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「ある日の研究会」菱田伊駒

「ある日の研究会」菱田伊駒

 

その日は、いつものp4c(=philosophy for childrenこどもの哲学)の研究会で、M先生が小学生の子どもたちが描いたポスターをたくさん持ってきた。教室の絵、その日の給食の献立まで細かく描きこまれた絵、色とりどりの風船が描かれた絵、友だちと花火を楽しむ様子が描かれた絵。大体30枚くらいのポスターが机に並べられ、研究会のメンバーの皆が意見を交わす。

 

自分には何が言えるだろうか。そう思いながら目の前のポスターを眺める。こういう大勢が集まる会では、発言するからには価値のあることを言わなければと思ってしまう。

 

他の人の発言を聞いたり聞かなかったりしながら、4枚ばかり気になったポスターを手元に並べてみる。4枚のポスターのうち、それらしい問いがすぐ立てられそうなポスター2枚と、ぱっと見たところあまり取り上げるところのなさそうな2枚のポスターに分けてみる。

 

それらしい問い。ポスターの中に「授業にふさわしい気持ちと、そうでない気持ちを分ける」と書かれていて、それに対して「ふさわしい、ふさわしくない気持ちってどういうことだろうね?」と問いかけてみたくなる。学校の授業に対する「こうあるべき」という規範意識が浮かんでくるのでは、という先読みがあって、なんだか嘘くささがある。

 

ぱっと見たところ取り上げるところのなさそうなポスター。友だちと花火をして遊ぶ様子が描かれていて、解説には「とても楽しかった」とある。あまりp4cとは関係なさそうだ。p4cについてのポスター、という意味が分かっていないのか、それともあえてなのか、分からない。ただ、自分の思うがまま描いているような自由さを感じる。「花火をしてどうだった?」そんな問いかけから始めてはどうか。そんなことを思う。予想外の展開を求める気持ち、誘導したくないという気持ち、それらがこのポスターを取り上げたいと思った背景にある。

 

こうやって2種類のポスターを対比させることで、色々と言えることがあるのではないか。そうやって考えをまとめ、効果的な発言になるよう考えているうちに周囲の音は遠ざかっていく。なんとなく追っていた、今話されている内容は聞こえなくなる。何か言ってやろう、そういう気持ちで体に力が入り、緊張が高まっていく。こうやっているうちに時間切れになることもしばしばで、今日は発言できるかな、などと焦りも生まれる。

 

そうして数十分くらい時間が過ぎたとき、N先生が一枚のポスターを手に取った。「なんか・・・これ気になります」。そういって手にとったポスターを周りに見せる。そこには、教室の絵と、丸く円になった椅子が数脚描かれていた。教室を描いた絵は他にもあり、見た感じ何も思わなかった。N先生は何を言おうとしているのか。

 

「これ見てると色々と聞きたいことが浮かんでくるんですが、いいですか?」そういってM先生に質問を向ける。 (絵を描いた子のこと、教室の風景を知っているのはM先生だけだ。) N先生が気になったことを聞いていく。どうしてこの教室には椅子しかないのだろうか。この絵は、絵の手前側から教室を見ているようだ。視点の手前にある、自分が座るはずの椅子が小さく感じるけど、どういう目で教室を見ているのだろうか。

 

そうやって質問を重ねてくるうちに、その子のことを全く知らないぼくの中に、いくつかのイメージが浮かぶ。広い教室、遠くの方から黒板を眺める自分、声の大きいクラスメートたち、何も言えない自分。あぁまた自分のイメージの中に閉じこもり始めた、慌てて2人の先生のやり取りを聞くことに集中する。関心を向ける相手を自分は間違えていたのだ。ポスターを見ているようで、何も見ていなかった自分が恥ずかしくなった。

 

N先生の話を聞きながら、自分も同じような観察力を身につけなければと思う。やり取りだけ聞いていると、その絵を描いた子の様子を言い当てているように思う。しかし、それは間違いだ。当たる当たらないは、経験であるとか、知識であるとかに左右される。当てようと思って当たるものでもない。N先生はこう言った。「問いかける、というのがミソだと思う」。あなたはどういう人ですか?こう考えているのですか?こういう気持ちですか?N先生の問いは、相手に対して開かれている。

 

