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「さよなら、テレビ」(@井上英作)

7月19日、午後5時、僕は、新橋駅「SL広場」 にいた。山本太郎の演説を聞くためである。

その日、たまたま東京出張があり、せっかく東京まで来たのだから、何か観るものはないか情報をチェックしているところに、「れいわ祭2」を発見したのである。

会場につくと、そこは、街頭演説会場というよりは、まるでロックフェスのような様相を呈していて、ざっと見渡す限り群衆の数は、1,000人あまりといったところだろうか?蒸し暑く、多くの人がごった返したなか、「れいわ祭2」は、「東京音頭」の生演奏で始まった。まさしく「祭り」なのである。その後、髪の毛を金髪に染めた木内みどりの司会により、演説が始まる。トップバッターは、応援に駆け付けた映画監督、森達也によるものだった。森達也は、ドキュメンタリー映画監督で、オウム真理教信者達の日常を追った作品「A」が、特に有名。森は、冒頭、このように吠えた。以下、概略。

「今日、たくさんのテレビ局が、撮影に来ているようだが、いったい今日のこの模様をいつ放映するんだ!どうせ、選挙後の総括を行うために撮りにきたんだろう!そんなことなら、今すぐ帰ってほしい。上司の言うことを、ハイハイと聞くような人間にジャーナリストを名乗る資格などない!!」

残念ながら、この日の森の指摘は、現実のものとなってしまった。今回の参議院選挙日まで、「れいわ新選組」の活動が、テレビで放映されることはなかった。しかし、山本の戦略が功を奏し、山本がいう「当事者」として重度障害者の二人を国会に送り込むことに成功した。選挙後、テレビは、「れいわ新選組」を扱い始めた。山本自身は、この現象は、折り込み済みだったようで、このバブルをすぐに終わるだろうと、冷ややかにインタビューに答えていた。それにしても、である。

僕が、テレビに違和感を感じ始めたのは、大学を卒業したころぐらいの、1989年だったと記憶している。当時、栗良平という人の書いた「一杯のかけそば」という話が、世間を賑わせた。「日本中が涙した」などという触れ込みにより、連日、ワイドショーは、この話題で持ち切りだった。しばしば「赤い血の流れていない男」と評される僕は、やはり、この陳腐な話に興味が持てずにいた。ところが、事態は思わぬ方向へ動き出す。この栗良平という人の過去に、さまざまな問題があることが発覚する。途端に、テレビは、手のひらを返したように、それまでこの作品を称賛していたことが、あたかもなかったかのように振舞い、そのバッシングの強さは、それまでの称賛をはるかに凌ぐものだった。それはないだろうと、僕は、そのときに思った。まず、この古臭い陳腐な話を手放しで称賛したことにも疑問を抱くが、テレビの役割として、その作家の過去を詮索し、その良否を判断することなど、少し出しゃばり過ぎなのではないか?と思ったのである。

若い人には、想像しづらい事例だったかもしれないが、最近も同じような事例が起こった。「佐村河内守」にまつわる一連のことだ。「一杯のかけそば」と、ほとんど、同じような構造だ。

僕は、子供のころからテレビが大好きで、テレビからは、たくさんのことを教えてもらった。腹を抱えて腹筋が痛くなるほど笑った「天才バカボン」や「もーれつア太郎」、加藤茶の真似をしては、母親に叱られた「8時だョ!全員集合」、いまだに再放送があると観てしまう「傷だらけの天使」、中島らもが構成作家として参加した「どんぶり5656」、そのラインナップがあまりに先鋭的だった「CINEMAだいすき!」など、数え上げれば切りがない。

かつてテレビは、当時大変力のあった新聞に比べると、低く見られがちなメディアだった。そのため、テレビ局には、「反権力的」なパンクな人たちが、たくさんいた。田原総一郎(元テレビ東京)や久米宏(元テレビ朝日)を思い浮かべれば、想像しやすいと思う。だから、テレビは、面白かった。そして、何より、情報源としての機能も十分果たしていて、寺山修司やレオス・カラックスなどの新しい才能を、僕は、テレビを通じて、その存在を知ったのである。しかし、その役割を、どうやらテレビは、終えてしまったようだ。テレビをつければ、そこに映し出されるているのは、食べ物や旅の情報ばかりで、政治に関しては、今更いうまでもない。僕が、一番驚いたのは、NHKで流れたニュース速報だった。「安倍首相は、ハンセン病患者に対して控訴しないことを表明しました。」といった内容だった。7月9日だった。まず、速報で流すほどのトピックなのかどうか?そして百歩譲ったとしても、この速報の主語は、「安倍首相」ではなく、「国」ではないのか?

