作成者別アーカイブ: 合気道 清道館

金曜日 桃谷教室稽古時間変更のお知らせ

金曜日の桃谷教室の稽古時間を、2019年1月18日(金)より、下記の通り変更いたしますので、よろしくお願いいたします(井上)

11:00~13:00

 

 

 

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1月の稽古予定につきまして

みなさん

あけましておめでとうございます。
2019年、平成最後の年が始まりましたね。
今年もみんなで心を合わせて、合気道の稽古を通じて生きる力を高めていきたいと思います。

さて一月の稽古カレンダーをすでにアップしていますが、変更がいくつか発生していますので注意してください。
変更された箇所は以下ですので、ご確認ください。

1/24(木)石橋 稽古中止
1/31(木)通常稽古
1/25(金)桃谷 代稽古(竹下)

私的「1980年代日本映画ベスト・テン」(@井上英作)

1980年、僕は、15才だった。

キネマ旬報社が、創刊100周年を記念して特集を組んだ。その一つが「1980年代日本映画ベスト・テン」である。僕は、すぐに紀伊国屋書店で購入した。

僕は、80年代、つまり、15才~25才にかけて、特に10代の頃は勉強そっちのけで、イギリスの音楽をひたすら聞き、洋画、邦画を問わずに実にたくさんの映画を観た。今回の「1980年代日本映画ベスト・テン」を読んで、自分でも驚いたのだが、そこに掲載されているベスト10はもちろん圏外の作品もほとんど観ていたのである。そこで私的「1980年代日本映画ベスト・テン」を選んでみた。なお、()内は、この本でのランクである

・家族ゲーム(1)

・人魚伝説(17)

・のようなもの(29)

・天使のはらわた 赤い淫画(38)

・ときめきに死す(38)

・火まつり(46)

・それから(52)

・タンポポ(52)

・十階のモスキート(62)

・キッチン(86)

10本のうち、半分も森田芳光監督の作品を選んだ。森田監督は、1984年、弱冠34才で「家族ゲーム」、その2年後「それから」で、キネマ旬報賞日本映画監督賞を受賞するという快挙を成し遂げる。今回の本の中でも、80年代は森田の時代だったという意見が多い。音楽至上主義者だった僕に、新しい世界を教えてくれたのは、映画だった。当時よく聞いていたミュージシャンたちのインタビューでヌーベルバーグの存在を知り、ヨーロッパのアート系の映画を見始める。一方、邦画といえば、僕は東映ヤクザ映画か角川映画しか知らず、少し低く見ていた。そんな僕の偏見を見事なまでに覆したのが、「家族ゲーム」だった。僕は、映画のその自由さに驚愕した。僕は、「家族ゲーム」を機に、森田監督の大フアンになり、全作品を観た。特に、初期の作品は、どれもこれも引けを取らず、名作ばかりだ。「家族ゲーム」で、図鑑を脇に抱えながら登場する松田優作。「のようなもの」での、夜中中、東京の街をひたすら歩く志ん魚。「ときめきに死す」での冒頭の駅のシーン。「キッチン」での、あまりに美しい函館の街並み。まだまだ、森田監督の作品を観たかった。

10本のうち、池田敏春監督の作品を2本選んだ。大学生になる直前の3月の終わりに、今は亡きサンケイホールで「人魚伝説」を観た。それから年月が流れ、もう一度観てみたいと思っていたのだが、その頃には、「カルト作品」という範疇に収められ、ビデオが10,000円以上もするという事態になっていた。そして、ようやくDVDを手に入れることができ、数十年ぶりにこの作品との邂逅が実現する。先日、改めて、観てみると、今の時代の気分を象徴するかのようで、主人公のみぎわは、原発に一人立ち向かっていく。劇中、白都真里演じる主人公みぎわがつぶやく。「原発ゆうんは、どこや!。うちの人殺した原発ゆうのは、どこにおるんや!!」。本作の有名な復讐のラストシーン、公開当時は、少しくどい印象を受けたが、「巨悪」に、たった銛一本で生身の身体をさらけ出し、立ち向かう姿は、むしろ神々しささえ感じさせる。そして、「天使のはらわた 赤い淫画」である。その当時、ポルノ映画界には、有能な若い才能が、うようよと存在した。森田芳光、根岸吉太郎、周防正行、滝田洋二郎…etc。この作品は、東梅田日活に、この作品を観るためだけに行ったのを覚えている。脚本は、石井隆。そのあまりの切なさに、僕は、ポルノ映画の本来の目的を、まったくといっていいほど達成することができなかった。村上春樹は、以前、エッセイで映画の魅力について、こう言っている。観た映画のストーリーは、ほとんど覚えていないが、観た日のことの記憶は鮮明に残っていると。僕も、これらの作品を観た日のことを、なぜかいまでもよく覚えている。「人魚伝説」を観た日の夕暮れの桜橋交差点、桜橋ボールのちゃちい看板、冬とは違う春の冷たい風。「天使のはらわた 赤い淫画」を観た日の、「シェイキーズ」の店内の照明の明るさ、外に漏れてくるピザの美味しそうな匂い。そして、地下の劇場に続く東梅田日活の狭い階段。現在、東梅田日活は、すでにもうなくなっていて、コンビニに変わっている。べたべたと張られていたポルノ映画のポスターは、もうそこにはなかった。

