月別アーカイブ: 2019年3月

「しぇきなべいびぃ」(@井上英作)

 忙しい。本当に忙しい。僕は、これほどまでの忙しさを、かつて経験したことがない。会社の親しい先輩も、僕のそんな様子を見て、「忙しいそうやな?」と声をかけてくれた。「めちゃくちゃ忙しいんです。サラリーマンになって一番忙しいんです。」と答えると、「今までに味わってない方が、問題ちゃう。」と冷たく突き返された。そんな忙しい毎日を送っているので、毎日ヘトヘトになって帰宅している。先日も、いつものように疲れ果て、晩ご飯を食べると、強烈な睡魔に襲われ、21時から1時間ほど寝てしまった。本格的に寝ようと、ベッドに入ったが、全然眠れない。暫くして眠るのを諦めた僕は、本を読むことにした。本を読もうと決めた瞬間、本棚に目を向け、僕の目に止まったのは、中島らもの追悼を特集した雑誌だった。
 僕は、20代のころ、むさぼるように中島らもの本を読んだ。中島らもの描く切なさに、僕は惹かれた。改めて、その雑誌を読んでみると、中島らもが憎悪していたのが、権威だったのがよくわかる。僕も、この年になっても権威的なものが大嫌いで、むしろ、歴史から置き去りにされそうな「こと」や「もの」に、ついつい目がいってしまう。こればかりは、性分としかいいいようがない。そんな眠れない夜を過ごし、翌朝、いつものように起床し、歯を磨きながら、テレビをぼんやり見ているとある訃報を知ることになる。内田裕也だった。   
 内田裕也に対する特別な思い入れは、まったくない。でも、なぜか、少しショックだった。自分でも、一体何にショックを受けているのか、分からなかったのだが、昨晩、ベッドの中で読んだ中島らものことと内田裕也が、僕の中で繋がった。彼らは、僕より一回り以上年上の人たちで、反骨なところが、共通している。反骨というのは、つまり、「ロック」なことである。しかし、大変残念なことに、「ロック」な人たち、つまり、この世代の人たちが、少しづつこの世からいなくなり始めている。僕は、内田裕也の死に、その寂しさを募らせ、少なからずショックを受けたのだろう。
 僕が、初めて、内田裕也のことを知ったのは、大晦日の「ニューイヤーズロックフェスティバル」をテレビで観たときだったような気がする。その時の出演メンバーは、記憶は定かではないが、ARB、アナーキーなどが出演していたように思う。当時の僕は、イギリスの音楽にかぶれていたので、特に印象にも残らなかった。むしろ、僕にとって大きく内田裕也を印象付けられたのは、皮肉にも音楽ではなく、映画だった。以前投稿した「私的「1980年代日本映画ベスト・テン」」にも次のように書いた「この本(キネマ旬報特別号)のなかでの映画評論家等のアンケートを見てみると、内田裕也作品がたくさんノミネートされている。本作(「十階のモスキート」)以外に、「水のないプール」、「嗚呼!女たち 猥歌」、「コミック雑誌なんかいらない!」が選ばれている。特に、僕は、内田裕也自身に何の思い入れもないが、80年代の日本映画において、彼の果たした役割は無視できない。日本映画がどんどん衰退していくなかで、そのことを逆手に取って、内田裕也は、崔洋一(十階のモスキート)、滝田洋二郎(コミック雑誌なんかいらない!)などの新しい才能を開花させていく一方、衰退していく「新しかった」才能、若松孝二(水のないプール)、神代辰巳(嗚呼!女たち 猥歌)への愛情も決して忘れていない。そんな時代の狭間で、引き裂かれそうな思いのなか、内田裕也は本来の音楽ではなく映画の世界にこの10年ほど深くコミットしている。その苦悩が、一体どういうものだったのか、僕には想像できない。だから、内田裕也演じる登場人物は、どの作品においても、暗くて暴力的なのだ。この時代にしか現れなかったであろう俳優だと思う。」
 ミュージシャンとしての内田裕也のことを、僕は、殆ど知らない。映画「嗚呼!女たち 猥歌」の中で、歌っているのを聞いたぐらいのものだ。下手だった。おまけに声量がない。そのことは、妻の樹木希林もよく知っていて、「裕也さんは、歌が下手なのね。」と生前に言っている。しかも、長いキャリアの割には、ヒット曲も一曲もない。それでも、彼は、最後まで一定の存在感を示した。それは、彼の「才能を見出す才能」によるものではないだろうか?彼は、沢田研二を見出し、「フラワートラベリンバンド」をプロデュースし、映画監督の崔の洋一、滝田洋二郎を世に送り出した。
 これと言って、特に才能のない僕にも、唯一、人より優れていると自負していることがある。それは、新しい才能を発見することだ。そのことにおいては、僕と内田裕也は、同類と呼べるかもしれない。しかし、僕と内田裕也が決定的に違うのは、その立場の違いだろう。内田裕也は、ものを作ることを生業としたが、僕は、そういう道を選ばなかった。というより、選ぶだけの才能が僕にはなかった。同じアーティストとして、プロデューサー的立場に甘んじた、内田裕也の苦悩を、僕は想像することさえできない。
 内田裕也は、しばしば「ジョニーBグッド」をライブで歌っていた。言うまでもなく、ロックンロールの定番である。なぜ、内田裕也は、この曲ばかり歌い続けたのか?僕には、彼の歌う「ジョニーBグッド」が、なんとも虚しく響くのである。

2019年 春合宿(凱風館 @神鍋)

2019年凱風館春合宿が終了。
清道館からは、5名が参加し、うち女子1名、男子2名が昇段審査を受けて、全員無事、初段になりました。
おめでとうございます。
清道館では昇級審査もほぼ終わり、2019年春の審査は(体調の関係で受けられなかった1名を残し)完了。
毎回思うことですが、特に今回の初段審査では「よくここまでになってくれたなあ」という思いでいっぱいになりました。
みなさん、よくお稽古しました。おつかれさまでした。
初段になったということは、あなたは初段の実力があります、という保証ではなく、これから初段に相応しくなるよう稽古に精進してください、そのスタート地点にやっと立てましたね、ということです。もちろん、弐段も参段も全部同じ。
だから、私は初段です、初段の合気道ができるから黒帯もらえたんです、なんて思ってはいけませんよ。
黒帯に恥じないような実力を、あくまでも自分のペースでよいので、つけて行くことを「一つの」目標において、益々稽古に精進してください。
よろしくお願いします。(すでに初段、弐段のみなさんも、です)

今回の合宿、内田先生の稽古のテーマは「皮」だった。つまり皮膚のことである。
面白かった。皮膚が体感に通じている。明らかに通じている。
少し前から清道館でもこのテーマで稽古しているけど(「指紋」とか)、
あれこれ面白い発見の連続だった。
続きはまた道場で。

一番みなさんに伝えたいと思ったのは、
「相手に自分が思う通りに動いてもらうには、相手の体を丁寧に扱う」ということ。
多田先生はこれを「ストラディバリウスのような上等の楽器を扱うように」と表現される。
内田先生は続けて「敬語とはそのためにある」と仰った。達見である。

ぞんざいに扱っては壊れてしまう古い上等な楽器は、丁寧に扱い正しく弾くと、よい音、素晴らしい響きを出してくれるのだ。
人間も同じ、合気道も同じ。
よく言われることの一つではあるが、忘れないよう。

「寺子屋ゼミ」と合気道

アメリカ先住民のことを凱風館寺子屋ゼミで発表した。
ゼミは凱風館が出来て以来参加しているので、7年目、4回目の発表である。
初回は通年テーマが「アジア諸国」で、「ブータン王国がなぜ‶幸せの国″か」、について。二回目は通年テーマ「二項対立」、から「教えることと学ぶこと」につて、三回目は通年テーマ「比較関係論」で、「韓国と日本の自殺率」について、研究発表した。今期の通年テーマは「アメリカ」。

ゼミ生の中には学術系の研究者や専門家、大学教授や学校の先生も多いが、私はド素人である。
言い訳するつもりはないが、発表は毎回、血を吐くようなしんどさだ。
発表の順番さえ廻ってこなければ、寺子屋ゼミはとっても楽ちんでたのしいに尽きる。単なる聴講者として毎回誰かの発表と内田先生の面白い講義を聞いて、すごく勉強した気分になれて、お得なことこの上ない。ところが、いよいよ自分に担当が廻って来て(ゼミ生である以上誰も逃れられない 1.5年に一回くらい廻ってくる)、発表する側になるとこれがたいへんで、もがき苦しむ日々が数週間続く。できません!と途中で逃げ出したくなり、なんで自分はこんな難しくてしんどいことをやってるんだろう、合気道だけやってればいいのに、来年こそはもうゼミやめよう、と発表準備中は毎度心に誓うのだ。が、もがき苦しみながらも何とか形にして、発表を終えてしまうと、これが不思議なことに、やり終えた達成感や解放感とともに、「やったらできるやん私」的なある種の全能感に包まれて、次年度のテーマが発表されると、次は何にしようかな、この調子で勉強を続けようかな、などと思ってしまうのである。ま、単なる自己満足と錯覚なので、三日もたつとすっかり元に戻るのだが。