この文章を書きながら、僕は、思いもかけないことに気づいた。僕が、テレビに違和感を感じ始めた契機となった「一杯のかけそば」は、1989年のことだった。そう、平成元年である。

テレビがテレビらしくありえたのは、「昭和」のことで、「平成」に入り、すでにテレビは、その役割を終えていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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9月1日(日) 稽古風景

9月1日 日曜日の稽古風景です。(初めて自力で写真をアップしてみた!)

この日は24人、久しぶりにたくさんの人が稽古に集いました。
前半は、呼吸法をたっぷりやってから、剣。塚原卜伝一の太刀、三の太刀を稽古、最後にシンギングボールを使った瞑想。
後半は横面打ちの稽古、途中で宮本さんの2級審査。
審査シーズンの到来です。
みんなこの時期になると自主稽古をものすごく頑張るようですが、普段の稽古もしっかりやって欲しいです(笑)
宮本さん、二級進級おめでとうございます。

 

【至急】奈良合気会主催 奈良県指導者講習会

下記講習会につきまして昨日、凱風館より案内がありましたが、締切り直前のため参加希望者は、明日9/2午後18時までに井上maonyan88@gmail.com
までメールでお知らせ願います。なお、井上は両日とも参加いたしませんので、現地酒豪現地解散となります。

【凱風館案内】

奈良県大和郡山市)地域合気道指導者研修会のご案内です。

締め切りが迫っており恐縮ですが、参加を希望される方は、9月2日(月)までに事務局konan@gaifukan.jpへメールにてご連絡ください。

<概要>
・日時:令和元年10月19日(土)~10月20日(日)の2日間
・場所:大和郡山城ホール 武道場
〒639-1160 大和郡山市北郡山町211-3
・講師:
【中央講師】
入江 嘉信 七段 (公財)合気会本部道場指導部 師範
立木 幸敏 六段 国際武道大学体育学部 教授
鈴木 昴平 三段 (公財)合気会本部道場指導部 指導員
【地元講師】
窪田 育弘 八段 奈良県合気道連盟 会長
田中 利明 六段 奈良県合気道連盟 副理事長

・日程 指導研修過程
10月19日(土)
9:00 受付
10:00~10:30 開会式
10:30~12:00 中央講師による実技指導
12:00~13:00 休憩(昼食)
13:00~14:00 中央講師による講義
14:00~14:20 記念写真及び休憩
14:20~16:00 地元講師による実技指導
16:00     解散
10月20日(日)
9:00 受付
9:45~10:00 二日目日程説明、初連絡
10:00~11:30 地元講師による実技指導
11:30~12:30 休憩(昼食)
12:30~13:30 中央講師による講義
13:45~16:00 中央講師による実技指導
16:00~16:30 閉会式
16:30     解散

・参加費:おひとり1,000円(1日あたり)
・申し込み締め切り:9月2日(月)

「夏の思い出」(@井上英作)

8月12日9時、僕たちは梅田を出発した。諏訪大社に行くためでる。

2016年3月に宗像大社、宮地嶽神社に行って以来、まとまった休みがあると、僕は「聖地」に出かけている。そのベースになっているのは、「神社アースダイバー」(@中沢新一、週刊現代で連載。近々刊行予定。)の存在で、中沢新一によると、現在、神社のある場所は、元々古代の人たちが霊性を感じていた場所だということ。宗像大社をスタートに、2017年GWに対馬、2018年GWに熊野、そして今年のGWには天橋立。その合間に、熱田神宮、磐船神社、石鎚山など。なにより、宗像神社の高宮祭場(※)で味わったあの感じを味わいたく、この旅を続けている。
(※)宗像三女神の降臨地と伝えられている。沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場。

同日16時半、宿泊先のホテルに到着。お盆の渋滞に見事に巻き込まれ、休憩時間を含めて7時間半のロングドライブ。流石に疲れたので、プチ昼寝。その後、温泉に浸かり、ビールで喉を潤した後、19時より夕食。蓼科に別荘を持っていた小津安二郎が好きだったと言われている日本酒「ダイヤ菊」をいただく。夕食後、ホテルの目の前が諏訪湖のため、花火を鑑賞する。諏訪湖では、夏になると毎日800発の花火が打ち上げられる。そのピークは、8月15日の「諏訪湖花火大会」で、打ち上げ総数約40,000発と国内最大級だそうだ。今度来るときには、是非見てみたい。