なかなか最後まで読めない本、あるいは作家というのが、誰しも一冊や二冊はあると思う。僕の場合、それは「枯木灘」(@中上健二)である。そのあまりに濃密な雰囲気にいつも途中で負けてしまう。その中上健二が脚本を担当したのが、映画「火まつり」である。公開当時、何だかよくわからなかったが、とにかく、主演の北大路欣也の存在感が際立った。それは、「枯木灘」の主人公、秋幸のイメージと重なる。今年の春、熊野に行った。たくさん見て回った神社の一つ、神倉神社には、538段の急峻な石段があり、毎年2月6日に、「上り子」と呼ばれる参加者が、松明を手に、この石段を一気に駆け降りる。その勇壮で幻想的な様子を見て、中上健二がこのお橙祭りを「火まつり」と名付けたそうだ。熊野が持っている土地の磁力、その力を背景に紡ぎ出される中上健二の物語、それをどのように映像化したのか、もう一度この作品を観たくなった。

80年代の日本映画は、様々な業界から映画監督に進出した人たちが多かった。彼らは、「異業種監督」と呼ばれた。とりわけ、北野武、伊丹十三が有名である。僕は、伊丹十三のデビュー作「お葬式」を、三番街シネマで観た。映画の日だった。観客席は満席で、立ちながら観たのを覚えている。観終わったあとの印象は、あざとくてしたたかだなと思った。その余分な肩の力を抜いたような作風で、今でも大好きな作品が、「タンポポ」である。ラーメンウエスタンと名付けられたこの作品は、食にまつわるエッセイのような映画で、実に「かわいい」のである。そして、なにより登場人物が、全員「かわいい」。タンポポ役の宮本信子、ゴロー役の山崎努。そば屋で、もちをのどにつまらせる老人役を大滝秀治、その大滝秀治の運転手役で桜金造…etc。とりわけ一番好きなシーンは、ゴローが墨汁をたっぷりと含ませた筆で看板に「タンポポ」と書き、その看板を店の入り口に掛け、全員で嬉しそうに眺めるというものである。僕は、このシーンを見ると、「幸福」という抽象が具現化するその瞬間を感じるのである。

この本のなかでの映画評論家等のアンケートを見てみると、内田裕也作品がたくさんノミネートされている。本作以外に、「水のないプール」、「嗚呼!女たち 猥歌」、「コミック雑誌なんかいらない!」が選ばれている。特に、僕は、内田裕也自身に何の思い入れもないが、80年代の日本映画において、彼の果たした役割は無視できない。日本映画がどんどん衰退していくなかで、そのことを逆手に取って、内田裕也は、崔洋一(十階のモスキート)、滝田洋二郎(コミック雑誌なんかいらない!)などの新しい才能を開花させていく一方、衰退していく「新しかった」才能、若松孝二(水のないプール)、神代辰巳(嗚呼!女たち 猥歌)への愛情も決して忘れていない。そんな時代の狭間で、引き裂かれそうな思いのなか、内田裕也は本来の音楽ではなく映画の世界にこの10年ほど深くコミットしている。その苦悩が、一体どういうものだったのか、僕には想像できない。だから、内田裕也演じる登場人物は、どの作品においても、暗くて暴力的なのだ。この時代にしか現れなかったであろう俳優だと思う。

