月別アーカイブ: 2017年1月

MY MUSIC PORTRAIT(荒井由美以前)(2017年1月31日 井上英作)

清道館のある門人から、CDが5枚送られてきた。僕に聞いてほしいとのこと。彼は、その前に、「META FIVE」の好きな僕に、少し鼻を膨らませながら「Dip In The Pool、知ってます?」と聞いてきた。もちろん、僕は知っていた。そのことが、悔しかったのかどうか真意は知らないが、彼はCDを送ってきたのである。そんな彼に対して、僕は自分の好きな曲を編集してCDを作り対抗しようかとも思ったが、面倒くさいので、僕が今まで聞いてきた音楽を選んでみることにした。きわめて個人的なことだが、このことで、自分のことが少しくらいわかるかもしれないとも思う。第一回目は、小学校低学年までに聞いて印象に残っているものを選んだ。

「フランシーヌの場合」(1969年) https://www.youtube.com/watch?v=Ei3l-P4oNCQ

この曲が、僕と音楽との最初の出会いである。このことは、以前、ブログに投稿した。

https://kiyoe3seidokan.wordpress.com/2015/01/15/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%81%AE%E5%A0%B4%E5%90%88%E3%80%80%E3%80%80%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%8B%B1%E4%BD%9C%EF%BC%88%E5%AE%B4%E4%BC%9A%E6%96%B9%EF%BC%89/

「時に母のない子のように」(1969年) https://www.youtube.com/watch?v=uHCxfTtUrXE

ある時期、僕のアイドルは寺山修司だった。八尾西武で「寺山修司展」を観に行き、吹田英劇やサンケイホールで「寺山修司特集」の映画を観に行き、近鉄小劇場で劇団万有引力の「奴婢訓」を観に行った。その寺山が、作詞を手掛け大ヒットした曲がこの曲。リアルタイムでこの曲を聞いたわけではないが、この当時の時代の雰囲気が、一番体現できる曲のひとつだと思う。つまり、僕はこの曲を通じて、4才の僕を追体験しているわけだ。「去りゆく一切は、比喩にすぎない」。寺山がよく引用していた言葉だ。

 

「真夜中のギター」(1969年) https://www.youtube.com/watch?v=U4z7UwmdzDQ

僕の両親は、創価学会員である。創価学会というのは、まるで会社のようによくできた組織で、その年代によって、例えば「少年部」、「青年部」などの組織を作り、会員同士の連帯感を強めさせるのである。さらに、一週間に二回ほど、座談会と称し、みんなで集まり、日蓮の教えを勉強する。僕は、子供のころ、母親によく「女子部座談会」に連れていかれた。僕は、子供ながら、強い違和感を覚えたのをよく覚えている。なぜなら、来ているおばさんたちが、どの人も幸せそうに見えなかったからだ。しかし、今になってみると、「女子部座談会」とは、今でいうママ友の集まりのようなもので、母のように、兵庫県の山奥の出身者で、知り合いの少ない人にとっては、居心地の良い共同体だったのかもしれない。その「座談会」では、時々、おばさんたちが、歌を歌った。ある晩に聞かされたのが、この曲である。いつも聞かされる創価学会の曲(そういうのが存在する)と比べて、この曲は、文学的で、繊細な感じがした。

「花嫁」(1971年) https://www.youtube.com/watch?v=no4vlbRSdro

父と母は、顔を合わせば喧嘩をしていた。子供ながら、よくもまぁ、それだけ喧嘩できるものだと感心するぐらいだった。そんな我が家が、この年の夏、初めて家族旅行に出かけた。父の勤めていた会社の保養所のあった天橋立である。その年に、この曲がリリースされたのかどうかは分からないが、この曲を聴くと、いまだに、冷房もない扇風機だけが回っている鈍行列車に揺られながら、全開にした窓から入り込んでくる潮風のことを思い出す。

「ハチのムサシは死んだのさ」(1972年) https://www.youtube.com/watch?v=xAoOH5TRsB4

アニメ「昆虫物語 みなしごハッチ」を周りの子供たちは、テレビで必死で観ていた。「ハッチがかわいそう」と涙ぐむ子さえいたが、僕は、どうしてもこのアニメに感情移入することができずにいた。僕は、それよりも、赤塚不二夫の「モーレツア太郎」の方に親近感を覚えた。ケムンパス、ニャロメ、ココロのボス、べしなどのキャラクターたちが、僕は大好きだった。話が、ずいぶん横にそれた。子供の僕にとって、この曲の歌詞など分かるはずもないが、「フランシーヌの場合」同様、明らかに「学園紛争」のことを歌ったもので、当時いかに政治的に不安定だったのかが、よくわかる。しかし、僕にとってこの曲は、ハチつながりで、あの辛気臭い「 みなしごハッチ」を想起させるものでしかない。

