月別アーカイブ: 2016年10月

「苦悩する男、苦悩しない女」

 今から約10年程前、僕は会社で干されていた。元来、欲のない僕は、干されても、特に以前と変わらず、仕事をしていたわけであるが、干されている以上、仕事そのものがない。膨大に時間があるわけである。そんな当時の僕にとっての楽しみは、昼休みに読む、内田樹のブログだった。僕は、昼ご飯を早々とすませ、余った時間は、会社のPCで内田先生のブログを貪るように読み続けた。当時の内田先生のブログは、ほぼ毎日更新され、哲学的で難解な内容だった。しかも、長い。ブログの中に散りばめられた言葉たちは、僕にとっては、初めて目にするものばかりで、僕は、その一言一言を調べながら、その難解なブログを毎日読み続けた。それは、難解ながらも、僕にとって必要なことのように思えたからである。

 今年の夏、内田先生が「細雪」の解説をブログに投稿され、僕は、懐かしい気持ちでそのブログを拝読した。その内容は、あの頃僕が、ほとんど誰もいない薄暗い事務所で、一心不乱に読んでいたあのときの内田先生のブログの感じとすごく近かったからである。僕は、あの時のように、知らないとことばたちを、一言ずつ調べながら読み進めた。僕は、「細雪」を読みたいと思った。できれば、内田先生と次にお会いするときまでにと思ったのだが、残念ながら「海の家」でお会いするまで、あまり時間がなく、とりあえず、市川崑の映画「細雪」を見ることにした。

 映画「細雪」を観た僕は、「滅んでいくものの美学」というテーマを比較したくなり、立て続けにヨーロッパの映画、「地獄に堕ちた勇者ども」(@ルキノ・ビィスコンティ)、「暗殺の森」(@ベルナルド・ベルトルッチ)と「野火」(@塚本晋也)を観てみた。改めてみて気づいたのだが、この四作品は、いづれも第二次世界大戦時のことを描いているのだが、「細雪」は、女を主人公に、「地獄に堕ちた勇者ども」、「暗殺の森」、「野火」は男を主人公に描いているのが大きな違いだった。「細雪」の主人公、鶴子(岸恵子!!)は、戦争に突入していこうしている状況を無視するかのように、四女の見合いに着ていく帯のことを気にし、夫の東京の栄転に対して、「京都より東へは言ったことおまへん」と言いのける。一方、ヨーロッパの映画の主人公たちは、ひたすら暗い。「地獄に堕ちた勇者ども」のヘルムート・バーガーは、女装するは、幼女趣味はあるはと、変態オンパレードで、同様に「暗殺の森」のジャン=ルイ・トランティニャンも同性愛の自分に悩みナチスに傾倒するというもので、何だかよくわからない。一方「野火」の主人公も、どちらかといえばパワハラに悩まされる。

 男たちは、「社会」の中に組み込まれて、苦悩していく。それは、自分の立場をどう今後維持していくかという類のもので、「しょうもない」といえば、しょうもない。かつて中島らもが、バンドを結成しない理由について、エッセイで、「バンド」を結成することにより、「社会」の一員になることが面倒だと言っていた。一方で、鶴子は、そんな「社会」とは、距離を置き、「社会」が成立する以前のものに、重心をおく。それは、嵐山の桜であったり、箕面の紅葉だったりする。「女」たちは、「男」の苦悩をよそに、まったくといっていいほど苦悩しないのである。

 「細雪」は、世界各国で翻訳されている。それほどまでに、「細雪」が世界性を獲得できたのは、「女」の特性を、描き切ったからではないだろうか。しかし、現在、「かつての女」が、いなくなってしまったことは、残念で仕方がない。僕が「女ぎらい」を公言する理由は、そこにある。

