月別アーカイブ: 2020年5月

稽古再開します

みなさん、お久しぶりです。井上です。

門人のみなさんやご家族に感染等があった例は幸い耳にはしていませんが、みなさんお元気でしょうか。
自粛期間中はそれぞれに大変な状況を過ごされ、感じたことの多い二か月だったと思います。

5月には、ZOOM稽古という初めての試みにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
そんなテレビ電話のようなもので稽古なんて、たいしたことはできないだろうけど何もしないよりまし、ぐらいの気持ちで、最初は抵抗がありつつのスタートでしたが、やってみると意外にも毎回たくさんの気付きがあり、あれもやってみよう、これもできるという、道場とはまた違った面白さがあり、私自身にとってまたとない貴重な経験となりました。遠方からの参加も、ZOOMならではでしたね。
何より、我々が稽古してきた合気道は、呼吸法を始めとして一人でできることがたくさんあって、それをZOOMなるネット回線を通じてみんなで共有でき、空間を介しながらも身体的に繋がっている、という実感は、通常の道場での稽古では得難い感覚でした。この経験は私にとって、これから大きく変わるであろうコロナ後の世界を生きていくための、とても大事なテーマに繋がっているという確信があり、同時に今後の合気道にも少なからず影響していくだろうと思います。

さて、緊急事態宣言が解除され、6月から各地のスポーツセンターが再開されるようです。
我々も長い冬眠から起き出して、合気道を始めたいと思います。

解除された途端に各地で第二波的なクラスターが起きていることもあり、いきなり稽古を元のペースと稽古内容に戻すには、まだ時期尚早と考えますので、しばらくは稽古数を減らして、少しずつ試験的に試してみたいと思います。私も含めて、長く体を動かしていない人も多いと思うので、徐々に体を慣らすリハビリ期間も必要でしょう。

すでにアップしていた6月度の稽古予定をを大幅に変更しましたので、各自で確認してください。
再開初回は6月5日金曜日の桃谷です。6月は桃谷、石橋、土曜日の北スポでそれぞれ1回、日曜日の西スポ2回の、計5回とします。謝金は3月に引き続き、1回ごとに1500円とし、4回目(6000円)以降は月末まで無料とします。

稽古数を減らし、一回の稽古時間も短めにして、稽古内容としては接触ができるだけ少ないものを工夫します。
稽古中のマスク着用は自由としますが、逆に熱中症の恐れがあると言われていますので注意してください。
凱風館ではすでに試験的に稽古がスタートしていますが、やはり暑くてとてもマスクを着けては稽古できません。
稽古前後の手洗いは当然のこと、道場に消毒液を常備し、稽古中にも手指と前腕をしょっちゅう消毒する、こまめに水を取るよう促し、休憩時間を設けます。大きな声は出さない、更衣室での会話は最小限にする、などを徹底します。稽古や体調に少しでも不安がある人は躊躇なく参加を見合わせてください。

3月以降延期になっている昇段診査については、凱風館の方針がまだ出ていませんので、引き続き保留とします。

そのほか詳しくはまた森川さんからお知らせがあると思います。

では、まだしばらくは完全復帰とはいきませんけど、みなさんと道場で元気に会えるのを楽しみにしています。

井上清恵

【七日間ブックカバーチャレンジ最終 @井上英作】

「七日間ブックカバーチャレンジ」もとうとう最後となった。中島らも、石井隆、橋本治、こだま和文、中沢新一、村上龍と続き、トリにどの本を選ぼうか、随分迷ったが、五月ということで、追悼の意味も込めて寺山修司にした。それにしても、我ながら、随分偏った選択だなと思う。

