カテゴリー別アーカイブ: みんなの部室

「たくさんの先達と桂米朝師匠」  本間隆泰

「たくさんの先達と桂米朝師匠」  本間隆泰

桂米朝(敬称略)といえば、
戦後に担い手がおらず、
滅亡寸前とまでいわれた上方落語を
八面六臂の活躍で復活させた立役者であり、
最近ではアンドロイド人形にもなった大変な人物である。
その桂米朝の生い立ちから晩年までの様子に触れられるということで
先日、兵庫県立歴史博物館(姫路市)の
特別展示「人間国宝 桂米朝とその時代」を観に行ってきた。

幼少のころの写真から
小学校、中学校のころの通信簿(数学や化学は苦手だったような)や自由研究、
東京での下宿時代に寄席通いをされていた時の記録帳や
会社員時代に姫路で寄席の世話人をされていた時の資料など
貴重な遺品が時代に沿って展示されており、
その一つ一つを興味深く拝見させていただいた。

数々の興味深い資料の中で特に印象深いものが二点あった。
そのうちの一つは米朝の師匠である四代目米團治(1951年没)から
米朝に宛てられた遺言にあたる手紙である。
手紙のなかで、まだ入門五年目である米朝の行く末を案じながら
「私の芸が必ず世間に認められる時が来る。
私が生きている間には無理かもしれないが、
あなたの代か、それ以降に認められる時が来ることを確信している。
私と私の芸の継承してこられた諸先輩方のために
あなたの芸が認められてほしい」と想いが綴られていた。
(私の記憶より引用 原文のママではありません)

自分の信じた芸術を自身の代で滅ぼしてしまってはいけないという切実さが
直筆の手紙からひしひしと伝わってきた。
私が物心ついて以降、落語に人気があったかどうかはわからないが、
落語が消滅するという危機感を抱いたことはなかった。
このたびの米團治の手紙を拝見した時は痩身の四代目米團治の写真も相まって
感慨深いものがあった。

もう一つの興味深い展示物が
1959年の三代目桂春團治(2016年没)の襲名時の資料であった。
福團治から3代目春團治を襲名する際、
米朝は春團治に対して「持ちネタの数が少な過ぎるのではないか」と苦言を呈するとともに
「代書屋」(四代目米團治の創作)、「皿屋敷」、「親子茶屋」等の演目を
春團治に伝授したという凄い話があるのだが、
「親子茶屋」については、口伝えで稽古する時間がなかったため、
内容は原稿用紙に記されて春團治に渡されたとのことであった。
その原稿用紙が三代目春團治の遺品から発見され、
今回の展示で展示されていた。
「親子茶屋」の口演内容の一言一句が原稿用紙に丁寧に記されており、
原稿の末尾には柔らかな筆跡で「御身大切に 春團治師匠様」と記されていた。
仲間である春團治を気遣うとともに落語という芸をよりよい形で
継承したいという思いが伝わるもので、
両師の「親子茶屋」がより一層味わい深くなった気がした。

俳優の小沢昭一が米朝へ宛てた寄せ書きのなかで
米朝を偉大な先達と評していたが、まったくその通りだと感じた。
米朝のように自身の芸を追及してきた沢山の先達がいたからこそ
いまのんびりと落語を聞くことができる。

博物館からの帰り道、
壁面が真新しくなった姫路城を眺めながら
米朝の大きさと沢山の先達の有り難さを
しみじみ実感した次第である。

「石橋キャンパス研究会立ち上げにあたっての覚書」 菱田伊駒

「石橋キャンパス研究会立ち上げにあたっての覚書」   菱田伊駒

 ここで書かないと次に進めない、というときがある。書く、でなくてもいいかもしれない。とにかく、自分の外に出して、人に眺めてもらえる形にすること。声に出す人、絵にする人、メロディにする人。色々な形があると思う。そういう時は不思議なことに、他人にどう思われるとか、そういうことが気にならなくなる。やけくそとも少し違う。どちらかというと、「しょうがない」という諦めの感情に近い。ぼくはこう感じていて、こんなことを考えていて、言葉にしてみるとこのようにしか表現できない。そういう形で外に出しているので、それについて色々と言われても仕方ないし、甘んじて受け入れよう。

そういう時、他人の目は気にならなくなる一方、他人自身ことが気になる。「自分がどう思われているか」から「あなたはどう思うか」に変わる。あなたにぼくの考えは伝わっているのか、それで少しでも感情は動いたのか。その変化はあなたにとってどんな意味をもつのか。聞かせてほしいと思う。

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「石橋キャンパス研究会」を始めようと思った動機は何だろうか。地域活性化とか、商店街とか、そういうのはどうでもいいのだと思う。どうでもいいというか、偶然の要素に過ぎない気がする。世界線が違えば舞台は都市だったり、農村だったりしたのだと思う。これらの要素は歴史の偶然なんだろう。もちろん、ぼく自身も偶然の産物ではある。「ぼく」というのもはっきりと分からない。ただ、「ぼく」として指し示される意識が「ぼく」だったとすると、どんな時代のどんな場所に「ぼく」が生まれたとしても、これから始める活動とそんなに変わらないことをするのだと思う。そういう幻想を持てるのは不思議だ。
世の中には、出会ったことのない人がたくさんいて、その人たちの、聞いたこともない、見たこともない考えが山のようにある。その痕跡を、本や、映像から少しだけ覗き見ることができる。そういうものにもっともっと出会っていきたい。そういうことなのだと思う。そして、もう1つ大切なのが、それを誰かと共にすること。随分な寂しがり屋だなぁと思う。でも、嘘やごまかしを抜きにして、その人自身と意見を交わし、互いの時間を編み上げてみたい気持ちがある。

