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「ツイン・ピークス」(井上英作 2017年7月21日)

 バブルが崩壊した直後、このアメリカのドラマが、日本で一世を風靡した。そのドラマの題名が、「ツイン・ピークス」である。今から思えば、海外ドラマブームの先駆けだったかもしれない。

 僕が、このドラマを知ったのは、小泉今日子が、このドラマについて、あちこちでコメントを寄せていたからだと記憶している。当時の小泉今日子は、吉本ばななの本を紹介したり、デビュー間もないスカパラを絶賛したりと、その後の「渋谷系」を先取りするかのような、「イケてる」の象徴的な存在だった。その後、「イケてる」永瀬正敏と結婚したときは、そのあまりにも予定調和的な「物語」に少しうんざりした。そんな二人は、ほどなく離婚するのだが…

 僕のカウンターカルチャーに対する熱意は、1989年、ミュート・ビートの解散、そして、松田優作の死により実質的に終わりを告げた。本当に、急に終わったような気がした。そんな僕にとって、「ツイン・ピークス」の存在は、単なる「ファッション」に過ぎなかった。それから何年か経ち、そうは言っても、「ツイン・ピークス」は、見ておいた方がよさそうだと思い、全部見た。面白かった。面白かったというのは、あまりに凡庸で知性を感じさせない感想だが、とにかく面白かった。食わず嫌いというのは、本当によくない。

 言い忘れたが、「ツイン・ピークス」の監督(実際は、時々だが…)は、あのデビッド・リンチである。デビッド・リンチといえば、現存する映画監督の中で、「変な」映画を作る数少ない一人にして、世界最強といっても過言ではない。決して見てはいけない「イレイザー・ヘッド」、なぜか大ヒットしてしまった「エレファント・マン」、大好きな「マルホランド・ドライブ」など、どの作品も一癖も二癖もあるものばかりだ。

 「ツイン・ピークス」の面白さは、何といっても、この「変な」ところに依拠する。「変な」人たちがたくさん登場し、「変な」ストーリーが展開する。おそらくだが、途中からデビッド・リンチ自身もこの話をどう展開していいか分からなくなってしまったのでは?と思わざるを得ないようなストーリー展開を見せる。大ブレークした朝ドラ「あまちゃん」にも、同じような匂いを感じ取ったが、このドラマは、その比でない。

 そして、ドラマ全編に、散りばめられたたくさんの記号たち。小人、ドーナツ、コーヒー、繰り返されるテーマソング、少女の死体。
 
 当時の文化人たちは、これらの記号たちが意味するものを、必死で解き明かそうと試みた。しかし、どの解説も、僕にとっては、近くて遠いものだった。むしろ、そんなことをあざ笑うかのように、ストーリーは「変な」方へと展開していくのである。

 今から約10年程前、デビッド・リンチの新作(その後、いまだに新作の発表がない。)「インランド・エンパイア」を映画館で観た。副題を「woman in trouble」というこの作品は、その名のとおり、主人公の女優が、ひたすら悩んでいるという、たったそれだけの話だ。しかも、約3時間という長さである。僕は、あまりのおかしさに、その週に二回も映画館に足を運んだ。とりわけ、映画の途中に突如出現する、ウサギ人間のシーンには、もうこれは笑うしかなく、僕は大声をあげて笑ったのだが、映画館で笑っていたのは、僕ひとりだけだった。「みんな、おかしくないのかな?」と、館内を見渡すと、みんな苦渋に満ちた表情で、眉間に皺を寄せながらそのシーンを眺めていた。みんな、そのシーンに「意味」を求めていた。僕は、余計におかしくなってきた。
 
 僕は、子供のころから、「無意味なもの」が大好きだった。まわりの子供たちが、アニメ「巨人の星」を熱く語っているのを尻目に、僕は、アニメ「モーレツア太郎」に登場するキャラクター達に思いを馳せた。子豚だけが子分という「ブタ松親分」、どう見てもタヌキにしか見えないが人間を装う「ココロのボス」、「毛虫+サロンパス」という、作者赤塚不二夫のウルトラC的命名による「ケムンパス」…。かつて佐藤伸治(@フィッシュマンズ)は、名曲「BABY BLUE」の中で、「意味なんかないね、意味なんかない」と言ってのけた。