この感覚は、山登りに近い、と夫が言っていた。確かに。山登りの感覚は私にも経験がある。登っている最中は苦しくて、なんでこんな危険で大変なところにきてしまったんだろう、二度と来るまいと思うのに、登り終えると次は装備にあれをもってこようなどと考えている。そんなことをするのは人間だけで、動物は絶対しないだろう。そんなこんなで、もう7年、4回目を終えたわけであるが、やっぱりしんどかった。そして今また不思議な錯覚のなかで、来年のテーマについて考えたりしている。
なんでもそうだと思うが、限界を超えると、新たな地平が見える、もんである。

合気道には日々発見がある。
合気道も私をいろいろな限界に連れて行ってくれる。
「心の研究をする者は体の研究をし、体の研究をする者は心を研究しなければならない」
と昨夏のラスぺチアで多田先生は仰った。

これまでは順番が廻ってきてやむを得ず、だったが、今回初めて自分から手を挙げた(そしてもちろん途中で後悔した)。
すでにアメリカ先住民について発表された方の後を受けて、しかも今期の最終回というハードルの高さだったが、思い切ってやってよかった。
「アメリカ先住民」のことを、私はこれまで何も知らなかった。
「自分が何について知らないか、を知ることが、知性の働きである」@内田樹
知らないことが多すぎる。

ゼミの打ち上げの席で内田先生が話された「大事なこと」に今もやもやしている。
まずは『私家版 ユダヤ文化論』内田樹著
を読み直す。
私にとっては合気道も寺子屋ゼミも、たのしくて時に苦しい「修行の場」なのである。

「ネイティブ・アメリカン」~アメリカ先住民の苦難と今~  寺子屋ゼミ発表3/19 井上

先日、凱風館寺子屋ゼミで発表しました内容を、せっかく(苦労した)ので僭越ながら掲載します。
興味のある方はどうぞ。(長いです)
太字はレジュメ記載
*資料(や図等)について(アナログなため)ここには添付できないものがありますのでご了承ください。レジュメ・資料はお申し出くだされば差し上げます。

「ネイティブ・アメリカン」 ~アメリカ先住民の苦難と今

1. テーマについて ・・・高橋さんの発表を受けて
「我々は他の大陸から渡ってきたのではない、ここ(アメリカ大陸)が起源である」

アメリカンインディアンと日本人はそのルーツを同じくするとはすでによく言われていることで、前回の高橋さんも発表されたとおり、数万年前、ロシアのバイカル湖の湖岸から、マンモスを追って東に向かい、ベーリング海陸を渡ってアラスカにたどり着いた狩猟民族が古代のパレオインディアンとなり、同じバイカル湖東から南下して日本列島にたどり着いた狩猟民族が縄文人となったと言われていて。我々とアメリカの先住民とは顔や肌の色がそっくりなのもさることながら、言語や習慣・宗教儀礼などにも、似たようなものが残っているようです。
もともと縄文文化に興味があったこともあり、今年のゼミのテーマが発表された時点で、もし自分に発表が回ってきたらアメリカンインディアンについてやってみよう思っていましたので、僭越ながら高橋さんの後を受けてトライしてみることにいたしました。

科学的一般論としては彼らの祖先は大陸から渡ってきたということですが、当の先住民たちは、自分たちの先祖はよその大陸から渡ってきたのではなく、あくまでもこのアメリカ大陸に起源を持つといいます。
実際、考古学的証拠が極めて少なく、連綿と語り継がれてきた諸部族の伝説では、天から降りてきたり(イロコイ族)、地下や海から上がってきたり(プエブロ、ナバホ族)、または木の洞穴から現れた(カイオワ族)、というものが多いようです。

2. 「苦難の歴史」 合衆国建国以前   資料1)図1)
1) 1492年 コロンブスの「新大陸発見」以前
*住民人口500万~1000万人 →1890年25万人  400以上の言語と社会集団 →150語以下

1492年にコロンブスがやってくるまで、アメリカ大陸には700万から1200万の先住民が暮らし、400以上の言語と、それを話す同数の社会集団がありました。1890年までの約400年で人口は25万人に、言語も150語以下に激減。

*元前1000年前~ 自然と共生、高度で複雑な社会
大陸発見のはるか前、紀元前1000年ごろには、先住民は北アメリカ各地ですでに高度で複雑な社会を築いていました。地域によって大きく異なる自然環境に適応して生かし、部族ごとに個性豊かな暮らしを営んでいました
部族間では同盟をいくつも結び、幅広いネットワークで様々な交易をしていていました。信仰は生活の中心で、季節ごとに複雑な宗教儀礼を行い、聖地を崇拝し、祖先・動物・植物に宿る霊的存在と交流し、メディスンマンと呼ばれるシャーマン的賢者を中心に社会秩序を構築し、理にかなった子育てをしていました。

*族間同盟(例:イロコイ連合)、交易ネットワーク、信仰と宗教儀礼、‶メディスンマン″理にかなった子育て、合議制政治、土地は共有
政治は合議制で 指導者は多数決や世襲ではなく、能力を重視した合議で決定、土地はあくまでも“集団”の所有であり、部族間では争いもありましたが、どちらかの部族が殲滅されることはなかったといいます。 (*)イロコイ連合:15C前半ニューヨーク州カナダモンタリオ州に住む5部族(モホーク、オネイダ、オノンダガ、カユーガ、セネカ)の政治的連合

2) ヨーロッパ人到来
・・・ 先住民はヨーロッパ人を「客人」として  ヨーロッパ人は先住民を「野蛮人」として  自然の大地=空地

部族ごとに文化が異なって当然だった先住民は、ヨーロッパからの渡来人に対しても当然の儀礼として、まずは暖かく迎え客としてもてなし、対等な交易相手とみなしましたが、渡来したヨーロッパ人は彼らの高度で複雑な文明を理解することはなく、その容貌や言語、慣習や宗教が自分たちとは違うという理由で、「野蛮人」とみなしました。

3) 主な列強の北米植民地政策
以降、列強による植民地競争が始まります、ヨーロッパ勢の先住民との接し方は多種多様でしたが、当初は数で勝るインディアンの協力を得ずにはどの国も新天地で生き残ることはできなかったといいます。

①スペイン:米大陸南部、カトリック改宗目的、金銀鉱山、奴隷、「先住民は野蛮」レッテル、 『インタカルエラ 1943年』
スペインはインディアンをカトリックに改宗目的、主に大陸南部に次々と布教所をつくり、金・銀鉱山で先住民を強制的に働かせたり奴隷として売ったりし、これを正当化するため、「インディアンは野蛮」というレッテルを最初にヨーロッパに流布します。ポルトガルと派遣を争い、教皇が発布した勅令「インタカルエラ」 で優位に立ちましたがフロリダ割譲、メキシコ独立で失敗に終わります。
(代わりにポルトガルはブラジル&アフリカを   トルデリシャス条約1494年)
南米では成功、(コルテスアステカ王国  やピサロ インカ帝国)したものの北米ではフロリダ→アメリカに割譲、メキシコ→独立し終焉

②フランス:「点と線」  東部森林地帯 水脈沿いに交易所、先住民と毛皮交易(ビーバー⇔銃器) 協力と同盟 最も友好的
フランスは毛皮交易で東部森林地帯の水脈を制しながら点々と交易所を置き、当時フランス上流社会で流行していたビーバーの毛皮と銃器と交換する交易を先住民とおこない、これには広大な土地も、恒久の入植地の開拓も必要なく、逆に先住民の協力が必須だったため、列強中最も先住民に友好的だったと言われています。部族と同盟関係を結びつつ、部族同士の敵対関係を巧妙に利用します。この点を線で繋ぐようなフランスの交易は、次のイギリスによる「面」をじわじわと拡げるようなやり方に凌駕されていくことになります。

③イギリス 第一陣:1607年ヴァージニア州ジェームズタウン 「面」の植民地経営  「清掃と植民(クリアランス&プランテーション)」
イギリスの植民地は1607年にヴァージニアのジェームズタウンで第一陣が始まります、阿部珠理氏によると、フランスの点と線に対しイギリスは「面」の植民経営でした
フランス・スペインは国王がお金を出すのに対し、イギリスは議会が財布の紐をにぎっており、君主が特許状を出し、冒険的貴族が入植地の建設運営、野心的中流商人層が入植合弁会社に私財投入する、というやり方で、典型的なのがウォルターローリー卿によるロアノーク島植民地計画
大量にやってきたのは毛織物工業が発達した本国を追われた農民たちで、植民地を経営する貴族は先住民に武力を誇示して強引に土地を割譲させ、抵抗すれば殲滅して清掃クリアランスし、そこへ本国からきた移民を移植プラントしていくという植民地経営で、じわじわと「面」を拡げるように先住民は土地を奪われていきます。強い酒に酔わせて契約を結ばせたり、先住民が珍しがったビーズなどのガラクタや、水で薄めた酒を土地と交換させる、などのやり方で、マンハッタン島はビーズ玉と交換し、ただ同然で手に入れたと言います。