まだ、タモリが黒い眼帯をして、中洲産業大学教授と名乗っていたころ、東北弁で話す知識人の真似をしているのをテレビでよく見かけた。寺山修司のモノマネだった。小学生高学年ごろだったと記憶している。それから僕は、イギリスのニューウェーブという音楽にどっぷりとはまり、それらの音楽がきっかけでヌーベルバーグの映画を観るようになる。そんなころ、深夜テレビで、海外で評価されている劇団「天井桟敷」の稽古風景の映像を観た。確か、フランスの国際演劇祭に招待されたことについての報告だったとように思う。その映像には、全身白塗りの男や、20㎝ぐらいの大きさのフェイクの唇を口に上下に装着した女優たちを、ニヤニヤしながら指導している男の姿がとても印象的だった。その映像は、ヌーベルバーグの映画批評でよく登場する「前衛」ということばを、具現化したものだった。その指導しているのが寺山修司だった。それから数年後、1983年、僕がまだ17才のころ、寺山はわずか48才という若さでこの世を去ることになる。彼の死をきっかけに、映画監督として有名だった寺山の作品が、彼の亡くなった五月に名画座を中心によく特集が組まれた。インターネットなどなかったそのころ、僕は、「Lmagazine」の映画の上映情報をくまなくチェックし、いろいろな映画館に出かけた。とりわけ、「田園に死す」は、何度観たか分からないほどで、おそらく、僕のなかで、一番たくさん観た作品だろう。冒頭のお寺でのかくれんぼのシーン、川上から流れてくるひな人形、空気人形の春川ますみ、新高恵子の美しさ、そしてあまりにも有名なラストシーン。かなりベタな感じはするが、思い切り背伸びして芸術映画をかじり始めた僕にとっては、とっつき易かった。

 僕は、いまだに60年代~70年初めのカルチャーを生で体現した世代、現在70代の人たちに対する強い憧れがある。その頃東京では、アングラ文化が全盛で、演劇では、寺山修司の「天井桟敷」や唐十郎の「状況劇場」。また、土方巽という天才が暗黒舞踏という新しいジャンルを創作し、その流れの一部を、今や息子の方が有名になったが大森南朋の父、麿赤兒の「大駱駝艦」が引き継ぐ。音楽では、エルビス・プレスリーの登場をきっかけにロック創世記を迎え、映画では、フランスからヌーベルバーグ、アメリカからニュー・シネマといった具合に、新しい運動と才能が次々と現れ、それらは、お互いに融合していった。なんとも羨ましい限りである。なかでも寺山は、当時最先端だったフランスの現代思想の影響を強く受けていたようで、特に、既存の「歴史」に対する批判は厳しい。

「去りゆく一切は歴史にすぎない。が、やがて起こるべき出来事は、歴史などではありえない」、「僕は歴史に興味がなくて、地理が好きだ」など、歴史主義を批判している。映画「田園に死す」は、二人の「私」を登場させる。それは、現在の「私」と少年時代の「私」である。現在の「私」は、少年時代の「私」に対し、これからの少年時代の「私」の未来について、将棋を指しながら会話は進行していく。現在の「私」が、机の引き出しにホタルを閉じ込めたままにしたせいで、家が火事になったというと、少年時代の「私」が、火事などおこらなかったと反論する。すると、現在の「私」が、少年時代の「私」に、ほくそ笑みながら、起こらなかったことも歴史の一部だと言い、一蹴するのである。このように、修正されていく歴史に、寺山は異を唱える。

言うまでもなく、寺山は、ことばの人だった。あまりに有名な絶筆エッセイ「墓場まで何マイル」より。

「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからといって墓は建ててほしくない。私の墓は、私のことばであれば充分。」とまで言っている。そんな寺山のことばのなかで僕の一番好きなのが、「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」である。

寺山が亡くなってから、すでに37年が経過した。その後日本は、バブルを経過し、バブル崩壊後、失われた10年はずっと続き、その間には阪神淡路大震災、オウム事件、東日本大震災など惨事が続き、政治状況はますます悪化するばかりで、予想だにしなかった今回のコロナ禍と、閉塞感ばかりが僕たちに重くのしかかってくる。寺山が生きていたら、こんな今をどのように描いただろう?そう考えると、残念で仕方がない。

