早朝、6時過ぎに携帯電話が鳴った。その日は、木曜日だったので、てっきり朝稽古に出かけた奥さまからの電話だと思い、「また、忘れものだろう」と眠たい眼をこすりながら、鳴り終わった携帯電話の画面を眺めた。違った。デイスプレイには、叔父の名前が表示されていた。ついに、その時が来てしまった。祖父が亡くなったのだろう。折り返し、叔父に電話をかけると、やはりそういうことだった。葬儀などの時間については、追って連絡するとのことだった。父の実家は、兵庫県の山奥、ドラマ「夢千代日記」で一躍有名になった「湯村温泉」にある。すでに他界した父は長男で、僕は、その父の長男ということもあり、お通夜、お葬式に参列するとなると、一泊二日の旅になるため、その日がお通夜になることも頭に入れ、湯村温線行きのバスの時刻表を確認しながら身支度を始めた。とりあえず黒のスーツに白のシャツ、ネクタイだけいつもの会社に行くときのものを締め、いつも通りに出勤した。叔父から連絡が入ったのは、13時ごろだった。お通夜は明日の18時、葬儀は明後日の10時半となった。僕は、その内容を会社に説明し、明日は早退し、明後日は会社を休むことにした。
その日は、午前中に会社で打ち合わせを行い、阪急三番街12時20分発、湯村温泉行の直通バスに乗った。舞鶴道春日ICから北近畿自動車道に入り、八鹿まで高速道路がつながったことにより、以前に比べてはるかに近くなった。湯村温泉についたのは、ちょうど3時間後の15時20分だった。父の実家に向かい、昔の風景と比べながら、湯村温泉の街をとぼとぼと歩く。途中、街のシンボル「荒湯」に立ち寄り、その脇に立っている、「夢千代像」を眺める。その銅像の横に、ドラマ「夢千代日記」の石碑があった。樹木希林も出ていたのかぁ。すっかり忘れていた。ドラマ「夢千代日記」は、1981年~1984年、吉永小百合主演のNHKで放映されたドラマである。その舞台となったのが、この湯村温泉で、脚本は、この間亡くなった早坂暁。主人公の夢千代は母親の胎内にいたとき、広島で被爆した胎内被爆者。その置屋の女将・夢千代を巡る人間模様といったところだろうか。早坂暁が、どうしてこの話の舞台に、湯村温泉を選んだのかは知らないが、余命幾ばくも無い夢千代、裏日本という表現、夜になると海鳴りが聞こえるなど、およそ陰鬱なイメージを、この湯村温泉に投影させた。外からは、この街は、そんな風に映るのだろうか?そんなことを考えながら、父の実家に着いた。玄関に入ると、出迎えてくれたのは、父の従弟のおじさんだった。従弟の結婚式以来となるため、約20年ぶりの再会である。頭が真っ白になり、更に太った姿は、最初は誰か分からなかった。部屋に上がり、お焼香を済ませ、喪主の父の弟(末っ子)に挨拶する。そうこうする内に、「親戚」が、ぞろぞろと集まり始める。父の兄弟、いとこ。祖父のいとこ、その子供。そして僕のいとこやはとこたち。そう、この狭い街には、親戚たちがたくさんいるのである。湯村のお通夜は、お坊さんを呼ばないらしく、食事が始まった。大生まれの元軍人の祖父は、派手なことや騒がしいことを好まなかったので、それこそお通夜のような宴会が始まった。子供の頃、調子に乗ってはしゃいだりしていると、よく怒られたものだ。しかし、酒が入ると、だんだんにぎやかになり、陽気な父の弟(三男)の「今日は、おやじも許してくれるやろ」の号令で、大変楽しい食事会へと移行していく。食事会も終わり、夜の湯村の街を、僕と、父の従弟たちと一緒に、宿へと向かう。雨に濡れた春来川沿いの歩道を歩きながら、僕は、小説「枯木灘」(@中上健二)のことを思い出した。