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 商店街にどっぷり浸かっていると、人間関係がどうしようもなくつながっていると感じる。何かをしようと思った時、すでに出来上がった網目の上を動くしかないような。誰に協力を仰いで、どういう手順で物事を進めていくかが決まっているのだ。でも、本当にそうだろうか。今、ぼくはむしろそういう関係を断ち切りたいと思うようになっている。断ち切りたい、そう言うととても冷たく映るかもしれない。ただ、それは馴れ合いが嫌いだというだけ。関係を持ちたくないわけではない。むしろ、気になっている。気になっていなければこんな文章は書かない。関係を持つため、人間関係を接続するために、切断する。そういう逆説的なことがあると思う。もう一度出会い直したいからこそ別れる。別れるからこそもう一度感情を交わしたいと思う。だから、冷たいという評価は全くの間違いで、どうしようもなく湿っぽいのである。

人と人のつながりが絶えて久しいと言われる。人と人が出会う場が必要だと言われる。それは確かにそうだ。見知らぬ者同士が出会い、言葉を交わし、互いに刺激を受ける。そういう場所は必要だと思う。しかし、見知った者同士が、互いの関係を見直せるような場も必要だと思う。見知らぬ者同士が見知った仲になれる場、見知った者同士が、見知らぬ仲になる場。 

相手が見知った相手でも、それが子ども相手であってもはっとさせられる瞬間がある。最近のこども哲学カフェの一幕。小学生高学年の男の子。
「みんな、本当は多重人格やと思うねん。表に出てるのは冷静なやつやけど、その後ろには怒ってる人とか、悲しんでる人とか、面白い人とか、そういうのが色々おって、表に出てきたり出てこなかったりするねん。」
「相手が怒ってたら、それに反応して俺の中の怒ってるやつが冷静なやつをつぶしちゃうねん。その時は、表が入れ替わるっていうより冷静なやつが怒ってるやつにつぶされちゃう感じ。」
「でも、冷静なやつも、面白いやつも、何も表に出てないやつもおる。そういうやつは何もなくて、無っていうか、無関心な感じ。」
「長いこと付き合ってると、その分感情の量みたいのがたくさんたまってくるから。嫌なことがある分、いい感情の量も多いから、それでまぁいいや、みたいに思えたりするねん。」
普段は一緒に騒ぐだけの仲でも、ふっと違う子の顔をしている。そういう時、あぁ自分はこの子のことを何も知らないのだ、と思う。どんな経験をして、何を感じてきたのか。聞いたところでその断片しか見ることができない。

友人や、友人とも呼べないような知人。同僚。なんとなく、「この人はこんな人だ」と思うことはある。それは、ぼくの思い込みにすぎない。わかっているつもりで、そういう仮で貼ったつもりのラベルを、いつの間にか本物だと思い込む。

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 先日、ヴィクトル・シロフスキーの「異化」という考えを教えてもらった。慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法、のことらしい。ここまで、ぼくは他人と自分の関係の切断についてしか書いていない。しかし、ふと気づく。自分自身に対しての切断もあるのではなかろうか?見知った関係を切断し、見知らぬ関係に変えることが重要なように、知っていると思う自己を、突き放すことも大事ではないだろうか?自分が自分でなくなっていける場は、自分が自分らしくいられる場と同じくらい大事ではないだろうか?

どこにいても、何をしていても周囲にあまり馴染めない気持がいつもある。5センチくらい周囲から浮いている感覚。だからとかして地に足をつけようとする。周りと違わないよう、恐る恐る発言する。行動する。それも疲れるので、できればそういうことを気にせずに過ごせる場。それが、居心地の良い場だと思っていた。自分が自然体でいられる場所。自分が自分らしくいられる場所。でも、それでは飽きるのだ。居心地の良さに。自然体の自分に。同じようなメンバーで、同じような話題を、同じような表情で話す。もっと違う表情をそれぞれができるはずで、違う表情を隠しているがそれが表に出る機会がない。考えも変わらない。ただただ、つまらない。

成長とか、そういうことではない。成長は同じ直線状を動いているに過ぎない。それはつまらない。変容が必要なのだ。質そのものが変わってしまうような変化。ポジティブでもネガティブでもかまわない。変容したとき、人の顔が変わる、声の響きが変わる、動きが変わる。変容は、狙って起こりはしない。気づくと変わっている。向こう側からやってくる。だから、大切なのは待つこと。リラックスして待つこと。変化を受け入れる用意をすること。本当の意味で自分らしくいられるということは、同時に、自分が自分でなくなるきっかけなのだと思う。

見知った人間同士が、もう一度「知らない仲」になれるような場。見知った自分が、見知らぬ自分になってゆくような場。「知」を通してそのような変化の往来が活発化するような、そんな場を出会った人たちと共につくっていきたい。
(以上)

「暮らしの中でぼくが考えること」 菱田伊駒

「暮らしの中でぼくが考えること」菱田伊駒

 ぼくは書くことが苦手だと思う。原稿を前にするとことばが出てこない。しかし、書く手前でぐるぐる回るのにも疲れた。今回は自分で書いた文章を読むことから始めてみる。

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「ある内面」

 文章を書くことは好きではない。自分と向き合わなければいけないから。自分と向き合う以前に、自分の姿を否応なしに、見せつけられることになるから。録音した自分の声。動画に映った自分の姿。人に見られると思うと恥ずかしい。最も最悪な状況は、死んだ後の姿を誰かに見られること。できれば死ぬと同時に、意識と共に消えてほしい。

 学校の作文を書くときの感覚を思い出す。このように書けば褒められる、ではいけない。「このように書けば褒められる」と分かったつもりで文章を書くような人間ではありませんよ、と示す。僕は、分かってる人間なんですよ、と示してやる。こいつ違うな、と思ってもらえればしめたもの。文章を書いては、学年通信に掲載される。学年集会で前に出て発言する。パフォーマンス。人のための文章、人のための発言。

