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「さよなら、テレビ」(@井上英作)

7月19日、午後5時、僕は、新橋駅「SL広場」 にいた。山本太郎の演説を聞くためである。

その日、たまたま東京出張があり、せっかく東京まで来たのだから、何か観るものはないか情報をチェックしているところに、「れいわ祭2」を発見したのである。

会場につくと、そこは、街頭演説会場というよりは、まるでロックフェスのような様相を呈していて、ざっと見渡す限り群衆の数は、1,000人あまりといったところだろうか?蒸し暑く、多くの人がごった返したなか、「れいわ祭2」は、「東京音頭」の生演奏で始まった。まさしく「祭り」なのである。その後、髪の毛を金髪に染めた木内みどりの司会により、演説が始まる。トップバッターは、応援に駆け付けた映画監督、森達也によるものだった。森達也は、ドキュメンタリー映画監督で、オウム真理教信者達の日常を追った作品「A」が、特に有名。森は、冒頭、このように吠えた。以下、概略。

「今日、たくさんのテレビ局が、撮影に来ているようだが、いったい今日のこの模様をいつ放映するんだ!どうせ、選挙後の総括を行うために撮りにきたんだろう!そんなことなら、今すぐ帰ってほしい。上司の言うことを、ハイハイと聞くような人間にジャーナリストを名乗る資格などない!!」

残念ながら、この日の森の指摘は、現実のものとなってしまった。今回の参議院選挙日まで、「れいわ新選組」の活動が、テレビで放映されることはなかった。しかし、山本の戦略が功を奏し、山本がいう「当事者」として重度障害者の二人を国会に送り込むことに成功した。選挙後、テレビは、「れいわ新選組」を扱い始めた。山本自身は、この現象は、折り込み済みだったようで、このバブルをすぐに終わるだろうと、冷ややかにインタビューに答えていた。それにしても、である。

僕が、テレビに違和感を感じ始めたのは、大学を卒業したころぐらいの、1989年だったと記憶している。当時、栗良平という人の書いた「一杯のかけそば」という話が、世間を賑わせた。「日本中が涙した」などという触れ込みにより、連日、ワイドショーは、この話題で持ち切りだった。しばしば「赤い血の流れていない男」と評される僕は、やはり、この陳腐な話に興味が持てずにいた。ところが、事態は思わぬ方向へ動き出す。この栗良平という人の過去に、さまざまな問題があることが発覚する。途端に、テレビは、手のひらを返したように、それまでこの作品を称賛していたことが、あたかもなかったかのように振舞い、そのバッシングの強さは、それまでの称賛をはるかに凌ぐものだった。それはないだろうと、僕は、そのときに思った。まず、この古臭い陳腐な話を手放しで称賛したことにも疑問を抱くが、テレビの役割として、その作家の過去を詮索し、その良否を判断することなど、少し出しゃばり過ぎなのではないか?と思ったのである。

若い人には、想像しづらい事例だったかもしれないが、最近も同じような事例が起こった。「佐村河内守」にまつわる一連のことだ。「一杯のかけそば」と、ほとんど、同じような構造だ。

僕は、子供のころからテレビが大好きで、テレビからは、たくさんのことを教えてもらった。腹を抱えて腹筋が痛くなるほど笑った「天才バカボン」や「もーれつア太郎」、加藤茶の真似をしては、母親に叱られた「8時だョ!全員集合」、いまだに再放送があると観てしまう「傷だらけの天使」、中島らもが構成作家として参加した「どんぶり5656」、そのラインナップがあまりに先鋭的だった「CINEMAだいすき!」など、数え上げれば切りがない。

かつてテレビは、当時大変力のあった新聞に比べると、低く見られがちなメディアだった。そのため、テレビ局には、「反権力的」なパンクな人たちが、たくさんいた。田原総一郎(元テレビ東京)や久米宏(元テレビ朝日)を思い浮かべれば、想像しやすいと思う。だから、テレビは、面白かった。そして、何より、情報源としての機能も十分果たしていて、寺山修司やレオス・カラックスなどの新しい才能を、僕は、テレビを通じて、その存在を知ったのである。しかし、その役割を、どうやらテレビは、終えてしまったようだ。テレビをつければ、そこに映し出されるているのは、食べ物や旅の情報ばかりで、政治に関しては、今更いうまでもない。僕が、一番驚いたのは、NHKで流れたニュース速報だった。「安倍首相は、ハンセン病患者に対して控訴しないことを表明しました。」といった内容だった。7月9日だった。まず、速報で流すほどのトピックなのかどうか?そして百歩譲ったとしても、この速報の主語は、「安倍首相」ではなく、「国」ではないのか?

