12/12(土) 中津

土曜日、凱風館の二部制ロング稽古は、後半になると集中力が落ち低血糖になる。
直会のおつまみの残りを口に放り込み、内田先生の稽古を途中で切り上げて中津へ。
なぜか誰も来ないような気がして、一人稽古のメニューを道中考えながら着くと三人きていた。
珍しく清道館メンバーだけで畳を敷き始める。

体操
呼吸
剣を振る

合半身
四方投げ
入り身に入る
入り身投げ
小手返し
一教
天秤投げ

内田先生の「目的」の話。
動きには目的が必要。
ここで言う目的とは、今自分の腕を掴みに来ている相手の腕をどうにかして投げてやろう、崩してやろう、という「目的」ではない。
お茶碗を持ってご飯を食べる、筆で字をかく、絵を描く、誰かに呼ばれて振り向く、といった、日常動作的な、無意識的な動き、目をつぶっていてもできるような動きをするときの、身体の「外」に置く目的のことである。

掴んでくる相手の腕に対して、それをこうしてやろう、という意識的な動作では、自分の腕などの意識できる部位や筋肉を使う。
しかし、ご飯を食べるとか、字を書くといった繊細な動作や、あっと振りむくような発作的な動作では、どこの部位や筋肉をどう使おうという意識はしないしできない。ところが実は全身が使われていて、この時、意識下に登らない体幹の強い筋肉も動員されている。全部が「適切に」動員されているのだ。内田先生はそれを「非随意筋」、前者を「随意筋」と表現された。うまいなあ、と思う。
相手を投げよう、とすると随意筋しか使えない。字を書こう、とするとき非意識下の非随意筋が総動員される。

韓氏意拳でも繰り返し示され、教えられる通り、後者のほうが圧倒的に強い。
目的を外に置くことを韓氏意拳では「気持ちが向かう」と表現される。
韓氏意拳では、外部からの入力(相手が掴んでくる、打ってくる)と拮抗すること、対立することを徹底的に排除する。対立すると、対立を感知した部位だけががんばる。そうすると他の部位が動員できないので弱い。
他の部位を動員するためには、目的を外に置く、つまり「気持ちが(外に)向かう」ことが重要だということだ。

その時身体のなかで起こる感覚を捉え、身体に覚えさせるという意味では、こういったメタファーや喩えはとても有効である。
喩えやメタファー抜きには技の説明は難しく、私の稽古は成り立たない。特に新しい技や理合、その感覚を伝える時、特に初心者に向けてはとても有効だと思う。
しかし、一瞬一瞬変化する技のなかでその都度、お茶碗や字を書く、誰かに呼ばれる、といったシチュエーションをいちいち想定できるだろうか。メタファーとはあくまでも、正しい感覚に近づき、身体が覚えるための手がかり、分からなくなった時の道しるべでしかないと思う。
その危険性を韓氏意拳では「意念」として良しとせず、「気持ちが向かう」のとは区別して注意を促しているのではないかと思う。
「意念」(メタファー)に頼る、と「気持ちが向かう」の違いは難しいと思う。

そこで頼りになるのは、合気道の場合、繰り返すようだが剣・杖にその糸口があるのではないかと思う。
もともと剣・杖から発生した合気道の技を、遡って再びそのルーツに解体していく。
もともとの動きに戻ってみる。
このところ毎日しつこく剣を振っている。
「お茶碗を持ってご飯」と、「剣の切っ先にマイクロレベルの振動を起こす」では、前者の方はよりイメージしやすい分、技の身体動作に還元するという過程が一つ入るように思うが、後者はそのまま技の身体運用にダイレクトに繋がるように思う。つまり話が早いのではないか。
話が早いかどうかはもちろん重要ではない。要は、いつどんな入力が来ても「正しく理想的な状態」に身体がぱっとなる、ということが重要で、そのためには、剣・杖を使う感覚に戻す方が、よりオリジナルに近いのではないか。

などと勝手に考えて、日々いろいろ試している。
トライ&エラー