 だから、バンドのボーカルに「歌詞を書いて」と言われた時に書けなかった。歌詞は外を向いては書けない。内を向かなければ書けない。ボーカルの彼が書いた歌詞に、付け焼刃のような知識であれこれと文句をつけた。彼の顔色を窺いながら。顔色を窺っていることを、悟られることが一番怖かった。批判も称賛も、遠慮なく述べているよう振舞った。「他の人は気を遣うかもしれない。でも、俺はしないよ」そのような自己像を演出したかったのだろう。中学から高校にかけての話。

 大学生になって、ジャズ研に入った。ジャズにはアドリブがある。歌詞や作曲とは違ってハードルが低い。しかし、創作であることには、違いない。セッションにもよく通った。自分はクリエイティブな行為に関わっている。そんな喜びが、あったのかもしれない。

 ある時、高校時代のバンド仲間と一緒にライブをする機会を持った。ライブに向けた練習中、仲間のギタリストと2人になった。そこで彼は、自己表現ができない、と話してくれた。僕は得意気に、セッションの経験を話した。表現すべき自己がない、と思うのであればジャズをすればいい。とりあえずアドリブを演奏してみればいい。それも立派な自己表現だ、と。そしてセッションを持ちかけた。

 酷なことをした。(当然ながら)大したセッションではなかった。自分の思いを吐露してくれた友人を、無理やり、自分の土俵に持ち込み傷つけようとした。傷つけることで、自分の優位を保った。ぼくはサークル内では全く実力がなく、存在感がなかった。そのような環境で傷ついた自尊心を、回復したかったのだろう。

 創ることは、難しい。曲でも、歌詞でも、絵でも、何であれ。人間関係も、そう。「これが私の作品です」、と世に向かって差し出すことは、本当に勇気のいる行為だ。作品には、その人の実力、意図がそのまま現れる。隠せない。言い訳できない。逃げられない。誠実な評価だけでなく、悪意ある評価に晒されることもある。

 それでも、言わずにはおれない、書かずにはおれない、と切実に感じている人がいる。そうした人が、創る。しかし、切実さだけでは足りない。加えて、自尊心が必要になる。どのような周囲の反応があっても、それはそれとして区別するための自信がいる。

 自信がない人は、創ることができない。しかし、不全感は残る。不全を解消したい。そして、壊す。壊すことは、創ることの何倍も簡単。大きな違いは、壊した人の実力、意図は隠されていること。なぜ壊したのか、壊された側はわからない。壊すことで、その人の不全や、実力や、意図は覆い隠せる。優位に立てる。

 壊すことは、簡単だ。中毒性も高い。だから、一度壊すことを覚えた人は、次々と壊す。周囲を壊し続けられる人はいい。中途半端な良心を持っていると大変だ。周囲に迷惑をかけたくない。でも、不全は解決したい。ジレンマから逃れたい。だから、壊す対象として、自分を選ぶ。自分の心、体は自分だけのものではない、それを忘れて。

 中毒。何かに依存してしまうと、抜け出すことは難しい。煙草やアルコールのようなもの。依存心は、自分の気持ちのありようだから、気持ちを変えてやればよい。そう考える人がいる。脳的な人。気持ちを、脳が支配していると考える人。しかし、これは誤りだ。私の心のありようは、私が支配しているわけではない。制御不可能なもの。

 病は気から、とは上手い言い方だと思う。まさに、「気」、こそが、制御下にないのだから。気が上向きになれば、快方に向かう。下向きになれば、回復が遅れる。しかし、病に冒されている状態で、気が上向きになることは稀だろう。だから、ふとしたきっかけで気が上向きにさえなれば、回復に向かっていると考えてよい。そういうことだろう。

 ぼくは、創る人間になりたいと思って、この文章を書いた。この文章には「こうありたい」、「このように他人に思われたい」、と思うぼくの感情が、入り混じっている。読み直していて気づき、削除した文章も多い。気づいても、どうにもできず、そのまま残した文章もある。そして何より、今の自分では気づくことができない感情が、残っている。それが、知りたい。

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 この文章は半年前、熱中していた作家の高石宏輔さんの文章をトレースしながら、ぼくのエピソードを上乗せしたに過ぎないものだ。だから、自分でゼロから書き起こした感覚はなく、模倣だ。エピソードも正確ではない。にも関わらず自分のこれまで書いた文章の中で、読み直すならこれだと思った。どうしてだろう。これまで書いてきた文章が少ないことも理由だろうが、それ以上に「ちゃんと書けた」と思う体験だったからだ。それまでにはない体験だった。どうしても書こうとすると、普段の生活からどんどん遠ざかっていってしまう。書きたい対象から、違う方向に向かっていってしまう。暮らしの中で感動した、悲しい、嬉しい、そういう瞬間の生の充実感ともいえる輝きが書くことを通じて色あせていく。もっと悪い場合は、書く行為でその輝きに泥を上塗りして、汚してしまう。そんなことをするくらいなら、書かなければいいのだ。

 何が違ったのだろう。それは、書くことと生きることが重なっているか否かではないか。いや、少し違う。書く、がほとんど意識されず、書く=考える、の状態。考えることがそのまま書くことにつながっていたから、そして考えることがそのまま生きることにつながっていたから、印象に残る体験ができたのだと思う。書くことについて考えずにキーボードを叩けていた。ぼくが考えたいのは書くことではなかった。考えることと、生きることの関係が知りたい。

 考えることと生きることを重ねたい、考えるように生きたい、生きるように考えたい。ずっと前からそう思っていた。今はまだ、一つしか方法を知らない。生きるを考える、考えるを生きる。両者をひたすら往復するのだ。大抵、生きるを考える、で終わってしまう。自分の中にこれまで眠っていた感情を発見する、或いは経験を内省するうちに、新しい意味を見出す。そして満足する。一方通行。しかし、往復すると新しい経験が用意されている。ふと立ち止まって考えてみる。考えているうちに、それまで思いつかなかった考えに出会う。その新しい考えを飲み込むと、それまでと違った日常が現れる。自分が自分らしくなる。自分が自分でなくなってゆく。不思議な感覚。

 

