「母のこと」(@井上英作)

2018年12月7日3時12分、母が亡くなった。82才だった。

12月6日21時半ごろ、映画「あゝ荒野」を観ているところに、携帯が鳴った。デイスプレイには、妹の名前が表示されていた。「もう、ダメかもしれない」。受話器越しに妹がそう言った。僕は、すぐに着替え、たまたま近くのコンビニで休憩しているタクシーを見つけた。「川西市立病院」とだけ運転手さんに告げると、その意味を察してか、100㎞近い速度のまま、30分足らずで、僕は、病院に到着した。母の様子は、見た目には、昨日と大して変わりなかったが、血圧がどんどん下がってきているとのことだった。そうこうしているうちに、嫁さんと妹が来て、三人で母の顔を眺めていた。24時近くになり、僕たち夫婦は、別の部屋で仮眠を取ることにした。日付が変わり、2時半ごろ、看護師さんに起こされた。「もう時間の問題だと思います」。すぐに病室に行くと、母の呼吸のリズムが緩慢なものになっていた。そして、最後に大きく息を吸い込むと、その吸い込んだ息を吐き出すことは、もう二度となかった。

母は、厳しい人だった。僕が幼稚園に通っていたころ、近所の悪ガキにいじめられて、ワーワー泣きながら家に帰ると、母は烈火のごとく怒り始めた。「男が、ビースカ、ビースカ泣くな!!やかましい!」。それから、僕は、人前で泣かなくなった。しかし、この日だけは、母の教えをどうしても守ることができなかった。でも、「ビースカ、ビースカ」とはならなかったので、母もきっと許してくれるだろう。

また、母は、涙もろい一面もあった。人情ものが大好きで、「松竹新喜劇」、「凡児の娘をよろしく」、「唄子・啓助のおもろい夫婦」をテレビで観ては、よく泣いていた。他人の苦労より、自身の苦労の方が、よほどつらいはずなのにと、子供ながら不思議に思い、涙をぬぐう母の横顔を、よく眺めていた。怪談も大好きで、嘘か本当か知らないが、子供のころ幽霊を見たらしい。その話を、何度も聞かされ続けた僕は、見事なまでに英才教育を受けた結果、ホラー好きになったのである。さらに母は、身も蓋もなかった。貧しかったころ、水のように薄いカルピスに不満を漏らすと、「飲んだらいっしょ」とたった一言で済ませてしまった。このように、母の性格を書き並べていて、はたと気づいた。僕そのものではないか。僕という人間を基礎付けているのは、まぎれもなく母だった。

以前、お見舞いに行ったとき、母は、僕の顔をじっと見つめながら、こう言った。「あんた、全然変わらへんな」。いくつになっても、母の前では、僕は、いつも「こども」だった。ある年のお正月に、妹が僕に、「小さいときから、本が好きだったの?」と僕に尋ねた。すると、すかさず、母が、「大学入ってからや。」と答えた。この人は、僕のことを、本当によく知っていた。そのころ、特に母と話しをすることもなかったはずなのに、その微妙な僕の変化に気づいていたのだ。

母の病気のことを知るきっかけとなったのは、4年前の父の葬儀のときだった。そのとき、風をひいているのか、母の声は、ずっと鼻声だった。僕は、医者に行くように促し、母も首にできた脂肪の塊が気になっていたようで、医者に診てもらったところ、脂肪の塊は、何ら問題なく、むしろ、鼻声の原因が、鼻孔にできた腫瘍だと診断された。ガンだった。すぐに手術でその腫瘍を摘出したのだが、今年になり同じ箇所に再発した。医者からは、もう高齢なので、打つ手がないといわれ、今年からホスピスに入院し、母は逝ってしまった。不幸中の幸いだったのは、その腫瘍は転移していなかったようで、腫瘍ができた箇所が箇所だけに、転移していると顔にその影響が出てひどい状況になったそうだが、それだけは、免れることができた。母に腫瘍のことを知らせ、転移を防いだのは、父の力によるものだと僕は思っている。父と母は、しょっちゅう喧嘩をしていて、若いころは、よくその喧嘩に僕も加勢し、父との対立をどんどん深めていった。そんな父が、4年前に亡くなった。僕は、涙の一粒も流さず、弟から随分そのことを非難されたが、葬儀のときに一番泣いていたのは、意外にも、母だった。あれだけ、父に苦労をかけられていたのに…。今回、母の遺影として、妹が選んだ写真は、2001年に二人でどこかへいったときのもので、とてもいい写真だった。ふたりとも満面の笑みを浮かべている。夫婦間のことは、その二人にしかわからないものだが、母が父のことを愛していたことに、今になって、僕は知ることになる。亡くなる直前に、母は、妹にこう言った。「お父さんに会いたい。」

葬儀が終わり、父の兄弟、つまり叔父たちと話をする機会に恵まれ、僕は、生前の父の「さまざまなこと」について、叔父たちに謝罪した。すると、思いもかけない、返答が返ってきた。「謝らないといけないのは、こちらの方だ。兄貴のことで、一番つらい思いをさせたのは、姉さんとおまえや。すまなかった」。僕は、長い間、胸のなかでつっかえていたものが、少しづつ溶解していくのを実感した。母の僕への最後の贈りものとなった。

すべてが終わり、長い3日間が終わろうとしていた。僕たちは、12月9日19時頃自宅に戻った。そして、近くにある居酒屋で、日本酒を飲みながら、母の好物だった「天ぷらうどん」を二人で食べた。

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