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私的「1980年代日本映画ベスト・テン」(@井上英作)

1980年、僕は、15才だった。

キネマ旬報社が、創刊100周年を記念して特集を組んだ。その一つが「1980年代日本映画ベスト・テン」である。僕は、すぐに紀伊国屋書店で購入した。

僕は、80年代、つまり、15才~25才にかけて、特に10代の頃は勉強そっちのけで、イギリスの音楽をひたすら聞き、洋画、邦画を問わずに実にたくさんの映画を観た。今回の「1980年代日本映画ベスト・テン」を読んで、自分でも驚いたのだが、そこに掲載されているベスト10はもちろん圏外の作品もほとんど観ていたのである。そこで私的「1980年代日本映画ベスト・テン」を選んでみた。なお、()内は、この本でのランクである

・家族ゲーム(1)

・人魚伝説(17)

・のようなもの(29)

・天使のはらわた 赤い淫画(38)

・ときめきに死す(38)

・火まつり(46)

・それから(52)

・タンポポ(52)

・十階のモスキート(62)

・キッチン(86)

10本のうち、半分も森田芳光監督の作品を選んだ。森田監督は、1984年、弱冠34才で「家族ゲーム」、その2年後「それから」で、キネマ旬報賞日本映画監督賞を受賞するという快挙を成し遂げる。今回の本の中でも、80年代は森田の時代だったという意見が多い。音楽至上主義者だった僕に、新しい世界を教えてくれたのは、映画だった。当時よく聞いていたミュージシャンたちのインタビューでヌーベルバーグの存在を知り、ヨーロッパのアート系の映画を見始める。一方、邦画といえば、僕は東映ヤクザ映画か角川映画しか知らず、少し低く見ていた。そんな僕の偏見を見事なまでに覆したのが、「家族ゲーム」だった。僕は、映画のその自由さに驚愕した。僕は、「家族ゲーム」を機に、森田監督の大フアンになり、全作品を観た。特に、初期の作品は、どれもこれも引けを取らず、名作ばかりだ。「家族ゲーム」で、図鑑を脇に抱えながら登場する松田優作。「のようなもの」での、夜中中、東京の街をひたすら歩く志ん魚。「ときめきに死す」での冒頭の駅のシーン。「キッチン」での、あまりに美しい函館の街並み。まだまだ、森田監督の作品を観たかった。

10本のうち、池田敏春監督の作品を2本選んだ。大学生になる直前の3月の終わりに、今は亡きサンケイホールで「人魚伝説」を観た。それから年月が流れ、もう一度観てみたいと思っていたのだが、その頃には、「カルト作品」という範疇に収められ、ビデオが10,000円以上もするという事態になっていた。そして、ようやくDVDを手に入れることができ、数十年ぶりにこの作品との邂逅が実現する。先日、改めて、観てみると、今の時代の気分を象徴するかのようで、主人公のみぎわは、原発に一人立ち向かっていく。劇中、白都真里演じる主人公みぎわがつぶやく。「原発ゆうんは、どこや!。うちの人殺した原発ゆうのは、どこにおるんや!!」。本作の有名な復讐のラストシーン、公開当時は、少しくどい印象を受けたが、「巨悪」に、たった銛一本で生身の身体をさらけ出し、立ち向かう姿は、むしろ神々しささえ感じさせる。そして、「天使のはらわた 赤い淫画」である。その当時、ポルノ映画界には、有能な若い才能が、うようよと存在した。森田芳光、根岸吉太郎、周防正行、滝田洋二郎…etc。この作品は、東梅田日活に、この作品を観るためだけに行ったのを覚えている。脚本は、石井隆。そのあまりの切なさに、僕は、ポルノ映画の本来の目的を、まったくといっていいほど達成することができなかった。村上春樹は、以前、エッセイで映画の魅力について、こう言っている。観た映画のストーリーは、ほとんど覚えていないが、観た日のことの記憶は鮮明に残っていると。僕も、これらの作品を観た日のことを、なぜかいまでもよく覚えている。「人魚伝説」を観た日の夕暮れの桜橋交差点、桜橋ボールのちゃちい看板、冬とは違う春の冷たい風。「天使のはらわた 赤い淫画」を観た日の、「シェイキーズ」の店内の照明の明るさ、外に漏れてくるピザの美味しそうな匂い。そして、地下の劇場に続く東梅田日活の狭い階段。現在、東梅田日活は、すでにもうなくなっていて、コンビニに変わっている。べたべたと張られていたポルノ映画のポスターは、もうそこにはなかった。