 生きると考えるの往復について考えるとき、二人の友人が頭に浮かぶ。

 一人は、ある友人の話。共に社会に対する問題意識を共有し、語り合った「同志」であった。

でもその人は、やりたいことを実現するには金がいると言って、そのためにやりたくもない仕事をしている。まさに学生時代に彼が疑問を感じていたビジネスによって。その姿は、学生時代に共に疑問を投げかけていた対象とそのまま重なる。社会の、どこの誰かも分からない人間が用意した物語を、彼は自分の人生として生きているように見える。その人の生きるには、もっとたくさんの輝きが眠っているようにぼくには見えるのに。

 もう一人は、ある先輩。とても仕事ができる人で、これがクリエイティブであることなんだと教えてくれた人だった。でも、その人はいつも自己評価が最低だった。「私はダメなやつなんだ」いう考えが根っこでその人を縛っているように見えた。自ら進んで囚われにいっているように見えた。ぼくがどのような声をかけたところで、届かなかった。ぼくが尊敬するまさにその人によって、そのリスペクトは間違いだと言われたような気になった。それは、自分に厳しい、ストイックだ、そういった類ではなかった。ぼくはこう思う。その人は、あるとき自分の生きるを考えた(それは無意識にだったかもしれない)。考えた結果、導き出されたのは「私はダメなやつなんだ」という考えだった。考え、生き方の思想、その人の物語。そしてそれは強固なものとして、生きられた。なぞればなぞるほど、強化された物語は生きると考えるの往復を許さず、固まってしまったのではないか、と。

 もちろん、二人の姿は、勝手に解釈したものだ。本当のところはわからない。だから、描き出した二人の像を通じて、ぼくは、ぼくの考えを言っているだけだと思ってもらっても構わない(それくらい、二人について語る言葉を、ぼくは信用していない。信用できない)。けれども、そのように見えてしまうのだ、感じてしまうのだ。だから、続けさせてもらう。

 二人のことを思うと、生きると考えるの往復は、一往復目がいかに難しいか、一往復できたからといって二往復目も最初と同じくらい、もしくは最初の一歩以上に難しいのだと思い知らされる。そしてその難しさはそのままぼくにも当てはまる。だからこそ、二人に対して投げかけたい言葉を自分にも向けなければいけない。「本当に?」と。本当にその考えはぼくの人生と重なっているのか?本当にその考えはぼくの人生から出てきたものか?と。その問いかけからしか始まらないし、引き返すこともできない。少しずれた新しい道を拓くこともできない。

 

 「本当に?」こう問うことは何を意味するのだろう。それは、自分に向けた疑いの声である、ずっとそう思っていた。自身に向けた批判的思考だと。だから、「本当に?」とぼくに向かって語りかけるその声は、いつも厳しい口調で、早口だった。しかし、それは違うと思うようになった。疑いや、批判ではない。むしろそれは、願いに近い。自分自身に未だ秘められた可能性、より洞察の深い思想、魅力的な物語。その存在の可能性があってほしい、知りたい、表現したい、そう願う気持ちである。可能性の端緒を見つけるためにぼくたちができる唯一の方法が、問うことなのだ。問う相手が他人であっても、自分であっても、「知りたい」と思う気持ちが原動力になる。今、どのような状況にいるのか、その状況をどのように認識しているのか、どう感じているのか、辛いのか、悲しいのか。だからそれは、優しく、穏やかに、しかし切実さをもって語られるはずなのだ。

 今の自分の人生は下り坂で、いいことはなにもない。世界で自分は一番不幸せだ。どうして俺だけが。「本当に?」世の中こんなもんだ、生きる意味なんてない、死んだほうがいいんだ。「本当に?」問いかけたからといって、一発逆転なんてことはそうない。でも、少し意味がずれてゆく。虚しさの中に一点の希望が灯るかもしれない。もちろん、その逆もあるだろう。明るいと思っていたものに影が差し込む、楽しいと思っていたものに虚しさが生まれる。

 ぼくにできることは、問い続けることだけだ。問いかけによって新しく生まれた何かを待つ、僕に向けて送られた響きを聞き取る。また問いかける。絶えず繰り返す。生きることを、もっと深く生きたい。考えることを、もっと深く考えたい。そう、思う。

「無欲の勝利」  清道館 森川 祐子

無欲の勝利
                          清道館 森川 祐子
 
 このあいだ、こけた。水曜の朝に、松本さんのリハビリに向かう途中、四天王寺さんの塀と民家に挟まれた路地で、こけた。「なんで?」「どこで?」と聞かれても、「歳やから」「段差のない舗装した道で」としか答え様のないこけ方で、『あ〜、私、このままこけんねやろか〜(ボッテ〜〜ン)』とスローモーションを見ているようだった。
 幸い、誰も見てなかった。「痛いよぉ〜痛いよぉ〜」と一人ごちながら、地下鉄の駅に急ぎ、南千里でいつもの様にリハビリして、スタバでお茶飲んで、ご飯の買い物して家まで帰ったら、今度は「か、鍵がない!!」井上先生から電話が入ってるし、家に帰らないと分からへん事やし、でも、か、鍵がない!! 扉の前にかばんから全ての物を放り出しても、やっぱりない! 仕方がないので、最近1階の建築事務所で勤める長女に「鍵、ないねん」と言って借り、やっと家に入り、そして立ち回り先に電話して探してもらったが、どこにもない。その時、ひょっとしたらこけた時に?と思ったけど、まずは夕食の用意をしないとお稽古に行けないので、ええ加減にこしらえて、家を出たのはもう3時を過ぎていた。
 半分以上あきらめながらこけた現場に行き、目を皿の様にして歩いたら、なんと、あったんですよねぇ〜。民家の裏戸の前に並んだ鉢植えに渡した板の上に、それは置いてあった。その時も誰もいなかったけど、四方に向かって「ありがとう〜ありがとう〜」と頭を下げて、お稽古に(すでに遅刻していた)走った。るん!
 走りながら、あることを思い出していた。朝こけたあと、地下鉄の駅まで急いでいたとき、バス通りにウィンドブレーカーが落ちているのが目に入り、次から次からやってくる車にひかれてボロボロになったそのウィンドブレーカーの映像が頭に浮かび・・・いや、違うな、ほんの2、3分前に同じ様に地面に這いつくばっていた自分の姿を見る思いだったのかも知れない・・・一旦通り過ぎたものの、又戻って、車道まで出てそれを拾い上げ、車道と歩道を区切るポールの上に掛けて避難させたっけ。あれがあったからかも知れん。誰かがおんなじように私の鍵を拾い上げてくれたんだ。でも、何か見返りを期待してやった事ではないし、何かにつけて因縁づけるのは嫌いなので(嫌いというより、それに引っ張られるのが怖くて)、無欲の勝利っちゅうのかな、と思っている。
 