④イギリス 第二陣 1620年ニューイングランド プリマス  ‶巡礼始祖ピルグリムファーザーズ″ 資料2)
・・ピューリタン:厳格な聖書原理主義 資料6)  国家起源神話 「感謝祭」
厳格なカルヴァン主義を信仰し、その苦難をともに分かち合い信仰のために前進するピューリタンの「巡礼始祖」 は、その上陸前に、明確な文字にした誓約書「メイフラワー・コンパクト(メイフラワー号の誓約)」資料2)を交わし、神に選ばれた民セイントは、彼らの信仰に反するものの断罪は当然の使命であるという志で植民地を拡大し1643年にはニューイングランド植民地人口15000人中セイント1708人という階層社会を形成します
そこの先住民ピクォート族が彼らに警告するためイギリス人二人を殺した仕返しに、600人を惨殺したピューリタンは、「異教徒の悪魔たちが地獄の窯にくべられた」ことを神に感謝しました(1630年)
「感謝祭」 ・・・農耕・漁業をインディアンから学び、最初の収穫を祝った
前回話題に上がった感謝祭は、プリマス初期の両者に起きたいい話を、合衆国独立後に、アメリカ国民統合のため掘り起こされた、国家起源の神話でした。
上陸当初のプリマスでは、ピューリタンたちはインデアンと有効的関係にあり コーンやパンプキンといった農耕や漁の仕方をインディアンから教わり、その最初の収穫をともに祝った、というのがいわゆるアメリカで毎年11月に祝われる「感謝祭」の起源と言われています。が、この「感謝祭」が国民的休日として祝われるようになったのは、アメリカ合衆国建国以降でした、アメリカが国家として出発し国民的統合が緊急の課題であった時に、プリマスでのこの“いい話”(本当にあったがその後の感謝祭の始まりかどうかは不明)がアメリカ人の共通の物語として位置づけられ「、国家起源神話」として補強されアメリカ人に浸透していきます

4) 「病原菌の処女地」に持ち込まれた病気の衝撃
*戦争を上回る猛威  100年で 人口→30~10%  死亡率100%  子供と老人 (未来と知識)が ‶一夜にして消えた″
ヨーロッパ人が「病原菌の処女地」であるこの大陸に接触してから、最初に先住民を襲ったのは、彼らとその家畜が持ち込んだ病原菌、疫病でした。
最初の100年で戦争や虐殺を上回る猛威で、驚愕する数のインディアンが死亡、人口は30%を下回るまで激減しました
天然痘、ペスト、コレラ、マラリア、黄熱病、といった疫病の 二つ、もしくはそれ以上が同時に襲ったといいます。
ひとたび感染者が出ると、経験も免疫も知識もない村から村へ爆発的に拡がり、場所によっては死亡率は100%に(例:イスパニョーラ島800万人→ほぼゼロ、天然痘:カリブ諸島半減・ロアノーク植民地死亡率95% ニューイングランド7万人→1.2万人)
とくに弱者である子供と年寄りはひとたまりもなく、子供という共同体の未来と、年寄りの口伝で語り継がれる彼らの歴史、文化、民族の知恵や知識のすべてが、一夜にして消滅したといいます。指導者たちも病に倒れ先住民部はその重要な担い手を失い弱体化します

*人が居なくなった土地→植民地化を容易に ピューリタン: 「清掃」  ‶神は病原菌を遣わし、自らの手を汚すことのないよう土地を空けてくれた″
こうして人が居なくなった村に後からやって来ることで、先住民と接触することなく容易に植民地化できたピューリタンはこの事態を
神による「清掃」 と称し ‶神は病原菌を遣わし、ピューリタンが自らの手を汚すことのないよう、土地を空けて(クリアして)くれたのだと考えた″と考えたと言われています(オブライエン・G)資料2、資料6
このピューリタンたちがやがて中心となってやがてアメリカ合衆国は独立を果たし、建国の立役者WASPの始原となっていきます。
「選ばれしピューリタン」は神への奉仕としての労働、勤勉、質素倹約により富の蓄積を重ねて社会資本を充実させて資本主義を勃興し、やがて世界大国へと成長していくその過程で、先住民はいかにして土地を奪われ、どれほどの犠牲を強いられていったのでしょうか。

3. アメリカ合衆国の 「清掃(クリアランス)」政策 ・・・イギリスの政策を引き継ぐ 契約と反故

イギリスから独立したアメリカ合衆国も、基本的にはイギリスの「クリアランス政策」を引き継ぎ、さらに先住民の土地を取り上げるため、表向きは契約を結びながら、不利な条件は反故にしていきます

1) 「合衆国インディアン局(BIA)」創設(1824年) 図2)

*平和共存路線  →強制移住/同化政策 の急先鋒 (現在:部族自治権尊重をモットー)
1824年、対インディアンの政策と交渉の拠点として、合衆国インディアン局BIAが創設されます。
当初、平和共存を目的に作られたBIAでしたが、まもなくその路線は先住民の強制移住と白人社会への同化政策に変更し、その急先鋒となります(現在:部族自治権尊重をモットー)

2) 「インディアン強制移住法」1830年 アンドリュー・ジャクソン大統領(1829年就任)
*ミシシッピ以西の不毛原野:「インディアン・テリトリー」(現オクラホマ州)」へ10万人  図3)-①②

1829年アンドリュー・ジャクソン大統領が就任すると、その翌年、「インディアン強制移住法」が制定され、インディアン諸部族を肥沃な父祖伝来の土地から、ミシシッピ以西の広大で痩せた不毛な土地、現オクラホマ州のインディアン・テリトリー
へ立ちのかせる法律が国家によって承認され、約10万人の先住民の強制移住が始まります

*抵抗の戦い:ブラック・ホーク、「涙の旅路」1838-39チェロキ-&クリーク族、 「ナバホのロングウォーク」1862
①ブラック・ホーク
サック族首長のブラックホークは承諾なしに売却された土地から立ち退くことを拒み政府軍に抗戦、制圧され部族の大半は殺害
②「涙の旅路」
チェロキーとクリーク族は、1838-39冬 インディアン・テリトリーへ千キロを超える道のりを強制移住、政府は十分な準備をせず、飢えと寒さの中コレラが蔓延 75000人が旅の途上で死亡します(1/4)
③ナバホの「ロングウォーク」1862年
ニューメキシコ州のナバホ族に対しては、わざと作物や家畜に大被害を与えて土地の明け渡し同意に追いこみ強制移住させます凍てついた雪と岩の道350マイルを歩かせ、疲れや病気で動けなくなったものを射殺し、移住先でも飢えと寒さに耐え忍ぶ暮らしでした

3) バッファロー大量殺戮 1800年~1895年  平原インディアンの「命の糧」
*‶皮1枚3ドル″を職業・趣味とする白人ハンター殺到  4000万頭→1000頭~300頭以下
1800年ごろ平原インディアンにとって命の糧であった、バッファローの大量虐殺が始まります。
1枚たった3ドルのバッファローの毛皮を手に入れるためだけに、これを職業や趣味とする白人ハンターが殺到し、1800年には4000万頭いたバッファローはほぼ全滅します

*「できるかぎりのバッファローを殺せ、バッファロー1頭死ぬ度インディアンが一人死んでゆく」(ドッジ大佐)
というドッジ大佐の言葉のとおり、生きるのに必要なすべてをバッファローから得ていた平原インディアンは、一気に追い詰められていきます。
インディアンは食料を得るために一頭のバッファローを苦労して狩ると、アイヌのイヨマンテのように、宗教儀礼をもってその魂に感謝をささげました。ハンターが去った後の平原は、皮だけを剥がれたバッファローの腐った死体で埋め尽くされたといいます。

*仕事を奪われた男性先住民 →部族内権威・存在感の喪失、アルコール依存症、部族内秩序崩壊
家族のために獲物をとってくるという伝統的な役割を奪われたインディアンの男たちは部族内での権威と存在感を失い、自尊心を失ってアルコール依存症に陥り、部族の政治的秩序が崩壊していきます。

4) 居留地=「強制収容所」での隔離と貧困
*バッファロー消滅・農耕不可→生活困窮→生活保護・配給・出兵  南北戦争1861-65年
制移住先の辺境で待っていたのは、隔離された生活と、宣教師たちによる改宗でした。
居留地は「強制収容所」と称され、毎朝出頭して所在を確認、居留地の外に自由に移動することは禁止、アリゾナ州では勝手に外へ出た先住民の射殺が認可されていました
バッファローが取りつくされ、痩せた土地では農耕もできず、極度の貧困に陥った先住民は、連邦政府の生活保護と配給に頼らざるを得なくなり、男たちは南北戦争に駆り出されていきます。
両軍ともに多数の先住民が従軍したが、どちらについても悲惨で、部族は引き裂かれ男たちは命を落とし、家や村は焼き払われた

5) 「ホームステッド法」1862年  西部開拓一気に加速 →インディアン居住地の崩壊
*開拓者の群れ、ゴールドラッシュ、森林伐採、 大陸横断鉄道完成、疫病
1862年「ホームステッド法」以降、さらなる開拓民が押し寄せ、ゴールドラッシュは先住民をどかせ、森林は許可なく伐採され、 マラリアで二万人が死亡、大陸横断鉄道が完成してフロンティアラインが一気に加速、人の群れと鉄道と疫病がインディアン居留地を横断し、フロンティア消滅までの30年で崩壊の一途をたどります