そうやって浮かんだ問いかけが、次の日から相手へのまなざしを変える。どう接するかの態度を変える。次の授業内容をどうするかを変える。その変化を本人が感じ取った時、その子にも変化が生まれていくのだろう。

 

研究会の終わりの方で、M先生はp4cについて「自分はプロレスをしているんじゃない、ボクシングをしてるんだ」と言った。次は教師がこう言う、それに合わせて子どもはこう反応する・・・そういう筋書きの決まったやり取り、その筋書きを共犯的になぞっていくのがプロレス的な授業。それに対して、p4cは次に何が出てくるかわからない、誰かの抱える闇が噴き出すかもしれない、傷つくかもしれない、そういうやり取りをp4cではしているのだと。

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ドラマ「半分 青い」(@井上英作)

ドラマ「半分 青い」が終わった。ドラマ「半分 青い」は、今年前半の「朝ドラ」の題名である。取り付く島の多かったドラマだったと思う。その島について思うところを整理してみた。

①バブル

若い方はご存知ないかもしれないが、かつてこの国には、「バブル」という「瞬間」が存在した。しかし、その「瞬間」は、あっという間にあっけなく終わりを告げる。日経平均株価は、1989年12月29日に史上最高値38,957円44銭を付け、翌年から株価は下がり続ける。「失われた10年」の始まりである。極めて個人的なことだが、この1989年に、僕の中では、何か大きなものが失われた気がした。それは、僕が今でも世界一のアーティストだと信じて止まない、こだま和文率いるダブバンド「MUTE BEAT」の突然の解散と、俳優松田優作の急死が象徴している。その時の喪失感は、かつて味わったことのないもので、そのときの感じは、今でも生々しく僕の中に残っている。

そして、このバブルを経過した後、大きく日本は変わっていったように思う。それは、戦争に負けた日本が、戦勝国のアメリカに対し今度は経済という武器で復讐を試みるのだが、その結果、最終的にはアメリカに息の根を止められてしまったからだろう。僕は、本当の敗戦は、この1989年だったのではないかと思っている。そのことのショックがあまりに大きかったのか、このバブルを検証した文献や文学がどうして存在しないのか、僕には不思議だったのだが、ようやく30年の時間を経て、ぽつぽつとバブルと向き合うようになってきた。本作においても、脚本の北川悦吏子が、ほぼ同世代ということもあり、かなり正確に当時のことを描いている。特に印象的だったのは、正人とディスコに遊びに行こうとする、律のファッションで、当時の時代の空気感が見事に描かれていた。

来年で、「平成」という時代が終わる。「失われた●年」という言い方は、あちこちで耳にする言葉だが、「平成」という時代そのものが、失い続けた時代なのかもしれない。北川悦吏子は、本作を「平成」という時代へのレクイエムとして、執筆したのではないだろうか?だから、この作品を2018年に放送することには、とても意味のあることのように思える。

②故郷

寺山修司は、映画「田園に死す」のなかで、子供時代の故郷について、劇中「これは、すべて嘘である」と言い放ち、観客を挑発した。つまりは、過去というのは、創作された物語に過ぎないというわけだ。人は、自身の過去を、自分の都合の良い過去に書き換えてしまう。どうやら人間とは、そういう生き物のようだ。

主人公スズメと律は、同じ日に生まれ、高校を卒業するまで、仲間たちと楽しく岐阜で過ごす。その仲間とは、男二人に女二人という構成で、学校の帰りには、たまり場の喫茶店で、お好み焼きを食べながら、恋愛や将来について語り合う。僕は、そんな前半の岐阜でのシーンを、自分の学生時代と照らし合わせながら観ていた。僕は、そんなシーンを懐かしいというよりは、羨ましく思いながら観ていた。なぜ、羨ましかったのか?それは、現実には、おそらく存在しないからだ。確かに、僕たちも、土曜の午後、学校の近くのお好み焼き屋で、たこ焼きを食べながら、あるいは、無料券を片手に「王将」で餃子を頬張りながら、よく延々とバカ話をしたものである。ただ、そこには、女子の存在は皆無で、いつもそこにいたのは、むさ苦しい男連中だった。男女のグループがなかったわけではないが、思春期の子供たちが、まったく、異性としての女性を気にせず付き合うことなど、到底不可能だった。そう思うと、本作における「岐阜」は、「そうあってほしかった過去、場所」ということなんだろうと思う。