「無欲の勝利」  清道館 森川 祐子

無欲の勝利
                          清道館 森川 祐子
 
 このあいだ、こけた。水曜の朝に、松本さんのリハビリに向かう途中、四天王寺さんの塀と民家に挟まれた路地で、こけた。「なんで?」「どこで?」と聞かれても、「歳やから」「段差のない舗装した道で」としか答え様のないこけ方で、『あ〜、私、このままこけんねやろか〜(ボッテ〜〜ン)』とスローモーションを見ているようだった。
 幸い、誰も見てなかった。「痛いよぉ〜痛いよぉ〜」と一人ごちながら、地下鉄の駅に急ぎ、南千里でいつもの様にリハビリして、スタバでお茶飲んで、ご飯の買い物して家まで帰ったら、今度は「か、鍵がない!!」井上先生から電話が入ってるし、家に帰らないと分からへん事やし、でも、か、鍵がない!! 扉の前にかばんから全ての物を放り出しても、やっぱりない! 仕方がないので、最近1階の建築事務所で勤める長女に「鍵、ないねん」と言って借り、やっと家に入り、そして立ち回り先に電話して探してもらったが、どこにもない。その時、ひょっとしたらこけた時に?と思ったけど、まずは夕食の用意をしないとお稽古に行けないので、ええ加減にこしらえて、家を出たのはもう3時を過ぎていた。
 半分以上あきらめながらこけた現場に行き、目を皿の様にして歩いたら、なんと、あったんですよねぇ〜。民家の裏戸の前に並んだ鉢植えに渡した板の上に、それは置いてあった。その時も誰もいなかったけど、四方に向かって「ありがとう〜ありがとう〜」と頭を下げて、お稽古に(すでに遅刻していた)走った。るん!
 走りながら、あることを思い出していた。朝こけたあと、地下鉄の駅まで急いでいたとき、バス通りにウィンドブレーカーが落ちているのが目に入り、次から次からやってくる車にひかれてボロボロになったそのウィンドブレーカーの映像が頭に浮かび・・・いや、違うな、ほんの2、3分前に同じ様に地面に這いつくばっていた自分の姿を見る思いだったのかも知れない・・・一旦通り過ぎたものの、又戻って、車道まで出てそれを拾い上げ、車道と歩道を区切るポールの上に掛けて避難させたっけ。あれがあったからかも知れん。誰かがおんなじように私の鍵を拾い上げてくれたんだ。でも、何か見返りを期待してやった事ではないし、何かにつけて因縁づけるのは嫌いなので(嫌いというより、それに引っ張られるのが怖くて)、無欲の勝利っちゅうのかな、と思っている。
 
 そうして芋づる式に思い出したことがある。先日、凱風館の老松を描いた山本さんの個展を見るために夫と一緒にミラノへ行った。その帰りのミラノ発イスタンブール行きの便が、ひとりのおっさんのせいで2時間遅れ、関空行きに乗り継ぎできなかった。夜中のアタチュルク空港のカウンターで「あしたの同じ時間に変更です」と、まるで遠い昔から決まっていた様に言われ、トランジットなのでショルダーバッグのみ持ってイスタンブール市内のチンケなホテルまで送られた私たち。部屋に入り落ち着いて、ほぼ同時にお互いのバッグから「これ、入れててよかったわぁ〜」と取り出したのは、日本のスーパーの袋に包んだパ◯ツだった。
 実は、夫は日本を出る前日から下痢で、行きのトランジットの際アタチュルク空港のトイレが混んでいてエラい目にあっており、ほぼ回復はしていたけれどもしもの時のために手荷物にそれをひそませていたらしい。私は私で、ミラノを発つ前日から下痢気味。夫の惨状を見ていたので、そっとそれをショルダーバッグに忍ばせていたのだ。
 夫はその時、「おかあまでそんなもん持ってくるから、こんなことになったんや」と言った。「はぁ? 私のせいですか!」一日余分に遊べてラッキー!と思い始めていた私だったが、結構なんでも因縁づける夫に腹が立って、しばらく言い合ったが、もう夜中の2時でお互い疲れ切っており、シャワーも浴びずに寝こけた。
 でも、翌日の朝シャワーを浴び、清潔な◯ン◯に着替えたころには、二人とも遊ぶ気満々。ブルーモスクとアヤソフィアと地下のメデューサ見て、フェリーでアジア側へ渡って又戻って、絶品鯖サンド食べて・・イスタンブールの余分な一日を満喫して夜12時の便にて帰国の途に着いた。
 なんにも狙ったわけではないけど、たまたま一日存分に遊び、しかも清潔な下着で気持ちよくて!!これを無欲の勝利と言わずして何と言う?!

 合気道も・・・とここで、無理くり合気道につなげようとするわけですが・・・何かしてやろう、とか、こうしたら、ああなるんちがう?とか企むとだめで、無欲で三昧の境地に入ったら、技が湧出するようになるんですよね、きっと。そうなりたいと思っております、はい!