翌朝、10時30分から告別式が始まった。昨日来れなかった父の兄弟が全員揃った。中でも、父の弟(次男)は、パーキンソン病を患っているらしく、体中の筋肉が弛緩しているようで、特に首の筋肉がひどく、車いすに座りながら、ずっとうなだれたような恰好で葬儀に参列していた。最後に、喪主の父の弟(末っ子)があいさつを始めた。この叔父は、大手上場企業で専務にまで登りつめた人で、そつなく、スピーチをこなしていたのだが、最後に、祖父の簡単な経歴について話を始めた。
僕の「本当の」祖父は、実は、この世には、すでに存在しない。昭和21年に38才という若さで亡くなっている。今回亡くなった「祖父」は、その「本当の祖父」の弟にあたる。そのことは、父から聞いていたので、知っていたのだが、詳しくは知らなかった。昨晩、そのあたりの詳しい事情を知りたくて、宿で一緒に泊まった父の弟(三男)に酔いの力も借りて、思い切って聞いてみた。ところが、その反応は、僕がまったく予想していなかったもので、父の弟(三男)は、僕のその態度に怒りを覚えたようだった。「今更、そんなことを聞くな!!」と一蹴されてしまったのである。しかし、そのもやもやが、まさに今、父の弟(末っ子)の口から語られ始めた。「祖父」は、昭和24年に、捕虜として4年間を過ごしたシベリアから復員を果たす。しかし、やっと日本に帰ってきた「祖父」を待っていたのは、夫を亡くした未亡人と、5人の子供と「祖父」の二人の親だった。この8人の生活を、どのように支えていくのか、重くて喫緊の課題がすぐ「祖父」の目の前に鎮座していたのである。そして、両親に説得され、「祖父」は、この8人の面倒を見ていくことを決心する。そして、昭和26年に父の弟(末っ子)が誕生するわけである。村上春樹は、エッセイで、父が戦争中の中国での出来事を、亡くなるまで、ついぞ一言も話さなかったという風に書いているが、「祖父」もシベリアでの出来事については、何も語らなかった。僕が知っているのは、シベリアにいたという事実だけである。日本から遠く離れた極寒の地で、「祖父」が経験した4年間というものが、一体、どういうものだったのか、僕には、まったく想像すらできない。さらに、やっと日本に帰ってきたのに、待ち受けていた、あまりに重くて生々しい現実を、どのように自身のなかで消化し、生活をしていたのか、そのことについても、同様である。一方、10才のときに父を亡くし、13才のときに戦争から帰ってきた「叔父」を「父」と呼ぶようになった、少年時代の「僕の父」が、どのような気持ちで毎日を過ごしていたのか、そのことさえも、僕には想像できない。さらに、昭和21年から昭和24年の3年間、たった一人で家族を守ってきた「祖母」の、計り知れない苦労が、一体どれほどのものだったのか。これらのあまりに重い「事実」が、僕の頭の中を駆け巡り、頭がくらくらした。それは、「戦争は悲惨だ」などという言葉では、とてもじゃないが、覆いつくすことなどできない、もっともっと大きな何かだ。そんな状況のなかで、最後のお別れで棺に入った「祖父」へ、花が手向けられた。韓国映画「国際市場で逢いましょう」のなかで、朝鮮戦争とベトナム戦争に巻き込まれていく主人公が、ポツリというセリフがある。「生まれた時代が悪すぎた」。「祖父」がそのように思っていたかどうか、僕には分からないが、世界の不条理を身をもって体現した「祖父」の人生のことを思うと、僕は、花を手向けながら、涙が止まらなかった。ふと、目をやると、父の弟(次男)の眼鏡の奥から、涙が頬を伝い流れていた。パーキンソン病のため、涙がぬぐえないのだ。僕は、時間の冷酷さに、ただただ打ちひしがれた。