一方、「そうあってほしい過去、場所」に対し、「東京」では、果てしなく冷徹で非常な現実が待っている。漫画家を夢見て上京したスズメだが、デビューを果たすも、自分の才能に限界を感じ、漫画家をやめる。その後、結婚した相手に捨てられ、シングルマザーとなる。再度、上京を果たすが、勤め先の会社経営者津曲に夜逃げされる。

この作品が、単なるご都合主義や陳腐なサクセスストーリーに陥らずに済んだのは、この「東京」を冷徹な態度で描ききったからこそ、その対比として、甘美なまでに虚構としての「岐阜」を際立たせたことによるものだと思う。

③死者の存在

最後にこのことが、僕を最も魅了したことだ。この作品では、風吹ジュン扮する、スズメの祖母のナレーションが、物語を進行させていく。もちろんこの祖母は、すでにもうこの世には、存在しない。ただ、あたかもそこに存在しているかのようにナレーションが毎回繰り返される。

物語では、スズメにとって大事な人たちが、次々に亡くなっていく。祖母、祖父、律の母、そして親友のユウコ。

本作の最後の方の回、「マザー」(スズメと律が開発したそよ風扇風機)のお披露目のスピーチで、スズメは「私たちは、生と死の境界線のようなところで生きていて、死者は、そのすぐ傍にいつもいる」というようなことを言う。僕は、この考え方を支持する。

北川悦吏子自身も、病と向き合いながらの人生のようで、そんな彼女にとって、死の存在を身近に感じていたことは、想像に難くない。

ある時、僕は暇に任せて、自分にとって大事な人たちについて、何か共通点がないかどうか考えてみた。考えてみて、自分でも想像していなかったことに気づいた。彼らに共通していたのは、死者の存在を信じているということだった。僕は何もオカルトめいたことをいっているのではなく、目に見えないものを感知し、信じることは、人にとって最も重要な要素だということだ。宇多田ヒカルの名曲「道」の歌詞「It’s a lonely road But I am not alone」といったところだろうか。

みんなの部室投稿「水辺」菱田伊駒

「水辺」 菱田伊駒

その日は、外に出てぼんやり過ごしていた。最近、梅田で再開発が進んでいる地域には、緑が植えられ、人工の川が流れ、近くにベンチが置いてある場所が増えた。パラソルで出来た陰のあるベンチに座り、水遊びをする数組の親子を眺める。幼稚園くらいの子どもが2~3人、水をかけあって遊んでいる。

小学校低学年くらいの子とp4c(※「p」hilosophy 「f」or 「c」hildren=こどものための哲学)をやっていると、慣れてくるといきなり背中に飛びかかってくる。あるいは肩にぶら下がってきたり、コミュニティーボールを投げつけてきたり、人のボールを奪い取りにいったりする。周りにある道具を触ったり転がしたり、上に乗ったり、箱であれば中に入ってみる。最後の方は、みんなでとっくみあいになって、ふとした拍子に頭をぶつけて、泣き出してしまったりする。

子どもたちと接していると、人や物との関わり方の直接的な面白さを感じる。もっと小さいと、なんでも口にいれてみたりする方法があるのだろう。鼻の中にビーズを入れたまま何日もたって、病院に行って取り出してもらった男の子の話を思い出す。

今の自分は、そういうことをしようとは思わない。それは、経験を積んだ人間であることの1つの証拠だろうか。

みんなの部室投稿「代稽古」菱田伊駒

「代稽古」菱田伊駒

ここ最近、合気道の稽古が楽しい。稽古に行くと人がたくさんいて、話をしたり技をかけあったりする。他の人がにぎやかに喋っているのを心地よく聞けるのは、珍しい機会だと思う。道場には、日常とは違った時間が流れている。

 

昨日の稽古は、K先生が海外遠征中のため、M本さんの代稽古だった。稽古をしていると、上手くいくこと、上手くいっていないことがそれぞれ感じられる。こういう時は、充実した稽古なのだと思う。上手くいっていない動きについても、この方向性で稽古していけばよいのでは、と課題意識を持って取り組める。自分が上達する予感がなんとなくあり、何度も動きを確かめてみたくなる。普段は、2回ずつ技を掛け合うところを、お願いして回数を増やしたり、スローで動きながら体にかかる力、形を確認した。M本さんの言ったことを実現しようと思うと、自然と丁寧な稽古になっていった。

