「寺子屋ゼミ」と合気道

アメリカ先住民のことを凱風館寺子屋ゼミで発表した。
ゼミは凱風館が出来て以来参加しているので、7年目、4回目の発表である。
初回は通年テーマが「アジア諸国」で、「ブータン王国がなぜ‶幸せの国″か」、について。二回目は通年テーマ「二項対立」、から「教えることと学ぶこと」につて、三回目は通年テーマ「比較関係論」で、「韓国と日本の自殺率」について、研究発表した。今期の通年テーマは「アメリカ」。

ゼミ生の中には学術系の研究者や専門家、大学教授や学校の先生も多いが、私はド素人である。
言い訳するつもりはないが、発表は毎回、血を吐くようなしんどさだ。
発表の順番さえ廻ってこなければ、寺子屋ゼミはとっても楽ちんでたのしいに尽きる。単なる聴講者として毎回誰かの発表と内田先生の面白い講義を聞いて、すごく勉強した気分になれて、お得なことこの上ない。ところが、いよいよ自分に担当が廻って来て(ゼミ生である以上誰も逃れられない 1.5年に一回くらい廻ってくる)、発表する側になるとこれがたいへんで、もがき苦しむ日々が数週間続く。できません!と途中で逃げ出したくなり、なんで自分はこんな難しくてしんどいことをやってるんだろう、合気道だけやってればいいのに、来年こそはもうゼミやめよう、と発表準備中は毎度心に誓うのだ。が、もがき苦しみながらも何とか形にして、発表を終えてしまうと、これが不思議なことに、やり終えた達成感や解放感とともに、「やったらできるやん私」的なある種の全能感に包まれて、次年度のテーマが発表されると、次は何にしようかな、この調子で勉強を続けようかな、などと思ってしまうのである。ま、単なる自己満足と錯覚なので、三日もたつとすっかり元に戻るのだが。

この感覚は、山登りに近い、と夫が言っていた。確かに。山登りの感覚は私にも経験がある。登っている最中は苦しくて、なんでこんな危険で大変なところにきてしまったんだろう、二度と来るまいと思うのに、登り終えると次は装備にあれをもってこようなどと考えている。そんなことをするのは人間だけで、動物は絶対しないだろう。そんなこんなで、もう7年、4回目を終えたわけであるが、やっぱりしんどかった。そして今また不思議な錯覚のなかで、来年のテーマについて考えたりしている。
なんでもそうだと思うが、限界を超えると、新たな地平が見える、もんである。

合気道には日々発見がある。
合気道も私をいろいろな限界に連れて行ってくれる。
「心の研究をする者は体の研究をし、体の研究をする者は心を研究しなければならない」
と昨夏のラスぺチアで多田先生は仰った。

これまでは順番が廻ってきてやむを得ず、だったが、今回初めて自分から手を挙げた(そしてもちろん途中で後悔した)。
すでにアメリカ先住民について発表された方の後を受けて、しかも今期の最終回というハードルの高さだったが、思い切ってやってよかった。
「アメリカ先住民」のことを、私はこれまで何も知らなかった。
「自分が何について知らないか、を知ることが、知性の働きである」@内田樹
知らないことが多すぎる。

ゼミの打ち上げの席で内田先生が話された「大事なこと」に今もやもやしている。
まずは『私家版 ユダヤ文化論』内田樹著
を読み直す。
私にとっては合気道も寺子屋ゼミも、たのしくて時に苦しい「修行の場」なのである。