「暮らしの中でぼくが考えること」 菱田伊駒

「暮らしの中でぼくが考えること」菱田伊駒

 ぼくは書くことが苦手だと思う。原稿を前にするとことばが出てこない。しかし、書く手前でぐるぐる回るのにも疲れた。今回は自分で書いた文章を読むことから始めてみる。

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「ある内面」

 文章を書くことは好きではない。自分と向き合わなければいけないから。自分と向き合う以前に、自分の姿を否応なしに、見せつけられることになるから。録音した自分の声。動画に映った自分の姿。人に見られると思うと恥ずかしい。最も最悪な状況は、死んだ後の姿を誰かに見られること。できれば死ぬと同時に、意識と共に消えてほしい。

 学校の作文を書くときの感覚を思い出す。このように書けば褒められる、ではいけない。「このように書けば褒められる」と分かったつもりで文章を書くような人間ではありませんよ、と示す。僕は、分かってる人間なんですよ、と示してやる。こいつ違うな、と思ってもらえればしめたもの。文章を書いては、学年通信に掲載される。学年集会で前に出て発言する。パフォーマンス。人のための文章、人のための発言。

 だから、バンドのボーカルに「歌詞を書いて」と言われた時に書けなかった。歌詞は外を向いては書けない。内を向かなければ書けない。ボーカルの彼が書いた歌詞に、付け焼刃のような知識であれこれと文句をつけた。彼の顔色を窺いながら。顔色を窺っていることを、悟られることが一番怖かった。批判も称賛も、遠慮なく述べているよう振舞った。「他の人は気を遣うかもしれない。でも、俺はしないよ」そのような自己像を演出したかったのだろう。中学から高校にかけての話。

 大学生になって、ジャズ研に入った。ジャズにはアドリブがある。歌詞や作曲とは違ってハードルが低い。しかし、創作であることには、違いない。セッションにもよく通った。自分はクリエイティブな行為に関わっている。そんな喜びが、あったのかもしれない。

 ある時、高校時代のバンド仲間と一緒にライブをする機会を持った。ライブに向けた練習中、仲間のギタリストと2人になった。そこで彼は、自己表現ができない、と話してくれた。僕は得意気に、セッションの経験を話した。表現すべき自己がない、と思うのであればジャズをすればいい。とりあえずアドリブを演奏してみればいい。それも立派な自己表現だ、と。そしてセッションを持ちかけた。

 酷なことをした。(当然ながら)大したセッションではなかった。自分の思いを吐露してくれた友人を、無理やり、自分の土俵に持ち込み傷つけようとした。傷つけることで、自分の優位を保った。ぼくはサークル内では全く実力がなく、存在感がなかった。そのような環境で傷ついた自尊心を、回復したかったのだろう。

 創ることは、難しい。曲でも、歌詞でも、絵でも、何であれ。人間関係も、そう。「これが私の作品です」、と世に向かって差し出すことは、本当に勇気のいる行為だ。作品には、その人の実力、意図がそのまま現れる。隠せない。言い訳できない。逃げられない。誠実な評価だけでなく、悪意ある評価に晒されることもある。

 それでも、言わずにはおれない、書かずにはおれない、と切実に感じている人がいる。そうした人が、創る。しかし、切実さだけでは足りない。加えて、自尊心が必要になる。どのような周囲の反応があっても、それはそれとして区別するための自信がいる。

 自信がない人は、創ることができない。しかし、不全感は残る。不全を解消したい。そして、壊す。壊すことは、創ることの何倍も簡単。大きな違いは、壊した人の実力、意図は隠されていること。なぜ壊したのか、壊された側はわからない。壊すことで、その人の不全や、実力や、意図は覆い隠せる。優位に立てる。

 壊すことは、簡単だ。中毒性も高い。だから、一度壊すことを覚えた人は、次々と壊す。周囲を壊し続けられる人はいい。中途半端な良心を持っていると大変だ。周囲に迷惑をかけたくない。でも、不全は解決したい。ジレンマから逃れたい。だから、壊す対象として、自分を選ぶ。自分の心、体は自分だけのものではない、それを忘れて。

 中毒。何かに依存してしまうと、抜け出すことは難しい。煙草やアルコールのようなもの。依存心は、自分の気持ちのありようだから、気持ちを変えてやればよい。そう考える人がいる。脳的な人。気持ちを、脳が支配していると考える人。しかし、これは誤りだ。私の心のありようは、私が支配しているわけではない。制御不可能なもの。

 病は気から、とは上手い言い方だと思う。まさに、「気」、こそが、制御下にないのだから。気が上向きになれば、快方に向かう。下向きになれば、回復が遅れる。しかし、病に冒されている状態で、気が上向きになることは稀だろう。だから、ふとしたきっかけで気が上向きにさえなれば、回復に向かっていると考えてよい。そういうことだろう。

 ぼくは、創る人間になりたいと思って、この文章を書いた。この文章には「こうありたい」、「このように他人に思われたい」、と思うぼくの感情が、入り混じっている。読み直していて気づき、削除した文章も多い。気づいても、どうにもできず、そのまま残した文章もある。そして何より、今の自分では気づくことができない感情が、残っている。それが、知りたい。

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 この文章は半年前、熱中していた作家の高石宏輔さんの文章をトレースしながら、ぼくのエピソードを上乗せしたに過ぎないものだ。だから、自分でゼロから書き起こした感覚はなく、模倣だ。エピソードも正確ではない。にも関わらず自分のこれまで書いた文章の中で、読み直すならこれだと思った。どうしてだろう。これまで書いてきた文章が少ないことも理由だろうが、それ以上に「ちゃんと書けた」と思う体験だったからだ。それまでにはない体験だった。どうしても書こうとすると、普段の生活からどんどん遠ざかっていってしまう。書きたい対象から、違う方向に向かっていってしまう。暮らしの中で感動した、悲しい、嬉しい、そういう瞬間の生の充実感ともいえる輝きが書くことを通じて色あせていく。もっと悪い場合は、書く行為でその輝きに泥を上塗りして、汚してしまう。そんなことをするくらいなら、書かなければいいのだ。