上達する予感というのはなかなか貴重だ。初心者のうちは、とりあえずの動きをなぞるだけになってしまう。どちらかが上級者であれば、改善の方向を示すような声かけをしてくれる。初心者同士で組むと、二人ともわけがわからないという状態になって、見た目だけの動きをなぞることになりがちだ。「これでいいのだろうか?」という迷いが生まれる。お互いそう思っているので、ぎこちない技の掛け合いになる。それでも、どうしてよいか分からないので「難しいですね」などと、お茶を濁すようなことを言いながら動きを繰り返す。やはり昨日も、同じ繰り返しから抜け出せないでいた。

そういう時、M本さんが近づいてきて、手を添えて体の形を確かめてくれる。あるいは、一緒になって掛かり稽古をしてくれる。ある瞬間、自分の肩甲骨から手の平までがつながった感覚があり、「あっ」と思う。その時、M本さんもぼくの感覚が伝わったようで「うん、それでいいよ」と言う。この方向でよいのだ、と背中を押された気になり、安心した。

石橋だより② ~ズレとズレの間で考える~  菱田伊駒

石橋だより② ~ズレとズレの間で考える~
菱田伊駒

子ども哲学カフェの参加者の親御さんから、「兄妹ケンカが少し減ったように思う」と聞いた。なんとなく、先輩たちの経験談からp4c(こどもの哲学)の影響として話には聞いていたけれど、実際にそう言われると驚いた。
彼ら(兄妹)が参加してくれたp4cは、先日「上手くいかなかった」と振り返った回であり、失敗の一因は1~6年生を混合にしたからだと思っていた。だから、次回からは1~3年、4~6年に分けてプログラムを作り直すつもりだった。その兄妹は兄が4年生で、妹が1年生だった。次に来てくれる機会があったとしても、彼らは別々のプログラムに参加することになる。そうすると、「兄妹ケンカが減る」といったような兄妹の関係の変化は起こらなくなるのではないか?
そもそも、自分では「上手くいかなかった」と振り返ったp4cは、本当に「上手くいっていなかった」のだろうか?あるいは、ぼくが「上手くいった」と思っていたp4cは本当に「上手くいっていた」のだろうか?そうした疑問が浮かび初め、紆余曲折を経て、もう少し今の「学年に関わらず参加可能」の形のままでp4cを続けてみようと考え至った。
以下に紹介する文章は、揺れ動いた考えの記録であり、迷いの中心にあった人との「ズレ」について書いたものです。読んでいただけると幸いです。

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「ズレとズレの間で考える」
以前、自分が行ったp4cを「上手くいかなかった」と振り返った。その原因は、1~6年生までを一緒にしてp4cを行ったからだと考えて、これからはある程度学年を分けようと思っていた。その考えの後ろには、「やはり1年生と6年生では考えていることのレベルが違っている。それぞれの「幼さ」に合わせたクラス設定が必要だ」という思い込みがあった。
その思い込みにはさらに1つの前提がある。「哲学的対話にもスキル的な要素があり、積み上げて身に着けていくものだ。段階的な学習が必要だ」と。確かに、対話が成り立つためにはスキル的な要素は不可欠だ。
しかし、一方で、そういった「スキル的な要素」ばかりが先行する風潮に嫌気がさしているのが自分ではなかったのか?その風潮を批判しながら、結果として自分がやっていることは「積み上げ型」を鵜呑みしているだけではないのか?という疑念がわいてきた。
人と話すときに大切なこと、それは「聴く」ことであり、「聴く」ことは、相手の話題について事前に勉強するとか、相槌のテクニックを学ぶとか、相手の目を見るとか、そういうマニュアル的なこととは一切関係がない。そのような「スキル」とは遠く離れた場所に「聴く」という行為はある。
性別にも、年齢にも、学歴にも、それまで積んできた人生経験とは全く関係がなく「聴く」ことはできるし、反対にどれだけ相手と共通点があったとしてもそれだけで「聴く」ことはできず、単に聴く前の準備体操が少しできているのかできていないかだけの違いでしかない。そんな思いで、大人であっても、子どもであっても向き合おうとしていたつもりで、全くできていなかった。
自分が、いつのまにか聴くことを「身につける、段階的に学習していくテクニック」だと勘違いしてしまっていたことと同時に、もう1つ気づいたことがある。それは、相手とのコミュニケーションのズレ、衝突、そういうものを単にネガティブだと決めつけ、無意識のうちに避けようとしていたことである。
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相手との「ズレ」に関して、ある会話を引用したい。ある日の職場での出来事。
Aさん「子どもが小さいころから哲学をやってるとどうなるんだろうね」
ぼく「そうですね。まだ分からないんですけど、でも、イベントの最中に話がうまくできるようになるとか、そういうことじゃなくて、イベントの外の子どもの生活というか、そういう普段のことが変わっていくと面白いと思いますね」
Aさん「それは壮大なことやねぇ」
(少し時間があく)
Bさん「でも、こどもの性格が変わるなんてちょっとすごいことですね・・・」
ぼく「あ、いや、そうじゃないですよ。『生活』です」
Bさん「あ、『性格』じゃなくて『生活』ですか」
ぼく「それは性格が変わったら面白いですが、そこまで狙ってやると洗脳になっちゃう」
Bさん「いや、そうですよね」