「思い出ごはん」

 怠惰な休日の過ごし方をしている。僕のことを少し知っている人は、釣りをしたり登山をしたりと、アクティブな印象を持っているかもしれないが、僕は、完璧なまでにインドアな傾向が強い。友だちなどは休みの日に家にいてると、頭がおかしくなりそうな気がするそうだ。僕は、まったく逆で、休みの日に次々と予定が入ったりすると、それだけで、気が滅入ってしまう。

 先月、内田樹先生他数名と、白馬にトレッキングにいったのだが、僕のあまりのスカスカのプラン(何せ、プランの中には、昼寝が入っている!)に、「こんなに何もしなくていいのだろうか?」とお褒め(?)の言葉をいただいたぐらいである。僕としては、精一杯立案したつもりだったのだが…。

 さて、そんな怠惰な休日の楽しみのひとつが、TV番組「よ~いどん」の中の「思い出ごはん」である。毎週、ゲストを迎え、今までに印象に残っているごはんと、それにまつわるエピソードを披露するというものだ。どのエピソードもほとんどが、昔自分が苦労していたときに食べたあの時のあの味というものが多く、人の苦労話が大好きな僕は、休みの日の午前中から、キュンとしてしまう。この番組をみていて、つくづく思うのだが、どういうわけか、ごはんの記憶というのは、楽しい記憶とはリンクせず、悲しかったり、つらかったり、切ない記憶とともに保存されているらしい。

 その日、小学校から帰ってくると、母親から、すぐに買い物に出かけることを伝えられた。その頃、我が家では、ちょっとしたものの買い物には、阪急伊丹駅周辺のスーパーによく行った。「伊丹」に行くのは、土、日の昼間と決まっていたのに、平日の夕方から「伊丹」に行くのに、僕は少し違和感を覚えた。母親にそのことを尋ねると、母の父、つまり祖父が「キトク」なので、明日、田舎に帰るとのことだった。小3の僕は、「キトク」の意味が分からず、「キトクって何?」と母に聞いた。母は、「死ぬかもしれないってことよ」とぶっきらぼうに教えてくれた。当時、田舎に帰るときには、必ず、僕は服を新調してもらった。母にとっては、自分が生まれ育った家にも関わらず、結婚した彼女にとっては、そこは、何か特別な神聖な場所だったのかもしれない。そういえば、田舎に帰るといえば、母親はなぜか機嫌が悪くなっていたような気がする。

 最寄りのバス停からバスに乗り、「伊丹」へと向かった。バスの窓は、曇っていて、手でキュッキュッと窓を拭き外を眺めた。いつも見慣れている風景が、冬の夜の風景となると、別のものに見えた。伊丹に着くと、夜の伊丹の街は、僕の知っている表情とは一変し、初めてみる「夜の街」は何か少し怖い感じがした。僕は、母に連れられて、「関西スーパー」の2階にある洋品コーナーに行き、ジーパンを買ってもらった。当時、毎週TVで観ていた「太陽にほえろ」のジーパン刑事と同じフォルムの「BIG JOHN」のだった。店を出てあたりを見渡すと、真冬ということもあり、真っ暗だった。吐いた息が真っ白く、夜の空は、カラスのようにどこまでも黒かった。関西スーパーからいつもの商店街に向かった。商店街を歩きながら、母が「遅くなったし、ごはん食べて帰ろう」と言った。僕は「うん」と頷いた。そして、僕たちは商店街に面したうどん屋に入った。ごく普通のどこにでもあるうどん屋だった。当時の我が家の外食といえば、長崎屋で買い物をしたあとに食べる、地下1階のフードコート内にあるお好み焼き屋だったので、この日が初めての「外食」だったかもしれない。母は、天ぷらうどんを二つ注文した。母の好物は、天ぷらうどんだった。

 落ちのない話となってしまった。この天ぷらうどんにまつわる話は、これだけである。特に、何があったわけではない。しかし、僕の「思い出ごはん」といえば、あの日、伊丹の商店街のうどん屋で食べた「天ぷらうどん」になる。あの日の夜の街の感じ、あの日の冬の寒さ、うどん屋の店内の様子は、今でもありありと思い出すことができる。

 先日、実家に帰り、母といつものようにたわいのない話をしていた。今年で80才になる母の横顔は、すっかりおばぁちゃんとなり、しわだらけである。母が、唐突に「あんたと昔行った、伊丹のうどん屋のこと覚えているか?おいしかったなぁ」と、遠くをみるような目をして、ぼそっと言った。