 およそ表現されたものの中に、「意味」などないのである。むしろ、そのことこそが、「表現」という行為を担保しているのではないだろうか。そこに「意味」を求めてしまうというのは、筋違いというもので、まったく次元の違う話になってしまう。そう、世界は、記号で満たされているのかもしれない。

 「ツイン・ピークス」の最終章は、「25年後にまた会いましょう。」という思わせぶりなセリフで終わる。そして、約25年の年月を経て、今週から「ツイン・ピークス The Return」が始まる。しかも、全18話、すべてデビッド・リンチがメガホンを取るそうだ。あの奇怪な登場人物に再会できるかと思うだけで、年甲斐もなく、すでにワクワクしている。

 

 

 

行ってきます

みなさん、こんにちは。井上です。

毎年7月の1ケ月間、井上はヨーロッパに合気道武者修行に出かけます。
よりまして、今年も7月一杯は井上は不在となりますので、申し訳ありませんが、7月のお稽古は担当者による代稽古、または自主稽古となります。
(なお数か所変更になってますので、再度ご確認ください)

今年は1か月をかけて、イタリア、オランダ、フランス、セルビアを巡ります。
イタリア、フランスでは多田先生の気の錬磨と合気道の稽古、オランダやセルビアでは、マエストロ・ズッコ他、ヨーロッパ各地の合気道家と技を交えて研鑽を積んで参りたいと思います。
日本の武道なのになぜヨーロッパ?と思う方もいるでしょうが、多田先生は1964年にかの地に渡られ、合気道を広めてこられました。ことにイタリアには長くおられ、苦労されてイタリア合気会を立ち上げられたという経緯もあり、50年来の、多田先生を愛してやまない熱心なお弟子さんたちが向こうにはたくさんいらっしゃいます。毎年、行くたびにヨーロッパの合気道家たちの稽古熱心さ、合気道への愛情と造詣の深さに刺激を受けますし、合気道の世界の広さに驚きます。
一か月間、向こうでで得たすべてを持ち帰って、清道館のみなさんに伝え分かち合う、その責任を背に、修行三昧の覚悟で行ってきます。

留守中、みなさんには、また代稽古を担当していただく方々には、多大なご不便とご迷惑をかけ申し訳ありませんが、私が不在でも、合気道を愛する稽古熱心な皆さんは(!)きっと協力しあって稽古を続け、1か月後には互いに大きく成長した姿で再会できると信じています。鬼の居ぬ間に(笑)、和気あいあいと仲良く楽しく稽古してくださることでしょう!

では8月にまた会いましょう。
行ってきます!
井上清恵

石橋だより② ~ズレとズレの間で考える~  菱田伊駒

石橋だより② ~ズレとズレの間で考える~
菱田伊駒

子ども哲学カフェの参加者の親御さんから、「兄妹ケンカが少し減ったように思う」と聞いた。なんとなく、先輩たちの経験談からp4c(こどもの哲学)の影響として話には聞いていたけれど、実際にそう言われると驚いた。
彼ら(兄妹)が参加してくれたp4cは、先日「上手くいかなかった」と振り返った回であり、失敗の一因は1~6年生を混合にしたからだと思っていた。だから、次回からは1~3年、4~6年に分けてプログラムを作り直すつもりだった。その兄妹は兄が4年生で、妹が1年生だった。次に来てくれる機会があったとしても、彼らは別々のプログラムに参加することになる。そうすると、「兄妹ケンカが減る」といったような兄妹の関係の変化は起こらなくなるのではないか?
そもそも、自分では「上手くいかなかった」と振り返ったp4cは、本当に「上手くいっていなかった」のだろうか?あるいは、ぼくが「上手くいった」と思っていたp4cは本当に「上手くいっていた」のだろうか?そうした疑問が浮かび初め、紆余曲折を経て、もう少し今の「学年に関わらず参加可能」の形のままでp4cを続けてみようと考え至った。
以下に紹介する文章は、揺れ動いた考えの記録であり、迷いの中心にあった人との「ズレ」について書いたものです。読んでいただけると幸いです。