この会話のズレは単純だ。ぼくが発言した「せいか『つ』」が、相手には「せいか『く』」に聞こえていたのだ。音1つの違いでしかないし、聞き間違いはよくあることだ。しかし、この2つの違いが与える印象は大分違う。子どもを預ける親の気持ちになってみれば、「性格を変えられてしまうのか・・・」と不安に思う気持ちが湧くかもしれない。
幸い、この会話では「ズレ」は明らかになり、何がズレているかのギャップも分かったので、簡単に修正することができた。しかし、いつもそうだとは限らないし、こうした場面は気づかないだけで多いのかもしれない。

もう1つ、子ども哲学でのある場面。
小3「ピアノをやってると結構難しいことが多くて、自分より年下の子が、自分ができないことできると悔しいわ」
小1「ピアノ簡単、猫ふんじゃったもすぐ弾けたよ」
小3「それは簡単だから。そんなんじゃない」
小1「でも・・・」
(少し空気がざわつく)
ぼく「まぁ簡単な曲と難しい曲があるから。それで、どうして悔しいって思うの?」

このp4cの時間は、1年、3年、4年、6年、大人と、参加者の年齢も様々で、テーマは「憧れ」、この直前に6年生の女の子が「憧れは、自分ができないことをやっている人に対して持つ感情だと思う」という発言をした。少し、1年生の女の子にとっては難しい話が展開されていて、それでもなんとか話に入ろうと1年生の女の子は頑張っていた。この会話のズレは、少しややこしい。見ていたぼくの推測にすぎない部分も混じっているが、1つずつ考えてみたい。
まず、1年生の女の子の中でのズレ。多分、会話に入りたいという気持ちが先行して、参加したいがために思ってもみない発言を言ってしまったような印象がある。なんとなくだが、こういうことはよくあると思う。一発逆転の発言というか、周りと違うことを思い切ってやってみることによって注目を集める方法。多分、1年生の女の子は、ピアノが簡単だとは思っていないと思うし、猫ふんじゃったを弾けるようになるのにもそれなりの練習をしたと思う。けれど、話の流れとちょっと違った発言をしてやろうと、「ピアノなんて簡単」と言ったのだと思う。口調も少し攻撃的だった。
もう1つ、3年生の女の子とのズレ。なんとなく、ぼくの側では「この子が言いたいのは、『自分も発言したい、聞いてほしい』ということではないかな?」と思った。一方、3年生の女の子は、自分が攻撃されたように感じたのか、強い口調で「それは簡単だ」と発言した。
そして最後のズレ。ぼくの発言だ。いくつかのズレが会話の中で重なっていて、1つ1つがそれぞれの子どもたちの思いによって生み出され、意味のある物だったと思う。それらの思いとは全く別の「難しい曲も簡単な曲もある」というお茶を濁す発言で、もっとも大きなズレを生み出して全体を覆って、煙に巻いたのだった。せっかくの散らばっていた材料を「大人のやり方」で片付けてしまったのだった。
この後、会話は全く別の方向に、それなりに展開していった。けれど、ぼくのなかに「片付けてしまった」という気持ちは残った。それぞれの子どもたちにも、「意図せぬ形で片付けられてしまった」という思いが無意識のうちかもしれないが、もやもやと残ったのではないかと思う。何が正しかったのか、もう終わってしまったことについてのぐるぐるとした思いが今も残っている。