こと音楽の世界では、80年代は、ポスト・パンクの時代で、「何もない時代」などと当時マスコミからよく揶揄されたものだが、このように振り返ってみると、新しい才能が続出したなかなか面白かった時代だと思う。この本のなかでも、「80年代は日本映画にとって何と実り多き年だった」(@土屋好生)、「80年代に限っては外国映画より日本映画を選んでいるときのほうがワクワクした」(@夏目深雪)、「あらゆる意味で日本映画は、1980年代が一番面白いんじゃないかと率直に思う」(@森直人)、「最近、若い衆から80年代の日本映画はぶっとんでクールだと讃えられ、何も答えられなかった」(@増冨竜也)、「80年代の日本映画は1本の作品が独力で自分の世界を開拓していく爽快感があった」(@渡部実)というコメントが寄せられている。僕も、このことに深く同意する。

「母のこと」(@井上英作)

2018年12月7日3時12分、母が亡くなった。82才だった。

12月6日21時半ごろ、映画「あゝ荒野」を観ているところに、携帯が鳴った。デイスプレイには、妹の名前が表示されていた。「もう、ダメかもしれない」。受話器越しに妹がそう言った。僕は、すぐに着替え、たまたま近くのコンビニで休憩しているタクシーを見つけた。「川西市立病院」とだけ運転手さんに告げると、その意味を察してか、100㎞近い速度のまま、30分足らずで、僕は、病院に到着した。母の様子は、見た目には、昨日と大して変わりなかったが、血圧がどんどん下がってきているとのことだった。そうこうしているうちに、嫁さんと妹が来て、三人で母の顔を眺めていた。24時近くになり、僕たち夫婦は、別の部屋で仮眠を取ることにした。日付が変わり、2時半ごろ、看護師さんに起こされた。「もう時間の問題だと思います」。すぐに病室に行くと、母の呼吸のリズムが緩慢なものになっていた。そして、最後に大きく息を吸い込むと、その吸い込んだ息を吐き出すことは、もう二度となかった。

母は、厳しい人だった。僕が幼稚園に通っていたころ、近所の悪ガキにいじめられて、ワーワー泣きながら家に帰ると、母は烈火のごとく怒り始めた。「男が、ビースカ、ビースカ泣くな!!やかましい!」。それから、僕は、人前で泣かなくなった。しかし、この日だけは、母の教えをどうしても守ることができなかった。でも、「ビースカ、ビースカ」とはならなかったので、母もきっと許してくれるだろう。

また、母は、涙もろい一面もあった。人情ものが大好きで、「松竹新喜劇」、「凡児の娘をよろしく」、「唄子・啓助のおもろい夫婦」をテレビで観ては、よく泣いていた。他人の苦労より、自身の苦労の方が、よほどつらいはずなのにと、子供ながら不思議に思い、涙をぬぐう母の横顔を、よく眺めていた。怪談も大好きで、嘘か本当か知らないが、子供のころ幽霊を見たらしい。その話を、何度も聞かされ続けた僕は、見事なまでに英才教育を受けた結果、ホラー好きになったのである。さらに母は、身も蓋もなかった。貧しかったころ、水のように薄いカルピスに不満を漏らすと、「飲んだらいっしょ」とたった一言で済ませてしまった。このように、母の性格を書き並べていて、はたと気づいた。僕そのものではないか。僕という人間を基礎付けているのは、まぎれもなく母だった。

以前、お見舞いに行ったとき、母は、僕の顔をじっと見つめながら、こう言った。「あんた、全然変わらへんな」。いくつになっても、母の前では、僕は、いつも「こども」だった。ある年のお正月に、妹が僕に、「小さいときから、本が好きだったの?」と僕に尋ねた。すると、すかさず、母が、「大学入ってからや。」と答えた。この人は、僕のことを、本当によく知っていた。そのころ、特に母と話しをすることもなかったはずなのに、その微妙な僕の変化に気づいていたのだ。