6) 無数の抵抗戦と殺戮 ・・・1864~75年 全米で1000件
白人と先住民の関係は劇的に悪化し、各地で先住民の抵抗と反乱がおこります。無数の戦争、制圧と殺戮が繰り返されて、1890年まで止むことなく続き、全米で1000件に上りました。代表的なもののうち、3つのみ

①「サンドクリークの戦い」1864年コロラド 映画『ソルジャー・ブルー』1970年 資料3)
その一つ「サンドクリークの戦い」は、インディアンに対する戦争犯罪中、屈指の残虐行為とされるもので、その史実を再現したのが、前回、内田先生が仰っていた:映画「ソルジャーブルー」ですが、実際は映画の何倍も残忍だったことが、資料3)米軍指揮官通訳ロバート・ベントの証言からわかります。
コロラド州サンドクリーク インディアンを嫌悪するシヴィントン大佐11月末重装備のコロラド兵800名を率いて、野営中のシャイアン族がアメリカ国旗を掲げて友好を示していたにもかかわらずこれを襲い、100人を超える婦女子と20人を超える男たちを惨殺。

②「リトル・ビッグホーンの戦い」 1876年モンタナ 、インディアン最後の勝利戦  ‶死ぬにはよい日だ″ロー・ドッグ(スー族指導者)
1876年、「ララミー砦条約」の連邦政府による反故が原因でラコタ・スー族とカスター中佐の軍が激突、先住民側が勝利した最後の戦いでした(指導者クレイジー・ホース、シッティング・ブル)が、 米軍カスター中佐の死は白人を激怒させ「カスターの死を忘れるな」という合言葉を生み、インディアン破滅へ油を注ぐことになってしまいます スー族指導者ロー・ドッグの「死ぬにはよい日だ」という言葉が有名

③「ウンデッド・ニーの大虐殺」1890年サウスダコタ で終焉    よいインディアンは死んだインディアンだけだ″FHシェリダン将軍   → ベトナムW
先住民の武力による抵抗も1890年のウンデッド・ニーの大虐殺で終焉を迎えます
ラコタ・ス―族の宗教儀礼ゴーストダンスの異常な盛り上がりに脅威を感じた米軍は、「カスターを忘れるな」と叫びながら、部族の男女子供300人を惨殺
「よいインディアンは死んだインディアンだけだ」 FHシェリダン将軍1869年
→ベトナム戦争時「よいベトナム人は死んだベトナム人だけだ」 という言葉に引き継がれたと言われ、アメリカ人の無反省をうかがわせる

7) 分割と同化 = 土地を取り上げる・インディアンの誇りと魂を殺す
軍事力による制圧だけでなく、連邦政府は数々の同化政策によって、インディアンの文化とアイデンティティを根こそぎにしようとしました。ここで「インディアンの子育て法」について少し触れておきたいと思います

*「インディアンの子育て法」
先住民の文化は多様でしたがどの部族も子育ては同じでした。
大人の都合に合わせた段取りよりも、子供の願いに答える方が大事とされた。トイレのしつけや離乳の時期については子供がその気になってから行われ、走ったり泳いだり馬に乗ったり自然の中で自由に遊びながら学び、疲れたらいつ寝ても、いつ食べてもよく、知恵と知識の宝庫である祖父母から歴史や伝統を学んだ。大人は子供を叱ったり強制したりせず、規範に外れないよう最小限の指示をするにとどめ、やがて思春期を迎えた子は部族伝来の通過儀礼を経て大人になっていきました。
この素晴らしいインディアンの子育てに対し、米連邦政府とBIAが打ち出した最もひどく、かつ効率の良い同化政策
が「寄宿学校」制度でした。

*「寄宿学校」1870年  (~1934年「インディアン再組織法」まで) 保留地内85校/外25校
‶インディアンを殺し人間を救え″(カーライル実業学校モットー)
インディアンの「標(サイン)」を消し去る →アイデンティティの抹殺  トラウマと暴力の連鎖 高い自殺率 資料4)
BIAは1870年先住民の”文明化”に部族単位の集団生活が最大の障害と判断→イの子供を強制的に寄宿学校に入れる政策に出ます。
家族・コミュニティから子供を引き離して再教育し、親が拒否すれば食糧配給を止め、子供を隠せば警察が引きずり出して連行、キリスト教への改宗と、男子は農民や労働者、女子は白人家庭の家政婦にするための職業訓練が主で、高等教育はなく、社会へ出ても最下層に組み込まれていきました
カーライル寄宿学校のモットーは「インディアンを殺し人間を救え」で、その神髄は「インディアンであることの「標(しるし、サイン)」を徹底的に消し去ることでした
インディアンの命が宿る大切なしるし「長い髪」が切られ、「民族服」は洋服に、英語名をつけられ母語は禁止、返事しなかったり母語を一言でもしゃべると、強アルカリ石鹸で歯を磨かされ口の中がただれました。隔離され、規則違反・脱走すると、女子は上半身裸にされ互いに鞭討つ、といった残酷な体罰や折檻がなされました。
地獄のような晴天の霹靂に耐え切れず、「魂」を抜かれて廃人同然になる子、幼い子は淋しさから摂食障害で餓死、ある寄宿学校のはずれには500人もの子供が埋葬されているともいわれています
寄宿学校を生き延びた後もトラウマで苦しみ、暴力の連鎖を生んで家庭内暴力や女性虐待、アルコール依存症となった例も多く、先住民の自殺率が全米平均より高い原因の一つとされます。資料4)
しかも寄宿学校政策は安上がりで、対先住民戦争にかかる1/4の費用で三万人の子供を同化できました
英語教育によって、400種あった言語のうち、若者が話せる母語は35種に、寄宿学校から居留地に帰ってきた子供たちと旧世代との間には言葉の壁から軋轢が生まれます。
が、英語が話せることが皮肉にも若者にとって、後の人権回復運動や自決の闘いの武器となっていきます。

*「一般土地所有法”ドーズ法」1887年  部族の土地を減らす・・・共同体の細分化と破壊、 「部族員名簿」 :公の家系図
1887年一般にドーズ法と呼ばれる法律が制定されます。
居留地の土地を細分化して分け与え農民にするというもので、移住先の先住民共同体を、さらに体よく解体することが目的でした。土地は切り刻まれて先住民に与えられたのは痩せて農業に不向き、信託期間の25年は貸借・売却禁止、 25年たっても発生する財産税は貧困で支払えず、結局二束三文で売却、土地は細分化され解体、共同体は破壊されていきました。
この時、土地を分けるにあたって誰がどこの先住民であるかを明確にするため、血筋をベースとした「部族員名簿」が作られました。この時作られた名簿が後々まで「公の家系図」として基礎づけられ、以降加えたり修正されることはないまま、部族員認定のための絶対的な証拠として現代まで使われていくことになります。

8) ‶光が差す″   「インディアン再組織法」1934年   ‶インディアン・ニューディール″ ジョン・コリア- 連邦インディアン局長就任 資料7)
20世紀に入りようやく光が差し始めます
*部族政府組織化と自治権の強化、連邦・州政府と相互的な関係:部族政府設立、部族憲法・部族政府議会、寄宿学校廃止、強制せず住民投票
1928メリアムレポートと呼ばれる、居留地の窮乏生活を白日の下にさらし、BIAを厳しく非難した衝撃的な報告書が登場します、この流れのなか、
1933ルーズベルト政権が誕生、ニューディールの追い風にのり 連邦インディアン局長に就任した改革者ジョン・コリア-は
「インディアン再組織法」いわゆるインディアンニューディールなる改革法案を成立させ、強制収容所といわれた居留地にようやく光が差すことになります。
再組織法とは、部族政府の組織化と自治権の強化 連邦政府・州政府との対等で相互的な関係を回復しようというもので、 寄宿学校がここで廃校になり、ドーズ法は廃止、インディアン局に先住民職員を増やし、部族ごとに自治政府を設立、部族憲法制定し部族政府による議会制民主主義を促進するものでした。法律の採用については部族の住民投票にゆだねて強制しませんでしたが、全部族の2/3が採用します
再組織法は、ドーズ法による土地の喪失は食い止めましたが、先住民が失った土地のすべてを取り戻すには程遠いもので、
政権が変わると、ふたたび同化政策が復活、さらに状況は悪化することになります

9) 「終結政策」と「転住プログラム」  ~終わらない同化政策
*「連邦管理終結政策」1953年 ディロン・メイヤー インディアン局長就任 ‶部族の自立促進・自由・平等″
居留地を分けて個人所有へ→収税対象、援助廃止、部族の解体、部族員資格喪失、自立支援・インフラ整備約束→反故
1953年:ディロン・メイヤーがインディアン局長に就任し「インディアン終結政策」を打ち出します
名目上は‶部族の自立促進・自由・平等″でしたがその内実は、同化政策への逆戻りでした
これにより、再び居留地は細分化され、部族員の個人所有が復活、政府は土地を与えて援助は打ち切り、代わりに職業支援・インフラ整備を約束します、部族は再び解体され、所属する部族を失った多くの先住民はこのとき部族員資格を失います。
先住民の権利を捨てさせ、マイノリティの一般市民にするこの政策は、居留地の援助や開発予算の削減が目的で、ほぼ強制的に施行されました
見返りとして約束された職業やインフラ整備の支援はなく、個人所有となっても結局土地を生かせず生活が改善されることはなく、収税義務だけが発生した土地の税金を払えず、多くは売却せざるを得ませんでした。(これによって約10年で109部族が承認を取り消され、130エーカーの土地が売却され、先住民12500人が部族員資格喪失したといわれます)