 そうして芋づる式に思い出したことがある。先日、凱風館の老松を描いた山本さんの個展を見るために夫と一緒にミラノへ行った。その帰りのミラノ発イスタンブール行きの便が、ひとりのおっさんのせいで2時間遅れ、関空行きに乗り継ぎできなかった。夜中のアタチュルク空港のカウンターで「あしたの同じ時間に変更です」と、まるで遠い昔から決まっていた様に言われ、トランジットなのでショルダーバッグのみ持ってイスタンブール市内のチンケなホテルまで送られた私たち。部屋に入り落ち着いて、ほぼ同時にお互いのバッグから「これ、入れててよかったわぁ〜」と取り出したのは、日本のスーパーの袋に包んだパ◯ツだった。
 実は、夫は日本を出る前日から下痢で、行きのトランジットの際アタチュルク空港のトイレが混んでいてエラい目にあっており、ほぼ回復はしていたけれどもしもの時のために手荷物にそれをひそませていたらしい。私は私で、ミラノを発つ前日から下痢気味。夫の惨状を見ていたので、そっとそれをショルダーバッグに忍ばせていたのだ。
 夫はその時、「おかあまでそんなもん持ってくるから、こんなことになったんや」と言った。「はぁ? 私のせいですか!」一日余分に遊べてラッキー!と思い始めていた私だったが、結構なんでも因縁づける夫に腹が立って、しばらく言い合ったが、もう夜中の2時でお互い疲れ切っており、シャワーも浴びずに寝こけた。
 でも、翌日の朝シャワーを浴び、清潔な◯ン◯に着替えたころには、二人とも遊ぶ気満々。ブルーモスクとアヤソフィアと地下のメデューサ見て、フェリーでアジア側へ渡って又戻って、絶品鯖サンド食べて・・イスタンブールの余分な一日を満喫して夜12時の便にて帰国の途に着いた。
 なんにも狙ったわけではないけど、たまたま一日存分に遊び、しかも清潔な下着で気持ちよくて!!これを無欲の勝利と言わずして何と言う?!

 合気道も・・・とここで、無理くり合気道につなげようとするわけですが・・・何かしてやろう、とか、こうしたら、ああなるんちがう?とか企むとだめで、無欲で三昧の境地に入ったら、技が湧出するようになるんですよね、きっと。そうなりたいと思っております、はい!

「シネマ・ポートレイト」(井上 英作)

「シネマ・ポートレイト」

僕が7歳になったあるお正月のできごと。暇を持て余していた父がしびれを切らしたように、突然、映画を見に行くと言いだした。父は、そんなひとだった。当時、僕たち家族が住んでいたところから一番近くの街といえば、阪急伊丹駅周辺だった。いつものように、父と母と僕は阪急バスに乗り、「街」に出かけた。

僕たちはいつものバス停で降り、「街」の中心部に向かった。「街」は、新春の買い物客でにぎわっていた。その日は、冬にしては、少し暖かったように記憶している。

小さな角を曲がると、正面に大きな雑居ビルの端っこが見え、その細い道の電柱には、
女の裸だけしか写っていないと言っても過言ではない、ポルノ映画のポスターが貼られていた。当時、「街」の至るところには、長ドスを持った高倉健、ポルノ映画女優、にっこりほほ笑んでいる寅さんなど、映画のポスターが貼られていた。ばんばんの名曲「いちご白書をもう一度」の歌詞の一節にある「雨に破れかけた街かどのポスターに~」のとおりである。

その雑居ビルの入り口には、上映中の映画のポスターがたくさん貼られていた。
「寅さん」、「ドリフターズ」、そして「高倉健」。僕は、てっきり僕の「ドリフ」好きを知っていて、父は僕を映画に誘ったのだと思ったが、父は、そんな気の利く人ではなかった。僕は、「昭和残侠伝 破れ傘」、「女囚さそり 第41雑居房」という、およそ子供らしからぬ作品をみることになったのである。

昔、読んだ村上春樹のエッセイの中で映画についてこんなことが書かれていた。
「観た映画のストーリーは、覚えていないことが多いが、観た日の天気、観終わったあとに食べたもの、そういった記憶だけは鮮明に残っている。」

本当にそのとおりで、今から40年近くも前の出来事なのに、今でもその日のことを、僕は、はっきりと覚えている。

今年の正月に「ミュージック・ポートレイト」というお遊びをした。某テレビ番組の真似なのだが、なかなか評判がよかったので、来年は、その映画版をするとにした。

概略は、以下のとおりです
●日 時:1月3日 12時~
●場 所:我が家
●内 容:映画のDVDを一枚ご持参ください。その作品の中で、お薦めシーンを3分~5
分みんなで一緒に観ます。観終わった後、その作品に対する思いをお話して
いただきます。事前に観たいシーンの始まる時間は、覚えておいてくださ
い。

笑いあり、涙あり、おそらく、そんなことになるのではと、今から期待に胸をふくらませています。

佐藤君*早川さん結婚パーティ 式次第

先日行われた、清道館の佐藤君と凱風館の早川さんの結婚披露パーティの式次第。
二人に身近で関わった人たちや、この日の残念ながら駆けつけることができなかった人たちの言葉を、幹事のメンバーが集めて式次第に。イラストにも、寄せられた文章にも感じるものがあります。みなさんの記憶に残るといいなと思い、ご本人たちの了承を得て「みんなの部室」に投稿させてもらうことにしました。井上