本書は、1986年、僕が21才のとき、寺山修司全仕事展「テラヤマワールド」を観にいったときに買ったものだ。久しぶりに本書を開くと、そのときのチケットが挟まれていて、6月28日~7月7日と書いてある。そういえば、すごく蒸し暑かったような気がする。会場は「西武百貨店八尾店」。そして、「吹田映劇」、「大毎地下劇場」、「扇町ミュージアムスクェア」、「近鉄小劇場」も、今は存在しない。

【7日間ブックカバーチャレンジ ③ @井上英作】

4月8日、緊急事態宣言が発令され、50日近く「緊急事態発言宣言後の世界」に今もいる。大阪の緊急事態宣言解除もあと少しといった雰囲気だが、一週間に二日しか出勤しないという、いまだかつて経験したことのない毎日は、いまだに継続中だ。さすがに能天気な僕も、今回のコロナ禍については考えざるを得ない。一体、これからどうなるんだろう?というポストコロナ社会について、誰もが感じている不安を最も強く抱いていた4月上旬、僕は、その答えを、文学に求めることにした。そして、僕の頭に真っ先に浮かんだのが本書だった。僕は、自分の本棚にある「村上龍コーナー」にじっと目を凝らし、本書を探した。何度も探したが、無かった。どうやら引っ越しのときに処分したらしい。翌日、僕は、会社の近くにある、紀伊国屋書店本町店へ行った。僕は、驚いた。文庫本の「村上龍コーナー」は、代表作「コインロッカーベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」、「半島を出よ」、本書といったものは、置かれておらず、あまり聞いたことのないエッセーが数冊、申しわけなさそうに並んでいたのだった。かつては、本棚の四分の一ぐらいは、村上龍のコーナーがあったのだが。もう、誰も村上龍を読まないのだろう、そう思うと僕は、少し寂しくなった。仕方がないので、アマゾンで取り寄せることにした。さらに、追い打ちをかけるように僕を驚かせたのは、出品されている価格が、「1円」だったことだ。つまり、実質ゼロ円というわけだ。以前、高橋幸宏の90年代のCDを買い集めたときと同じ現象だ。自分のマイナーな趣味をどう捉えたらいいのだろう。

かつて、「W村上」と言われた時代があった。村上春樹と村上龍のことだ。この二人が、ある時期の日本の文学を牽引していたのだ。ハルキストを自認する僕も、ある時期までは、村上春樹より村上龍の作品に夢中だった。村上龍の作品は、単純にストーリーが面白い。電車の中で読書に集中するあまり、降車する駅を通過してしまったというのをよく耳にするが、僕の場合、それは「愛と幻想のファシズム」だった。その日、僕は出社時の電車で、降りる駅を通過したばかりか、出社するとすぐに外出し、一日中、「愛と幻想のファシズム」を読み耽っていたのだ。

本書は、「五分後の世界」の続編である。「五分後の世界」のあらすじを簡単に紹介しておく。「日本は太平洋戦争に沖縄戦ののち、アメリカ軍と本土決戦を行い、大日本帝国は消滅した。帝国崩壊後、ビルマなどから帰還した将校団が終結し、日本国地下司令部(アンダーグラウンド)を創設し、戦闘的小国家に生まれ変わる。そして、その世界は、現在より五分間、時空のずれた地球に存在し、日本がもう一つの戦後の歴史を刻んでいる」。そして、本作では、「日本国地下司令部(アンダーグラウンド)が、九州に存在する超高級リゾート地域『ビッグ・バン』の北にあるヒュウガ村で発生したウイルスの発生源を壊滅させる任務を遂行させる…」といったもの。なんとも凄い想像力だと思う。この頃の、村上龍の作品は、どの作品もこのような想像力に満ち溢れていた。次から次へとイメージが増幅し、一気に書き上げたような印象が残る。実際、本書のあとがきによると、二十日間で書き上げたそうだ。

