【7日間ブックカバーチャレンジ ③ @井上英作】

4月8日、緊急事態宣言が発令され、50日近く「緊急事態発言宣言後の世界」に今もいる。大阪の緊急事態宣言解除もあと少しといった雰囲気だが、一週間に二日しか出勤しないという、いまだかつて経験したことのない毎日は、いまだに継続中だ。さすがに能天気な僕も、今回のコロナ禍については考えざるを得ない。一体、これからどうなるんだろう?というポストコロナ社会について、誰もが感じている不安を最も強く抱いていた4月上旬、僕は、その答えを、文学に求めることにした。そして、僕の頭に真っ先に浮かんだのが本書だった。僕は、自分の本棚にある「村上龍コーナー」にじっと目を凝らし、本書を探した。何度も探したが、無かった。どうやら引っ越しのときに処分したらしい。翌日、僕は、会社の近くにある、紀伊国屋書店本町店へ行った。僕は、驚いた。文庫本の「村上龍コーナー」は、代表作「コインロッカーベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」、「半島を出よ」、本書といったものは、置かれておらず、あまり聞いたことのないエッセーが数冊、申しわけなさそうに並んでいたのだった。かつては、本棚の四分の一ぐらいは、村上龍のコーナーがあったのだが。もう、誰も村上龍を読まないのだろう、そう思うと僕は、少し寂しくなった。仕方がないので、アマゾンで取り寄せることにした。さらに、追い打ちをかけるように僕を驚かせたのは、出品されている価格が、「1円」だったことだ。つまり、実質ゼロ円というわけだ。以前、高橋幸宏の90年代のCDを買い集めたときと同じ現象だ。自分のマイナーな趣味をどう捉えたらいいのだろう。

かつて、「W村上」と言われた時代があった。村上春樹と村上龍のことだ。この二人が、ある時期の日本の文学を牽引していたのだ。ハルキストを自認する僕も、ある時期までは、村上春樹より村上龍の作品に夢中だった。村上龍の作品は、単純にストーリーが面白い。電車の中で読書に集中するあまり、降車する駅を通過してしまったというのをよく耳にするが、僕の場合、それは「愛と幻想のファシズム」だった。その日、僕は出社時の電車で、降りる駅を通過したばかりか、出社するとすぐに外出し、一日中、「愛と幻想のファシズム」を読み耽っていたのだ。

本書は、「五分後の世界」の続編である。「五分後の世界」のあらすじを簡単に紹介しておく。「日本は太平洋戦争に沖縄戦ののち、アメリカ軍と本土決戦を行い、大日本帝国は消滅した。帝国崩壊後、ビルマなどから帰還した将校団が終結し、日本国地下司令部(アンダーグラウンド)を創設し、戦闘的小国家に生まれ変わる。そして、その世界は、現在より五分間、時空のずれた地球に存在し、日本がもう一つの戦後の歴史を刻んでいる」。そして、本作では、「日本国地下司令部(アンダーグラウンド)が、九州に存在する超高級リゾート地域『ビッグ・バン』の北にあるヒュウガ村で発生したウイルスの発生源を壊滅させる任務を遂行させる…」といったもの。なんとも凄い想像力だと思う。この頃の、村上龍の作品は、どの作品もこのような想像力に満ち溢れていた。次から次へとイメージが増幅し、一気に書き上げたような印象が残る。実際、本書のあとがきによると、二十日間で書き上げたそうだ。

村上龍は、あるインタビューでこう答えている。「自分は、システムのようなものに対して憎悪に近いような感情を抱いている。そのシステムに抗うために、僕は小説を書いている。」「コインロッカーベイビーズ」のキクとハシ、「愛と幻想のファシズム」のトウジ、「希望の国のエクソダス」の中学生たちは、「現実」の転覆を図る。そして、本作においては、「戦後」という「現実」に対し転覆を実行してしまう。歴史に「もし」は、禁句だとよく言われるが、果たして、本当にそうなのだろうか?「あのとき」にどうしてプランBではなく、プランAを選択したのか?その理由は、一体何だったのか、もしプランBを選択していた場合、その後、どのような現実が存在したのか、そのことについて考察し、想像力を膨らませることは、未来を考えていくうえで、とても重要な態度だと思うし、そのことが、文学などの芸術が担っている大きな役割では、ないだろうか?それが、いくらフィクションだったとしても、僕は「物語」の力を信じている。

「五分後の世界」の中で、偶然、五分後の世界に紛れ込んでしまった主人公の小田桐は、いろいろな戦闘に巻き込まれていく。激しい戦闘シーンで、小田桐は、ミズノ少尉にこう言われる。「最も大切なことがある、絶対に悪い想像をしてはいけないということだ、最悪の状況をイメージしたりしてはいけない、大丈夫だと、と自分に暗示をかけるんだ」

これから先、どんな世界、未来が僕たちを待ち受けているのか、そんなことは、誰にも分からない。分からないことは、いくら考えても分からない。でも、僕は、このミズノ少尉のことばを胸に、なんとか明日も生きていこうと思うのである。