10/15(土) 入江道場研鑽会

京都、入江道場の研鑽会が、11/15、16の日程で、武徳殿で行われます。

15日(土) 講習会①10:00~11:45、②13:30~15:15、③15:30~17:15(杖稽古)
16日(日) 講習会④14:00~16:00

参加費 全日程5000円、3コマ4000円、1コマ1500円 当日支払い

この研鑽会に参加を希望、すでに予定している人は、井上までお知らせをお願いします。
慣例として、他道場の特別な稽古会やイベントに参加するときは必ず井上の許可を取るよう、周知徹底お願いいたします。

井上は15日の講習会①、②に参加予定です。終了後、中津に向かいます。

井上

注意!12日(水)の夜のお稽古はありません!

12日(水)は、18:00~の通常のお稽古はありませんので、注意してくださいね。
場所が取れませんでした。

この日は、15:00~18:00まで、多目的室で剣・杖の稽古をします。
時間が合う人は来てください。
ご周知よろしくお願いします!

井上

「九月の雨~石井隆的風景~」

 それにしても、この秋はよく雨が降る。そんな雨の多かった先月、WOWWOWで石井隆特集が組まれて、「GONIN」他たくさんの作品を観た、あるいは、観なおした。

 石井隆の作品にいつ出会ったのかは、記憶は定かではないが、劇場公開されると必ず劇場に足を運ぶ、僕にとっては、数少ない作家の一人である。石井隆との出会いについて、強烈に印象に残っているのは、直接ではないが、橋本治が、著書「デビッド100コラム」の中で展開した石井隆論である。その当時、おそらく20才前後だと思うが、僕は、彼の「天使のはらわた 赤い淫画」というポルノ映画を見て、とてもショックを受けていた。そのショックが、何に由来するものなのか、当時の僕の知性、語彙では、説明できなかった。そんなときに、橋本治の書いたこの本に出合った。たしか題は、「メロドラマの復権」だったように思う。そのコラムの内容を要約すると、こういうことだ。メロドラマというのは、男と女が「すれ違う」ことにより、成り立っている。しかし、最近では、通信技術の発展により、「すれ違い」が少なくなってきたため、メロドラマが成立しなくなってきている。そんななか、石井隆は、執拗に「メロドラマ」を作り続けているというものだった。あまりに自分の趣味が偏っていることに、若さゆえ変なプライドを持ちながらも、そのことに自信を持てないという、厄介なジレンマに苛まれていた未熟な僕を担保してくれたのがこのコラムで、妙に安心したのをよく覚えている。若さというのは、本当に面倒くさい。

 さて、石井作品には、たくさんの記号が散りばめられている。雨、歌、そして「村木」と「名美」。どの記号も、必ずといっていいくらい、彼の作品の中では、繰り返し引用される。特に、雨は、石井作品の象徴ともいえるものである。しかも、その雨の降り方は、尋常ではなく、ほとんど豪雨といっても過言ではない。これだけ、雨にこだわる作家を僕は、石井隆以外には知らない。それは、リドリー・スコットの濡れた街の路面や、タルコフスキーの泥まみれの地面とも違う。

 石井隆の作品に登場する「男」(=村木)は、「女」(=名美)に、どうしても近づくことができない。ただ遠くから眺めているだけである。そんな「女」に対して、「男」が取りうる手段は、「暴力」という形でしか表現できない。だから、石井の作品では、「女」たちは、執拗に「暴力」によって墜ちていく。「男」は「女」を墜とすことによってしか、近づくことができない。そして、嵐のような雨が降る夜に、「男」と「女」は、初めて「出会う」ことができる。雨は、天(=女)と地(=男)を結びつける、細い糸のようなものだ。しかし、その雨が永遠に降り続けることはない。やがて、何事もなかったかのように雨は止む。「男」と「女」は、一瞬出会ったかと思えば、すぐに離れていく。すれ違うのである。

 石井の傑作「夜がまた来る」で主演を務めた根津甚八のインタビューが興味深い。インタビューアーが「石井作品におけるハードボイルドについて」と質問したところ、石井組の根津は、「石井作品は、ハードボイルドとよく言われるが、僕はとてもセンチメンタルな要素が強いと思う」というようなことを言い、最後にこう付け加えた。「僕は、泣きたいんです。映画を見て笑いたくはない、ましてや考えたくもない。ただ、泣きたいんです。」

 その根津甚八の引退作品、もちろん監督は石井隆の「GONINサーガ」を見て、僕は泣いた。