母の病気のことを知るきっかけとなったのは、4年前の父の葬儀のときだった。そのとき、風をひいているのか、母の声は、ずっと鼻声だった。僕は、医者に行くように促し、母も首にできた脂肪の塊が気になっていたようで、医者に診てもらったところ、脂肪の塊は、何ら問題なく、むしろ、鼻声の原因が、鼻孔にできた腫瘍だと診断された。ガンだった。すぐに手術でその腫瘍を摘出したのだが、今年になり同じ箇所に再発した。医者からは、もう高齢なので、打つ手がないといわれ、今年からホスピスに入院し、母は逝ってしまった。不幸中の幸いだったのは、その腫瘍は転移していなかったようで、腫瘍ができた箇所が箇所だけに、転移していると顔にその影響が出てひどい状況になったそうだが、それだけは、免れることができた。母に腫瘍のことを知らせ、転移を防いだのは、父の力によるものだと僕は思っている。父と母は、しょっちゅう喧嘩をしていて、若いころは、よくその喧嘩に僕も加勢し、父との対立をどんどん深めていった。そんな父が、4年前に亡くなった。僕は、涙の一粒も流さず、弟から随分そのことを非難されたが、葬儀のときに一番泣いていたのは、意外にも、母だった。あれだけ、父に苦労をかけられていたのに…。今回、母の遺影として、妹が選んだ写真は、2001年に二人でどこかへいったときのもので、とてもいい写真だった。ふたりとも満面の笑みを浮かべている。夫婦間のことは、その二人にしかわからないものだが、母が父のことを愛していたことに、今になって、僕は知ることになる。亡くなる直前に、母は、妹にこう言った。「お父さんに会いたい。」

葬儀が終わり、父の兄弟、つまり叔父たちと話をする機会に恵まれ、僕は、生前の父の「さまざまなこと」について、叔父たちに謝罪した。すると、思いもかけない、返答が返ってきた。「謝らないといけないのは、こちらの方だ。兄貴のことで、一番つらい思いをさせたのは、姉さんとおまえや。すまなかった」。僕は、長い間、胸のなかでつっかえていたものが、少しづつ溶解していくのを実感した。母の僕への最後の贈りものとなった。

すべてが終わり、長い3日間が終わろうとしていた。僕たちは、12月9日19時頃自宅に戻った。そして、近くにある居酒屋で、日本酒を飲みながら、母の好物だった「天ぷらうどん」を二人で食べた。

「坂元裕二の世界」(@井上英作)

テレビを見なくなって久しい。あんなにテレビが好きだったのに…。理由は、単純明快で、面白い番組がなくなったからだ。例えば、「もーれつア太郎」のようなアニメ、「11PM」のような情報番組、「お笑いウルトラクイズ」のようなバラエティ、そして「寺内貫太郎一家」のようなドラマは、残念ながらもう過去の遺物となってしまった。そんな僕が、唯一観ているのが、脚本家「坂元裕二」のドラマである。

先日テレビ番組「仕事の流儀」(あのスガシカオの曲で始まるNHKの看板番組)を観た。番組は坂元裕二を追ったもの。ほとんど初めてのブラウン管での登場ということもあり、僕はしっかりと録画し、じっくりと番組を拝見した。

余程のドラマ好きでない限り、坂元裕二のことを知らないと思うので、簡単に紹介しておく。もっとも有名な彼の作品は、あの「東京ラブストーリー」で、最近だと「いつ恋」こと「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」とか「カルテット」が有名である。

へそ曲がりの僕は、坂元フアンだと公言しておきながら、「東京ラブストーリー」は観たことがなく、初めて彼の作品を観たのは、彼のデビュー作「同・級・生」(1989年)だった。書きながら初めて知ったのだが、「あの」1989年に「同・級・生」を観ていたことに自分でも驚いた。1989年というのは、言うまでもなく「昭和」が終わり「平成」が始まった年だが、僕にとっては、松田優作が死に、ミュートビートが解散した、大きな喪失感に苛まれていた一年だった。むしろ、そんな時期だったからこそ、僕は、この甘ったるいドラマを必死に観ていたのかも知れない。このドラマが象徴するように、坂元作品に通底しているものは、決して交わることのない男と女である。「同・級・生」における鴨居(緒方直人)とちなみ(安田成美)、「それでも、生きてゆく」の瑛太と満島ひかり、そして、「いつ恋」の有村架純と高良健吾…etc。これらの男女は、見事なまでにすれ違う。橋本治によると「男と女がすれ違うことによってメロドラマは成立し、男と女は初めて等価になる」そうだ。だとすれば、坂元が描き続けているのは、単なるメロドラマなのか?そんな単純な話ではない。