表紙:ウエルカムボード
ウエルカムボードmini

<新郎新婦からのご挨拶 >
みなさま、こんばんは。本日はお忙しい中お越しいただき、ありがとうございます。
紙幅をお借りして、ご挨拶させていただきます。

○佐藤 龍彦
新しい生活が始まってから3ヶ月ほど経ちました。いまでもときおり、自分の傍に奥さん(となった早川さん)がいることに不思議な新鮮さを感じます。1年前には、この結婚生活を想像すらしていませんでした。人生何がどうなるかわかったものではありませんね。

思い返せば、井上清恵先生に⼊門を許して頂いて以来、お稽古でもお酒の席でも凱風館や清道館の素晴らしい方々に囲まれ、ご指導をいただきながら充実した日々を過ごしてきました。いまでは、なにか大きくゆったりとした流れの中に安⼼して⾝を預けていられる、というはっきりとした感覚があります。

私達が結婚できたのも、みなさまからの⼼強い支えがあってのことだと思います。みなさまお一人おひとりに⼼から感謝申し上げます。師匠の井上清恵先生、清道館別館館⻑の英作さんには、言い尽くせないご恩を感じております。私達が平和で幸せな日々を送っていくことが、せめてものご恩返しになるかと思っております。今後ともご指導賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。最後に、この日のために幹事の方々には大変⼊念な準備をしていただきました。お礼の言葉もありませんが、本当に感謝申し上げます。

○早川 知佐
合気道を始めてから4年、たくさんの出会いがありました。初めての審査の時から切磋琢磨している千鳥足隊、お稽古後の飲み会も楽しく、⻑くお稽古に通う程に出会いの輪が広がっていきました。

合気道の大先輩の清恵さんが清道館を開かれ、佐藤さんと出会いました。英作さんと清恵さんご夫妻はお付き合いしている頃から親⾝に相談にのってくださり、婚姻届の証人にもなっていただきました。私たちも仲睦まじい夫婦になりたいと思っています。

結婚してから3か月が経ち、家の中も二人の生活も落ち着いてきました。お付き合いしていた時も、今も、皆さまの温かい言葉が⾝に沁みます。皆さまとの出会いに感謝しております。夫婦共々、これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

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<祝辞のようなもの 清道館別館館長 井上 英作>
「Young Love May Be Oh So Mean」。どれほど聞いたか分からないRoxy Musicの名盤「Flesh+ Blood」の中に収められた曲の中の一節である。今から35年程前、高校生だった僕には、この歌詞の意味がよく分からなかった。
今回、佐藤君と早川さんが結婚すると聞いて、真っ先に浮かんだのが、この歌詞だった。

ご本人たちの了解を得ているので、敢えて言うが、お二人とも二度目の結婚である。一度は、上手くいかなかったものの、もう一度、他者と関わりながら生活することを決めた二人に、僕は人としての成熟を見る思いがする。

人は、赤の他人と生活を共にするという摩訶不思議な結婚というものを発見し、この仕組みは今もなお持続している。僕も結婚してみて分かったのだが、世の中には色々な人がいるものだなというあまりに単純な答えだった。夜中に突然悪夢にうなされて絶叫したり、机の引き出しに消しゴムが10個もあったりすると、つくづく、そう思うのである。そんな他者と関わることによって、浮き彫りになってくるのは、「私」である。かつて郷ひろみの曲に「あなたがいたから僕がいた」というのがある。「私」というのは、それぐらいのものでしかない。「あなた」が最初に存在し、そのついでに「私」が存在するのである。

河合隼雄は村上春樹との対談で、夫婦になるというのは「苦しむために、「井戸堀り」をするためなんだ」と言っている。僕は、この考え方を激しく支持する。

「私」という大きな「問い」は、他者と深く関わっていくことでしか、その輪郭さえも分からない。その「問い」を解いていくことが成熟につながるのだと思う。そう、最大の他者とは、「私」のことなのである。だから、人はその大きな「問い」に答えるための装置として結婚というものを発明したのだと思う。

合気道には、勝ち負けがないそうである。ないそうなどと他人事のように僕が言うのは、僕が合気道をしていないからである。僕は、そのことについてずっと考えていたのだが、合気道というのは、「私」と出会うために作られた装置ではないかと思っている。そんな合気道を通じて、佐藤君と早川さんが結び付いたこと、そして、清道館がそのことに深く関与していたことを、僕は大変嬉しく思うのである。

<仲間からの言葉>
○清道館 岡田 充弘
佐藤さんには今まで同門の先輩として、そして大人としてのアドバイスをたくさん頂きました。そんな兄弟子である佐藤さんのご結婚をお祝いでき、大変嬉しく思います。お仕事・お稽古・家庭を大切にされる佐藤さんをこれからも先輩としてお手本にさせていただきます。

早川さんには⼊門して以来、⾝近な先輩としてずっとご指導して頂きました。稽古場の空気がピリッとした感じになっても、ほんわかした雰囲気の早川さんと組んでいると、大変穏やかな気持ちで稽古に取り組めました。いつも穏やかで暖かい人柄の早川さんですから、きっとそのような家庭を佐藤さんと築かれるのだと思います。末永くお幸せに。

幸せなお二人とまたお稽古できる日を楽しみにしています。

○清道館 大門 一茂
この度はおめでとうございます。大変お世話になったお二人が結ばれた事を、まるで自分の事のように幸せを感じています。さて、自分はあらたまってモノを語るのは不得手なので、以下の詩にメッセージをたくしたいと思います。