「学生街の喫茶店」(1972年) https://www.youtube.com/watch?v=AbPL8KdXojg

その日は、「初めて」尽くしだった。その日、両親に連れられて「初めてこだま」に乗り、姫路へ行った。姫路駅で僕たちを待っていたのは、子供ながら、どうも信用できそうにない不動産屋さんのおじさんだった。「僕、こんにちは。」と、作り笑顔で話かけられたが、僕はどうしてもそのおじさんと話す気になれなかった。僕たちは、そのおじさんの運転する車に乗り、山に連れて行かれた。父は、土地を買いに来たのである。皮肉ことに不動産屋さんになった僕は、この当時の社会的背景を理解できる。当時、田中角栄の日本列島改造論にあおられて、日本中が土地の投機ブームに沸いたのだ。そして、なぜか、父もその一人だった。

物件(山林)を見学したあと、僕たちは、姫路城を観に行った。そこで僕は、「初めて乞食(敢えてこういう表現にした)」に遭遇する。彼は、ほとんど原型をとどめていない洋服を着、髪の毛、髭の伸びきった恰好で、ごみ箱を漁っていた。僕は、怖くなり、父親の背後に隠れたが、そんな僕の様子を見て、父親は、ゲラゲラ笑った。父は、そんな人だった。それから、僕たちは、姫路駅の方に向かい、薄暗くなった繁華街の一角にあるお店に入った。「初めての喫茶店」である。店内は薄暗く、たばこの煙が充満していた。父は、その日なぜか、機嫌がよく、ウエイトレスにコーヒーを注文した。僕は、何を注文したか、まったく覚えていないが、その店でBGMとしてかかっていたのが、この曲、「学生街の喫茶店」である。そのとき、きっさてん=喫茶店であることを知った。余談だが、この曲を演奏している「ガロ」のバックバンドでドラムを叩いていたのが、僕の大好きな、高橋幸宏である。僕は、この時に、すでに、高橋幸宏と出会っていたわけだ。

番外編

「りんごの唄」 https://www.youtube.com/watch?v=OFXIXF_RYyw

いとこの結婚式の披露宴でこの曲を聞いた。場所は、たぶん、寝屋川市民会館。いとこといっても、僕は小学校低学年で、彼女は、おそらく20代だったのだろう。当時、結婚式といっても、おそらく市民会館ぐらいしか会場がなかったのだろうと推測する。その披露宴の宴席で、終盤に差し掛かったころ、出席者のひとりが、この歌をアカペラで歌い始めた。最初は、みんな、手拍子をしながら聞いていたのだが、最後は、全員で、この歌を歌っていた。子供ながら、いい光景だなと思った。

何年か前、連続テレビ小説「カーネーション」の中で、この時の光景と殆ど同じような光景を見かける。宴席で、全員がこの歌を歌っている。僕は、気になって、この曲を調べてみた。この曲は、戦後のヒット曲第1号ということだった。戦後は、まだ終わっていなかった。

 

稽古予定変更のお知らせ

以下のように稽古予定が変更になりましたのでお知らせいたします。

1/26(木) 石橋教室 稽古中止
1/28(土) 北スポーツセンター(中津) 代稽古担当 森川
2/26(土) 西スポーツセンター(阿波座) 稽古中止

以上です。
ご周知のほどお願いいたします。
井上

「この世界の片隅に」(井上英作 2017年1月11日)

僕は、今日元気がない。今日、テアトル梅田で、奥さんと映画「この世界の片隅に」を観たからだ。映画が終わり、僕はことばを失った。ことばが見つからなった。僕たちは、20分ほど、お互いに押し黙ったまま、地下鉄「梅田」駅へと向かった。お腹が空いたので、阪急三番街のうどん屋に入り、店員に注文を伝え、ようやく今日観た映画について話を始めた。

僕はよい芸術作品に出会うと、決まって元気がなくなる。例えば、村上春樹の本を読んだあとなどがその典型で、お腹の中に鉛を含んだような感じが一週間ほど続き、徐々にすこしづつその鉛が溶けていく。僕は、この元気のなくなる感じを味わいたくて、良質な芸術作品を探しているといっても過言ではない。

