土曜日の朝、このTV番組を観てから出社している。その番組とは、「サワコの朝」である。阿川佐和子がゲストに、思い出に残っている曲を2曲選ばせ、その曲についてトークを展開するというものだ。音楽至上主義的考えの強い僕は、毎週、ゲストの選ぶ曲のセンスの悪さにがっかりして、家を出るのである。ならば、観なければいいのだが、人間というのは、そんな単純な生き物でもないらしい。
若いころ読んだ中島らものエッセイに、その人を知るためには、その人の家へ行って本棚をみればいいというようなことが書いてあった。僕もこの意見にまったく同意するとともに、さらに付け加えるなら、音楽の趣味が、その人の持っているセンスそのものだとも思っている。偏見もいいところだが。同じような番組で、「ミュージック・ポートレート」というのがあり、その番組に出演した山本耀司が、中島みゆきの曲を選んだときには、なんだか少し残念な気がした。普通だったからである。
さて、先週の「サワコの朝」のゲストは、島田順子だった。島田順子というのは、ファッションデザイナーで、僕らの世代にとっては、「いい女」が着る洋服のデザイナーとしてあまりに有名である。当時の、「いい女」は、ワンレングスに、「49AV.JUNKO SHIMADA」のロゴの入ったブティックで手に入れた紙製の大きな袋を肩からかけて、街をさっそうと歩いていたのである。そんな時代も、かつてこの国には存在した。
番組の冒頭で、阿川佐和子が島田順子のことを、「あこがれる大人」というふうに紹介した。阿川佐和子が、いくつかは知らないが、少なくとも僕よりは、たぶん年上だと思う。そんな年齢の彼女が、いまだに「あこがれる」島田順子に、僕は、俄然興味を持った。そして、この番組の中で、彼女が選んだミュージシャンは、マリアンヌ・フェイスフルとボブ・ディランだった。過去、この番組でセンスいいなと思ったのは、建築家の伊藤豊雄ぐらいだったので、彼女の趣味の良さに僕は興味を覚え、「かっこいい」と思った。
島田順子は、番組の中で、自身のファッションに対する哲学を滔々と語っていた。彼女にとってファッションとは、自己をいかに解放していくのか、その手段であると言っていた(たぶん)。僕は、目から鱗が落ちたような気がした。彼女に言わせると、自分が着たいものを気にせずに着れば、それで洋服は十分その役割を果たしているらしい。彼女は、何かを表現するためではなく、自分がいかに自由になれるかを目指して、洋服をデザインしていたのである。彼女にとって、洋服の向こう側に見えているのは、「自由」だった。
前回、同じテーマで、僕はアーティスト「こだま和文」を題材に、「かっこよさ」の定義について、表現における身体性だと私見を述べたが、今回、島田順子の話を聞いていて、そこに「自由」を加えてみたいと思う。
今まで、ずっと分からなかった「かっこよさ」の輪郭が、おぼろげながら少し見えてきたような気がする。明日も、出社前に「サワコの朝」を観てみよう。