「石橋キャンパス研究会立ち上げにあたっての覚書」 菱田伊駒

「石橋キャンパス研究会立ち上げにあたっての覚書」   菱田伊駒

 ここで書かないと次に進めない、というときがある。書く、でなくてもいいかもしれない。とにかく、自分の外に出して、人に眺めてもらえる形にすること。声に出す人、絵にする人、メロディにする人。色々な形があると思う。そういう時は不思議なことに、他人にどう思われるとか、そういうことが気にならなくなる。やけくそとも少し違う。どちらかというと、「しょうがない」という諦めの感情に近い。ぼくはこう感じていて、こんなことを考えていて、言葉にしてみるとこのようにしか表現できない。そういう形で外に出しているので、それについて色々と言われても仕方ないし、甘んじて受け入れよう。

そういう時、他人の目は気にならなくなる一方、他人自身ことが気になる。「自分がどう思われているか」から「あなたはどう思うか」に変わる。あなたにぼくの考えは伝わっているのか、それで少しでも感情は動いたのか。その変化はあなたにとってどんな意味をもつのか。聞かせてほしいと思う。

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「石橋キャンパス研究会」を始めようと思った動機は何だろうか。地域活性化とか、商店街とか、そういうのはどうでもいいのだと思う。どうでもいいというか、偶然の要素に過ぎない気がする。世界線が違えば舞台は都市だったり、農村だったりしたのだと思う。これらの要素は歴史の偶然なんだろう。もちろん、ぼく自身も偶然の産物ではある。「ぼく」というのもはっきりと分からない。ただ、「ぼく」として指し示される意識が「ぼく」だったとすると、どんな時代のどんな場所に「ぼく」が生まれたとしても、これから始める活動とそんなに変わらないことをするのだと思う。そういう幻想を持てるのは不思議だ。
世の中には、出会ったことのない人がたくさんいて、その人たちの、聞いたこともない、見たこともない考えが山のようにある。その痕跡を、本や、映像から少しだけ覗き見ることができる。そういうものにもっともっと出会っていきたい。そういうことなのだと思う。そして、もう1つ大切なのが、それを誰かと共にすること。随分な寂しがり屋だなぁと思う。でも、嘘やごまかしを抜きにして、その人自身と意見を交わし、互いの時間を編み上げてみたい気持ちがある。

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 商店街にどっぷり浸かっていると、人間関係がどうしようもなくつながっていると感じる。何かをしようと思った時、すでに出来上がった網目の上を動くしかないような。誰に協力を仰いで、どういう手順で物事を進めていくかが決まっているのだ。でも、本当にそうだろうか。今、ぼくはむしろそういう関係を断ち切りたいと思うようになっている。断ち切りたい、そう言うととても冷たく映るかもしれない。ただ、それは馴れ合いが嫌いだというだけ。関係を持ちたくないわけではない。むしろ、気になっている。気になっていなければこんな文章は書かない。関係を持つため、人間関係を接続するために、切断する。そういう逆説的なことがあると思う。もう一度出会い直したいからこそ別れる。別れるからこそもう一度感情を交わしたいと思う。だから、冷たいという評価は全くの間違いで、どうしようもなく湿っぽいのである。

人と人のつながりが絶えて久しいと言われる。人と人が出会う場が必要だと言われる。それは確かにそうだ。見知らぬ者同士が出会い、言葉を交わし、互いに刺激を受ける。そういう場所は必要だと思う。しかし、見知った者同士が、互いの関係を見直せるような場も必要だと思う。見知らぬ者同士が見知った仲になれる場、見知った者同士が、見知らぬ仲になる場。 

相手が見知った相手でも、それが子ども相手であってもはっとさせられる瞬間がある。最近のこども哲学カフェの一幕。小学生高学年の男の子。
「みんな、本当は多重人格やと思うねん。表に出てるのは冷静なやつやけど、その後ろには怒ってる人とか、悲しんでる人とか、面白い人とか、そういうのが色々おって、表に出てきたり出てこなかったりするねん。」
「相手が怒ってたら、それに反応して俺の中の怒ってるやつが冷静なやつをつぶしちゃうねん。その時は、表が入れ替わるっていうより冷静なやつが怒ってるやつにつぶされちゃう感じ。」
「でも、冷静なやつも、面白いやつも、何も表に出てないやつもおる。そういうやつは何もなくて、無っていうか、無関心な感じ。」
「長いこと付き合ってると、その分感情の量みたいのがたくさんたまってくるから。嫌なことがある分、いい感情の量も多いから、それでまぁいいや、みたいに思えたりするねん。」
普段は一緒に騒ぐだけの仲でも、ふっと違う子の顔をしている。そういう時、あぁ自分はこの子のことを何も知らないのだ、と思う。どんな経験をして、何を感じてきたのか。聞いたところでその断片しか見ることができない。

友人や、友人とも呼べないような知人。同僚。なんとなく、「この人はこんな人だ」と思うことはある。それは、ぼくの思い込みにすぎない。わかっているつもりで、そういう仮で貼ったつもりのラベルを、いつの間にか本物だと思い込む。

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 先日、ヴィクトル・シロフスキーの「異化」という考えを教えてもらった。慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法、のことらしい。ここまで、ぼくは他人と自分の関係の切断についてしか書いていない。しかし、ふと気づく。自分自身に対しての切断もあるのではなかろうか?見知った関係を切断し、見知らぬ関係に変えることが重要なように、知っていると思う自己を、突き放すことも大事ではないだろうか?自分が自分でなくなっていける場は、自分が自分らしくいられる場と同じくらい大事ではないだろうか?

どこにいても、何をしていても周囲にあまり馴染めない気持がいつもある。5センチくらい周囲から浮いている感覚。だからとかして地に足をつけようとする。周りと違わないよう、恐る恐る発言する。行動する。それも疲れるので、できればそういうことを気にせずに過ごせる場。それが、居心地の良い場だと思っていた。自分が自然体でいられる場所。自分が自分らしくいられる場所。でも、それでは飽きるのだ。居心地の良さに。自然体の自分に。同じようなメンバーで、同じような話題を、同じような表情で話す。もっと違う表情をそれぞれができるはずで、違う表情を隠しているがそれが表に出る機会がない。考えも変わらない。ただただ、つまらない。

成長とか、そういうことではない。成長は同じ直線状を動いているに過ぎない。それはつまらない。変容が必要なのだ。質そのものが変わってしまうような変化。ポジティブでもネガティブでもかまわない。変容したとき、人の顔が変わる、声の響きが変わる、動きが変わる。変容は、狙って起こりはしない。気づくと変わっている。向こう側からやってくる。だから、大切なのは待つこと。リラックスして待つこと。変化を受け入れる用意をすること。本当の意味で自分らしくいられるということは、同時に、自分が自分でなくなるきっかけなのだと思う。

見知った人間同士が、もう一度「知らない仲」になれるような場。見知った自分が、見知らぬ自分になってゆくような場。「知」を通してそのような変化の往来が活発化するような、そんな場を出会った人たちと共につくっていきたい。
(以上)

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