村上龍は、あるインタビューでこう答えている。「自分は、システムのようなものに対して憎悪に近いような感情を抱いている。そのシステムに抗うために、僕は小説を書いている。」「コインロッカーベイビーズ」のキクとハシ、「愛と幻想のファシズム」のトウジ、「希望の国のエクソダス」の中学生たちは、「現実」の転覆を図る。そして、本作においては、「戦後」という「現実」に対し転覆を実行してしまう。歴史に「もし」は、禁句だとよく言われるが、果たして、本当にそうなのだろうか?「あのとき」にどうしてプランBではなく、プランAを選択したのか?その理由は、一体何だったのか、もしプランBを選択していた場合、その後、どのような現実が存在したのか、そのことについて考察し、想像力を膨らませることは、未来を考えていくうえで、とても重要な態度だと思うし、そのことが、文学などの芸術が担っている大きな役割では、ないだろうか?それが、いくらフィクションだったとしても、僕は「物語」の力を信じている。

「五分後の世界」の中で、偶然、五分後の世界に紛れ込んでしまった主人公の小田桐は、いろいろな戦闘に巻き込まれていく。激しい戦闘シーンで、小田桐は、ミズノ少尉にこう言われる。「最も大切なことがある、絶対に悪い想像をしてはいけないということだ、最悪の状況をイメージしたりしてはいけない、大丈夫だと、と自分に暗示をかけるんだ」

これから先、どんな世界、未来が僕たちを待ち受けているのか、そんなことは、誰にも分からない。分からないことは、いくら考えても分からない。でも、僕は、このミズノ少尉のことばを胸に、なんとか明日も生きていこうと思うのである。

【7日間ブックカバーチャレンジ ② @井上英作】

二日目。

その日は、金沢に出張していた。仕事を終え、金沢駅で時刻表を眺めていると、大阪行きのサンダーバードは、出発したところだった。次の電車まで、あと一時間あるので、僕は、あてもなく、駅周辺を歩き始めた。時間を潰すのにも飽きてきて、適当にベンチに座ってぼーっとしていると、古本屋が目に止まった。金沢へは何度も来ていたが、こんなところに古本屋があるなんて全然知らなかった。時計を見ると、電車の出発まで、まだ20分ほど時間があったので、その古本屋に入ってみた。そこには、よくありがちなハウツー本が、無造作に並べてあった。「30代のうちにこれだけは、やっておこう」、「恋愛に悩んでいるあなたへ」、まぁ、そんな感じの本たちだ。地方の古本屋だから、そんなもんだろうと思いながら、店を出ようとしたところ、一冊の雑誌と目が合ってしまった。「石井隆の世界」というタイトルだった。

僕より少し上の世代の人たちにとっては、漫画(劇画)家として認知されているかもしれないが、僕は石井隆のことを、映画を通じて知った。その映画は、「天使のはらわた 赤い淫画」(@池田敏春)という日活ロマンポルノだった。映画産業が斜陽に向かっていくなかで、当時の日活ロマンポルノには、若い才能が結集していた。森田芳光、周防正行、根岸吉太郎など名前を挙げればきりがない。「天使のはらわた 赤い淫画」は、東梅田日活で観たのだが、ポルノ映画という体裁を取っていたものの、そのあまりの切なさに、ポルノ映画としての機能を果たしてくれなかった。なんかとても暗いやるせない気持ちになりながら、映画館をあとにしたような気がする。そのときに、エンドロールで「脚本 石井隆」というのが目に止まった。

その後、石井隆は映画監督としても作品を撮り続け、高い評価を受ける。「GONIN」、「死んでもいい」、「ヌードの夜」などが代表作だろう。映画が公開されれば、劇場に足を運ぶ、僕にとっては、数少ない映画作家のひとりだ。

先日、この企画のためにこの本を選び、僕の一番好きな石井作品「夜がまた来る」を観直した。そのDVDのボーナストラックに入っていた主演の根津甚八のインタビューから。Q「石井作品のハードボイルドについてどう思われますか」A「石井監督の作品は、確かにハードボイルドの側面もありますが、僕は、その切なさに惹かれるんですよね」、「僕は、映画を観て泣きたいんです。楽しかったり、考えさせらるような作品というよりは、ただ、泣きたいんです」