映画「この世界の片隅に」は、敬愛する映画評論家、町山智浩を、2016年世界で一番よかったと言わしめ、僕の大好きなアーティスト、高橋幸宏、こだま和文が、わざわざ映画館に足を運んで観たということで、僕も観ないわけにはいかなかった。

この映画は、所謂「戦争映画」である。しかし、「戦争映画」といっても、例えば「地獄の黙示録」に代表されるような、兵士を描いた「戦争映画」とは全然違う。この映画は、19才の普通のどちらかというと、かなり鈍くさい女の子の眼を通して描かれた戦争だ。主人公の女の子を中心とした呉市を舞台にした、ごく普通の生活、結婚、義姉の意地悪などが、テンポよく描かれる。「世界」で戦争が始まっていようが、市井の人たちは、モンペを補修したり、料理を作ったり、井戸に水を汲みにいったりと、毎日の日常生活の方が重要で、戦争に日本が勝とうが負けようが、それほどリアリティはなかったのではないだろうか。しかし、戦争という理不尽な暴力は、どこまでも非情だった。そんな、ごく普通の人たちにも容赦なく襲い掛かってくる。主人公の女の子にとっての戦争とは、広島に落とされた原爆でもなく、8月15日にラジオから流れた玉音放送でもなく、失った右腕そのものが、戦争すべてだった。戦争は、決して一般化されることなどできるはずもなく、100人いれば100個の戦争が存在するのである。

そして、この映画のもう一つの大きな特徴は、製作費の一部をクラウドファンディングという手法を用いて資金を捻出したことにある。広告代理店、TV局など既存のメデイァからの資金を断ち切り、作家性を全面に押し出すこの手法は、今後、映画製作方法の転換に大きく寄与することになるだろう。さらに、うれしいことに、この映画は、口コミで、評判が広がり、じわじわと興行収入を伸ばしたうえ、2016年度キネマ旬報ベスト・テン第一位を、アニメ作品として28年ぶりに獲得した。僕たちは、もう、広告代理店やTV局など既存のメディアがいいと思っているものを、評価していない。むしろ、クラウドファンディングに参加した人たちの知性に敬意を表する。

安倍首相は、年初のTVのインタビューで、お正月休みの過ごし方について質問を受け、映画「海賊と呼ばれた男」を観て感銘を受けたと答えていた。「海賊と呼ばれた男」に対して、僕は何の恨みもないが、少なくとも、今、安倍首相が観ないといけないのは、この作品ではないだろうか?

自分の嗜好が偏っていることに、僕は、自覚的なつもりでいるので、自分の好きなものを、あまり人に勧めたりしないのだが、この映画は、ぜひ、一人でも多くの人に観てもらいたい。本当に、そう思う。

「暮らしの中でぼくが考えること」 菱田伊駒

「暮らしの中でぼくが考えること」菱田伊駒

 ぼくは書くことが苦手だと思う。原稿を前にするとことばが出てこない。しかし、書く手前でぐるぐる回るのにも疲れた。今回は自分で書いた文章を読むことから始めてみる。

*************

「ある内面」

 文章を書くことは好きではない。自分と向き合わなければいけないから。自分と向き合う以前に、自分の姿を否応なしに、見せつけられることになるから。録音した自分の声。動画に映った自分の姿。人に見られると思うと恥ずかしい。最も最悪な状況は、死んだ後の姿を誰かに見られること。できれば死ぬと同時に、意識と共に消えてほしい。

 学校の作文を書くときの感覚を思い出す。このように書けば褒められる、ではいけない。「このように書けば褒められる」と分かったつもりで文章を書くような人間ではありませんよ、と示す。僕は、分かってる人間なんですよ、と示してやる。こいつ違うな、と思ってもらえればしめたもの。文章を書いては、学年通信に掲載される。学年集会で前に出て発言する。パフォーマンス。人のための文章、人のための発言。

 だから、バンドのボーカルに「歌詞を書いて」と言われた時に書けなかった。歌詞は外を向いては書けない。内を向かなければ書けない。ボーカルの彼が書いた歌詞に、付け焼刃のような知識であれこれと文句をつけた。彼の顔色を窺いながら。顔色を窺っていることを、悟られることが一番怖かった。批判も称賛も、遠慮なく述べているよう振舞った。「他の人は気を遣うかもしれない。でも、俺はしないよ」そのような自己像を演出したかったのだろう。中学から高校にかけての話。

