手との厳しい間合いとタイミング。
合気道にはある、なんというか「遊び」がない。自分で作り出す、相手によって刻々と変わる、瞬時に作り出す「代」がない。相手が変わり技が変わるたびに、何万通りと無限に創造できる、それが湧出することを目指して稽古する、と多田先生は仰る。
間違いを恐れず言うと、杖道で稽古しているのものは少し違うのではないか。
杖と剣、という体の延長にある「道具」が、自分の体の一部になっていないと使えないが、そうなっていないことは相手と交えるとすぐに拡大して顕れるのは、合気剣・杖も同じ。ここで言う相手、とは人間なのだが、合気道で組む相手と、杖道で組む相手は、違う。杖道の場合、稽古の相手は組んだ相手というより、自分の握る手の内にある剣と杖。自分に自分の出来無さ加減を教えてくれる、物言わぬ「道具」なのだ。
合気道は「相手」によって全てが変わる(合気剣・杖も同じ)が、杖道は、相手の人間は実はあまり関係ない(ような気がする)。なぜなら、全ての型の手順と間合いなどの全てが厳密に決められているので、そこからの逸脱は許されない、というか、ない。繰り返すが、厳しく手順と間合いとタイミングがすべて決まっているので、少しでも間違えると間合いが合わないし、コンタクトできないし、コンタクトが違えば怪我をする。では型を覚えたら終わりかというともちろんそうではない。では何を稽古するかと言えば、剣・杖という、自分の体と違う異物をいかに自分に同化させ、身体の一部としていくかということではないだろうか。
組む相手がいて、相手という人間・他者と同化する、合気道。
組む相手は関係なく、剣・杖という道具・他者と同化する、杖道。
どちらにも共通していると言えるのは、まず「型」を身体化させる、その先にやっと本当の稽古がある、ということだろうか。
杖道は思っていた以上に深そうだ。
杖道の稽古では、まだまだ手順に追われている。
早くトンネルを抜けて、その先に広がる世界が見てみたい。

で、昨日の清道館。

甲野先生の「蚊の脚の直系の半分ぐらいの降り幅、の振動を起こす」

これって、合気道でずっとやってきた「響き」と同じではないのだろうか。
米粒に千文字を書けるほどの繊細な感覚。
「響き」を稽古をする。

諸手 
呼吸投げ1番、2番、
四方投げ
一教
座技呼吸法