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「坂元裕二の世界」(@井上英作)

テレビを見なくなって久しい。あんなにテレビが好きだったのに…。理由は、単純明快で、面白い番組がなくなったからだ。例えば、「もーれつア太郎」のようなアニメ、「11PM」のような情報番組、「お笑いウルトラクイズ」のようなバラエティ、そして「寺内貫太郎一家」のようなドラマは、残念ながらもう過去の遺物となってしまった。そんな僕が、唯一観ているのが、脚本家「坂元裕二」のドラマである。

先日テレビ番組「仕事の流儀」(あのスガシカオの曲で始まるNHKの看板番組)を観た。番組は坂元裕二を追ったもの。ほとんど初めてのブラウン管での登場ということもあり、僕はしっかりと録画し、じっくりと番組を拝見した。

余程のドラマ好きでない限り、坂元裕二のことを知らないと思うので、簡単に紹介しておく。もっとも有名な彼の作品は、あの「東京ラブストーリー」で、最近だと「いつ恋」こと「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」とか「カルテット」が有名である。

へそ曲がりの僕は、坂元フアンだと公言しておきながら、「東京ラブストーリー」は観たことがなく、初めて彼の作品を観たのは、彼のデビュー作「同・級・生」(1989年)だった。書きながら初めて知ったのだが、「あの」1989年に「同・級・生」を観ていたことに自分でも驚いた。1989年というのは、言うまでもなく「昭和」が終わり「平成」が始まった年だが、僕にとっては、松田優作が死に、ミュートビートが解散した、大きな喪失感に苛まれていた一年だった。むしろ、そんな時期だったからこそ、僕は、この甘ったるいドラマを必死に観ていたのかも知れない。このドラマが象徴するように、坂元作品に通底しているものは、決して交わることのない男と女である。「同・級・生」における鴨居(緒方直人)とちなみ(安田成美)、「それでも、生きてゆく」の瑛太と満島ひかり、そして、「いつ恋」の有村架純と高良健吾…etc。これらの男女は、見事なまでにすれ違う。橋本治によると「男と女がすれ違うことによってメロドラマは成立し、男と女は初めて等価になる」そうだ。だとすれば、坂元が描き続けているのは、単なるメロドラマなのか?そんな単純な話ではない。

坂元は、「東京ラブストーリー」の大成功のあと、同じようなラブストーリーを描くように制作側からオファーが続き、一旦テレビの世界を離れる。彼を、再びテレビの世界に引き戻したのは、子供が出来、父親になってからだった。その復帰作とも言えるのが「Mother」である。この「Mother」は自分の子供を虐待する母親の話である。実際に子育てを経験した坂元は、その経験から「Mother」を書いた。誤解をされると困るので、敢えて補足しておくが、もちろん、僕は、虐待を肯定しているわけではまったくない。ただ、一方で「虐待はいけない」と声高に叫ぶことで、問題を解決できるとも思わない。坂元は、ドラマの途中から、主人公の母親が、どうして娘を虐待するに至ったか、その道程を丹念に描くことに方向転換したそうだ。

この作品以降、坂元は、従来のメロドラマをベースに、社会から切り離されそうな、犯罪加害者の家族、育児を放棄した母親などにスポットを当てる。番組のなかで坂元は、「すごく簡単に言うと、多数派か少数派かっていったら、少数派のために書きたい。こんなふうに思う人は少ししかいないっていう人のために書きたい」。「小さい積み重ねで人間っていうのは描かれるものだから、僕にとっては大きな物語よりも小さいしぐさで描かれている人物をテレビで観るほうがとても刺激的」と言っている。僕は、このことを聞きながら、強い既視感を覚えた。それは、村上春樹が小説を書く際に言っていたこととほぼ同義だったからである。村上春樹は、自分の好きなアメリカ文学の作家の影響を受け、できるだけ細かくデイテールを描くことによって物語を立ち上げていく。子育てを通じて、「日常」の重要性に気づいた坂元も、丹念にデイテールを細かく描いていく。まるで、それは、普段の生活のなかで零れ落ちていくものを、拾い集めていく作業だ。村上春樹の言葉を借りれば、それは「雪かき仕事」なのかもしれない。

番組では、再びテレビの世界を離れ、舞台の脚本を書く坂元を追う。その脚本の元になっているのは、弟への複雑な感情らしい。「やさしくないお兄ちゃん」だった自分への罪滅ぼしが原点にある作品だそうだ。僕にも四歳年下の弟がいる。坂元同様、僕も弟とは、いまだに上手くいっていない。だから、坂元の気持ちが痛いほど僕には分かる。

僕は、昔から、夢をかなえるような「そんな話」が、どうも好きになれない。「自己実現」という言葉が大嫌いだ。ついでに、「夢」も。「自己実現」というのは、「自己」の「実現」を阻む何かが存在し、それを取り除き、壊せば、「新たな自己」に出会えるという「物語」に過ぎないと思っている。本当にそうだろうか?それは、僕に言わせれば、自分にとって都合の悪い自己を否定しているだけなのではないだろうか。一方、坂元が描くような世界感に、僕は、どうしても共感を覚えてしまう。それは、駄目な自分、しょぼい自分、いまいちな自分、つまり、「そうありたい自己」からそぎ落とされていく「もう一人の自分」と正面から向き合い、寄り添いながら生きていく人たちの物語だからだ。ザルで水を掬うようにその零れ落ちていくものこそが、何気ない「日常」であり、すれ違い続ける「男と女」だったりする。だから坂元は、それらが零れ落ちないように、丁寧に細かく描写することにより、それらを拾い集める作業を繰り返す。

しょぼい自分を認めたり愛してくれるのは、世界中でたった一人しかいない。それは、自分自身である。しかし、そのような「雪かき」的な態度は、時に切なく、いつも哀しい。でも、僕は、そんな自分を大切にしながら生きていく、坂元の物語の主人公のような哀しい人たちが大好きだ。だから、僕は、坂元裕二の作品に惹かれるのである。