「九月の雨~石井隆的風景~」

 それにしても、この秋はよく雨が降る。そんな雨の多かった先月、WOWWOWで石井隆特集が組まれて、「GONIN」他たくさんの作品を観た、あるいは、観なおした。

 石井隆の作品にいつ出会ったのかは、記憶は定かではないが、劇場公開されると必ず劇場に足を運ぶ、僕にとっては、数少ない作家の一人である。石井隆との出会いについて、強烈に印象に残っているのは、直接ではないが、橋本治が、著書「デビッド100コラム」の中で展開した石井隆論である。その当時、おそらく20才前後だと思うが、僕は、彼の「天使のはらわた 赤い淫画」というポルノ映画を見て、とてもショックを受けていた。そのショックが、何に由来するものなのか、当時の僕の知性、語彙では、説明できなかった。そんなときに、橋本治の書いたこの本に出合った。たしか題は、「メロドラマの復権」だったように思う。そのコラムの内容を要約すると、こういうことだ。メロドラマというのは、男と女が「すれ違う」ことにより、成り立っている。しかし、最近では、通信技術の発展により、「すれ違い」が少なくなってきたため、メロドラマが成立しなくなってきている。そんななか、石井隆は、執拗に「メロドラマ」を作り続けているというものだった。あまりに自分の趣味が偏っていることに、若さゆえ変なプライドを持ちながらも、そのことに自信を持てないという、厄介なジレンマに苛まれていた未熟な僕を担保してくれたのがこのコラムで、妙に安心したのをよく覚えている。若さというのは、本当に面倒くさい。

 さて、石井作品には、たくさんの記号が散りばめられている。雨、歌、そして「村木」と「名美」。どの記号も、必ずといっていいくらい、彼の作品の中では、繰り返し引用される。特に、雨は、石井作品の象徴ともいえるものである。しかも、その雨の降り方は、尋常ではなく、ほとんど豪雨といっても過言ではない。これだけ、雨にこだわる作家を僕は、石井隆以外には知らない。それは、リドリー・スコットの濡れた街の路面や、タルコフスキーの泥まみれの地面とも違う。

 石井隆の作品に登場する「男」(=村木)は、「女」(=名美)に、どうしても近づくことができない。ただ遠くから眺めているだけである。そんな「女」に対して、「男」が取りうる手段は、「暴力」という形でしか表現できない。だから、石井の作品では、「女」たちは、執拗に「暴力」によって墜ちていく。「男」は「女」を墜とすことによってしか、近づくことができない。そして、嵐のような雨が降る夜に、「男」と「女」は、初めて「出会う」ことができる。雨は、天(=女)と地(=男)を結びつける、細い糸のようなものだ。しかし、その雨が永遠に降り続けることはない。やがて、何事もなかったかのように雨は止む。「男」と「女」は、一瞬出会ったかと思えば、すぐに離れていく。すれ違うのである。

 石井の傑作「夜がまた来る」で主演を務めた根津甚八のインタビューが興味深い。インタビューアーが「石井作品におけるハードボイルドについて」と質問したところ、石井組の根津は、「石井作品は、ハードボイルドとよく言われるが、僕はとてもセンチメンタルな要素が強いと思う」というようなことを言い、最後にこう付け加えた。「僕は、泣きたいんです。映画を見て笑いたくはない、ましてや考えたくもない。ただ、泣きたいんです。」

 その根津甚八の引退作品、もちろん監督は石井隆の「GONINサーガ」を見て、僕は泣いた。