8月13日 6時起床。初老の朝は早い。この時間になると自然と目が覚める。昼まで寝ていたあの頃が懐かしい。朝風呂に入り、7時半から朝食。旅行の楽しみの一つは、何と言っても朝食だと断言できる。
 
同日9時頃諏訪大社下社(秋宮)到着。大きな狛犬を両脇に配した神楽殿で参拝。この狛犬は、2m近くもある代物で、こんなに大きな狛犬を僕は観たことがない。神楽殿の四方を囲むように「御柱」が4本、天空を目指して鎮座している。この「御柱」は、「御柱祭」が大変有名で、テレビでよくその勇壮な様子が放映されている。
その後、頃諏訪大社下社(春宮)へ。いつものように参拝の準備のため手水舎の水で手を清めようとしたら、それは水ではなく、なんとお湯だった。長野県という立地を考えれば、そのお湯が温泉から湧き出たものであることは、すぐに察知できたが、なぜか僕のなかでは、このことが、心の中に引っかかった。僕は、参拝を済ませ、境外にある「万治の石仏」を目指した。「万治の石仏」は、そのフォルムに岡本太郎がほれ込んだことで有名だ。境内の敷地の西端に沿うような恰好で砥川が流れている。この川の水がとても美しく、その流れから発せられる「音楽」を聞いて歩いているだけで、ちょっとしたトランス状態に陥る。そんな状態のまま10分ほど歩くと、左に道が折れ曲がり、奥まった少しだけ広くなった場所に「万治の石仏」があった。石仏はこんな感じ。https://shimosuwaonsen.jp/wp/wp-content/uploads/c2a9ff5a551caa913ac9ff06837f8a803.jpg
この石仏をお参りするには、次のような一定のルールがあるとのこと。①正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。②石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。③正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。僕は、石仏の周りをくるくる廻りながら、昔、伊丹美術館で観た、しりあがり寿の「回転」展での中沢新一の言葉を思い出した。「世界中に回転を基にした祭事は多く存在し、このことは人類が誕生して以来の大変古い思考によるものだ。日本では、盆踊りがその典型だ。」その後、諏訪大社上社(本宮)へ移動。そして、ここでも温泉の出る手水舎を発見。境内を散策したあと、西門を出たあたりで、本宮周辺の過去の様子を描いた看板を眺める。かつて、この本宮に近接した形で寺社がたくさんあったことが分かる。しかし、今、その姿はない。かつてのお寺は、現在そば屋に変貌していたりする。明治時代、「廃仏毀釈」によってなくなってしまったのだ。「廃仏毀釈」については、内田先生のブログが、大変面白い。参考までに。http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html 

