バブルが崩壊した直後、このアメリカのドラマが、日本で一世を風靡した。そのドラマの題名が、「ツイン・ピークス」である。今から思えば、海外ドラマブームの先駆けだったかもしれない。
僕が、このドラマを知ったのは、小泉今日子が、このドラマについて、あちこちでコメントを寄せていたからだと記憶している。当時の小泉今日子は、吉本ばななの本を紹介したり、デビュー間もないスカパラを絶賛したりと、その後の「渋谷系」を先取りするかのような、「イケてる」の象徴的な存在だった。その後、「イケてる」永瀬正敏と結婚したときは、そのあまりにも予定調和的な「物語」に少しうんざりした。そんな二人は、ほどなく離婚するのだが…
僕のカウンターカルチャーに対する熱意は、1989年、ミュート・ビートの解散、そして、松田優作の死により実質的に終わりを告げた。本当に、急に終わったような気がした。そんな僕にとって、「ツイン・ピークス」の存在は、単なる「ファッション」に過ぎなかった。それから何年か経ち、そうは言っても、「ツイン・ピークス」は、見ておいた方がよさそうだと思い、全部見た。面白かった。面白かったというのは、あまりに凡庸で知性を感じさせない感想だが、とにかく面白かった。食わず嫌いというのは、本当によくない。
言い忘れたが、「ツイン・ピークス」の監督(実際は、時々だが…)は、あのデビッド・リンチである。デビッド・リンチといえば、現存する映画監督の中で、「変な」映画を作る数少ない一人にして、世界最強といっても過言ではない。決して見てはいけない「イレイザー・ヘッド」、なぜか大ヒットしてしまった「エレファント・マン」、大好きな「マルホランド・ドライブ」など、どの作品も一癖も二癖もあるものばかりだ。
「ツイン・ピークス」の面白さは、何といっても、この「変な」ところに依拠する。「変な」人たちがたくさん登場し、「変な」ストーリーが展開する。おそらくだが、途中からデビッド・リンチ自身もこの話をどう展開していいか分からなくなってしまったのでは?と思わざるを得ないようなストーリー展開を見せる。大ブレークした朝ドラ「あまちゃん」にも、同じような匂いを感じ取ったが、このドラマは、その比でない。
そして、ドラマ全編に、散りばめられたたくさんの記号たち。小人、ドーナツ、コーヒー、繰り返されるテーマソング、少女の死体。
当時の文化人たちは、これらの記号たちが意味するものを、必死で解き明かそうと試みた。しかし、どの解説も、僕にとっては、近くて遠いものだった。むしろ、そんなことをあざ笑うかのように、ストーリーは「変な」方へと展開していくのである。
今から約10年程前、デビッド・リンチの新作(その後、いまだに新作の発表がない。)「インランド・エンパイア」を映画館で観た。副題を「woman in trouble」というこの作品は、その名のとおり、主人公の女優が、ひたすら悩んでいるという、たったそれだけの話だ。しかも、約3時間という長さである。僕は、あまりのおかしさに、その週に二回も映画館に足を運んだ。とりわけ、映画の途中に突如出現する、ウサギ人間のシーンには、もうこれは笑うしかなく、僕は大声をあげて笑ったのだが、映画館で笑っていたのは、僕ひとりだけだった。「みんな、おかしくないのかな?」と、館内を見渡すと、みんな苦渋に満ちた表情で、眉間に皺を寄せながらそのシーンを眺めていた。みんな、そのシーンに「意味」を求めていた。僕は、余計におかしくなってきた。
僕は、子供のころから、「無意味なもの」が大好きだった。まわりの子供たちが、アニメ「巨人の星」を熱く語っているのを尻目に、僕は、アニメ「モーレツア太郎」に登場するキャラクター達に思いを馳せた。子豚だけが子分という「ブタ松親分」、どう見てもタヌキにしか見えないが人間を装う「ココロのボス」、「毛虫+サロンパス」という、作者赤塚不二夫のウルトラC的命名による「ケムンパス」…。かつて佐藤伸治(@フィッシュマンズ)は、名曲「BABY BLUE」の中で、「意味なんかないね、意味なんかない」と言ってのけた。
およそ表現されたものの中に、「意味」などないのである。むしろ、そのことこそが、「表現」という行為を担保しているのではないだろうか。そこに「意味」を求めてしまうというのは、筋違いというもので、まったく次元の違う話になってしまう。そう、世界は、記号で満たされているのかもしれない。
「ツイン・ピークス」の最終章は、「25年後にまた会いましょう。」という思わせぶりなセリフで終わる。そして、約25年の年月を経て、今週から「ツイン・ピークス The Return」が始まる。しかも、全18話、すべてデビッド・リンチがメガホンを取るそうだ。あの奇怪な登場人物に再会できるかと思うだけで、年甲斐もなく、すでにワクワクしている。