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普段でも、ぼくたちの会話は、どこか「ズレ」ている。そのズレを、時にはどちらかが我慢をして、ごまかして、もしくは共犯になって「ズレ」が目立たないよう覆い隠す方法でやりすごしている。目立たなくなり、隠された「ズレ」は、日の目を見ないままですむ。けれど、「ズレた」という感覚だけは、互いの中に残る。それが、少しずつ積み重なってある日、取り返しのつかない「亀裂」を生んだりする。
大事なのは、「ズレ」を生み出さないようにすることではない。どうしたってすれ違いは起きる。そうではなくて、その不協和音に耳を傾け、観察することだ。それが自分を知り、人を知り、関係性を変化させていく方法になるのだと思う。「ズレた」と思うことは初めの第一歩だ。普段どんなズレをごまかし、なかったことにし、自分の中や、他人の中に押し込めているのかを思い知らされること。そうした悔しい、辛い、恥ずかしい、照れくさい経験からしか出発することはできない。
そう思ったとき、ぼくにとって、子ども哲学のイベントが「上手くいく」とはどういうことだろうかと改めて考える。話がスムーズに展開されるとか、考えが深まるとか、子どもの発言がしっかりしているとか、そういうことは二の次でしかないはずだ。
「ズレ」が目の前に生まれ、それを目の前に困惑し、今までできていたことが、できなくなる体験。それこそが大切なのだ。派手である必要はない。ただ、「上手くいった」と感じたときは大抵上手くいっていない。だから、「上手くいかなかった」という体験こそ味わうべき、貴重な瞬間なのだ。
もう少し、学年混合でやってみようと思う。「ズレ」を見つめ、そこから出発するしかない。そうすることでしか次のズレに向かう道はない。
*******

ここまで読んでくださってありがとうございました。
(以上)

「たくさんの先達と桂米朝師匠」  本間隆泰

「たくさんの先達と桂米朝師匠」  本間隆泰

桂米朝(敬称略)といえば、
戦後に担い手がおらず、
滅亡寸前とまでいわれた上方落語を
八面六臂の活躍で復活させた立役者であり、
最近ではアンドロイド人形にもなった大変な人物である。
その桂米朝の生い立ちから晩年までの様子に触れられるということで
先日、兵庫県立歴史博物館(姫路市)の
特別展示「人間国宝 桂米朝とその時代」を観に行ってきた。

幼少のころの写真から
小学校、中学校のころの通信簿(数学や化学は苦手だったような)や自由研究、
東京での下宿時代に寄席通いをされていた時の記録帳や
会社員時代に姫路で寄席の世話人をされていた時の資料など
貴重な遺品が時代に沿って展示されており、
その一つ一つを興味深く拝見させていただいた。

数々の興味深い資料の中で特に印象深いものが二点あった。
そのうちの一つは米朝の師匠である四代目米團治(1951年没)から
米朝に宛てられた遺言にあたる手紙である。
手紙のなかで、まだ入門五年目である米朝の行く末を案じながら
「私の芸が必ず世間に認められる時が来る。
私が生きている間には無理かもしれないが、
あなたの代か、それ以降に認められる時が来ることを確信している。
私と私の芸の継承してこられた諸先輩方のために
あなたの芸が認められてほしい」と想いが綴られていた。
(私の記憶より引用 原文のママではありません)

自分の信じた芸術を自身の代で滅ぼしてしまってはいけないという切実さが
直筆の手紙からひしひしと伝わってきた。
私が物心ついて以降、落語に人気があったかどうかはわからないが、
落語が消滅するという危機感を抱いたことはなかった。
このたびの米團治の手紙を拝見した時は痩身の四代目米團治の写真も相まって
感慨深いものがあった。