坂元は、「東京ラブストーリー」の大成功のあと、同じようなラブストーリーを描くように制作側からオファーが続き、一旦テレビの世界を離れる。彼を、再びテレビの世界に引き戻したのは、子供が出来、父親になってからだった。その復帰作とも言えるのが「Mother」である。この「Mother」は自分の子供を虐待する母親の話である。実際に子育てを経験した坂元は、その経験から「Mother」を書いた。誤解をされると困るので、敢えて補足しておくが、もちろん、僕は、虐待を肯定しているわけではまったくない。ただ、一方で「虐待はいけない」と声高に叫ぶことで、問題を解決できるとも思わない。坂元は、ドラマの途中から、主人公の母親が、どうして娘を虐待するに至ったか、その道程を丹念に描くことに方向転換したそうだ。

この作品以降、坂元は、従来のメロドラマをベースに、社会から切り離されそうな、犯罪加害者の家族、育児を放棄した母親などにスポットを当てる。番組のなかで坂元は、「すごく簡単に言うと、多数派か少数派かっていったら、少数派のために書きたい。こんなふうに思う人は少ししかいないっていう人のために書きたい」。「小さい積み重ねで人間っていうのは描かれるものだから、僕にとっては大きな物語よりも小さいしぐさで描かれている人物をテレビで観るほうがとても刺激的」と言っている。僕は、このことを聞きながら、強い既視感を覚えた。それは、村上春樹が小説を書く際に言っていたこととほぼ同義だったからである。村上春樹は、自分の好きなアメリカ文学の作家の影響を受け、できるだけ細かくデイテールを描くことによって物語を立ち上げていく。子育てを通じて、「日常」の重要性に気づいた坂元も、丹念にデイテールを細かく描いていく。まるで、それは、普段の生活のなかで零れ落ちていくものを、拾い集めていく作業だ。村上春樹の言葉を借りれば、それは「雪かき仕事」なのかもしれない。

番組では、再びテレビの世界を離れ、舞台の脚本を書く坂元を追う。その脚本の元になっているのは、弟への複雑な感情らしい。「やさしくないお兄ちゃん」だった自分への罪滅ぼしが原点にある作品だそうだ。僕にも四歳年下の弟がいる。坂元同様、僕も弟とは、いまだに上手くいっていない。だから、坂元の気持ちが痛いほど僕には分かる。

僕は、昔から、夢をかなえるような「そんな話」が、どうも好きになれない。「自己実現」という言葉が大嫌いだ。ついでに、「夢」も。「自己実現」というのは、「自己」の「実現」を阻む何かが存在し、それを取り除き、壊せば、「新たな自己」に出会えるという「物語」に過ぎないと思っている。本当にそうだろうか?それは、僕に言わせれば、自分にとって都合の悪い自己を否定しているだけなのではないだろうか。一方、坂元が描くような世界感に、僕は、どうしても共感を覚えてしまう。それは、駄目な自分、しょぼい自分、いまいちな自分、つまり、「そうありたい自己」からそぎ落とされていく「もう一人の自分」と正面から向き合い、寄り添いながら生きていく人たちの物語だからだ。ザルで水を掬うようにその零れ落ちていくものこそが、何気ない「日常」であり、すれ違い続ける「男と女」だったりする。だから坂元は、それらが零れ落ちないように、丁寧に細かく描写することにより、それらを拾い集める作業を繰り返す。

しょぼい自分を認めたり愛してくれるのは、世界中でたった一人しかいない。それは、自分自身である。しかし、そのような「雪かき」的な態度は、時に切なく、いつも哀しい。でも、僕は、そんな自分を大切にしながら生きていく、坂元の物語の主人公のような哀しい人たちが大好きだ。だから、僕は、坂元裕二の作品に惹かれるのである。

 

 

「祖父のこと」(@井上英作)