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「ズレとズレの間で考える」
以前、自分が行ったp4cを「上手くいかなかった」と振り返った。その原因は、1~6年生までを一緒にしてp4cを行ったからだと考えて、これからはある程度学年を分けようと思っていた。その考えの後ろには、「やはり1年生と6年生では考えていることのレベルが違っている。それぞれの「幼さ」に合わせたクラス設定が必要だ」という思い込みがあった。
その思い込みにはさらに1つの前提がある。「哲学的対話にもスキル的な要素があり、積み上げて身に着けていくものだ。段階的な学習が必要だ」と。確かに、対話が成り立つためにはスキル的な要素は不可欠だ。
しかし、一方で、そういった「スキル的な要素」ばかりが先行する風潮に嫌気がさしているのが自分ではなかったのか?その風潮を批判しながら、結果として自分がやっていることは「積み上げ型」を鵜呑みしているだけではないのか?という疑念がわいてきた。
人と話すときに大切なこと、それは「聴く」ことであり、「聴く」ことは、相手の話題について事前に勉強するとか、相槌のテクニックを学ぶとか、相手の目を見るとか、そういうマニュアル的なこととは一切関係がない。そのような「スキル」とは遠く離れた場所に「聴く」という行為はある。
性別にも、年齢にも、学歴にも、それまで積んできた人生経験とは全く関係がなく「聴く」ことはできるし、反対にどれだけ相手と共通点があったとしてもそれだけで「聴く」ことはできず、単に聴く前の準備体操が少しできているのかできていないかだけの違いでしかない。そんな思いで、大人であっても、子どもであっても向き合おうとしていたつもりで、全くできていなかった。
自分が、いつのまにか聴くことを「身につける、段階的に学習していくテクニック」だと勘違いしてしまっていたことと同時に、もう1つ気づいたことがある。それは、相手とのコミュニケーションのズレ、衝突、そういうものを単にネガティブだと決めつけ、無意識のうちに避けようとしていたことである。
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相手との「ズレ」に関して、ある会話を引用したい。ある日の職場での出来事。
Aさん「子どもが小さいころから哲学をやってるとどうなるんだろうね」
ぼく「そうですね。まだ分からないんですけど、でも、イベントの最中に話がうまくできるようになるとか、そういうことじゃなくて、イベントの外の子どもの生活というか、そういう普段のことが変わっていくと面白いと思いますね」
Aさん「それは壮大なことやねぇ」
(少し時間があく)
Bさん「でも、こどもの性格が変わるなんてちょっとすごいことですね・・・」
ぼく「あ、いや、そうじゃないですよ。『生活』です」
Bさん「あ、『性格』じゃなくて『生活』ですか」
ぼく「それは性格が変わったら面白いですが、そこまで狙ってやると洗脳になっちゃう」
Bさん「いや、そうですよね」

この会話のズレは単純だ。ぼくが発言した「せいか『つ』」が、相手には「せいか『く』」に聞こえていたのだ。音1つの違いでしかないし、聞き間違いはよくあることだ。しかし、この2つの違いが与える印象は大分違う。子どもを預ける親の気持ちになってみれば、「性格を変えられてしまうのか・・・」と不安に思う気持ちが湧くかもしれない。
幸い、この会話では「ズレ」は明らかになり、何がズレているかのギャップも分かったので、簡単に修正することができた。しかし、いつもそうだとは限らないし、こうした場面は気づかないだけで多いのかもしれない。

もう1つ、子ども哲学でのある場面。
小3「ピアノをやってると結構難しいことが多くて、自分より年下の子が、自分ができないことできると悔しいわ」
小1「ピアノ簡単、猫ふんじゃったもすぐ弾けたよ」
小3「それは簡単だから。そんなんじゃない」
小1「でも・・・」
(少し空気がざわつく)
ぼく「まぁ簡単な曲と難しい曲があるから。それで、どうして悔しいって思うの?」

