白馬でのスキー三昧から戻る。
3日と半日の間、ずっと雪の上にいた。合気道をしなかった。
スキーのレクチャーを受けながら最初は、これは合気道に使える、とか、これって合気道的だ、とか、合気道のことを考えながら滑っていたが、すぐに合気道のことは忘れて、スキーを履いてリフトに乗って、山を登っては滑り降りる。何度も何度もそれだけを繰り返した。
年に数日、合気道のことを完全に忘れる。そういう時間が必要なのかも。
ジョコビッチも、苦戦した前戦の後、錦織との準々決勝の前日は、テニスボールを一回も打たなかった、と言っていたし。
まだ雪面に乗っているような、重心を誤ると後ろへ滑って脚を救われるような、変な感覚が残っている。
3日半もスキー板の下が常に動く雪面に乗り続けていたのだから、感覚が多少変になっても不思議ではない。
雪面とは実にクールで、寡黙で、厳しく時に優しく、自然体で(当たり前だ、自然そのものだし)てらいがなく、気まぐれだが誰にも平等で、相手(私)を査定することはないが常に客観的なジャッジを与えてくれる。もちろん「受け」を作ってはくれず、板を谷に向けた瞬間から待ったのない雪面との格闘が始まる。
雪の斜面を滑り降りるだけのことがどうしてそんなに面白いのかと長年思っていたけど、とにかくできない自分、自分の身体の無能さをひたすら突き付けられて、これでもか、これでもかと、面白いというより、意地になる。
さておき、上手い人のスキーは、実に簡単そうに見える。
見るからに力を使わず楽そうで、急な斜面でも、激しく動いてるようには見えない。
そう見えるだけで、実はものすごくたくさん激しく動いている。
が、全部がたくさん同時に一斉に動くので、全体としてはあんまり動いていないように見えるだけなのだ。
腕だけが動いていて他が動いていないと、腕が動いているのが見てわかる。
どこかの部分だけが動いて、他が止まっていれば、動いているそこだけが目立つ。
当たり前のようだが、つまりそういうことだ。
また当然ながら、部分ではなく全体が動くと、全体で負荷を負担するので、そう見えるだけではなく実際にものすごくラクなのだ。
みんなで仕事を分担するのでひとりひとりの負担が減るということだ。
言ってしまえば簡単に聞こえるが、これが案外難しくて、合気道でもスキーでも四苦八苦している。
難しいのは、いっぺんに全部を「適切に」動かすことはできないということだ。
部分部分でひとつづつ「正しい動き」を繰り返していく。
次に一つから二つ同時に、三つ同時に、最後にたくさんの部分が一斉に、連携して動くようになっていく。
合気道もスキーもそのように、部分から全体へと身体が覚えていく、という過程をたどる。
だから、いきなりできる人(がいる、もちろん)は、いきなり何となくできている場合が殆どなので、どこかで必ず行き詰まる。
行き詰った時には、一旦、全体を部分に解体しなければならない。
できている(つもりの)全体の、一旦すべてをパーツに解体するには勇気がいる。
しかしこれができないと次のステージへは行けないような気がする。
合気道の修行も、この解体と統合の繰り返しなのではないかな。
などということを考えながら、中津。
先週は中途半端に終わった「後ろ両手取り」を引き続き。
パーツパーツに解体して統合していく、を試す。
特に、後ろ両手は初心者には難関のひとつ。
ひとつ気付いたのは、後ろ両手の四方投げ。
非常に間合いが近いを越して狭いので、切り上げるのが大変。入っていく空間が極端に小さいので、どうしてもかついでしまう。
「上丹田に手を付ける」とは、「針の穴を通すように」とは、つまりこういう間合いの四方投げ、その一つが後ろ両手取りの四方投げなんだろうと。
剣を振る 左右持ち手をかえて。
自分から入る
入り身に入る 後ろ手を取らせて下段、代軸は前へ。
入り身投げ
腰の回転 でんでん太鼓
小手返し 目付
四方投げ
一教
内回転三教
十字がらみ投げ