「この世界の片隅に」(井上英作 2017年1月11日)

僕は、今日元気がない。今日、テアトル梅田で、奥さんと映画「この世界の片隅に」を観たからだ。映画が終わり、僕はことばを失った。ことばが見つからなった。僕たちは、20分ほど、お互いに押し黙ったまま、地下鉄「梅田」駅へと向かった。お腹が空いたので、阪急三番街のうどん屋に入り、店員に注文を伝え、ようやく今日観た映画について話を始めた。

僕はよい芸術作品に出会うと、決まって元気がなくなる。例えば、村上春樹の本を読んだあとなどがその典型で、お腹の中に鉛を含んだような感じが一週間ほど続き、徐々にすこしづつその鉛が溶けていく。僕は、この元気のなくなる感じを味わいたくて、良質な芸術作品を探しているといっても過言ではない。

映画「この世界の片隅に」は、敬愛する映画評論家、町山智浩を、2016年世界で一番よかったと言わしめ、僕の大好きなアーティスト、高橋幸宏、こだま和文が、わざわざ映画館に足を運んで観たということで、僕も観ないわけにはいかなかった。

この映画は、所謂「戦争映画」である。しかし、「戦争映画」といっても、例えば「地獄の黙示録」に代表されるような、兵士を描いた「戦争映画」とは全然違う。この映画は、19才の普通のどちらかというと、かなり鈍くさい女の子の眼を通して描かれた戦争だ。主人公の女の子を中心とした呉市を舞台にした、ごく普通の生活、結婚、義姉の意地悪などが、テンポよく描かれる。「世界」で戦争が始まっていようが、市井の人たちは、モンペを補修したり、料理を作ったり、井戸に水を汲みにいったりと、毎日の日常生活の方が重要で、戦争に日本が勝とうが負けようが、それほどリアリティはなかったのではないだろうか。しかし、戦争という理不尽な暴力は、どこまでも非情だった。そんな、ごく普通の人たちにも容赦なく襲い掛かってくる。主人公の女の子にとっての戦争とは、広島に落とされた原爆でもなく、8月15日にラジオから流れた玉音放送でもなく、失った右腕そのものが、戦争すべてだった。戦争は、決して一般化されることなどできるはずもなく、100人いれば100個の戦争が存在するのである。

そして、この映画のもう一つの大きな特徴は、製作費の一部をクラウドファンディングという手法を用いて資金を捻出したことにある。広告代理店、TV局など既存のメデイァからの資金を断ち切り、作家性を全面に押し出すこの手法は、今後、映画製作方法の転換に大きく寄与することになるだろう。さらに、うれしいことに、この映画は、口コミで、評判が広がり、じわじわと興行収入を伸ばしたうえ、2016年度キネマ旬報ベスト・テン第一位を、アニメ作品として28年ぶりに獲得した。僕たちは、もう、広告代理店やTV局など既存のメディアがいいと思っているものを、評価していない。むしろ、クラウドファンディングに参加した人たちの知性に敬意を表する。

安倍首相は、年初のTVのインタビューで、お正月休みの過ごし方について質問を受け、映画「海賊と呼ばれた男」を観て感銘を受けたと答えていた。「海賊と呼ばれた男」に対して、僕は何の恨みもないが、少なくとも、今、安倍首相が観ないといけないのは、この作品ではないだろうか?

自分の嗜好が偏っていることに、僕は、自覚的なつもりでいるので、自分の好きなものを、あまり人に勧めたりしないのだが、この映画は、ぜひ、一人でも多くの人に観てもらいたい。本当に、そう思う。