もう一つの興味深い展示物が
1959年の三代目桂春團治(2016年没)の襲名時の資料であった。
福團治から3代目春團治を襲名する際、
米朝は春團治に対して「持ちネタの数が少な過ぎるのではないか」と苦言を呈するとともに
「代書屋」(四代目米團治の創作)、「皿屋敷」、「親子茶屋」等の演目を
春團治に伝授したという凄い話があるのだが、
「親子茶屋」については、口伝えで稽古する時間がなかったため、
内容は原稿用紙に記されて春團治に渡されたとのことであった。
その原稿用紙が三代目春團治の遺品から発見され、
今回の展示で展示されていた。
「親子茶屋」の口演内容の一言一句が原稿用紙に丁寧に記されており、
原稿の末尾には柔らかな筆跡で「御身大切に 春團治師匠様」と記されていた。
仲間である春團治を気遣うとともに落語という芸をよりよい形で
継承したいという思いが伝わるもので、
両師の「親子茶屋」がより一層味わい深くなった気がした。

俳優の小沢昭一が米朝へ宛てた寄せ書きのなかで
米朝を偉大な先達と評していたが、まったくその通りだと感じた。
米朝のように自身の芸を追及してきた沢山の先達がいたからこそ
いまのんびりと落語を聞くことができる。

博物館からの帰り道、
壁面が真新しくなった姫路城を眺めながら
米朝の大きさと沢山の先達の有り難さを
しみじみ実感した次第である。

「石橋キャンパス研究会立ち上げにあたっての覚書」 菱田伊駒

「石橋キャンパス研究会立ち上げにあたっての覚書」   菱田伊駒

 ここで書かないと次に進めない、というときがある。書く、でなくてもいいかもしれない。とにかく、自分の外に出して、人に眺めてもらえる形にすること。声に出す人、絵にする人、メロディにする人。色々な形があると思う。そういう時は不思議なことに、他人にどう思われるとか、そういうことが気にならなくなる。やけくそとも少し違う。どちらかというと、「しょうがない」という諦めの感情に近い。ぼくはこう感じていて、こんなことを考えていて、言葉にしてみるとこのようにしか表現できない。そういう形で外に出しているので、それについて色々と言われても仕方ないし、甘んじて受け入れよう。

そういう時、他人の目は気にならなくなる一方、他人自身ことが気になる。「自分がどう思われているか」から「あなたはどう思うか」に変わる。あなたにぼくの考えは伝わっているのか、それで少しでも感情は動いたのか。その変化はあなたにとってどんな意味をもつのか。聞かせてほしいと思う。

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「石橋キャンパス研究会」を始めようと思った動機は何だろうか。地域活性化とか、商店街とか、そういうのはどうでもいいのだと思う。どうでもいいというか、偶然の要素に過ぎない気がする。世界線が違えば舞台は都市だったり、農村だったりしたのだと思う。これらの要素は歴史の偶然なんだろう。もちろん、ぼく自身も偶然の産物ではある。「ぼく」というのもはっきりと分からない。ただ、「ぼく」として指し示される意識が「ぼく」だったとすると、どんな時代のどんな場所に「ぼく」が生まれたとしても、これから始める活動とそんなに変わらないことをするのだと思う。そういう幻想を持てるのは不思議だ。
世の中には、出会ったことのない人がたくさんいて、その人たちの、聞いたこともない、見たこともない考えが山のようにある。その痕跡を、本や、映像から少しだけ覗き見ることができる。そういうものにもっともっと出会っていきたい。そういうことなのだと思う。そして、もう1つ大切なのが、それを誰かと共にすること。随分な寂しがり屋だなぁと思う。でも、嘘やごまかしを抜きにして、その人自身と意見を交わし、互いの時間を編み上げてみたい気持ちがある。

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 商店街にどっぷり浸かっていると、人間関係がどうしようもなくつながっていると感じる。何かをしようと思った時、すでに出来上がった網目の上を動くしかないような。誰に協力を仰いで、どういう手順で物事を進めていくかが決まっているのだ。でも、本当にそうだろうか。今、ぼくはむしろそういう関係を断ち切りたいと思うようになっている。断ち切りたい、そう言うととても冷たく映るかもしれない。ただ、それは馴れ合いが嫌いだというだけ。関係を持ちたくないわけではない。むしろ、気になっている。気になっていなければこんな文章は書かない。関係を持つため、人間関係を接続するために、切断する。そういう逆説的なことがあると思う。もう一度出会い直したいからこそ別れる。別れるからこそもう一度感情を交わしたいと思う。だから、冷たいという評価は全くの間違いで、どうしようもなく湿っぽいのである。