僕もこの根津甚八の答えに、深く同意する。石井作品には、いつも村木と名美という男と女が登場する。ちなみに「夜がまた来る」では、村木を根津甚八が、名美をメジャーになる前の夏川結衣が演じている。石井作品において、村木と名美は、決して結ばれない。結ばれないどころか、常に「すれ違う」。橋本治は、「デビッド百コラム」のなかで、メロドラマについて「男と女がすれ違うことで、初めて成立し、男と女は、すれ違うという意味において等価である」といっているが、石井作品は、メロドラマそのものであると同時に、村木と名美は、すれ違うことで等価となり、決して交わらない。

石井作品では、たくさんの記号が散りばめられている。歌謡曲、廃墟、ネオン管、夜、そして雨。特に、必ずと言っていいほど、作品の中では雨が降り続ける。雨といっても普通の雨ではない。いつも土砂降りの大雨が降る。この雨は、いったい何を象徴しているのか?。先ほど、僕は、村木と名美は決して結ばれないと書いた。そんな二人が、一瞬だけ奇跡的に結ぶつく、あるいは、結びつきたいという衝動を表しているのではないか?天(名美)と地(村木)が、雨という直線によってつながったように思える。しかし、その雨は、いつも凄まじい風によってまっすぐと地に届くことはない。

タランティーノ監督は、以前インタビューで、こう答えている。「僕の好きな日本の映画監督は、二人とも、イシイ監督だ。一人は、タカシで、もう一人は、テルオだ」。このように、タランティーノ監督からもリスペクトを受けている石井隆だが、僕の勉強不足だと思うが、石井監督を評価する人をあまり知らなかった。そんなとき、出会ったのが、金沢の古本屋で偶然見つけたのがこの雑誌だった。

この本の中で、いろんな人が、石井隆論を展開している。なかでも僕を勇気づけてくれたのは、今は亡き橋本治が、寄稿していたことだった。

「少女マンガとしての石井隆」と題されたその寄稿の中から気になった部分を抽出すると、「石井隆は、少女マンガである。その理由としては、作品に描かれている名美は、青年マンガで描かれているヒロインではなくステロタイプで表現された女である。そのことによりかつて男の幻想の中にあった女は他人になってしまった。その他人になってしまった女を前に、男は不能に陥る。このことは、男の側から描かれた少女マンガと同義である。だから、石井隆は後味がよくない」とある。いつもながら橋本治らしい難解な解説である。

さらに、昨年の秋、映画評論家の町山智浩が、僕がいつも参考にさせていただいている「映画その他ムダ話」で、石井隆を取り上げてくれた。町山智浩も石井作品が好きだったのだ。

今回、石井隆に関する評論がないかどうか、ネットで調べてみたが見つけることができなかった。

世界でたったひとつの石井隆「本」として、この本は、僕にとってかけがえのない一冊である。

 

 

 

 