早朝、6時過ぎに携帯電話が鳴った。その日は、木曜日だったので、てっきり朝稽古に出かけた奥さまからの電話だと思い、「また、忘れものだろう」と眠たい眼をこすりながら、鳴り終わった携帯電話の画面を眺めた。違った。デイスプレイには、叔父の名前が表示されていた。ついに、その時が来てしまった。祖父が亡くなったのだろう。折り返し、叔父に電話をかけると、やはりそういうことだった。葬儀などの時間については、追って連絡するとのことだった。父の実家は、兵庫県の山奥、ドラマ「夢千代日記」で一躍有名になった「湯村温泉」にある。すでに他界した父は長男で、僕は、その父の長男ということもあり、お通夜、お葬式に参列するとなると、一泊二日の旅になるため、その日がお通夜になることも頭に入れ、湯村温線行きのバスの時刻表を確認しながら身支度を始めた。とりあえず黒のスーツに白のシャツ、ネクタイだけいつもの会社に行くときのものを締め、いつも通りに出勤した。叔父から連絡が入ったのは、13時ごろだった。お通夜は明日の18時、葬儀は明後日の10時半となった。僕は、その内容を会社に説明し、明日は早退し、明後日は会社を休むことにした。

その日は、午前中に会社で打ち合わせを行い、阪急三番街12時20分発、湯村温泉行の直通バスに乗った。舞鶴道春日ICから北近畿自動車道に入り、八鹿まで高速道路がつながったことにより、以前に比べてはるかに近くなった。湯村温泉についたのは、ちょうど3時間後の15時20分だった。父の実家に向かい、昔の風景と比べながら、湯村温泉の街をとぼとぼと歩く。途中、街のシンボル「荒湯」に立ち寄り、その脇に立っている、「夢千代像」を眺める。その銅像の横に、ドラマ「夢千代日記」の石碑があった。樹木希林も出ていたのかぁ。すっかり忘れていた。ドラマ「夢千代日記」は、1981年~1984年、吉永小百合主演のNHKで放映されたドラマである。その舞台となったのが、この湯村温泉で、脚本は、この間亡くなった早坂暁。主人公の夢千代は母親の胎内にいたとき、広島で被爆した胎内被爆者。その置屋の女将・夢千代を巡る人間模様といったところだろうか。早坂暁が、どうしてこの話の舞台に、湯村温泉を選んだのかは知らないが、余命幾ばくも無い夢千代、裏日本という表現、夜になると海鳴りが聞こえるなど、およそ陰鬱なイメージを、この湯村温泉に投影させた。外からは、この街は、そんな風に映るのだろうか?そんなことを考えながら、父の実家に着いた。玄関に入ると、出迎えてくれたのは、父の従弟のおじさんだった。従弟の結婚式以来となるため、約20年ぶりの再会である。頭が真っ白になり、更に太った姿は、最初は誰か分からなかった。部屋に上がり、お焼香を済ませ、喪主の父の弟(末っ子)に挨拶する。そうこうする内に、「親戚」が、ぞろぞろと集まり始める。父の兄弟、いとこ。祖父のいとこ、その子供。そして僕のいとこやはとこたち。そう、この狭い街には、親戚たちがたくさんいるのである。湯村のお通夜は、お坊さんを呼ばないらしく、食事が始まった。大生まれの元軍人の祖父は、派手なことや騒がしいことを好まなかったので、それこそお通夜のような宴会が始まった。子供の頃、調子に乗ってはしゃいだりしていると、よく怒られたものだ。しかし、酒が入ると、だんだんにぎやかになり、陽気な父の弟(三男)の「今日は、おやじも許してくれるやろ」の号令で、大変楽しい食事会へと移行していく。食事会も終わり、夜の湯村の街を、僕と、父の従弟たちと一緒に、宿へと向かう。雨に濡れた春来川沿いの歩道を歩きながら、僕は、小説「枯木灘」(@中上健二)のことを思い出した。

翌朝、10時30分から告別式が始まった。昨日来れなかった父の兄弟が全員揃った。中でも、父の弟(次男)は、パーキンソン病を患っているらしく、体中の筋肉が弛緩しているようで、特に首の筋肉がひどく、車いすに座りながら、ずっとうなだれたような恰好で葬儀に参列していた。最後に、喪主の父の弟(末っ子)があいさつを始めた。この叔父は、大手上場企業で専務にまで登りつめた人で、そつなく、スピーチをこなしていたのだが、最後に、祖父の簡単な経歴について話を始めた。                                   