人と人のつながりが絶えて久しいと言われる。人と人が出会う場が必要だと言われる。それは確かにそうだ。見知らぬ者同士が出会い、言葉を交わし、互いに刺激を受ける。そういう場所は必要だと思う。しかし、見知った者同士が、互いの関係を見直せるような場も必要だと思う。見知らぬ者同士が見知った仲になれる場、見知った者同士が、見知らぬ仲になる場。 

相手が見知った相手でも、それが子ども相手であってもはっとさせられる瞬間がある。最近のこども哲学カフェの一幕。小学生高学年の男の子。
「みんな、本当は多重人格やと思うねん。表に出てるのは冷静なやつやけど、その後ろには怒ってる人とか、悲しんでる人とか、面白い人とか、そういうのが色々おって、表に出てきたり出てこなかったりするねん。」
「相手が怒ってたら、それに反応して俺の中の怒ってるやつが冷静なやつをつぶしちゃうねん。その時は、表が入れ替わるっていうより冷静なやつが怒ってるやつにつぶされちゃう感じ。」
「でも、冷静なやつも、面白いやつも、何も表に出てないやつもおる。そういうやつは何もなくて、無っていうか、無関心な感じ。」
「長いこと付き合ってると、その分感情の量みたいのがたくさんたまってくるから。嫌なことがある分、いい感情の量も多いから、それでまぁいいや、みたいに思えたりするねん。」
普段は一緒に騒ぐだけの仲でも、ふっと違う子の顔をしている。そういう時、あぁ自分はこの子のことを何も知らないのだ、と思う。どんな経験をして、何を感じてきたのか。聞いたところでその断片しか見ることができない。

友人や、友人とも呼べないような知人。同僚。なんとなく、「この人はこんな人だ」と思うことはある。それは、ぼくの思い込みにすぎない。わかっているつもりで、そういう仮で貼ったつもりのラベルを、いつの間にか本物だと思い込む。

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 先日、ヴィクトル・シロフスキーの「異化」という考えを教えてもらった。慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法、のことらしい。ここまで、ぼくは他人と自分の関係の切断についてしか書いていない。しかし、ふと気づく。自分自身に対しての切断もあるのではなかろうか?見知った関係を切断し、見知らぬ関係に変えることが重要なように、知っていると思う自己を、突き放すことも大事ではないだろうか?自分が自分でなくなっていける場は、自分が自分らしくいられる場と同じくらい大事ではないだろうか?

どこにいても、何をしていても周囲にあまり馴染めない気持がいつもある。5センチくらい周囲から浮いている感覚。だからとかして地に足をつけようとする。周りと違わないよう、恐る恐る発言する。行動する。それも疲れるので、できればそういうことを気にせずに過ごせる場。それが、居心地の良い場だと思っていた。自分が自然体でいられる場所。自分が自分らしくいられる場所。でも、それでは飽きるのだ。居心地の良さに。自然体の自分に。同じようなメンバーで、同じような話題を、同じような表情で話す。もっと違う表情をそれぞれができるはずで、違う表情を隠しているがそれが表に出る機会がない。考えも変わらない。ただただ、つまらない。

成長とか、そういうことではない。成長は同じ直線状を動いているに過ぎない。それはつまらない。変容が必要なのだ。質そのものが変わってしまうような変化。ポジティブでもネガティブでもかまわない。変容したとき、人の顔が変わる、声の響きが変わる、動きが変わる。変容は、狙って起こりはしない。気づくと変わっている。向こう側からやってくる。だから、大切なのは待つこと。リラックスして待つこと。変化を受け入れる用意をすること。本当の意味で自分らしくいられるということは、同時に、自分が自分でなくなるきっかけなのだと思う。

見知った人間同士が、もう一度「知らない仲」になれるような場。見知った自分が、見知らぬ自分になってゆくような場。「知」を通してそのような変化の往来が活発化するような、そんな場を出会った人たちと共につくっていきたい。
(以上)