 午後からは、今回の旅のメイン、諏訪大社上社(前宮)へ。今回、諏訪への旅のきっかけの一つになったのが、同じ寺小屋ゼミ生の福丸さんから聞いた話による。その福丸さんから借りていた資料を片手に、前宮周辺を歩いてみる。中でも「山の神古墳」は、僕の興味を引き付けた。本殿の脇の山の中へ続く道を、炎天下の中とぼとぼと歩く。その道に沿って、小さな川が流れている。「万事の石仏」に至る行程と同じだ。そして、まわりには、誰もいない。静かだ。15分ほど歩いたところで、大きな鋭角のカーブを曲がったところに、小さな看板が目に入る。木々で覆われた看板には、「山の神古墳」と書かれていた。ここだった。どれが古墳なのか、よく分からなかったが、その古墳の脇には、そこだけ平坦で、鬱蒼とした木々がところどころ途絶え、空からは適度な太陽の光が差し込む「場所」があった。僕は、その「場所」に既視感を覚えた。そう、「高宮祭場」だった。何の根拠もないが、ここは、隣が古墳であることを考えると、おそらく祭場だったのだろうと思う。そんなことを考えながら、その場所に佇んでいると、嫁さんは、呼吸法を実践していた。この前宮は、八ケ岳山麓に住んでいた縄文人が移動し、この「モレア山」をご神体と崇めたところと言われている。十分その霊性を堪能したあと、次は、「守屋資料館」へ。この「モレア山」周辺に住んでいた一族は、後に「守屋氏」を名乗るようになり、神長官として、諏訪全体の霊性の保護管(@中沢新一)となった。「守屋資料館」の見学は明日にすることにし、周辺を散策する。そこで、僕は、ついに見つけた。「御左口神神社」(ミシャクジ)である。ミシャクジ信仰というのは、大変古い信仰のことで、僕は、このことを「精霊の王」(@中沢新一)で初めて知った。大きな古木に寄り添うように、大きな石があり崇められている。これを観ることができただけで、この旅の目的は、ほぼ達成したようなものだ。十二分に諏訪の霊性に触れることができ、とても満足した気持ちで、宿へ戻る。あまりに霊的なものに触れすぎたからなのか、部屋に戻ると、強烈な睡魔に襲われ、プチ昼寝。そう、僕は、よく寝る。昨日と同様、お風呂、ビールの後、夕食。昨日と同じようなメニューだったらどうしようと、いらぬ心配をよそに、その日の晩は、やや洋風で、僕たちはとても嬉しくなり、白ワインで夕食を堪能。昨晩同様、諏訪湖に打ち上げられた花火を観る。浴衣を着て花火を観るなんて、まるで「東京物語」に出てくる老夫婦みたいだと余計なことを考える。

8月14日6時 またしても、初老の朝は早い。朝のニュースを見ながら、台風の接近とあおり運転にビビリ、お昼過ぎには、大阪へ帰ることにする。
同日9時「守屋資料館」到着。今日最初の来客だったようで、スタッフの方から、いろいろ話を伺う。建築家の藤森照信のこと、守屋家のこと、御頭祭のことなど。ご丁寧な説明ありがとうございました。その後、そのスタッフの方に教えていただいた「尖石縄文考古館」へ向かう。ひととおり、館内を見学し、尖石遺跡へ。ここも、ミシャグチ信仰の痕跡が、しっかりと残っていた。古い大木に寄り添うような大きな石…。

 今回の旅を通じて、僕は、「聖地」に共通するひとつの傾向に気づいた。まずは、「音楽」の存在。聖地には必ず「音楽」が存在する。それは、川を流れる水の音であったり、鳥の鳴き声だったりする。特に、対馬での鳥の鳴き声は、どこまでも美しかった。これほどまでに、種類によって鳴き声が違うものかと気づかされるほど、実にたくさんの種類の鳥の鳴き声を堪能した。次に、地中から天に向う大きなエネルギーの存在。大仰な言い方をしたが、その抽象性を具体化したものは、自然の中にたくさん存在する。それは、山であったり、雨、雷などなのだろう。そのことを最も分かりやすく象徴しているのが、「御柱」で、まっすぐに天に向かって社殿を取り囲むように建てられている様は、まさにそのもの。また、度々見かけた、温泉の出る手水舎もその文脈で考えると、得心がいく。地下に蓄えられたエネルギーにより噴出する温泉。さらに、熊野でたくさん見た巨岩信仰もその文脈で理解できるのではないだろうか?それは、まさに、地から天への大きな運動。このような、要素を備えた場所に、古代の人たちは霊性を感じ、その場所、そのものに畏れを成したのだろうと思う。

 僕は、若いころから、ずっと音楽を聞き続けてきた。途中、高校生ぐらいからは、音楽に加え映画もたくさん観るようになった。さらに、今から10年ほど前から突然登山を始めた。しかも、北アルプスを中心とした3000m級の急峻な山たちを相手にである。僕のなかでは、この三つのことが、どこかで繋がっていることは、なんとなく直感で分かっていたのだが、「それ」が一体何なのか?僕には、分からなかった。しかし、これも偶然始まった、「聖地」巡りで、おぼろげながらこの三つを繋ぐ糊のような存在の輪郭が、浮き上がってきているのが分かる。それは、おそらく、「目に見えないもの」を感じる「宗教」のようなものだと思っている。

 そんなことを考えながら、僕たちは、諏訪を後にし、大阪へ向かった。ラジオから、NHK FM『今日は一日“YMO”三昧』が流れている。思わぬプレゼントに気をよくしながら、僕は車を運転した。あおり運転に遭遇しないことを祈りながら。