*「インディアン転住プログラム」 ‶豊かな暮らしを求めて″都市移住推進  居留地との繋がりを絶つ  →部族社会の空洞化
スラム街、孤独、陰湿な人種差別 →適応できずアルコールやドラッグへ *「ジム・クロウ法」1876-1964
仕事がなく貧困にあえぐ先住民にBIAは、終結政策の一環として、都会への移住を勧める策に出ます
片道切符代・引っ越し費用・短期の生活費等々を餌に、都市部への転住を促し、仕事は軍需工場の単純労働等を斡旋、転住先として指定されたスラム街での孤独な生活で待っていたのは、縁者に囲まれた居留地では感じることのなかった激しい人種差別でした。適応できずアルコールやドラッグへ走る先住民が多数発生しました。
BIAの真の狙いは、出稼ぎではなく都市に永住させることで 居留地との繋がりを絶ち、部族社会を空洞化させて、居留地に根強く残るインディアン文化を完全に消すことでした

(*)都市での人種差別―「ジム・クロウ法」:有色人種(レッドも含む)を白人から病院・学校・交通機関等全域において隔離 1865年奴隷制廃止→南部諸州が次々と制定1896年最高裁判所が認める判決以降、1964年公民権法成立まで米の人種関係を規定

*「都市インディアン」の誕生   新たなアイデンティティと民族自決ムーブメント

都市部への転住 →先住民の45%  第二世代の増加 人種差別 →民族的起源を自覚 部族を超えたアイデンティティの磁場
→「汎インディアン運動(レッドパワームーブメント)」、「インディアン自決・教育援助法」1975年:インディアン局の支配と管理に歯止め

「転住プログラム」によって1950年代には、先住民の実に45%が都市部に居住するようになります。その結果、都会で生まれ育ち、居留地も先住民文化も知らない第二世代が増加、 都会での人種差別は彼らに逆に民族的な起源を深く自覚させ、「都市インディアン」というアイデンティティを共有した新たな先住民の磁場が生まれます。居留地との繋がり喪失したことで逆に部族を超えた団結を生み、60年代の全米各地での公民権運動の流れにのって、「汎インディアン運動(レッドパワームーブメント)」 が都市インディアンを中心に起こっていきます
1975年には「インディアン自決・教育援助法」成立 インディアン局の実質支配と管理に歯止めがかかり、
それまで白人側からの被支配者研究でしかなかった「アメリカ先住民研究」が、全米各地の大学で立ち上がり始めます

1961年「全国アメリカン・インディアン議会(NCAI)」 90部族から500人の代表者 先住民の権利回復・将来の仮題を議論
「全国インディアン青年評議会(NIYC)」 公民権運動・ベトナム反戦運動の流れに乗る、よりリベラル色強く活動的で若い世代中心、以降汎インディアン運動の中心的存在に
抗議活動
「アルカトラズ島の占拠」1969-1971 フォート・ララミー条約を盾に「Better Red Than Dead(死ぬくらいなら赤として生きる)」・・・米ソ冷戦中「赤」のイメージから社会主義バッシング
「破られた条約の旅」1972年 1000人以上の先住民西海岸からワシントンDCまで歩く
「ウンデッド・ニーの教会占拠」1973年パインリッジ居留地 (AIM)アメリカン・インディアン・ムーブメントと先住民運動支持者 ウンデッド・ニー:血にまみれた先住民の19世紀の終わりを象徴する場所
→メディアの注目
(1960年代の公民権運動の拠点となったのは全米各地の大学キャンパスーアファーマティブ・アクション(差別是正措置)を取り入れる)

4. 先住民の今
1) 貧困と先住民  ~居留地インディアンの約30%が貧困水準以下  ‶あまりの格差″「別世界」「アメリカの第三世界」 移民との違い
平均年収7942ドル/人 =全米平均の1/3(Jカルト&Jテイラー ハーバード大学)
貧困水準以下の人口が、先住民はどの人種よりも多いことがわかります
あまりの格差に「別世界」「アメリカの中の第三世界」とも言われ・・(映画『サンダー・ハート』では主人公の都会育ちの二世が初めて踏み入った自分の父親の故郷の居留地のありさまを目にして絶句するという場面が出てきます)( 『スモークシグナルズ』)
移民との違い
他の移民は子孫の代で慣れ貧困から脱出の可能性有るが インディアン;最も長い期間貧困から脱却の術を持たず貧困を再生産し続けてきたと言われています。現代も先住民の抱える諸問題の多くは極度の貧困に起因していると言います
ハーバード大学インディアン経済開発センターのJカルト&テイラー教授によると、カジノを有する部族を除く居留地先住民の平均年収7942ドル/人=全米平均の1/3で、24%の住宅には配管設備がなく、家には今もお湯や水、水洗トイレ、湯船もシャワーもないそうです。

*「貧困病」: ‶最も不健康な民族″ 配給品のみの食生活  糖尿病: 「コモディティ(配給)・ボディ」
この極限の貧困と生活の急激な変化が、彼ら特有の様々な病気をもたらしており 「貧困病」といわれ 先住民は全米で最も「不健康」な民族と言われています
高い疾病率は貧困と食生活の変化に起因しています。
貧困にあえぎ、狩猟や農耕といった仕事がなく運動量が激減した先住民は、「支援」という名の政府の配給物資、安価で高カロリーの粗悪な食事に頼らざるを得ず、食生活の急激な「アメリカ化」 が起こります。
かつてはバッファロー/トウモロコシといった主食からビタミンやミネラルも豊富に取っていたが、安価な加工食品に含まれる過剰な脂肪や防腐剤・添加物・砂糖、炭水化物だらけの食事で、肥満した体を彼らは自嘲的に「コモディティ・ボディ」 コモディティ=食糧配給と呼びます。同化政策以前になかった虫歯、肝硬も変急増 最も深刻なのは糖尿病で、全米平均の2.5倍、死因の5.7%、10歳から19歳までの先住民の罹患率は白人の9倍にのぼります、(アリゾナ南部ピマ族:35歳~64歳の女性の85% ネブラスカ州ウィネバゴ族:45歳以上の80%

*高い失業率・狩猟民の自尊心 →軍隊へ
また高い失業率から、軍へ入隊する先住民は多く、インディアン男子にとっては伝統的にコミュニティのために戦士として戦うことで、狩猟民としての自尊心を回復し、アメリカという国家の一員として認められる数少ない選択肢の一つでした。そこを巧妙に政府は利用し、南北戦争以来先住民は二つの大戦(映画『父親たちの星条旗』)、朝鮮、ベトナム、湾岸、イラクといったすべての戦争に従軍し 危険の最前線でアメリカの戦争に貢献してきました

2) 核と先住民  ~先住民の貧困と犠牲の上に  居留地は天然資源の宝庫&核開発の最前線
*第二次世界大戦~冷戦期~現在 居留地でウランを採掘  米ウラン鉱山・原子爆弾生産・実験場・核廃棄物処理場 の90%は居留地に
当たり前のことですが、北朝鮮だのイラクだのの核に騒いでいる当のアメリカ自身、今この瞬間もどこかで最新の核兵器の実験と開発を続けています。その場所こそが「辺境」居留地です
アメリカ連邦政府は不毛、不要の土地に先住民を追いやりましたが、実はその辺境の地こそが天然資源の宝庫であることが後にわかります(シャイアン居留地:石炭、ケチャン居留地:金鉱、ナバホ居留地:石炭・ウラン鉱山)
第二次世界大戦から冷戦期、現在にいたるまで先住民居留地は実はウラン採掘と核開発の最前線でした。
この様子は映画「サンダー・ハート」にも出てきます
原子爆弾の生産と実験場、核廃棄物の処理場、米ウラン鉱山の実に90%は先住民居留地にある
*‶居留地にウラン″は好都合・・・安価で酷使できる先住民  →白血病・ガン続出
居留地にウランが発見されたことは連邦政府にとっては皮肉にも、好都合でした
失業と貧困にあえぐ先住民は、安価で酷使できる労働力だったからです
居留地はウラン採掘によって放射能汚染され、開発企業は十分なリスクの情報開示と防御措置を取らず、先住民に白血病・ガン続出しました