なかなか最後まで読めない本、あるいは作家というのが、誰しも一冊や二冊はあると思う。僕の場合、それは「枯木灘」(@中上健二)である。そのあまりに濃密な雰囲気にいつも途中で負けてしまう。その中上健二が脚本を担当したのが、映画「火まつり」である。公開当時、何だかよくわからなかったが、とにかく、主演の北大路欣也の存在感が際立った。それは、「枯木灘」の主人公、秋幸のイメージと重なる。今年の春、熊野に行った。たくさん見て回った神社の一つ、神倉神社には、538段の急峻な石段があり、毎年2月6日に、「上り子」と呼ばれる参加者が、松明を手に、この石段を一気に駆け降りる。その勇壮で幻想的な様子を見て、中上健二がこのお橙祭りを「火まつり」と名付けたそうだ。熊野が持っている土地の磁力、その力を背景に紡ぎ出される中上健二の物語、それをどのように映像化したのか、もう一度この作品を観たくなった。

80年代の日本映画は、様々な業界から映画監督に進出した人たちが多かった。彼らは、「異業種監督」と呼ばれた。とりわけ、北野武、伊丹十三が有名である。僕は、伊丹十三のデビュー作「お葬式」を、三番街シネマで観た。映画の日だった。観客席は満席で、立ちながら観たのを覚えている。観終わったあとの印象は、あざとくてしたたかだなと思った。その余分な肩の力を抜いたような作風で、今でも大好きな作品が、「タンポポ」である。ラーメンウエスタンと名付けられたこの作品は、食にまつわるエッセイのような映画で、実に「かわいい」のである。そして、なにより登場人物が、全員「かわいい」。タンポポ役の宮本信子、ゴロー役の山崎努。そば屋で、もちをのどにつまらせる老人役を大滝秀治、その大滝秀治の運転手役で桜金造…etc。とりわけ一番好きなシーンは、ゴローが墨汁をたっぷりと含ませた筆で看板に「タンポポ」と書き、その看板を店の入り口に掛け、全員で嬉しそうに眺めるというものである。僕は、このシーンを見ると、「幸福」という抽象が具現化するその瞬間を感じるのである。

この本のなかでの映画評論家等のアンケートを見てみると、内田裕也作品がたくさんノミネートされている。本作以外に、「水のないプール」、「嗚呼!女たち 猥歌」、「コミック雑誌なんかいらない!」が選ばれている。特に、僕は、内田裕也自身に何の思い入れもないが、80年代の日本映画において、彼の果たした役割は無視できない。日本映画がどんどん衰退していくなかで、そのことを逆手に取って、内田裕也は、崔洋一(十階のモスキート)、滝田洋二郎(コミック雑誌なんかいらない!)などの新しい才能を開花させていく一方、衰退していく「新しかった」才能、若松孝二(水のないプール)、神代辰巳(嗚呼!女たち 猥歌)への愛情も決して忘れていない。そんな時代の狭間で、引き裂かれそうな思いのなか、内田裕也は本来の音楽ではなく映画の世界にこの10年ほど深くコミットしている。その苦悩が、一体どういうものだったのか、僕には想像できない。だから、内田裕也演じる登場人物は、どの作品においても、暗くて暴力的なのだ。この時代にしか現れなかったであろう俳優だと思う。

こと音楽の世界では、80年代は、ポスト・パンクの時代で、「何もない時代」などと当時マスコミからよく揶揄されたものだが、このように振り返ってみると、新しい才能が続出したなかなか面白かった時代だと思う。この本のなかでも、「80年代は日本映画にとって何と実り多き年だった」(@土屋好生)、「80年代に限っては外国映画より日本映画を選んでいるときのほうがワクワクした」(@夏目深雪)、「あらゆる意味で日本映画は、1980年代が一番面白いんじゃないかと率直に思う」(@森直人)、「最近、若い衆から80年代の日本映画はぶっとんでクールだと讃えられ、何も答えられなかった」(@増冨竜也)、「80年代の日本映画は1本の作品が独力で自分の世界を開拓していく爽快感があった」(@渡部実)というコメントが寄せられている。僕も、このことに深く同意する。

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「母のこと」(@井上英作)

2018年12月7日3時12分、母が亡くなった。82才だった。

12月6日21時半ごろ、映画「あゝ荒野」を観ているところに、携帯が鳴った。デイスプレイには、妹の名前が表示されていた。「もう、ダメかもしれない」。受話器越しに妹がそう言った。僕は、すぐに着替え、たまたま近くのコンビニで休憩しているタクシーを見つけた。「川西市立病院」とだけ運転手さんに告げると、その意味を察してか、100㎞近い速度のまま、30分足らずで、僕は、病院に到着した。母の様子は、見た目には、昨日と大して変わりなかったが、血圧がどんどん下がってきているとのことだった。そうこうしているうちに、嫁さんと妹が来て、三人で母の顔を眺めていた。24時近くになり、僕たち夫婦は、別の部屋で仮眠を取ることにした。日付が変わり、2時半ごろ、看護師さんに起こされた。「もう時間の問題だと思います」。すぐに病室に行くと、母の呼吸のリズムが緩慢なものになっていた。そして、最後に大きく息を吸い込むと、その吸い込んだ息を吐き出すことは、もう二度となかった。