 何が違ったのだろう。それは、書くことと生きることが重なっているか否かではないか。いや、少し違う。書く、がほとんど意識されず、書く=考える、の状態。考えることがそのまま書くことにつながっていたから、そして考えることがそのまま生きることにつながっていたから、印象に残る体験ができたのだと思う。書くことについて考えずにキーボードを叩けていた。ぼくが考えたいのは書くことではなかった。考えることと、生きることの関係が知りたい。

 考えることと生きることを重ねたい、考えるように生きたい、生きるように考えたい。ずっと前からそう思っていた。今はまだ、一つしか方法を知らない。生きるを考える、考えるを生きる。両者をひたすら往復するのだ。大抵、生きるを考える、で終わってしまう。自分の中にこれまで眠っていた感情を発見する、或いは経験を内省するうちに、新しい意味を見出す。そして満足する。一方通行。しかし、往復すると新しい経験が用意されている。ふと立ち止まって考えてみる。考えているうちに、それまで思いつかなかった考えに出会う。その新しい考えを飲み込むと、それまでと違った日常が現れる。自分が自分らしくなる。自分が自分でなくなってゆく。不思議な感覚。

 

 生きると考えるの往復について考えるとき、二人の友人が頭に浮かぶ。

 一人は、ある友人の話。共に社会に対する問題意識を共有し、語り合った「同志」であった。

でもその人は、やりたいことを実現するには金がいると言って、そのためにやりたくもない仕事をしている。まさに学生時代に彼が疑問を感じていたビジネスによって。その姿は、学生時代に共に疑問を投げかけていた対象とそのまま重なる。社会の、どこの誰かも分からない人間が用意した物語を、彼は自分の人生として生きているように見える。その人の生きるには、もっとたくさんの輝きが眠っているようにぼくには見えるのに。

 もう一人は、ある先輩。とても仕事ができる人で、これがクリエイティブであることなんだと教えてくれた人だった。でも、その人はいつも自己評価が最低だった。「私はダメなやつなんだ」いう考えが根っこでその人を縛っているように見えた。自ら進んで囚われにいっているように見えた。ぼくがどのような声をかけたところで、届かなかった。ぼくが尊敬するまさにその人によって、そのリスペクトは間違いだと言われたような気になった。それは、自分に厳しい、ストイックだ、そういった類ではなかった。ぼくはこう思う。その人は、あるとき自分の生きるを考えた(それは無意識にだったかもしれない)。考えた結果、導き出されたのは「私はダメなやつなんだ」という考えだった。考え、生き方の思想、その人の物語。そしてそれは強固なものとして、生きられた。なぞればなぞるほど、強化された物語は生きると考えるの往復を許さず、固まってしまったのではないか、と。

 もちろん、二人の姿は、勝手に解釈したものだ。本当のところはわからない。だから、描き出した二人の像を通じて、ぼくは、ぼくの考えを言っているだけだと思ってもらっても構わない(それくらい、二人について語る言葉を、ぼくは信用していない。信用できない)。けれども、そのように見えてしまうのだ、感じてしまうのだ。だから、続けさせてもらう。

 二人のことを思うと、生きると考えるの往復は、一往復目がいかに難しいか、一往復できたからといって二往復目も最初と同じくらい、もしくは最初の一歩以上に難しいのだと思い知らされる。そしてその難しさはそのままぼくにも当てはまる。だからこそ、二人に対して投げかけたい言葉を自分にも向けなければいけない。「本当に?」と。本当にその考えはぼくの人生と重なっているのか?本当にその考えはぼくの人生から出てきたものか?と。その問いかけからしか始まらないし、引き返すこともできない。少しずれた新しい道を拓くこともできない。

 

 「本当に?」こう問うことは何を意味するのだろう。それは、自分に向けた疑いの声である、ずっとそう思っていた。自身に向けた批判的思考だと。だから、「本当に?」とぼくに向かって語りかけるその声は、いつも厳しい口調で、早口だった。しかし、それは違うと思うようになった。疑いや、批判ではない。むしろそれは、願いに近い。自分自身に未だ秘められた可能性、より洞察の深い思想、魅力的な物語。その存在の可能性があってほしい、知りたい、表現したい、そう願う気持ちである。可能性の端緒を見つけるためにぼくたちができる唯一の方法が、問うことなのだ。問う相手が他人であっても、自分であっても、「知りたい」と思う気持ちが原動力になる。今、どのような状況にいるのか、その状況をどのように認識しているのか、どう感じているのか、辛いのか、悲しいのか。だからそれは、優しく、穏やかに、しかし切実さをもって語られるはずなのだ。

 今の自分の人生は下り坂で、いいことはなにもない。世界で自分は一番不幸せだ。どうして俺だけが。「本当に?」世の中こんなもんだ、生きる意味なんてない、死んだほうがいいんだ。「本当に?」問いかけたからといって、一発逆転なんてことはそうない。でも、少し意味がずれてゆく。虚しさの中に一点の希望が灯るかもしれない。もちろん、その逆もあるだろう。明るいと思っていたものに影が差し込む、楽しいと思っていたものに虚しさが生まれる。

 ぼくにできることは、問い続けることだけだ。問いかけによって新しく生まれた何かを待つ、僕に向けて送られた響きを聞き取る。また問いかける。絶えず繰り返す。生きることを、もっと深く生きたい。考えることを、もっと深く考えたい。そう、思う。