*「ロスアラモス研究所」プエブロ族居留地 ‶秘密の研究所″  「ネバダ実験場」ウエスタン・ショニーニ族
隔離された辺境の地は国家機密プロジェクトの最適な拠点です。、
ロスアラモス研究所
は「秘密の研究所」といわれ、一流の科学者が集結 第二次大戦当時は、ナバホ族が採掘したウラン鉱石がロスアラモスに運ばれて、広島・長崎の原爆の材料となりました
電機も水道もない家が並ぶプエブロ族居留地のすぐそばにあり、実験でときおり大地が揺れ異臭がたちこめるそうです
ダム決壊でウラン流出し6000倍の放射能が漏れ、ガンが増加、1990年までに450人のナバホ族元鉱夫死亡
ネバダ実験場
ネバダではウエスタン・ショニーニ族に連邦政府が土地の所有権を認める条約(ルビー・バレー条約1868年)を結びながら権利は反故にして実験場を作り、環境破壊でもはや誰も住めなくなった。
辺境に置かれている各居留地では高レベル放射能廃棄物の貯蔵施設受け入れをめぐり反対派との賛成派の間で反目がおこり、共同体が分裂している例が少なくありません(メキシコ州メスカレロ・アパッチ、ユタ州SVゴシュート族、カリフォルニア州カンポ族
失業率の高い居留地では、こういった研究所や核の迷惑施設に職を得る先住民も当然ながら多く、原発に頼らざるを得ない実情があります

*‶核=迷惑施設″との共生    雇用促進・経済発展⇔環境汚染・破壊
雇用促進や経済発展を産むのと裏腹に環境汚染や破壊を生み、貧困ゆえ選択肢が他になく誘致を拒否できない居留地が多く、米の核開発とエネルギー産業は居留地の貧困と犠牲の上に成り立っているといえます

3) 先住民とカジノ  ~起死回生の生き残り策  賭博産業をビジネスチャンスに
*1990年~カジノ経営:全米224部族 「インディアン・カジノ」総数387
利益 1988年2億1200万ドル/年→2006年250億8000万ドル/年 全米賭博総収入の42%
1990年~迷惑施設の誘致だけでなく、賭博産業を新たなビジネスチャンスにしようという動きがおこり
現在では全米224部族がカジノを経営 、「インディアン・カジノ」総数387(2006年)に登ります
利益は年々増加しており、 図5)-1今や全米賭博総収入の42%にのぼります
州別トップ;カリフォルニア州/ネバダ州 部族別ではマシャンタケット・ペクオート族(77億ドル)

*1970年代~地味な賭博施設(ビンゴゲーム)が拡大→セミノール族がフロリダ州に勝訴→居留地にカジノブーム
1970~80年代 連邦政府が貧窮する部族の経済発展と自立を促すためカジノ産業への参入を促進ーベトナム戦争で経済疲弊した政府が、部族政府への援助削減することが目的でした
始めはビンゴなどの地味な賭博施設として始まり、次第に大きな利益を上げる賭博産業に発展
「インディアン賭博規制法」 1988年 70%以上を部族に還元 ⇔ラスベガス(営利目的)との理念の違い
1988年 カリフォルニア州他で同様の訴訟が頻発したため、連邦議会は「インディアン賭博規制法」 を成立
これによりカジノ収入の70%以上を部族社会に還元することが義務付けられ、営利目的のラスベガスなどとは違い、理念が生まれました  配当方法は、
1部族員への配当・奨学金 2社会福祉関連施設設立 3経済開発 4慈善的寄付/自治体への助成 図5)-2

ただしカジノを開くときは州政府と契約を結ぶ規定で、ギャンブルの影響大きいため州政府と対立・裁判も多数起こっているからです
カリフォルニア州政府やラスベガス(ネバダ州)の反対→住民投票の結果メディア戦略で勝利・・・初めて先住民自ら法案作成・州の民意を問い政治に訴えることができたのもカジノ経営成功による資金力のたまものといえます。
シュワルツェネッガー カリフォルニア州知事2003年共和党
「インディアン賭博収入再分配信託資金」制度樹立:カジノで利益を上げた部族の収益の一部を州政府に寄付→貧困に苦しむ部族に再分配

*起死回生と部族間経済格差  自治権&財力  → ‶もてる部族″と ‶もてない部族″ セミノール族ハードロックカフェ買収
‶どの部族に属しているか″ → 配当金・生活保護  >文化歴史的アイデンティティ    「インディアン=ギャンブル」 イメージ
カジノによる起死回生は先住民部族に大きな財力をもたらし、結果、政治的に強い立場と自治力、存在力を確実に向上させましたが、ここにもてる部族ともてない部族の圧倒的な格差が生まれてしまいます
部族員3300人のセミノール族 は2006年イギリスのハードロックカフェ事業を買収、部族員の配当金は一人当たり45,000ドル/年500万円にのぼります(『セントピーターズバーグ・タイムス(2006年2月8日)』)
(鎌田氏によると、)一人当たり年間2億円以上(200万ドル2002年)の部族もあるらしく
今や「インディアン=ギャンブル」のイメージが定着しつつありますが、成功しているのはほんの一握りで、カリフォルニア州9%、全米6%にすぎません
また、格差が大きくなり、どの部族に属しているかが経済状況に直接影響するため、文化的歴史的アイデンティティより配当金が優先される場合があるのも事実です。
複数の部族の血を引いている先住民が、何十倍も収入が変わるため、より割の良い部族に所属変更するケースが後をたたず、一部の部族には部族認定申請が殺到していると言います。
部族政府が部族員を減らして一人当たりの配当を増やし訴訟になったペチャンガ族では、
部族員数1475人中、労働人口25人 失業率95%に達しながら 部族員一人あたりの配当金は 月15000ドル165万円

*「依存症」 ・・・‶壊れる″先住民 ペチャンガ族 失業率95% 月額15000ドル(165万円)/人
極貧状態に莫大な収入が突然入るようになれば、人は壊れるのは当然で、ギャンブル「依存症」も深刻化しています
カジノに絶対手を出さないという部族もあり、彼らに言わせると「娯楽がない居留地で、自分の経営するカジノで一日中、生活保護や配当金を擦っているだけ」だと言います

4) イメージの変容 ‶先住民になりたがる人たち″ 増え続ける「先住民」 20C後半~
先住民は今も圧倒的マイノリティであり、不遇なる「消えゆく民」であったにもかかわらず、実は1950年以降、その数を増やし続けています。
6) ここでいう「先住民の数」とは国勢調査により、連邦政府や部族政府に先住民と認定された人の数のことをさします。

「先住民アイデンティティ」 として鎌田遵さんによると、
①血筋(生物学・遺伝的)  ②部族政府認定の「部族員」(法的・政治的権利)  ③部族固有文化の知識・精神的帰属意識(文化的継承)
の3つがあり、この3つがそろって備わっているケースはむしろ少なく、 この3つは別物ということになります。
自分はどこそこの部族の血をひている、または自分はその部族で育ち文化的にその部族員である、というアイデンティティをはっきり持っているにもかかわらず、法的に部族員になれないケースやその逆が普通に発生します
‶見た目″は関係なく判別不可    ‶部族員部族″≠ ‶出身部族・部族員アイデンティティ‶
ここで、外見‶見た目″というのは実はほとんど関係ありません。見た目には白くてブロンドで青い目なのに先住部族の部族員であったり、逆にどこから見てもインディアンなのに部族員ではないという人がたくさんいます。見た目は黒人で先住民というケースもあり(南米W後 先住民の奴隷も解放され部族員として登録)
(・・・アメリカ在住の兪先生にお尋ねしたとこと→外見では「まったくわからない」とのことでした)

*「部族員」 になると :居留地在住権、社会保障やサービス(カジノ高配当)
部族員が年々増加している理由のひとつとしては、正式な「部族員」には、居留地に住む権利、部族や連邦政府が提供する独自の(医療・教育・福祉等)社会保障サービスや支援政策も受けられる、ということがあります、またカジノの項でお話ししたように、多額の生活保護や配当金もあり、近年、部族員認定の申請は殺到しているといいます。
*「部族員」 になるには:部族員認定制度 :‶連邦政府が先住民部族と承認している部族″からの部族認定が必要
「部族員認定制度」 :基準は部族により異なる  「血筋の濃さ」 ; ‶1/4以上″が一般的 (8割の部族が採用)
都市部:多様な混血   例)1/4×1/4=1/8   →どちらの部族員にもなれず
新たに「部族員」になるのはそう簡単ではなく、連邦政府から部族として承認された部族から部族員認定を受ける必要があります。
これには その部族社会で生まれ育ったかどうか、や、部族の言語や文化に精通しているかどうかは関係なく、もっぱら血筋の証明が必要となります。その際の、血の濃さの規定は部族によって異なり、現在は1/4以上の血(クウォーター以上) というのが一般的で、8割の部族が採用しています。(ホピ族:両親のどちらか1/2 ~ イースタンバンド・チェロキー族:1/16イースタンバンド・チェロキー族)
しかし話はそう簡単ではなく、
両親が違う部族員で双方が1/4ずつの血を引いている場合、その子供はどちらの血も1/8となり
どちらの部族員にもなれず、同じ家族に先住民と非先住民がいることになります。
都市では多様な混血が生まれていますが、複数の部族の血を引いていても血の濃さの基準を満たさず、法的にどこの部族員にもなれない「部族難民」も多数発生しています。
一方で白人に認めてもらう必要はない、と認定部族としての承認自体をあえて受けない部族や先住民もいて、実情は複雑です。