母は、厳しい人だった。僕が幼稚園に通っていたころ、近所の悪ガキにいじめられて、ワーワー泣きながら家に帰ると、母は烈火のごとく怒り始めた。「男が、ビースカ、ビースカ泣くな!!やかましい!」。それから、僕は、人前で泣かなくなった。しかし、この日だけは、母の教えをどうしても守ることができなかった。でも、「ビースカ、ビースカ」とはならなかったので、母もきっと許してくれるだろう。

また、母は、涙もろい一面もあった。人情ものが大好きで、「松竹新喜劇」、「凡児の娘をよろしく」、「唄子・啓助のおもろい夫婦」をテレビで観ては、よく泣いていた。他人の苦労より、自身の苦労の方が、よほどつらいはずなのにと、子供ながら不思議に思い、涙をぬぐう母の横顔を、よく眺めていた。怪談も大好きで、嘘か本当か知らないが、子供のころ幽霊を見たらしい。その話を、何度も聞かされ続けた僕は、見事なまでに英才教育を受けた結果、ホラー好きになったのである。さらに母は、身も蓋もなかった。貧しかったころ、水のように薄いカルピスに不満を漏らすと、「飲んだらいっしょ」とたった一言で済ませてしまった。このように、母の性格を書き並べていて、はたと気づいた。僕そのものではないか。僕という人間を基礎付けているのは、まぎれもなく母だった。

以前、お見舞いに行ったとき、母は、僕の顔をじっと見つめながら、こう言った。「あんた、全然変わらへんな」。いくつになっても、母の前では、僕は、いつも「こども」だった。ある年のお正月に、妹が僕に、「小さいときから、本が好きだったの?」と僕に尋ねた。すると、すかさず、母が、「大学入ってからや。」と答えた。この人は、僕のことを、本当によく知っていた。そのころ、特に母と話しをすることもなかったはずなのに、その微妙な僕の変化に気づいていたのだ。

母の病気のことを知るきっかけとなったのは、4年前の父の葬儀のときだった。そのとき、風をひいているのか、母の声は、ずっと鼻声だった。僕は、医者に行くように促し、母も首にできた脂肪の塊が気になっていたようで、医者に診てもらったところ、脂肪の塊は、何ら問題なく、むしろ、鼻声の原因が、鼻孔にできた腫瘍だと診断された。ガンだった。すぐに手術でその腫瘍を摘出したのだが、今年になり同じ箇所に再発した。医者からは、もう高齢なので、打つ手がないといわれ、今年からホスピスに入院し、母は逝ってしまった。不幸中の幸いだったのは、その腫瘍は転移していなかったようで、腫瘍ができた箇所が箇所だけに、転移していると顔にその影響が出てひどい状況になったそうだが、それだけは、免れることができた。母に腫瘍のことを知らせ、転移を防いだのは、父の力によるものだと僕は思っている。父と母は、しょっちゅう喧嘩をしていて、若いころは、よくその喧嘩に僕も加勢し、父との対立をどんどん深めていった。そんな父が、4年前に亡くなった。僕は、涙の一粒も流さず、弟から随分そのことを非難されたが、葬儀のときに一番泣いていたのは、意外にも、母だった。あれだけ、父に苦労をかけられていたのに…。今回、母の遺影として、妹が選んだ写真は、2001年に二人でどこかへいったときのもので、とてもいい写真だった。ふたりとも満面の笑みを浮かべている。夫婦間のことは、その二人にしかわからないものだが、母が父のことを愛していたことに、今になって、僕は知ることになる。亡くなる直前に、母は、妹にこう言った。「お父さんに会いたい。」

葬儀が終わり、父の兄弟、つまり叔父たちと話をする機会に恵まれ、僕は、生前の父の「さまざまなこと」について、叔父たちに謝罪した。すると、思いもかけない、返答が返ってきた。「謝らないといけないのは、こちらの方だ。兄貴のことで、一番つらい思いをさせたのは、姉さんとおまえや。すまなかった」。僕は、長い間、胸のなかでつっかえていたものが、少しづつ溶解していくのを実感した。母の僕への最後の贈りものとなった。

すべてが終わり、長い3日間が終わろうとしていた。僕たちは、12月9日19時頃自宅に戻った。そして、近くにある居酒屋で、日本酒を飲みながら、母の好物だった「天ぷらうどん」を二人で食べた。