の「本当の」祖父は、実は、この世には、すでに存在しない。昭和21年に38才という若さで亡くなっている。今回亡くなった「祖父」は、その「本当の祖父」の弟にあたる。そのことは、父から聞いていたので、知っていたのだが、詳しくは知らなかった。昨晩、そのあたりの詳しい事情を知りたくて、宿で一緒に泊まった父の弟(三男)に酔いの力も借りて、思い切って聞いてみた。ところが、その反応は、僕がまったく予想していなかったもので、父の弟(三男)は、僕のその態度に怒りを覚えたようだった。「今更、そんなことを聞くな!!」と一蹴されてしまったのである。しかし、そのもやもやが、まさに今、父の弟(末っ子)の口から語られ始めた。「祖父」は、昭和24年に、捕虜として4年間を過ごしたシベリアから復員を果たす。しかし、やっと日本に帰ってきた「祖父」を待っていたのは、夫を亡くした未亡人と、5人の子供と「祖父」の二人の親だった。この8人の生活を、どのように支えていくのか、重くて喫緊の課題がすぐ「祖父」の目の前に鎮座していたのである。そして、両親に説得され、「祖父」は、この8人の面倒を見ていくことを決心する。そして、昭和26年に父の弟(末っ子)が誕生するわけである。村上春樹は、エッセイで、父が戦争中の中国での出来事を、亡くなるまで、ついぞ一言も話さなかったという風に書いているが、「祖父」もシベリアでの出来事については、何も語らなかった。僕が知っているのは、シベリアにいたという事実だけである。日本から遠く離れた極寒の地で、「祖父」が経験した4年間というものが、一体、どういうものだったのか、僕には、まったく想像すらできない。さらに、やっと日本に帰ってきたのに、待ち受けていた、あまりに重くて生々しい現実を、どのように自身のなかで消化し、生活をしていたのか、そのことについても、同様である。一方、10才のときに父を亡くし、13才のときに戦争から帰ってきた「叔父」を「父」と呼ぶようになった、少年時代の「僕の父」が、どのような気持ちで毎日を過ごしていたのか、そのことさえも、僕には想像できない。さらに、昭和21年から昭和24年の3年間、たった一人で家族を守ってきた「祖母」の、計り知れない苦労が、一体どれほどのものだったのか。これらのあまりに重い「事実」が、僕の頭の中を駆け巡り、頭がくらくらした。それは、「戦争は悲惨だ」などという言葉では、とてもじゃないが、覆いつくすことなどできない、もっともっと大きな何かだ。そんな状況のなかで、最後のお別れで棺に入った「祖父」へ、花が手向けられた。韓国映画「国際市場で逢いましょう」のなかで、朝鮮戦争とベトナム戦争に巻き込まれていく主人公が、ポツリというセリフがある。「生まれた時代が悪すぎた」。「祖父」がそのように思っていたかどうか、僕には分からないが、世界の不条理を身をもって体現した「祖父」の人生のことを思うと、僕は、花を手向けながら、涙が止まらなかった。ふと、目をやると、父の弟(次男)の眼鏡の奥から、涙が頬を伝い流れていた。パーキンソン病のため、涙がぬぐえないのだ。僕は、時間の冷酷さに、ただただ打ちひしがれた。

 

「ヤンキーがいっぱい」(@井上英作)

「その傾向」は、子供のときから確かに存在した。幼稚園に通っていたころ、工作の時間に、僕たちだけ、工作をせずに、お互いの顔に糊を塗りたくり、はしゃいだりしていた。卒園時に、「もっとも心配な子供だった」と当時の教師が、母親に漏らしていたことを、僕は、大人になってから知る。小学生のころは、まわりの子供たちが熱中していた野球のことが大嫌いだった。中学生から大学生にかけては、イギリスのロックを聞きまくり、「変な」映画をたくさん観た。大学生の時、合コンで、女の子に「趣味は?」と聞かれた。自分の音楽の趣味が偏っていることは自覚していたので、僕は、「映画」と答えた。以下、そのときの会話。「トップガン観た?」「観ていない」「じゃあ、ハスラー2は?」「観ていない」「え~、観てないのぉ。じゃあ、最近何観たか教えて?」「死霊のはらわた」「…」。社会人になってから、同業種の宴会があった。その当時、世間では、宮崎勤の事件で持ち切りだった。特に、宮崎の部屋から押収された大量のビデオとその内容に世間は驚愕した。当然のように、その宴会でもその事件が、酒のアテとなった。僕は、酔っぱらっていたこともあり、ぽろっと、宮崎の部屋から押収されたスプラッター映画「ギニーピッグ」を自分も観たと、漏らしてしまった。場が凍りついた。翌日から、僕は「ヤバイ奴」という烙印を押されてしまった。このように、僕は、物心ついてから、何か世界に対して居心地の悪さを感じてきた。若いころは、その居心地の悪さは、「世の中は、バカばかりだ」と虚勢を張っていたのだが、ある年齢に達したとき、「そうか、自分は、やはり少し変わった奴なんだ」と、ほぼ諦めに近いような境地に至ることになってしまった。

