「趣味は?」

 「趣味は?」

 人からよく聞かれる代表的な質問だ。いまだにお見合いの席では、この質問が発せられるのだろうか?

 僕はこの質問に対して、例えばコンパなどでは、「映画」と答えていた。本当は、「音楽」と答えたいところなのだが、自分の音楽の趣味が、あまりに偏っていることに自覚的だったので、こう答えるようにしていた。

 10代の頃のあるコンパでの会話。

 「趣味は?」
 「映画かな~」
 「へぇ~。「トップガン」観た?」
 「観てない」
 「じゃぁ、「ハスラー」は?」
 「それも観てない」
 「映画好きなんでしょう~。全然観ていないね。最近、何観たの?」
 「死霊のはらわた」

 その子は、僕と反対側に座っている、ともだちと話し始めていた。

 音楽に対する自分の偏りには自覚的だったが、映画へのそれが、そんなに偏っているということの自覚がなかったのである。若いというのは、そういうことだ。

 さて、「趣味」の話だった。その人を知る、最初の質問として、一番手っ取り早いのが、「趣味は?」だと、世間では思われているようだが、僕は、違うのではないかと思っている。実は、趣味は、その人をなにも表現していないのではないかという気さえする。それは、ロジェ・カイヨワが「いかなる富も、いかなる作品も生み出さないのが、遊びというものの特徴である。」と言っているように、遊び(=趣味)は、生産的ではないからである。以前、近所にあったスペインバルの店主の趣味は、僕と共通するところが多かった。サッカー、村上春樹、山登り、コムデギャルソン…。僕は、この人とどこまで親しくなれるのか、ワクワクしたが、それほど、親しくはなれなかった。一方、自分の周りにいる、親しい友人のことを考えてみると、ほとんど接点らしきものがない。代表的なのは、中学一年からの幼馴染。家にいることが大好きで、大酒を飲み、本を読むことの好きな僕とは対照的に、彼は家にいると気がおかしくなるそうで、宴会が大嫌いで、この年になるまで、多分、本など読んだことがない。ただ一つ、僕たちに共通しているのは音楽だが、お互い好きなミュージシャンは同じなのに、そのミュージシャンの好きな曲は、まったく一致しない。今さらながらであるが、僕と彼は、趣味でつながっていたのではなかったのである。では、何で?それは、僕と彼が過ごした膨大な時間だと思う。昔、観た映画「メイン・テーマ」(@森田芳光)の中で、桃井かおりが、嫉妬深い若い薬師丸ひろ子に向かって、こう言う。
「私にあって、あなたにないものが、あなたにはわかる?それは、私たち(桃井かおりと恋人)が過ごした時間よ。」

 おそらくだが、その人の本性が、一番露わにになるのは、趣味ではなく仕事ではないかと僕は思っている。たまに、お菓子作りが趣味のお客さんに、手作りお菓子をいただいたりすることがあるが、そのなんとも言えない「もの足りなさ」こそが、「趣味」の本質では、ないだろうか?ストリートで演奏しているバンドしかりである。「趣味」には、責任がなく、「仕事」には責任がつきまとう。だから、僕は、お金を払って、村上春樹の本を買い、こだま和文のライブを観に行くわけである。

 世の中には、奇特な人がいるもので、僕のこんなどうでもいい文章を読んでいる人がいるらしい。生身の僕のことを知らない人たちは、僕の文章を読んで、かなり気難しい人だと思っているようで、実際の僕と出会うと、あまりのバカさに困惑するそうだ。別に趣味として、このようにブログを投稿しているわけではないが、何一つ責任がないという意味では、「趣味」といえるかもしれない。

 先日、ある人から、某作家が鬱病だと聞いた。僕は、驚いた。その作家の世間的なイメージは、自由奔放な「趣味の世界に生きている人」だったからである。僕は、思った。きっとこの作家は、元々は趣味だったものを仕事にしたことにより自滅してしまったのだろう。趣味が、それほど自滅に追い込むことなどないだろうから。

 誤解してほしくないが、僕は何も「趣味」を否定しているわけでは決してない。ただ、「趣味」は、世間で思われているほど、価値のあるものではないと言っているだけである。

 どうでもいい話を、くどくど書いてしまった。なぜこんなことを僕が書き始めたかというと、朝日新聞の朝刊で毎日掲載されている、鷲田清一の「折々のことば」に、ロジェ・カイヨワの言葉を発見したからである。