このp4cの時間は、1年、3年、4年、6年、大人と、参加者の年齢も様々で、テーマは「憧れ」、この直前に6年生の女の子が「憧れは、自分ができないことをやっている人に対して持つ感情だと思う」という発言をした。少し、1年生の女の子にとっては難しい話が展開されていて、それでもなんとか話に入ろうと1年生の女の子は頑張っていた。この会話のズレは、少しややこしい。見ていたぼくの推測にすぎない部分も混じっているが、1つずつ考えてみたい。
まず、1年生の女の子の中でのズレ。多分、会話に入りたいという気持ちが先行して、参加したいがために思ってもみない発言を言ってしまったような印象がある。なんとなくだが、こういうことはよくあると思う。一発逆転の発言というか、周りと違うことを思い切ってやってみることによって注目を集める方法。多分、1年生の女の子は、ピアノが簡単だとは思っていないと思うし、猫ふんじゃったを弾けるようになるのにもそれなりの練習をしたと思う。けれど、話の流れとちょっと違った発言をしてやろうと、「ピアノなんて簡単」と言ったのだと思う。口調も少し攻撃的だった。
もう1つ、3年生の女の子とのズレ。なんとなく、ぼくの側では「この子が言いたいのは、『自分も発言したい、聞いてほしい』ということではないかな?」と思った。一方、3年生の女の子は、自分が攻撃されたように感じたのか、強い口調で「それは簡単だ」と発言した。
そして最後のズレ。ぼくの発言だ。いくつかのズレが会話の中で重なっていて、1つ1つがそれぞれの子どもたちの思いによって生み出され、意味のある物だったと思う。それらの思いとは全く別の「難しい曲も簡単な曲もある」というお茶を濁す発言で、もっとも大きなズレを生み出して全体を覆って、煙に巻いたのだった。せっかくの散らばっていた材料を「大人のやり方」で片付けてしまったのだった。
この後、会話は全く別の方向に、それなりに展開していった。けれど、ぼくのなかに「片付けてしまった」という気持ちは残った。それぞれの子どもたちにも、「意図せぬ形で片付けられてしまった」という思いが無意識のうちかもしれないが、もやもやと残ったのではないかと思う。何が正しかったのか、もう終わってしまったことについてのぐるぐるとした思いが今も残っている。

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普段でも、ぼくたちの会話は、どこか「ズレ」ている。そのズレを、時にはどちらかが我慢をして、ごまかして、もしくは共犯になって「ズレ」が目立たないよう覆い隠す方法でやりすごしている。目立たなくなり、隠された「ズレ」は、日の目を見ないままですむ。けれど、「ズレた」という感覚だけは、互いの中に残る。それが、少しずつ積み重なってある日、取り返しのつかない「亀裂」を生んだりする。
大事なのは、「ズレ」を生み出さないようにすることではない。どうしたってすれ違いは起きる。そうではなくて、その不協和音に耳を傾け、観察することだ。それが自分を知り、人を知り、関係性を変化させていく方法になるのだと思う。「ズレた」と思うことは初めの第一歩だ。普段どんなズレをごまかし、なかったことにし、自分の中や、他人の中に押し込めているのかを思い知らされること。そうした悔しい、辛い、恥ずかしい、照れくさい経験からしか出発することはできない。
そう思ったとき、ぼくにとって、子ども哲学のイベントが「上手くいく」とはどういうことだろうかと改めて考える。話がスムーズに展開されるとか、考えが深まるとか、子どもの発言がしっかりしているとか、そういうことは二の次でしかないはずだ。
「ズレ」が目の前に生まれ、それを目の前に困惑し、今までできていたことが、できなくなる体験。それこそが大切なのだ。派手である必要はない。ただ、「上手くいった」と感じたときは大抵上手くいっていない。だから、「上手くいかなかった」という体験こそ味わうべき、貴重な瞬間なのだ。
もう少し、学年混合でやってみようと思う。「ズレ」を見つめ、そこから出発するしかない。そうすることでしか次のズレに向かう道はない。
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ここまで読んでくださってありがとうございました。
(以上)