今から約10年程前、僕は会社で干されていた。元来、欲のない僕は、干されても、特に以前と変わらず、仕事をしていたわけであるが、干されている以上、仕事そのものがない。膨大に時間があるわけである。そんな当時の僕にとっての楽しみは、昼休みに読む、内田樹のブログだった。僕は、昼ご飯を早々とすませ、余った時間は、会社のPCで内田先生のブログを貪るように読み続けた。当時の内田先生のブログは、ほぼ毎日更新され、哲学的で難解な内容だった。しかも、長い。ブログの中に散りばめられた言葉たちは、僕にとっては、初めて目にするものばかりで、僕は、その一言一言を調べながら、その難解なブログを毎日読み続けた。それは、難解ながらも、僕にとって必要なことのように思えたからである。
今年の夏、内田先生が「細雪」の解説をブログに投稿され、僕は、懐かしい気持ちでそのブログを拝読した。その内容は、あの頃僕が、ほとんど誰もいない薄暗い事務所で、一心不乱に読んでいたあのときの内田先生のブログの感じとすごく近かったからである。僕は、あの時のように、知らないとことばたちを、一言ずつ調べながら読み進めた。僕は、「細雪」を読みたいと思った。できれば、内田先生と次にお会いするときまでにと思ったのだが、残念ながら「海の家」でお会いするまで、あまり時間がなく、とりあえず、市川崑の映画「細雪」を見ることにした。
映画「細雪」を観た僕は、「滅んでいくものの美学」というテーマを比較したくなり、立て続けにヨーロッパの映画、「地獄に堕ちた勇者ども」(@ルキノ・ビィスコンティ)、「暗殺の森」(@ベルナルド・ベルトルッチ)と「野火」(@塚本晋也)を観てみた。改めてみて気づいたのだが、この四作品は、いづれも第二次世界大戦時のことを描いているのだが、「細雪」は、女を主人公に、「地獄に堕ちた勇者ども」、「暗殺の森」、「野火」は男を主人公に描いているのが大きな違いだった。「細雪」の主人公、鶴子(岸恵子!!)は、戦争に突入していこうしている状況を無視するかのように、四女の見合いに着ていく帯のことを気にし、夫の東京の栄転に対して、「京都より東へは言ったことおまへん」と言いのける。一方、ヨーロッパの映画の主人公たちは、ひたすら暗い。「地獄に堕ちた勇者ども」のヘルムート・バーガーは、女装するは、幼女趣味はあるはと、変態オンパレードで、同様に「暗殺の森」のジャン=ルイ・トランティニャンも同性愛の自分に悩みナチスに傾倒するというもので、何だかよくわからない。一方「野火」の主人公も、どちらかといえばパワハラに悩まされる。
男たちは、「社会」の中に組み込まれて、苦悩していく。それは、自分の立場をどう今後維持していくかという類のもので、「しょうもない」といえば、しょうもない。かつて中島らもが、バンドを結成しない理由について、エッセイで、「バンド」を結成することにより、「社会」の一員になることが面倒だと言っていた。一方で、鶴子は、そんな「社会」とは、距離を置き、「社会」が成立する以前のものに、重心をおく。それは、嵐山の桜であったり、箕面の紅葉だったりする。「女」たちは、「男」の苦悩をよそに、まったくといっていいほど苦悩しないのである。
「細雪」は、世界各国で翻訳されている。それほどまでに、「細雪」が世界性を獲得できたのは、「女」の特性を、描き切ったからではないだろうか。しかし、現在、「かつての女」が、いなくなってしまったことは、残念で仕方がない。僕が「女ぎらい」を公言する理由は、そこにある。