 大学生になって、ジャズ研に入った。ジャズにはアドリブがある。歌詞や作曲とは違ってハードルが低い。しかし、創作であることには、違いない。セッションにもよく通った。自分はクリエイティブな行為に関わっている。そんな喜びが、あったのかもしれない。

 ある時、高校時代のバンド仲間と一緒にライブをする機会を持った。ライブに向けた練習中、仲間のギタリストと2人になった。そこで彼は、自己表現ができない、と話してくれた。僕は得意気に、セッションの経験を話した。表現すべき自己がない、と思うのであればジャズをすればいい。とりあえずアドリブを演奏してみればいい。それも立派な自己表現だ、と。そしてセッションを持ちかけた。

 酷なことをした。(当然ながら)大したセッションではなかった。自分の思いを吐露してくれた友人を、無理やり、自分の土俵に持ち込み傷つけようとした。傷つけることで、自分の優位を保った。ぼくはサークル内では全く実力がなく、存在感がなかった。そのような環境で傷ついた自尊心を、回復したかったのだろう。

 創ることは、難しい。曲でも、歌詞でも、絵でも、何であれ。人間関係も、そう。「これが私の作品です」、と世に向かって差し出すことは、本当に勇気のいる行為だ。作品には、その人の実力、意図がそのまま現れる。隠せない。言い訳できない。逃げられない。誠実な評価だけでなく、悪意ある評価に晒されることもある。

 それでも、言わずにはおれない、書かずにはおれない、と切実に感じている人がいる。そうした人が、創る。しかし、切実さだけでは足りない。加えて、自尊心が必要になる。どのような周囲の反応があっても、それはそれとして区別するための自信がいる。

 自信がない人は、創ることができない。しかし、不全感は残る。不全を解消したい。そして、壊す。壊すことは、創ることの何倍も簡単。大きな違いは、壊した人の実力、意図は隠されていること。なぜ壊したのか、壊された側はわからない。壊すことで、その人の不全や、実力や、意図は覆い隠せる。優位に立てる。

 壊すことは、簡単だ。中毒性も高い。だから、一度壊すことを覚えた人は、次々と壊す。周囲を壊し続けられる人はいい。中途半端な良心を持っていると大変だ。周囲に迷惑をかけたくない。でも、不全は解決したい。ジレンマから逃れたい。だから、壊す対象として、自分を選ぶ。自分の心、体は自分だけのものではない、それを忘れて。

 中毒。何かに依存してしまうと、抜け出すことは難しい。煙草やアルコールのようなもの。依存心は、自分の気持ちのありようだから、気持ちを変えてやればよい。そう考える人がいる。脳的な人。気持ちを、脳が支配していると考える人。しかし、これは誤りだ。私の心のありようは、私が支配しているわけではない。制御不可能なもの。

 病は気から、とは上手い言い方だと思う。まさに、「気」、こそが、制御下にないのだから。気が上向きになれば、快方に向かう。下向きになれば、回復が遅れる。しかし、病に冒されている状態で、気が上向きになることは稀だろう。だから、ふとしたきっかけで気が上向きにさえなれば、回復に向かっていると考えてよい。そういうことだろう。

 ぼくは、創る人間になりたいと思って、この文章を書いた。この文章には「こうありたい」、「このように他人に思われたい」、と思うぼくの感情が、入り混じっている。読み直していて気づき、削除した文章も多い。気づいても、どうにもできず、そのまま残した文章もある。そして何より、今の自分では気づくことができない感情が、残っている。それが、知りたい。

***************

 

 この文章は半年前、熱中していた作家の高石宏輔さんの文章をトレースしながら、ぼくのエピソードを上乗せしたに過ぎないものだ。だから、自分でゼロから書き起こした感覚はなく、模倣だ。エピソードも正確ではない。にも関わらず自分のこれまで書いた文章の中で、読み直すならこれだと思った。どうしてだろう。これまで書いてきた文章が少ないことも理由だろうが、それ以上に「ちゃんと書けた」と思う体験だったからだ。それまでにはない体験だった。どうしても書こうとすると、普段の生活からどんどん遠ざかっていってしまう。書きたい対象から、違う方向に向かっていってしまう。暮らしの中で感動した、悲しい、嬉しい、そういう瞬間の生の充実感ともいえる輝きが書くことを通じて色あせていく。もっと悪い場合は、書く行為でその輝きに泥を上塗りして、汚してしまう。そんなことをするくらいなら、書かなければいいのだ。

