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【「街場の親子論」@井上英作】

 内田先生に企画段階から、この本のことは、お聞きしていて、そのときから僕はすでに涙腺崩壊寸前だったのだが、実際に読んでみると、見事なまでに涙腺が崩壊してしまった。ポーカーフェイスを気取っている僕としては、とても、珍しいことである。あまりに珍しい体験だったので、文章にまとめてみることにした。
 まず、僕が立てた問いは、「なぜ「父×娘」の物語は、成立しづらいのか?」というものだ。「父×息子」、「母×息子」といった組み合わせは、石を投げれば当たるほど、古今東西に存在するジャンルだと思う。また、「母×娘」もここ10年くらいで、「毒親」という言葉とセットで、堰を切ったように現出した感がある。では、「父×娘」の組み合わせは、どうだろうか?僕が知っている浅い知識では、「父×娘」ものを扱っている日本の作家といえば、せいぜい、阿川佐和子、壇ふみ、向田邦子ぐらいしか頭に浮かばない。そして、彼女たちに共通するのは、どれも「すでに存在しない怖かった父親」である。すでに存在しない父親を回顧し、「あのときお父さんはこういう気持ちだったんだろうなぁ」という推測により物語は展開する。そこに「生身の父親」は存在しない。しかし、「街場の親子論」には、生身の父と娘が登場する。辛うじて父の不在を前提に存在する「父×娘」というマイナーなジャンルに、「街場の親子論」は、往復書簡という形で、「生身の父」と「生身の娘」が対峙するという快挙を成しとげた。僕の涙腺を崩壊させたのは、この「生身」の情景たちである。
 この本の企画を最初に聞いたときに、内田先生から語られたシャルル・ド・ゴール空港での情景。僕には、その情景は、まるで、ヨーロッパ映画のロードムービーの一コマのように思えた。そして、本のページをめくるたびに、次々と紹介されていく情景たち。バックギャモンやモノポリーを楽しんだり、カルチェ・ラタンの中華料理屋で、ラーメンを食したあとに、内田先生からるんちゃんにこの本の企画のことを告げる情景。なにより、僕を一番キュンとさせたのは、二人でパフェを食べた日のことと、花柄のスカートを穿いたるんちゃんの姿である。
 この二つのことで、内田先生は、深く傷つく。しかし、これらの傷を負うことによって、一つずつ父親に近づいていったのではないかと、僕は想像する。是枝監督の作品に「そして、父になる」というのがある。父親役の福山雅治が、次第に父親として目覚めていくといったものだ。父親というのは、この映画のタイトルが示す通り、初めから「ある」ものではなく、「なっていく」ものなんだろう。僕たち夫婦には、子供がいないので、僕にはリアルな父親の気持ちが分からないので、あくまでも僕の想像というか妄想だが…。。
 そして、僕を一番驚かせたのが、父親に「なる」過程において、一番重要なファクターは、娘からの愛なのでは?という風に気づいたことである。親子関係というのは、親からの愛情が子供に注がれて、子供が成長していくものと普通に思っていたが、実は、それは、逆ではないだろうかと、ふと思い至ったのである。「自分のことをもっと気にかけて欲しいと思っても、どこまで要求していいのか分からず、育児の至らない部分を怒ったり責めたりする気にはなりませんでした。あの頃のお父さんは、死にかけのウサギの赤ちゃんのように弱っていたので…。」とるんちゃんが書いています。その年頃の僕と比べるまでもなく、明らかにるんちゃんは、「大人」で、しかも、自分のことは脇に置いて、父親のことを気遣う愛に満ち溢れている。そんな「大人」の娘と、これから「父」になろうとしている「父」との倒錯した関係は、分かりやすい物語には、到底なりにくいだろうと思う。親と子供の物語が成立する要件は、「巨人の星」のような親と子の関係における非対称性ではないだろうか?その非対称性が、「父」と「娘」の場合、必ずしも成立しない。
 先日、野村克也のドキュメントを観た。晩年、息子と対談するというもので、いかにも居心地の悪そうな野村克也が、最後にポロっと本音を話す。同じプロ野球の指導者の道に進んだ息子に、「僕に、どうしてほしいか言ってくれ。言われたことには、すべて応えるから。」と苦悩に満ちた顔で言う。自分の父親を見ていても、子供に対して、どう接していいのか分からないというのは、父親の本音なんだろうと思う。だから、壇一雄は「家宅の人」となり、阿川弘之は、娘の前でムスっと押し黙り、寺内貫太郎は、暴力的になるしか、父としての選択肢がなかったのだろう。自分がもし父親になっていたら、どんな父親になっていたのだろう?何となく想像できる。
 内田先生は、るんちゃんからの愛情に支えられ、リアルに接してきたことで、今回のような父と娘の往復書簡という世にも稀な作品が出来上がった。
 さらに、るんちゃんは、現在でも「「内田樹さん」がどんな人間であるか、じつはとても興味があるのです。」と公言していて、その愛情は、子供のときから少しも変わっていない。
 そんな奇跡のような父と娘の物語である。