「リアリティのダンス」

「ホドロフスキーの新作、観ましたか?」僕が、そう尋ねると、宗教学者の植島啓司先生は、「作品の是非は、ともかく、絶対に観ておいた方がいい」とおっしゃった。

アレハンドロ・ホドロフスキーの23年ぶりの新作「リアリティのダンス」が昨年公開された。残念ながら、劇場で観ることはできなかったので、DVDで観ることにした。

ホドロフスキーは、カルト映画の先駆けと言われている「エル・トポ」で、一躍有名になった映画監督である。映画「エル・トポ」は、1971年、いまで言うミニシネマ(劇場「エル・ジン」)で公開され、アンディー・ウォーホールや、ジョン・レノンに大絶賛された。特に、ジョン・レノンがこの作品にほれ込み、興行権を買ったという逸話まで残っている。

僕は、「エル・トポ」を、いつ見たのかはっきりと覚えていないが、確か大学生になったばかりの頃だったように記憶している。当時、僕は、「音楽研究部」という、名前とは裏腹なアングラなクラブに所属していた。そのクラブからは、サワサキヨシヒロやorange pekoeという、その筋では有名なアーティストを輩出している。そこは、本当に変な人たちだらけで、そんな先輩たちに、僕はそれまで知らなかった「変なもの」をたくさん教えてもらった。そして、この頃「カルト映画」なる言葉をよく耳にするようになった。「バスケット・ケース」、「ロッキー・ホラーショー」…etc.そんな中のひとつが、この作品だったような気がする。

そこで、今回の「リアリティのダンス」である。フリークスが登場し、現在のホドロフスキーが突然、画面に登場したり、母親は、ひたすらオペラを歌っていたりと、ホドロフスキーワールド全開だった。

また、この作品は、いわゆる「自伝物」でもある。僕にとっての「自伝物」といえば、寺山修司の映画「田園に死す」である。最初に「エル・トポ」を観た時の感想は、「寺山のような人が、外国にもいるんだ」だった。実際、寺山は、「エル・トポ」を大絶賛していたらしい。今回の作品も、あたかも「田園に死す」へのオマージュであるかのように、二つの作品に共通したイメージが連鎖していく。恐山と砂漠、サーカスの一団、そしてフリークス。しかし、そのイメージの描き方は、決定的に違う。

寺山が、確信犯的に意図してフリークスを使っていたのに対し、ホドロフスキーは、フリークスを身体的に使用しているように見える。ホドロフスキーにとっての「世界」は、人間も動物もフリークスもすべてが等価に存在する、カオスなのである。一方で、寺山は、そのことを、あまりにも観念として捉えていたきらいがある。「ことば」の人だった寺山らしい性向だ。だから、寺山は、「田園に死す」の中で、母親殺しを試みるという「実験」を行い、その試みは見事に失敗する。

どちらがどうというのは、趣味の問題で、あまり、意味のない議論なので、あえてしないが、確実に言えることは、二人とも同時代のアーティストだということである。このことは意外と重要なことと思われる。ホドロフスキーは、1929年生まれ、寺山は、1935年生まれで、ほぼ同世代といえる。かつて、映画の世界には、こういった変な作家がたくさんいた。パゾリーニ、グリーナウェイ、デレク・ジャーマン…。今では、ラース・フォン・トリアーとキム・ギドク、そしてデビッド・リンチくらいしか僕は思い浮かばない。このような作家は、一体、どこへ行ってしまったのだろう…。

僕は、「リアリティのダンス」を観ながらそんな風に、懐かしさがこみ上げてくると同時に、少し淋しさを感じた。