*「部族員名簿」(ドーズ法1887年)のみが血縁証明 白人が作った制度・名簿→DNA鑑定
そもそも白人によって作られた「部族員認定制度」の起源は、1887年の「一般土地割当法(ドーズ法」に遡り、この時作った「部族員名簿」が唯一、血筋を証明する家系図として、当時のまま今日まで部族認定のもっとも重要な基準でした。しかしこの名簿は、白人との混血を(より同化しているという理由で)優先して作ったと言われ、今日では、DNA鑑定で証明する人も出てきました。
ここで触れておきたいのがエリザベスウォーレンです。少し前にトランプの失言で話題になりました。
*エリザベス・ウォーレン  米民主党上院議員 2020年大統領選  トランプ「ポカホンタス」
民主党の上院議員で、来年の大統領選に出馬がほぼ確実視されているエリザベスウォーレンは、昨年10月アメリカ先住民の6~10代前の先住民の血を引くことをDNA鑑定で証明、公表。
トランプは以前よりウォーレンを「優遇措置を目当てに先住民系だと主張してきた嘘つき」 「偽のポカホンタス」と揶揄と非難を繰り返し、こともあろうかナバホ族を称える行事(第二次大戦中部族の言葉を暗号として使い貢献)の席で「ポカホンタス」発言、先住民を侮辱したとして非難

(*)「ポカホンタス」ディズニー映画17C実在の先住民女性、捕らわれた英国人開拓者ジョン・スミスの命を救った

*「ワナビー」  want to be=なりたがる人  「真似るだけの偽物」  消費の対象、リベラルさの誇示、アイデンティティの空白
1960年代ヒッピー起源、インディアンルック流行、ニューエイジ、東洋的精神世界ブーム スローライフ運動(マインドフルネス)

また、こういった経済的・政治的理由とはまったく別の理由で、先住民になりたがる人たちも増加しています。彼らは嘲笑的に‶ワナビー″と呼ばれ、「スローライフ運動」の流れの中増えつつあります。
先住民の間では、スタイルだけを美化して真似る、先住民の実情を理解していない「偽物」と、嘲笑や批判の対象で、1960年代のヒッピーが起源といわれ、インディアンルックの流行に始まり、物質的主義からの脱却を求めて、それこそ前回の桧垣さんの発表「マインドフルネス」などのブームに繋がって、先住民文化は新たな消費の対象になっていきます

*‶白人ワナビー″:歴史や文化への理解度・リベラル度を誇示、先住民への‶罪悪感″「インディアン性」にIDを求める
白人がワナビーになりたがるのは、歴史や文化への理解度・自身のリベラル度を誇示するためとも言われ
過去の侵略や残虐行為に対する‶罪悪感‶からか、または歴史的文化的基盤がないアメリカ人にとっては自己のアイデンティティの空白を、キリスト教や建国物語ではなく「インディアン性」にもとめるようになったのでは?とも言われ、私は後者だと感じています。

* 「反逆者・反体制」のイメージ  ・・・「ボストン茶会事件」
一方で、インディアン・アイデンティティは「反逆者・反体制」のイメージ作りに昔から利用されてきました、建国期まで遡り、 かの「ボストン茶会事件」では、英国植民地支配に抵抗するアメリカ人はなんとインディアンの恰好をしていました
今アメリカ人の間に拡がる地球にやさしいオーガニック生活やスピリチュアリティこそ彼らがやってくるはるか何千年も前からアメリカの先住民が実践してきたことだったのです。

5. 歴史の転換点  ~「もしも・・・だったら」
‶「辺境」だった中世イギリス″  (玉木敏明 『先生も知らない世界史』) 図7)
「北海帝国」1013-1042  と 「アンジュー帝国」 1154-1399の分割統治 → 「大英帝国」はなかった
悲惨な先住民の歴史のどこかに、転換点はあったのでしょうか。
私にはピューリタンが諸悪の根源と思えて、17世紀もっとも友好的だったフランス人がもっと頑張ってくれていてイギリス人より優勢だったらどうだったでしょうか。今回はカナダまではできませんでしたが、フランスが進出したカナダでの植民地政策は北米より緩やかだったことを考えると、その可能性はどこかになかったんだろうかということで、11世紀初めのヨーロッパまで遡ります
図7)ヨーロッパ史研究の玉木敏明さんによると、11世紀初めの一時期、イングランドは「北海帝国」というデンマークの支配となったのですが、実はそのまま長期間にわたり占領される可能性があったといいます この後すぐにフランス人の「アンジュー国」に支配され250年も公用語がフランス語だったことを考えると、当時のイギリスはユーラシア大陸の端のヨーロッパのそのまた辺境にすぎなかったわけで、島国として存在しえた可能性は明らかに日本より低かったといいます。イギリス、少なくともイングランドは北海帝国とアンジュー帝国によって分割統治、北欧とヨーロッパ大陸の一部となって永続し「大英帝国」は存在しなかった可能性は十分あって、もしそうなっていたら、世界は、そしてアメリカ大陸とアメリカ先住民の歴史大きく変わっていたでしょう。 (玉木敏明 『先生も知らない世界史』)

6. 福島と先住民居留地   「辺境」へ追いやられ人たち
お気づきのように、アメリカ先住民の置かれてきた状況は、おどろくほど福島と酷似しています
原発事故でも 人災によって父祖伝来の土地が汚染され住めなくなり、住み慣れた場所から見知らぬ土地へ追われた福島の人たちを、日本人よりも真剣に心配しているのは、鎌田さんの著書によると アメリカの先住民の人たちだそうです。
先祖伝来の「土地」を失う=生きていく糧と同時に、伝承されてきた伝統や文化:祭り・宗教儀礼 のすべてを失うことと同義であり
先住民の男性は、どれだけ汚染されても地域に帰りたいという気持ちがなくなることはないという被災者の気持ちがわかるといいます
海を奪われようとしている辺野古の人たちも同じです。
私自身が当事者であり、人ごとのように言うつもりはありませんが、それでも先住民には今も、自分たちの生活や文化を守り通そうとしている人たちが多くいます。
アメリカには素晴らしい国定公園がたくさんありますが、すべては、もとはインディアンたちのテリトリーでした、国立公園に指定されて以降、彼らは父祖伝来の土地に自由に立ち入ることができなくなりました。
つい先日、ハリウッドでアカデミー賞が発表されました。観慣れている雄大な山の中腹に立つハリウッドの大看板も、アカデミー賞の派手な中継今年は、そこにかつて幸せに暮らしていた先住民たちの幻影を思い、複雑な思いで観ることになりました。

 

【参考年表】   文献②及び文献⑥他の抜粋に井上が追加
BC75000~8000   ベリンジア陸橋 表出(ベーリング海峡)
BC70000~30000  ロシアバイカル湖東の狩猟民が移動
12000年前     多くの部族が北米大陸に生活していた
BC5000      最古の遺跡
AC7C       プエブロ族の先祖はメサベルデ国立公園地域を生活圏としていた
1492 コロンブス 新大陸「発見」
1565 スペインフロリダに植民地建設
1607 イギリス第一陣 ヴァージニア会社 ジェームズタウンに植民地建設
1620 ピルグリムファーザーズ プリマスに上陸 プリマス植民地建設
1776 アメリカ合衆国 独立
1824 連邦インディアン局 (BIA)設立
1829 アンドリュー・ジャクソン 大統領就任
1830 インディアン強制移住法施行
1861-1865 南北戦争
1870 米義会でインディアン教育予算通過、寄宿学校 始まる
1862 ホームステッド法、パシフィックレイルウェイ法 施行
1876 リトルビッグホーンの戦い
1876 ジム・クロウ法 施行
1887 一般土地割当法‶ドーズ法″制定
1890 ウンデッド・ニーの大虐殺
1890 国税調査でフロンティア消滅
1901 ニューヨーク博覧会
1914-18 第一次世界大戦
1924 インディアン市民憲法制定 先住民に市民権付与→ 第一次大戦へ徴兵
1928 メリアム・レポート
1933 Fルーズベルト大統領就任
1934 インディアン再組織法
1939-1945 第二次世界大戦
1950-53朝鮮戦争
1952 インディアン転生プログラムの開始
1953 Dメイヤー BIA局長就任 連邦管理終結政策開始
1955-75 ベトナム戦争
1961 アメリカンインディアンシカゴ会議
1964 公民権法 制定
1969 アルカトラズ島占拠事件
1973 ウンデッド・ニー武装占拠事件
1975 インディアン自決、教育援助法制定
1988 インディアン賭博規制法制定
2004 ワシントンDCにアメリカン・インディアン博物館建設
2006 セミノール族 ハードロックカフェ買収
2003-11 イラク戦争

【参考文献】
文献①『メイキング・オブ・アメリカ -格差社会アメリカの成り立ち』阿部珠理 2016年彩流社
文献②『ネイティブ・アメリカン -先住民社会の現在』  鎌田遵 2009年 岩波書店
文献③『ネイティブ・アメリカン-写真で綴る北アメリカ先住民史』
アーリーン・ハーシュフェルダー  BL出版
文献④『「辺境」の誇り ーアメリカ先住民と日本人』  鎌田遵 2015年 集英社
文献⑤『先生も知らない世界史』  玉木敏明 2016年 日本経済新聞出版社
文献⑥『アメリカ・インディアン史』ウィリアム・Tヘーガン 1983年 北海道大学図書刊行会
文献⑦『増補改訂 アース・ダイバー』  中沢新一  2019年3月5日刊 講談社
文献⑧『縄文文化が日本の未来を拓く』 小林達雄 2018年 徳間書店