一方で、僕は、昔からヤンキーが大嫌いだった。特に、僕らの世代は、ヤンキー全盛で、僕は、不思議とよく絡まれた。絡まれた経験のない人のために、簡単にそのシーンを再現すると、このような感じ。阪急三番街の急に人気の少なくなるようなゾーンで彼らは、獲物を待ち構えている。普通に歩いていると、後方から、急に親しげに肩を組んでくる輩が登場する。ヤンキーである。「おい!ちょっとこっち来いや」とメンチを切られ、非常階段口のような、さらに人気のいない場所へと連れ去られる。「金、出せ!!」「ない」「嘘つけぇ!!」「ない」。内心、僕は怖かったのだが、その怖さを上手く表現することができず、相手を白けさせてしまうことが多く、特に、大きな被害を被ることもなかった。僕の幼馴染などは、更に卓越した技術を発揮する。「やるんかぇ!!おぅ!」とすごまれても、「何をですか?」という超絶話法で、ピンチを切り抜けたりしてきた。しかし、この世には、ヤンキーは、ごまんといて、僕が嫌えば嫌うほど、周りに常に、彼らは存在した。そして、彼らを観察するうちに、共通した傾向があることに僕は気づいた。以下に、その傾向を列挙する。異常に仲間意識、地元意識が強い。すべての趣味が悪い。特に、音楽の好きな僕には、耐えられないセンスで、意外に彼らは、しんみりとしたバラードを好む。思い込みが激しく、人の意見に耳を傾けない。そして、マザコンで、女々しい。

この二つのことが、ある本をきっかけに、パズルのピースがかちんと合わさるように結びついた。「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」という本である。著者は、斎藤環という人で、「引きこもり」の研究者として有名な医学博士だ。僕の観察による結果については、細かく斎藤先生が分析しているので、ここでは省略する。それにしても、である。この本のなかで紹介される人とたちは、すべてと言っていいぐらい、見事なまでに僕にとって苦手な人たちで、そこに伏流しているのが、彼らの持っているヤンキー性ということに、目からうろこが落ちた。橋下徹、木村拓哉、エグザイル、相田みつお…etc。そして、「世の中の9割はヤンキーとファンシーでできている」(@根本敬)そうだ。もし、それが、本当だとしたら、僕がこの世界に対して抱いていた「心地悪さ」への説明がつく。さらに、このヤンキー性を通して、斎藤は、この本を、古典「アメリカの反知世主義」(@ホフスタッター)に倣い「日本の反知性主義」を目指したらしい。

さらに、斎藤は、こうも言っている。

「教養がないというのは、恐ろしいもので、放射能も気合いを入れれば何とかなるなどと言う発想で原発再稼働などをやられたのでは、たまったものではありません。自由と権利には責任と義務が伴うなどというフレーズも、いつの時代だったか自民党の政治家が言い出したことで、民主主義やわが国憲法の立憲主義とはズレた発想です。こういうヤンキの風潮が勢いをつけると、いろいろと世の中を動揺させるような言動が出てきますから、私たちは冷静に、近代民主主義がどのように発達し、これからどのような未来を切り開くべきか、よく考えたいものでございます。」

(季刊「SIGHT」(2013SPRING P71「自民党は、保守というよりヤンキー政党である」)

この本一冊のおかげで、今まで悶々としていたことが、自分のなかで少しずつ瓦解していくのが分かる。