【7日間ブックカバーチャレンジ ① @井上英作】

友人の富田さんから、このお誘いを受けた。とりあえず暇なので、参加することにした。この企画の概要は、以下のとおりです。ご興味ある方は、どうぞ。
「これは読書文化の普及に貢献するためのチャレンジです。 参加方法は、好きな本を1日1冊、7日間投稿するというもの。 本についての説明なしにカバー画像だけをアップし、毎日1人のFBの友達をこのチャレンジに招待して参加してもらいます」
一日目「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」(@中島らも、1989年)
先日、テレビで漫才を観ていた。ティーアップと笑い飯という人選に惹かれたからである。番組の趣向は、その放送するテレビ局に残っている自分たちの持ちネタの映像から、自身が推薦するネタを披露するというものだった。僕は、笑い飯のネタの一つの映像を見ながら、西田(髭を生やしている方)が着ているTシャツに目が釘付けになった。そこにプリントされていたのは、中島らもだった。
かつて、中島らもという天才がいた。「いた」というふうに過去形で書かないとけないのは、彼がもうすでにこの世にはいないからだ。
中島らもの文章に最初に触れたのは、友人の家でだった。その友人の机の上に何気に置かれてあった「SAVVY」をぱらぱらとめくってみると、最後の方に、中島らものエッセイがあった。「SAVVY」というのは、女性向けの情報誌のことで、友人は、女の子とのデートコースをよく「SAVVY」から情報を得ていた。
それより以前にも中島らもの存在は知っていて、「啓蒙かまぼこ新聞」の漫画を描いている漫画家、テレビ番組「どんぶり5656」の構成作家というふうに思っていたので、そのとき、エッセイも書くんだと思いながら、僕はそのエッセイを読み始めた。内容は、よく覚えていないが、読み終えると僕は、大声でゲラゲラと笑っていた。文章を読んで、声を出して笑ったのは、生まれて初めての経験だった。それからというもの、僕は、中島らもの悪魔的な魅力に魅了された。劇団リリパットアーミーを観に「扇町ミュージアムスクェア」に何度も足を運び、新刊が出れば、その日に書店へと向かった。何度か本人を見かけたこともある。サンケイホールで映画「突然炎のごとく」を観た帰り道の、夕方の桜橋交差点近辺だったように記憶している。当時の中島らもは、前髪を左から右に斜めに切り、黒いサングラスをかけていたころで、僕が18才ぐらいなので、1983年ごろではないだろうか。
さて、本作は、初期に出されたエッセイである。ご本人もあとがきで「十代前半の明るさに比べると、後半はひたすらに暗い」と書いてあるとおりである。すこし長くなるが、本文からの引用。「十代の僕は一種狂暴なほどに自分自身を憎んでいた。そしてそれ以上に、自分がその一隅を占めているところの「世界」そのものを憎み、呪っていた。中略。酒の酔いは、そういう破滅的な気分に実によくフィットした」。
このあまりにもペシミスティックな心性は、中島らもからついに離れることはなく、晩年は、アルコール依存と躁鬱病に悩まされ、2004年、52才の若さで亡くなった。その訃報を知ったとき、僕は、特に驚くこともなかった。「やっぱり、そうか」という感じの方が強かったのを今でもよく覚えている。
中島らもから教わったことは、たくさんあるが、僕にとって一番大きかったのは、「考える」ということだったのではないかと思う。
中島らもが世に出るきっかけとなったのは、朝日新聞での「明るい悩み相談室」の連載である。読者から寄せられる、珍問、難問に対して、答えるというもの。その中島らもの哲学、思考が凝縮されているのが、名著「僕にはわからない」である。例えば、こんなことが普通に書かれてあったりする。「「生」の対立概念として「死」というものを持ってくるから話がおかしくなる。中略。「死」という状態は想像力によってのみ想定され得る架空の概念でしかない」。まるで哲学者のように、古今東西の文学者、哲学者を引き合いに出しながら、彼独特の文体で、思考が展開していく。しかも、このような哲学的な文章が、世界一くだらないと言われている映画「死霊の盆踊り」と同列に語られているところにこの人の奥深さが垣間見える。とても頭のいいひとだった。
そんな、ペシミスティックで頭のよかった中島らもが、この「世界」で生きていくには、さぞかし辛かっただろう。そしてその生きづらさを彼の持つピュアさが更に加速させていった。
「笑い」や「恐怖」が大好きだった中島らもだが、その根底にあるのはセンチメンタルだろう。本作からの引用。「十八のときに、そのころつき合い始めた女の子とこの山に登った。ヒマはあるけれど喫茶店に行く金はない、そんな夕暮れだった。頂上で、僕は生まれて初めて女の子とキスをした。鳥同士のあいさつみたいな、そんなカチッと音の出るようなキスだった。保倉山を見ると今でも胸がキュンとなる」。痛々しいまでのセンチメンタルである。
僕は、54才になった今でも、この文章を読むだけで胸がキュンとなる。