2019年秋 審査対象者

標題につきまして、下記のとおりといたします。

山本利弘 審査級位 二級
宮本由貴 同    二級
中山彩子 同    四級
近藤智子 同    四級
韓哲洙  同    四級
西田朋子 同    五級

各自稽古に精進して審査に臨んでください。
井上

「僕とその町」(@井上英作)

僕は、物心ついてから高校二年生の夏まで「その町」で過ごした。「その町」は、飛行機の騒音がひどい町として有名だった。「その町」には、社会の底辺に生息しているような人たちがたくさんいた。戦争で片足を失った老人、ヤクザ、在日朝鮮人、犯罪者…etc。とりわけ、小学校六年生のときに同じクラスだったI君は、小学校低学年から「その町」の小学校に在籍していたが、転校を繰り返しては、「その町」に帰ってきた。そして、帰ってくるたびに、苗字が変わっていた。僕は、子供の頃、その意味がよく分からなった。今となれば、よく分かる。彼の母親が離婚を繰り返していたのだろう。彼は、狂ったように荒れていて、中学校に入ると悪い先輩に誘われるままヤクザとなり、薬漬けにされたらしく、その後のことは、僕は知らない。最後に彼を見たのは、中学校に通学途中の阪急バスの中で、彼はしきりに何かブッブツ言っていて、その目の焦点は合っていなかった。同級生の間で噂になっていた、薬漬けにされたらしいということが真実味を帯びて、僕は、声をかけることができなかった。

小学校低学年だった頃の夏休み、いつものように昆虫採集に近くの神社に出かけた。特に収穫もなく、カンカン照りの太陽の下、とぼとぼと神社の長い階段を降り終えたあたりで、向こうの方から二人組の上級生が歩いてくるのが見えた。そして、すれ違いざまに、「おぇ!ちょっと待て!!おまえ、なにメンチ切っとんねん、こら!」と因縁をつけられたかと思うと、僕は子分らしき男に足を掬われ、大柄の方の男が馬乗りになり、グーで頬を殴られた。「朝鮮人思て、バカにすんなよ!!シバクぞ!」

「その町」は、そんな風だった。

「その町」には、某上場企業の本社があり、そこで働く工員たちが、大半を占めていた。にもかかわらず、これほどまでに荒んでいるのは、一体、どうしてなのか、僕には、その理由が全然分からなかった。

その後、高校二年生の夏に引っ越し、「その町」とは、完全に縁が切れた。中学校から私立に行き、地元の同級生たちともつながりがなくなったことも大きかったように思う。もう「あの町」と関係を持つこともないだろうと思うと、僕は、安堵を覚えた。ただ、僕の中での大きな疑問は、頭の片隅にへばりついたままだった。

しかし、神様は、悪戯好きのようで、僕は、約40年ぶりに「その町」と邂逅を果たすことになる。僕は、不動産会社に勤務しているが、あるプロジェクトで、「その町」を担当することになったのだ。

このプロジェクトは、僕が今在籍している部署に過去に在籍していたときから進行していた。このプロジェクトは複数の市にまたがったもので、その当時、僕は別の市を担当していたのだが、一昨年の秋にこの部署に出戻ったと同時に、僕は「その町」を担当することになった。僕の勤務している会社で「出戻り」は、大変稀有なことを考えると、僕は「その町」との深い因縁を感じざるを得なかった。

僕は、仕事を通じて、「その町」の自治会長と話をする機会を得た。僕は、自分が「その町」で幼少期を過ごしたことを告白し、昔話に花が咲いた。ずっと気になっていた「あの廃屋」のことも自治会長に教えてもらった。僕は、このタイミングしかないと思い、思い切って昔の「この町」の荒み具合について、自治会長に質問をしてみた。会長は、なにごともなかったかのように、すぐさま今から話す内容の概略を教えてくれた。ショックだった。僕は、この年になるまで、まったくそんな事実を知らなかったからだ。

そして、ほぼ時を同じくして、知り合いの在日問題に詳しい大学の先生と飲食する機会があり、この内容について、話を聞いてみた。すると、その先生は、「私に聞いてくれたら、もっと早くに教えてあげたのに。本も出ているよ。」と言ってくれた。