 何が違ったのだろう。それは、書くことと生きることが重なっているか否かではないか。いや、少し違う。書く、がほとんど意識されず、書く=考える、の状態。考えることがそのまま書くことにつながっていたから、そして考えることがそのまま生きることにつながっていたから、印象に残る体験ができたのだと思う。書くことについて考えずにキーボードを叩けていた。ぼくが考えたいのは書くことではなかった。考えることと、生きることの関係が知りたい。

 考えることと生きることを重ねたい、考えるように生きたい、生きるように考えたい。ずっと前からそう思っていた。今はまだ、一つしか方法を知らない。生きるを考える、考えるを生きる。両者をひたすら往復するのだ。大抵、生きるを考える、で終わってしまう。自分の中にこれまで眠っていた感情を発見する、或いは経験を内省するうちに、新しい意味を見出す。そして満足する。一方通行。しかし、往復すると新しい経験が用意されている。ふと立ち止まって考えてみる。考えているうちに、それまで思いつかなかった考えに出会う。その新しい考えを飲み込むと、それまでと違った日常が現れる。自分が自分らしくなる。自分が自分でなくなってゆく。不思議な感覚。

 

 生きると考えるの往復について考えるとき、二人の友人が頭に浮かぶ。

 一人は、ある友人の話。共に社会に対する問題意識を共有し、語り合った「同志」であった。

でもその人は、やりたいことを実現するには金がいると言って、そのためにやりたくもない仕事をしている。まさに学生時代に彼が疑問を感じていたビジネスによって。その姿は、学生時代に共に疑問を投げかけていた対象とそのまま重なる。社会の、どこの誰かも分からない人間が用意した物語を、彼は自分の人生として生きているように見える。その人の生きるには、もっとたくさんの輝きが眠っているようにぼくには見えるのに。

 もう一人は、ある先輩。とても仕事ができる人で、これがクリエイティブであることなんだと教えてくれた人だった。でも、その人はいつも自己評価が最低だった。「私はダメなやつなんだ」いう考えが根っこでその人を縛っているように見えた。自ら進んで囚われにいっているように見えた。ぼくがどのような声をかけたところで、届かなかった。ぼくが尊敬するまさにその人によって、そのリスペクトは間違いだと言われたような気になった。それは、自分に厳しい、ストイックだ、そういった類ではなかった。ぼくはこう思う。その人は、あるとき自分の生きるを考えた(それは無意識にだったかもしれない)。考えた結果、導き出されたのは「私はダメなやつなんだ」という考えだった。考え、生き方の思想、その人の物語。そしてそれは強固なものとして、生きられた。なぞればなぞるほど、強化された物語は生きると考えるの往復を許さず、固まってしまったのではないか、と。

 もちろん、二人の姿は、勝手に解釈したものだ。本当のところはわからない。だから、描き出した二人の像を通じて、ぼくは、ぼくの考えを言っているだけだと思ってもらっても構わない(それくらい、二人について語る言葉を、ぼくは信用していない。信用できない)。けれども、そのように見えてしまうのだ、感じてしまうのだ。だから、続けさせてもらう。

 二人のことを思うと、生きると考えるの往復は、一往復目がいかに難しいか、一往復できたからといって二往復目も最初と同じくらい、もしくは最初の一歩以上に難しいのだと思い知らされる。そしてその難しさはそのままぼくにも当てはまる。だからこそ、二人に対して投げかけたい言葉を自分にも向けなければいけない。「本当に?」と。本当にその考えはぼくの人生と重なっているのか?本当にその考えはぼくの人生から出てきたものか?と。その問いかけからしか始まらないし、引き返すこともできない。少しずれた新しい道を拓くこともできない。

 

 「本当に?」こう問うことは何を意味するのだろう。それは、自分に向けた疑いの声である、ずっとそう思っていた。自身に向けた批判的思考だと。だから、「本当に?」とぼくに向かって語りかけるその声は、いつも厳しい口調で、早口だった。しかし、それは違うと思うようになった。疑いや、批判ではない。むしろそれは、願いに近い。自分自身に未だ秘められた可能性、より洞察の深い思想、魅力的な物語。その存在の可能性があってほしい、知りたい、表現したい、そう願う気持ちである。可能性の端緒を見つけるためにぼくたちができる唯一の方法が、問うことなのだ。問う相手が他人であっても、自分であっても、「知りたい」と思う気持ちが原動力になる。今、どのような状況にいるのか、その状況をどのように認識しているのか、どう感じているのか、辛いのか、悲しいのか。だからそれは、優しく、穏やかに、しかし切実さをもって語られるはずなのだ。