【参考映画】    (*井上観)
『ソルジャー・ブルー』 1970年 ライフ・ネルソン*
『ラスト・オブ・モヒカン』 1992年 マイケル・マン*
『サンダー・ハート』 1992年 マイケル・アプテッド*
『ダンス・ウィズ・ウルブス』 1990年ケビン・コスナー*
『デッド・マン』  1995年 ジム・ジャームッシュH*
『レヴェナント』 2015年 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ*
『スモーク・シグナルズ』 2002年 監督クリス・エア 脚本:シャーマン・アレクシ―
『ビジネス・オブ・ファンシー・ダンシング』2002年監督・脚本シャーマン・アレクシ―

資料1)  カール・ワルドマン(先住民族学者)による10の分類(現:カナダ以北を除く) 下記図-1)参照)
*大平原部 様々な先住部族が入れ替わる地域、ラコタ族、ダコタ族、シャイアン族、クロウ族などのバッファロー(アメリカバイソン)狩りが文化基盤の狩猟民族 (一般的インディアンイメージ、馬上で羽飾りなびかせて狩り、は誤り、馬は欧から持ち込まれた)、川沿いでのヒダッサ族、アリカラ族等の農耕部族、と狩猟を組み合わせた躍動的な生活
*北西海岸部(カナダ~アメリカ) 人口密集地、温暖な気候、豊かな海洋資源、木の共同住宅、階層社会*政治的指導者・宗教的指導者・平民・奴隷、トーテムポール、宗教政治儀礼:ポトラッチ、広大な森の巨木で家を建てた
*高原部 カスケード山脈とロッキー山脈に挟まれた山間部の生活文化圏 ネズパース族・スポーケン族・ヤカマ族 山麓に流れる川を中心に狩猟・採集
*大盆地部 (ユタ・コロラド・ワイオミング・アイダホ・オレゴン・カリフォルニア州の一部) 砂漠地帯:過酷な自然環境・農耕困難~年間を通しての大移動による狩猟採集生活と漁労、トウモロコシ栽培
* 北東部沿岸部(森林地帯) ミシシッピ川東 初欧植民地ニューイングランド周辺(五大湖を含む)、森林資源の宝庫を余すところなく生かす、農耕・交易 ミシシッピ文化、マウンド、母系制、明確な階級制度、イロコイハウス
*南東部 (テキサス州東部~メキシコ湾岸・ケンタッキー・バージニア・メリーランド州) チェロキー族・チョクト-族・クリーク族・セミノール族 農業・漁業・狩猟採集等多種多様な生活手段 比較的「文明化」した5部族
*南西部(アリゾナ・ニューメキシコ・ユタ・コロラド・カリフォルニア・テキサス・オクラホマ) 乾燥地帯に人々は適応して農耕が栄えた、アパートのような土レンガ住居の集合住宅-.ホピ族・プエブロ族(現在も伝統的土レンガの家で暮らしている)・ナバホ族(全米最大の居留地)・アパッチ族 農耕・牧畜 北アメリカ初の大規模 トウモロコシ(メキシコインディアンより)、豆、カボチャ(「三姉妹」) 高い栽培効率と栄養価、(ホホカム、ナゴヨン文化)→アナサジ文化(メキシコ・アリゾナ・ユタ・コロラド):高度な技術(星運行、トウモロコシ栽培・貯蔵、編籠・土器、土木建築、狩猟道具、家畜、綿花栽培
*カリフォルニア カリフォルニア沿岸部~メキシコ ポモ系諸部族・チュマッシュ族 陸海両方から多様な動植物 どんぐりの採集と加工、たばこ栽培、高人口密度(1940年当時人口30万)、言語多様性(100以上の異なる言語)

「インディアン再組織法」
シャロン・オブライエン(政治学者)による5つの要点
①部族政府の権限を強め、部族政府と連邦政府の相互的な関係を回復する
②ドーズ法廃止:土地の分割と個人所有を廃止する
③部族の経済開発を支援し協力する
④インディアン局の職員に先住民を増やす
⑤文化や伝統工芸の作成、言語の継承の必要性を認識し援助する

資料 6)  「ピルグリムファーザーズ」ピューリタン誕生の淵源
ピューリタン:カルヴァンの教えにのっとるプロテスタントの一派
ヘンリー8世の宗教改革 イギリス国教会 アンチカトリック プロテスタントの萌芽 (アン・ブーリンとの再婚を合法化するため離婚を禁ずるカトリック教会から離脱、
ローマ教皇の支配から独立、 絶縁、自ら教会の長となる)ルターのような純粋宗教的動機なく外面的・政治的側面での変革、
→メアリ一世 イギリス国教会をカトリックへ戻 プロテスタントを徹底弾圧 処刑者多く”血のメアリ”「ブラッディメアリ」の由来→弾圧を逃れて800人のプロテスタントが
ヨーロッパに逃げたうちジュネーヴのカルヴァン主義の強い影響を受けた一派「ピューリタンの始まり」
→エリザベス一世(ヘンリー8の子)  プロテスタントを復活、カトリックを一掃、カルヴァン主義による教会改革 英国教会の体制確立
毛織物業布教→海外発展の時代
→ジェームス一世 息子チャールズ1世が圧制 カトリック主教派の巻き返し ハンプトンコート宮殿会議 再度プロテスタント弾圧 ピューリタン革命
穏健派と急進派=独立派→会衆派 →メイフラワー号に乗って新天地「天の都」へ
1608年 メイフラワー号 信仰の自由を求めてオランダへ 唯一の自由の地 1581年スペインから独立「エミグレ亡命者」であふれる
アムステルダム→ライデン手工業(織物工、大工、石工)に従事 butオランダにとどまらず→1620年メイフラワー号で新天地へ→プリマス上陸

資料 7)
「インディアン再組織法」の5つの要点 シャロン・オブライエン(政治学者)
①部族政府の権限を強め、部族政府と連邦政府の相互的な関係を回復する
②ドーズ法廃止:土地の分割と個人所有を廃止する
③部族の経済開発を支援し協力する
④インディアン局の職員に先住民を増やす
⑤文化や伝統工芸の作成、言語の継承の必要性を認識し援助する

資料 8) 先住民関連映画
『ソルジャー・ブルー』 1970年 ライフ・ネルソン*
『ラスト・オブ・モヒカン』 1992年 マイケル・マン*
『サンダー・ハート』 1992年 マイケル・アプテッド*
『ダンス・ウィズ・ウルブス』 1990年ケビン・コスナー*
『デッド・マン』  1995年 ジム・ジャームッシュH*
『レヴェナント』 2015年 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ*
『スモーク・シグナルズ』 2002年 監督クリス・エア 脚本:シャーマン・アレクシ―
『ビジネス・オブ・ファンシー・ダンシング』2002年 監督・脚本シャーマン・アレクシ―    (*井上観)

資料 6)  「ピルグリムファーザーズ」ピューリタン誕生の淵源
ピューリタン:カルヴァンの教えにのっとるプロテスタントの一派
ヘンリー8世の宗教改革 イギリス国教会 アンチカトリック プロテスタントの萌芽 (アン・ブーリンとの再婚を合法化するため離婚を禁ずるカトリック教会から離脱、
ローマ教皇の支配から独立、 絶縁、自ら教会の長となる)ルターのような純粋宗教的動機なく外面的・政治的側面での変革、
→メアリ一世 イギリス国教会をカトリックへ戻 プロテスタントを徹底弾圧 処刑者多く”血のメアリ”「ブラッディメアリ」の由来→弾圧を逃れて800人のプロテスタントが
ヨーロッパに逃げたうちジュネーヴのカルヴァン主義の強い影響を受けた一派「ピューリタンの始まり」
→エリザベス一世(ヘンリー8の子)  プロテスタントを復活、カトリックを一掃、カルヴァン主義による教会改革 英国教会の体制確立
毛織物業布教→海外発展の時代
→ジェームス一世 息子チャールズ1世が圧制 カトリック主教派の巻き返し ハンプトンコート宮殿会議 再度プロテスタント弾圧 ピューリタン革命
穏健派と急進派=独立派→会衆派 →メイフラワー号に乗って新天地「天の都」へ
1608年 メイフラワー号 信仰の自由を求めてオランダへ 唯一の自由の地 1581年スペインから独立「エミグレ亡命者」であふれる
アムステルダム→ライデン手工業(織物工、大工、石工)に従事 butオランダにとどまらず→1620年メイフラワー号で新天地へ→プリマス上陸

資料 7)
「インディアン再組織法」の5つの要点 シャロン・オブライエン(政治学者)
①部族政府の権限を強め、部族政府と連邦政府の相互的な関係を回復する
②ドーズ法廃止:土地の分割と個人所有を廃止する
③部族の経済開発を支援し協力する
④インディアン局の職員に先住民を増やす
⑤文化や伝統工芸の作成、言語の継承の必要性を認識し援助する

資料 8)