・・・二人が睦まじくいるためには、愚かでいるほうがいい。立派すぎないほうがいい・・・
正しいことを言うときは、少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは、相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい・・・
ゆったりゆたかに光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら、生きていることのなつかしさにふと胸が熱くなる。
そんな日があってもいい
そして、なぜ胸が熱くなるのか、黙っていても二人はわかるのであってほしい
(吉野弘「祝婚歌」抜粋)

○合気道凱風館 渡邊 乃月
2011 年秋 甲南合気会同期生として出会ったちーちゃんと私の共通点は意外に多い。学年、⾎液型、卒業校、九州暮らし、兄弟、もちろん性別、その他ごにょごにょ。

彼⼥は凱風館の中で、ずば抜けて「可愛い」圧倒的に「可愛い」⽿の裏まで「可愛い」。特に酒宴で⾶び出す発言は「異常に可愛い」その一言が私の腰骨を直撃しフニャリ、隣で熱燗を啜る先輩方も脚⼒を奪われてヘニャリ、ふんわりと空気をかき混ぜてしまう。

純真爛漫な天然記念種っぷりに、この先 佐藤さんの匂いが交じるのか交じらないのか、とにかく油断ならない。清道館から”大衆酒場いこい”へ皆と笑う夜が丸く解けて温まってゆく。

時に苦しい合気の道中、こんなにも誠実で美しいお二人との出会いに⽴ち会えたことを誇りに思う合気道は知れば知るほど難しさが深まり、謎も深まり、人生とつながって面白くなってゆく。

○合気道凱風館 原田 徳子
ある日のお稽古の帰り。ちーちゃんがととっと寄ってきて、「清道館の佐藤さんと結婚することになりました」。「わ〜、おめでとう♪」と祝福しつつ、佐藤さんってどんな人だっけ…?と名前と顔が一致しない私…(^^;)。 でもその後、ラスペツィアの気の練磨のお稽古でご一緒に。ふんわり、キュートなちーちゃんと、これまたほんわかした佐藤さんのツーショットもたっぷり拝⾒して、私も幸せ気分♡

これからも幸せのおすそ分けをよろしく〜。そして、のろけとグチ(?)をサカナに飲みましょ(*^^)v

<ちーちゃん観察記  佐本 泉>
◆2014 年 5 月 29 日 屋形船
最初に、あれっ?と思ったのは、双子座誕生日会で屋形船に乗った日のことです。清恵さん神吉さん⾦澤さんと私の誕生日に合わせて屋形船を借りてお祝いしようという会で、鯉ちゃんが手配してくれました。ちーちゃんと伸代さんが二人揃ってやってきて、ちーちゃんは
私の誕生日会でもあることを知らなかったようで(!)、なんでやねん。(>_<)。

屋形船に早めについたので、どこ座ろうかな〜って眺めつつ、みんなを待っていたのですが、佐藤龍彦さんが、すたすたとやってきて、ちーちゃんの真ん前にすとんと座りました。ガラガラの席で、ここを目指してまっすぐに来て座った姿をみて、佐藤さんってちーちゃんのこと好きやったんや、と思いました。

で、ちーちゃんの顔を覗くと、あれ?この人、なんでここに?困ったなぁ、、って感じだったので、脈無しか〜〜佐藤さん、がんばれ〜って⼼の中でエールを送りました。

◆2014 年 6 月 サボテン電話。
清道館二部@いこいで、菊池さんが、サボテンの鉢を佐藤さんにあげる約束をしていたからと、たくさん持ってきていました。佐藤さんへのスペシャルなサボテンの鉢は決まっていたのですが、「みんな好きなサボテンを選んでね」って言われて、私の家は植物はなぜか枯れてしまうので遠慮して、みんながどんな多肉植物を選ぶのか観察していました。

ちーちゃんが、なんか丸っこいのを選んでいて、佐藤さんの鉢にも同じようなサボテンがいて「あれ、これとこれは兄弟?」って聞いたら、菊池さんが「そうそう、どんどん増えてくるねん」って仰ったので、「サボテンとサボテンが交信するって聞いたことある、このサボテン同士で糸電話みたいに交信できるんちゃう?」と私が言うたらしいです(全く、覚えてないけど)。

その時に、ちーちゃんは、佐藤さんが嫌そうな顔をしていなかったので、佐藤さんって私のこと嫌ってないんや、、と思ったそうです。
えー!!そこ?!
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◆2014 年 7 月森川邸バーベキュー大会
この頃は、私はもう確信を持って、佐藤さんの恋⼼を密かに⾒守っていました。問題なのはちーちゃんで、この人全く気がついていないのか、それとも、気がついてるけど無視してるのか、どっちか全然わからなくて、でも問いただしたら、二人の間にある柔らかい感じがつぶれてしまいそうなので、気付かないふりをしていました。

森川さんが、お家バーベキューパーティに皆を招待してくださり、私はツーショットの写真を撮ろうと狙っていたのですが、そんなことに全く知らない川住さんが、二人の真ん中にいて、何回かトライしたのですが、川住さんも何回も笑顔をくれて、三人がニコニコ笑う、写真となりました。

その日、ちーちゃんが、多田先生の50 周年稽古会(ローマ)に一緒に⾏こうと佐藤さんを誘っていたので、あれ?ちーちゃんが佐藤さんを誘っている、と⽿ダンボ。この人、もしかして自分の気持ちに気付いていないんちゃうやろか?もしそうでなかったら、ほんま罪作りな人やな〜と⼼配する佐本でした。

そして・・・10 日間のラスペツィア合気道三昧から帰ってきたら、何故か、ちーちゃんが私と目を合わせない。出発前に無自覚になんか悪いこと言うたんやろか、と気にしていたのですが、どうも私が留守をしていた 10 日間のうちに、二人はお付き合いすることになって、感のいい佐本さんにはすぐにばれるに違いないので、目を合わせられなかったとのこと。
分かり易すぎ〜(^^;)。でも、ほんとに良かった!!

