「日活ロマンポルノ」

 僕が子供の頃、昭和40年代後半には、町のいたるところに映画館があった。例えば、当時、僕の住んでいたのは川西だったが、阪急宝塚線沿線にあった映画館は、駅名でいうと、梅田、十三、岡町、池田、川西能勢口(それ以降は、知らない)といった具合だ。それと同時に、町のあちらこちらに映画のポスターが、電柱にところ狭しと貼られていた。ばんばんの名曲「いちご白書をもう一度」の歌詞の一節にある「雨に破れかけた街角のポスターに~♪」(@荒井由美!)的風景そのものである。そのポスターは、刺青をした高倉健や、寅さんだったりしたわけだが、それらの映画スターに混じって、裸の女たちもたくさんいた。ポルノ映画のそれである。題名もショッキングなものが多く、「悶絶くらげ」、「貝くらべ」、「壇の浦夜枕合戦記」など、意味がわからなくても、そのいかがわしさだけは、子供の僕にも十分過ぎるほど伝わった。そんなポスターが、通学路に貼られていた、そんな時代だった。

 1960年代後半、映画産業が斜陽に向かう中、日活の取った経営判断は、「ポルノ映画」だった。低予算で量産体制を目標に掲げ、たくさんの作品が制作されたわけだが、一方で、この方法は、多くの若い才能を受け入れる場所としても機能したわけである。つまり、女の裸さえ見せておけば、映画が撮れるというもので、演出などには一切口を出さないやり方に、若い才能がたくさん集まった。松竹や東宝など、所謂大手映画製作会社にいれば、長年、監督の下で助監督を務め、監督になるのに膨大な時間がかかるこのシステムは、若い才能には、まどろっこしかったに違いない。実際、名前を挙げればきりがないが、ポルノ出身の代表的な監督といえば、森田芳光、周防正行、井筒和幸などなど、その後、一般映画で第一線で活躍する監督ばかりである。

 若いころ、飲んで電車がなくなると、行くところといえば、オールナイトの喫茶店か「ポルノ映画館」だった。ある日、梅田から終電を逃し帰れなくなった僕たちは、いつものように「東梅田日活」で一晩を過ごすことにした。その日に上映されていたのは、「変態家族 兄貴の嫁さん」というものだったが、その内容といえば、周防正行が小津安二郎に捧げたもので、小津のローアングルを多用し、セリフも小津風そのもので、僕はポルノ映画を見る目的を達成することができず、また、寝るための目的も達成されないまま、この変な映画を食い入るように観る羽目になったわけである。このように、このころの、日活ロマンポルノ映画には、才能が満ち溢れていて、この流れは、1970年代日本のアングラ文化を支え続けた、低予算でも作家性にこだわり、良質な作品を世に出し続けたATGの流れを汲んでいるといっても過言ではない。

 先日、久しぶりに「東梅田日活」の前を通った。しかし、そこには、もう「東梅田日活」の姿はなかった。中学二年生のときに、クラスメート10人で生まれて初めていったときのこと、終電を逃しては寝に行ったこと、石井隆特集を観に行ったこと、さまざまな思いがこみあげてきた。その思いとは、「社会」と敵対することでしか、自分の居場所を見いだせなかった未熟な自分と、尖がった作品を作りながらも、世間には、ただの「ポルノ映画」でしかないという作品たちと相似形をなしたものだった。

 今日、NHKBSで21時~「ロマンポルノという闘い」という番組が放送される。ワインでも飲みながら観てみようと思っている。