 今の自分の人生は下り坂で、いいことはなにもない。世界で自分は一番不幸せだ。どうして俺だけが。「本当に?」世の中こんなもんだ、生きる意味なんてない、死んだほうがいいんだ。「本当に?」問いかけたからといって、一発逆転なんてことはそうない。でも、少し意味がずれてゆく。虚しさの中に一点の希望が灯るかもしれない。もちろん、その逆もあるだろう。明るいと思っていたものに影が差し込む、楽しいと思っていたものに虚しさが生まれる。

 ぼくにできることは、問い続けることだけだ。問いかけによって新しく生まれた何かを待つ、僕に向けて送られた響きを聞き取る。また問いかける。絶えず繰り返す。生きることを、もっと深く生きたい。考えることを、もっと深く考えたい。そう、思う。

「Fantôme」(井上英作 2017年1月7日)

Fantôme。フランス語で「幻」、「気配」などを意味する。宇多田ヒカルの8年振りの新作のアルバムタイトルだ。

宇多田ヒカルの曲を最初に聞いたのは、1999年の冬、言わずと知れた名曲「Automatic」だった。その頃、僕は当時としては若くして管理職になり、管理職の難しさに悶々としていたころで、この曲のことは、今でもはっきりと覚えている。宇多田ヒカルの偉大さを挙げればきりがないが、僕が、最初に驚いたのは、その言葉の使い方だった。「Automatic」の出だし部分、「七回目のベルで」を「な なかいめのベ ルで」というようにことばを分解し、その意味を取っ払ってしまったのである。それ以前に、桑田佳祐が、繋がりのない言葉を繋げる手法(勝手にシンドバッドなど)により文章を解体しことはあったものの、宇多田ヒカルは、それ以前のことばの持つ意味そのものをなくしてしまった。しかも、15才という若さで。僕は、凄い人が出てきたなと、妙に感心してしまった。

そして、昨年、宇多田ヒカルは、8年ぶりに新作「Fantôme」を発表する。音楽の趣味が、とても偏っていることに自覚的な僕は、もちろん、そんなことなど知る由もないが、昨年末のTV番組「SONGS」で、このアルバムのことを知る。TV画面の向こう側で、歌を歌う宇多田は、歌詞を発するのをためらいながら、それでも、一言一言をとても大事にして、丁寧に歌っているように見えた。そこには、ことばを解体し続けた宇多田はいなかった。その番組を観て以来、年末から年始にかけて、僕たち夫婦の話題は、専ら、宇多田ヒカルのことばかりになってしまった。年越しそばをすすりながら、旧友と焼き鳥を食べながら、録画した「SONGS」を酒を飲みながら何度も見て、僕たちは、宇多田ヒカルの話ばかりをして休日を過ごした。

中でも秀逸な作品が、このアルバムの代表曲「道」である。この曲は、宇多田本人も言っているように、亡くなった母・藤圭子に捧げたものである。宇多田は、「始まりはあなただった」ということを認めた上で、サビの部分では、「lonley」と「not alone」を執拗に繰り返す。さらに、「目に見えるものだけを信じてはいけないよ」と言ったうえで、「あなたの声が聞こえる」と言い放ってみせる。言うまでもなく、この曲は、死者のことを歌った曲である。

中島らもの名著「頭の中がかゆいんだ」の中で、「「生」の反対語は「死」ではなく、「生きていない」ではないのか。「生」に対し、「死」という概念を持ち込んだために話が面倒くさくなった。」というくだりがあるが、僕もまったくそのとおりだと思う。宇多田は、この8年間の間に、、母を失い、子供を産んだ。そんな宇多田にとって、「生」と「死」は対立するものではなく等価なもので、また、不在となってしまった母(=死者)を身近に感じることで、初めて「生」を実感したのではないだろうか、僕は、そんなふうに考える。だから、宇多田には母はすでにそこにはいないから「lonley」だけど、死者の「気配」がいつもそこにあるから「not alone」なのである。母は、「気配」として、彼女にずっとつきまとうのだ。「死ぬのはいつも他人ばかり」と、寺山修司はデュシャンのこのことばをよく引用したが、宇多田にとって母は、死んでいなかったのである。

 

僕もこの年になり、身近に死を体験してきたからこそ、こういうように考えることができるようになったわけだが、宇多田ヒカルは、30代にして、このことに気づき、そして、そのことを自分のことばで表現している。

宇多田ヒカルは、「かっこいい」。