それから 1 年後の 2015 年 7 月末に、お二人は⼊籍されました。

めでたし、めでたし。

<ウエルカムボード制作者から 清道館 田中 友希子>
2本の糸は、佐藤さんと早川さんの⾚い糸(ほんとベタですが)のつもりです。あわび結びにしました。
結婚相手につながっていると巷で言う⾚い糸―伴侶とだけでなく、人生で出会うべき人に会うたびに結び目ができる、そうも思えるのです。

佐藤さんは光安さんとのつながりで清道館に⼊会し、早川さんは出来⽴てほやほやの清道館に先輩として何度もお稽古に来てくださって、丁寧に面倒をみてくださいました。

佐藤さんは早川さんに(こっそりと)粘り強―くアタックし(と聞いています)2人の結び目ができました。でもそれ以前に2人の糸には、今日ここにいらっしやる方々との出会いがあり、それが2人の結び目につながったんですね。

ウェルカムボードの龍彦さんと知佐さんの2本の糸、あわび結びの先は⾒えませんが、実はずっと伸びています。これからは2人分、たくさんの出会いの結び目ができることでしょう。結び目が増える中で、豊かに広がるであろうお2人の人生を祝福して。

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「Love Song その2」(井上 英作)

「Love Song その2」

先日の結婚披露パーティーのBGMとして僕が選んだ「Love Song」を公開します。

パーティーが終わり、店主に挨拶をしたところ、「いい選曲ですね」と言われ、また一部の人からも要望があり、褒めらることの少ない僕は、調子に乗りここに公開することにしました。

「Time After Time」/Everything but the Girl
言わずと知れたCyndi Lauperの代表曲。僕は、このカバーの方が好きです。
「チョコレート」/家入レオ
この曲については、以前ブログでも書きました。よかったら読んでみてください。
「花嫁」/はしだのりひことシューベルツ
今回の選曲で一番初めに浮かんだ曲。フォークそのものだと思っていましたが、改めて聞いて見ると、意外とモダンでびっくりしました。
「青い地球はてのひら」/かの香織
かの香織は、元「ショコラータ」のヴォーカル。「ショコラータ」というのは、ポストYMO時代の日本の音楽シーンに突如登場したバン
ド。かっこよかったなぁ。
「小さい宇宙」/ZABADAK
僕の中では、一番の「Love Song」。原マスミの歌詞が秀逸。原マスミは、吉本ばななの本の装丁などで有名な音楽家・画家です。「キッ
チン」の装丁があまりに有名です。
「三日月」/絢香
何年か前、居酒屋のトイレでこの曲を聴き、思わず涙しました。歌の上手さでは、今、日本で一番ではないでしょうか。
「君といつまでも」/加山雄三
説明不要。憂歌団のカバーもよかったら聞いてみてください。
「ダーリング」/沢田研二
色々と事情があるのかもしれないが、この人の評価があまりにも低すぎます。この曲などは、ジュリーが絶頂期のもので、
曲がめちゃくちゃ「はねている」。
「お嫁においで」/憂歌団
憂歌団は、よほど加山雄三が好きなんですね。そういえば、加山雄三のトリビュートアルバムも出ていましたね。
「Before Today」/Everything but the Girl
単に趣味で選びました。Tracey Thorn好きなもので。
「To Who Knows Where」/James Iha
The Smashing PumpkinsのギタリストJames Ihaのソロアルバムから。
「LOVIN’ YOU」/Janet Kay
Minnie Ripertonの代表曲をレゲェにアレンジして。
「All My Loving」/The Beatles
説明不要。「All My Loving To You♪」だって。パーティーのオープニングに使う曲として、真っ先に浮かんだ曲です
「A Love Song」/Ego Wrappin’
タイトルそのもの。彼らは大阪の宝です。
「Moments in Love」/The Art Of Noise
Fantastic Plastic Machineのアレンジが秀逸。原曲を上回りました。
「雪の華」/中島美嘉
「冬の匂いがした♪」という歌詞が好きです。子供の頃は、季節の匂いってあったのに…
最近は、なくなってきたような気がします。寂しいですね。
「The Look of Love」/ABC
高校二年生の時、コンサートに行きました。前から二列目でした。
「Your Love Is King」/SADE
SADEはこの曲以外にもたくさん「Love Song」がありますがタイトルで決めました。
「From Russia With Love」
映画「ロシアより愛を込めて」のサウンドトラック。
「La gare」
映画「シェルブールの雨傘」のサウンドトラック
「The Sheltering Sky」
映画「Sheltering Sky」のサウンドトラック。坂本龍一作曲。
「Fly Me To The Moon」Astrud Girberto
僕の中では一番官能的な曲。途中のトロンボーンのソロにうっとりします。
「赤いハイヒール」/太田裕美
僕の中の「乙女」が炸裂します
「LAUGHTER IN THE RAIN」/ Neil Sedaka
何曲もスタンダードのカバーを選んでいますが、この曲は原曲の方がいいです。
「CAN’T HELP FALLING IN LOVE」/ UB40
原曲はプレスリー。こちらもレゲェで。
「Melody Fair」/Bee Gees
映画「小さな恋のメロディー」のサウンドトラック。ある世代の人たちの中では、「Love Song」の代表曲だと思います。
「あの夏、いちばん静かな海」
映画「あの夏、いちばん静かな海」のサウンドトラック。監督は北野武。当時、暴力的な作品ばかり撮っていた北野監督の「恋愛映画」で
す。映画もいいですよ。
「White Love」/Speed
中学生の歌声が妙に説得力があります
「How Deep Is Your Love」/Bee Gees
誰かのカバーで知りました。改めて聴くといい曲ですね。
「Too Much」/Bee Gees
別にBee Geesのフアンではありませんが、結果三曲も選んでしまいました。
「Top Of The World」/The Carpnters
僕の初恋にまつわる曲です。以前ブログでも書きました。よかったら読んでみてください。
「Jealous Guy」Roxy Music
John Lennonの代表曲。僕は、このカバーの方が断然好きです。後半の口笛とサックスがたまりません。