僕は、近くの図書館で、すぐに、その本を借りた。その本には、このように書かれていた。

「しかし、ふだん利用するその飛行場の「中」に、長年にわたって、日々の暮らしを立てている人びとがいることは、ほとんど知られていない。ここはいわゆる「不法占拠」地域である。このことは、一般の人びとだけでなく、研究者のあいだでさえ意外なほど知られていない。なぜであろうか。まず、大きさでいうならば、日本でも最大規模の「不法占拠」地域である。3万4千平方メートルの国有地に、159世帯、404人もの人びとが暮らしている。住民の9割近くが在日朝鮮・韓国人の集落である。一方、同じ「不法占拠」として全国的に有名なウトロ地区(京都府宇治市)があるが、そこは、2万平方メートルの民有地に65世帯、約200人が暮らしており、伊丹の「不法占拠」地域と比べると、およそ半分の規模である」(「生きられた法の社会学」、@金菱清、新曜社 P33、P34)

「その辺りは、一面竹やぶで、昼でもあまり人が通らん所じゃったよ。何年くらいやったかはっきり覚えとらんが、飛行場の仕事を請け負っていた大日本土木の豊中出張所から大勢人夫を連れて来て、竹を切って大きな飯場を二棟建てましたよ。その飯場へ同胞をたくさん連れてきよったのをよう覚えとる。」(前出、P73)

「吹き溜まりみたいなのよ、ここは。暮らすことができない人が、みんなこぼれ落ちてきたのよ。」(前出、P67)

僕は、在日の人に対して、特別な感情はない。あの夏の日に殴られたということがあったにせよ、特に、彼らに対し、強い憎しみは持ち合わせていない。と同時に、彼らの人権を特別に擁護することもない。僕にとって、彼らは他の人たちと何ら変わらない日常的な存在だ。

しかし、彼らが味わったであろう、貧困や差別に対しては、僕は、想像することさえできないし、その原因を作ったのが、いかなる理由であれ、僕たちの国であることは、間違いなく、そのことについては、大変申し訳ないと思う。

以前、ある人からこんな話を聞いた。その人は、酔いも手伝い、目にうっすら涙を浮かべながら、子供時代のことを話し始めた。その人の一日は、次のようなものだった。朝早く起床し、豚小屋の掃除をしたあと小学校に行く。学校から帰ると、夕方、新聞配達をし、腹ペコのお腹を満たすのは、わずかなキムチだけだったそうだ。しかも、土間にゴザをひいた程度の家だったらしい。僕は、言葉を失った。

映画「国際市場で逢いましょう」のなかで、主人公が、ポツリと言う。「生まれた時代が悪すぎた。」

「その町」は、その「不法占拠」地域とそんなに遠くない距離に位置する。だから、「不法占拠」地域の要素を「その町」は、多分に含んでいたことは、容易に想像できる。

僕たちは、「世界」のことを、まだ何も知らない。

「心が風邪をひいた日」(@井上英作)

ほぼ毎日、同じ店で昼食を食している。その店は居酒屋で、750円の日替わり定食にコーヒーが付いているため、いつも近くで働くサラリーマンたちでにぎわっている。その店では、なぜかBGMがお琴で奏でられる歌謡曲で、そのことが、僕を少しだけ喜ばせてくれる。

その日、いつものように、その店で昼食を取っていると、お琴で演奏された、「想い出のセレナーデ」(1974年、@天地真理)がかかった。僕は、この曲がとても好きで、その日は、午後からずっと僕の頭の中でリフレインされた。仕事を終え、僕は、すぐにPCを立ち上げ、ユーチューブでこの曲を繰り返し聞いた。そうすると、ほとんどの人がそうだと思うが、この曲周辺の曲も聞きたくなってくる。気が付けば、僕は、太田裕美の曲ばかり聞いていた。「木綿のハンカチーフ」、「雨だれ」、「赤いハイヒール」…etc。これらの曲を聴いているうちに、僕は、以前録画した「名盤ドキュメント」のことを思い出し、「心が風邪をひいた日」(@太田裕美)を特集した回を見なおしてみることにした。この「名盤ドキュメント」というのは、NHKで不定期に放送されるもので、当時の「名盤」の録音テープを基に、その作品がいかに「名盤」であるかを、当時の制作に関わった人たちの証言で構成されている。過去には、「風待ちろまん」(@はっぴいえんど)、「ソリッドステイトサバイバー」(@YMO)、「ひこうき雲」(@荒井由美)などが取り上げられ、いつも大変興味深く観ている。

ロック少年になる前の僕は歌謡曲小僧だった。テレビで放映される歌謡番組は、ほとんど観ていたし、それに飽き足らず、ラジオでも歌謡曲を聴いていた。そんな僕にとって、一番のお気に入りは、太田裕美だった。僕は、太田裕美の歌が大好きだった。いや、正確に言うなら、太田裕美が歌い上げる、作詞家松本隆の世界観に僕は魅了された。

「心が風邪をひいた日」は、太田裕美の3枚目のアルバムで、彼女の代表作「木綿のハンカチーフ」が収録されている。いろいろなファン、制作者が、このアルバムの凄さについて、熱く語り合っていた。しかし、どのコメントも決して的は外れてはいないものの、なにかしっくりとこなかった。子供のころの僕は、どうしてこれほどまでに、太田裕美が歌い上げる作詞家松本隆の世界観に魅了されたのか?。そして、数あるラブソングの中から、どうして太田裕美の作品だけを選択し、さらに、どういわけか、松本隆の描く「女の子」に感情移入してしまうのはなぜか?僕は、このことへの答えがほしかった。そこで、僕は、世界で僕のことを一番知っている嫁さんに、この質問をぶつけてみた。近所の居酒屋「うおのや」で、延々とどうでもいいこんな話に彼女を付き合わせ、いろいろ話をするうちに、だんだんとこの「問い」の輪郭がはっきりと見えてきた。

僕の通っていた小学校は、2年ごとにクラス替えが行われた。子供のころから、お調子者の僕は、特に、人間関係で悩んだ経験などないのだが、小学校3年生~4年生のころは、特に親しい友人がいなかったような気がする。つまりそれは、1974年~1975年のことである。今でも、鮮明に覚えている風景がある。それは、そのころの夏休みの暑い日だった。適当に誰かを誘い遊びに行こうと、何人かの同級生の家に行ったのだが、その日は、誰一人いなかった。その日は、本当に暑く、町には誰もいなくて、ゴーストタウンのような様相を見せていた。僕は、一人で、炎天下の中、どこに行くともなく、少し遠くまで行ってみたくなり、自転車で隣町まで出かけた。自転車に乗りながら、「今、自分は、世界でたった一人だけなんだ」、そう思うと、僕は大きい声を上げて泣き出しそうになった。また、そのころの冬の景色。伊丹高校のグランド沿いの道を、ぴゅーぴゅーと北風が吹いている中、ぶるぶる震えながら自転車をこいでいると、電信柱に、切り取られた段ボールに貼りつけられた、映画「ジョニーは戦場へ行った」のポスターが、くるくるとちぎれそうに、曇り空の下で舞っていた。僕は、「いちご白書をもう一度」の一節「雨に破れかけた街角のポスターに~」(@荒井由実)みたいだと思った。僕は、おそらくこのころに「孤独」というものの存在を知ったのだと思う。この「孤独」というキーワードが、この問いを解決するための大きな手掛かりだと確信し、僕は、少し興奮した。

太田裕美の歌う女の子たちは、みな等しく孤独である。「雨だれ」(1974年)では、「ひとり、雨だれはさみしすぎて」と告白し、「木綿のハンカチーフ」(1975年)では、相手の恋人に「僕は、僕は帰れない」と別離を宣言され、「赤いハイヒール」(1976年)では、「さみしがり屋の打ち明け話」と自分のことを認めている。もちろん、作詞は言うまでもなく、松本隆である。

松本隆は、はっぴいえんどを解散後、ドラマーとしてではなく、作詞家として生きていく道を選んだ。以前、何かで、その「転換」について、周りでは、随分と非難され、たくさんの人たちが去っていったというのを聞いたことがある。太田裕美の仕事は、プロの作詞家としてごく初期のものである。当時の、松本隆の「孤独」がいったいどれほどのものだったかは、本人にしか分からないが、相当なものだったろうと容易に推測できる。松本隆は、その孤独を、「女」になる直前の「少女」を通じて表現した。僕は、どうやら、問いの立て方を間違っていたようで、僕は、「恋する女」に感情移入してしまっていると思い込んでいたが、そうではなくて、「孤独な少女」に感情移入していたのである。「少女」と「少年」という、大人と子供の間にある、ほんのわずかな瞬間を、「孤独」を媒介として、僕は、松本隆の世界にアクセスしていたのである。そして、このことが、僕という人格の基礎を作り上げたのである。