この文章を書きながら、僕は、思いもかけないことに気づいた。僕が、テレビに違和感を感じ始めた契機となった「一杯のかけそば」は、1989年のことだった。そう、平成元年である。

テレビがテレビらしくありえたのは、「昭和」のことで、「平成」に入り、すでにテレビは、その役割を終えていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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「夏の思い出」(@井上英作)

8月12日9時、僕たちは梅田を出発した。諏訪大社に行くためでる。

2016年3月に宗像大社、宮地嶽神社に行って以来、まとまった休みがあると、僕は「聖地」に出かけている。そのベースになっているのは、「神社アースダイバー」(@中沢新一、週刊現代で連載。近々刊行予定。)の存在で、中沢新一によると、現在、神社のある場所は、元々古代の人たちが霊性を感じていた場所だということ。宗像大社をスタートに、2017年GWに対馬、2018年GWに熊野、そして今年のGWには天橋立。その合間に、熱田神宮、磐船神社、石鎚山など。なにより、宗像神社の高宮祭場(※)で味わったあの感じを味わいたく、この旅を続けている。
(※)宗像三女神の降臨地と伝えられている。沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場。

同日16時半、宿泊先のホテルに到着。お盆の渋滞に見事に巻き込まれ、休憩時間を含めて7時間半のロングドライブ。流石に疲れたので、プチ昼寝。その後、温泉に浸かり、ビールで喉を潤した後、19時より夕食。蓼科に別荘を持っていた小津安二郎が好きだったと言われている日本酒「ダイヤ菊」をいただく。夕食後、ホテルの目の前が諏訪湖のため、花火を鑑賞する。諏訪湖では、夏になると毎日800発の花火が打ち上げられる。そのピークは、8月15日の「諏訪湖花火大会」で、打ち上げ総数約40,000発と国内最大級だそうだ。今度来るときには、是非見てみたい。

8月13日 6時起床。初老の朝は早い。この時間になると自然と目が覚める。昼まで寝ていたあの頃が懐かしい。朝風呂に入り、7時半から朝食。旅行の楽しみの一つは、何と言っても朝食だと断言できる。
 
同日9時頃諏訪大社下社(秋宮)到着。大きな狛犬を両脇に配した神楽殿で参拝。この狛犬は、2m近くもある代物で、こんなに大きな狛犬を僕は観たことがない。神楽殿の四方を囲むように「御柱」が4本、天空を目指して鎮座している。この「御柱」は、「御柱祭」が大変有名で、テレビでよくその勇壮な様子が放映されている。
その後、頃諏訪大社下社(春宮)へ。いつものように参拝の準備のため手水舎の水で手を清めようとしたら、それは水ではなく、なんとお湯だった。長野県という立地を考えれば、そのお湯が温泉から湧き出たものであることは、すぐに察知できたが、なぜか僕のなかでは、このことが、心の中に引っかかった。僕は、参拝を済ませ、境外にある「万治の石仏」を目指した。「万治の石仏」は、そのフォルムに岡本太郎がほれ込んだことで有名だ。境内の敷地の西端に沿うような恰好で砥川が流れている。この川の水がとても美しく、その流れから発せられる「音楽」を聞いて歩いているだけで、ちょっとしたトランス状態に陥る。そんな状態のまま10分ほど歩くと、左に道が折れ曲がり、奥まった少しだけ広くなった場所に「万治の石仏」があった。石仏はこんな感じ。https://shimosuwaonsen.jp/wp/wp-content/uploads/c2a9ff5a551caa913ac9ff06837f8a803.jpg
この石仏をお参りするには、次のような一定のルールがあるとのこと。①正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。②石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。③正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。僕は、石仏の周りをくるくる廻りながら、昔、伊丹美術館で観た、しりあがり寿の「回転」展での中沢新一の言葉を思い出した。「世界中に回転を基にした祭事は多く存在し、このことは人類が誕生して以来の大変古い思考によるものだ。日本では、盆踊りがその典型だ。」その後、諏訪大社上社(本宮)へ移動。そして、ここでも温泉の出る手水舎を発見。境内を散策したあと、西門を出たあたりで、本宮周辺の過去の様子を描いた看板を眺める。かつて、この本宮に近接した形で寺社がたくさんあったことが分かる。しかし、今、その姿はない。かつてのお寺は、現在そば屋に変貌していたりする。明治時代、「廃仏毀釈」によってなくなってしまったのだ。「廃仏毀釈」については、内田先生のブログが、大変面白い。参考までに。http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html 

 午後からは、今回の旅のメイン、諏訪大社上社(前宮)へ。今回、諏訪への旅のきっかけの一つになったのが、同じ寺小屋ゼミ生の福丸さんから聞いた話による。その福丸さんから借りていた資料を片手に、前宮周辺を歩いてみる。中でも「山の神古墳」は、僕の興味を引き付けた。本殿の脇の山の中へ続く道を、炎天下の中とぼとぼと歩く。その道に沿って、小さな川が流れている。「万事の石仏」に至る行程と同じだ。そして、まわりには、誰もいない。静かだ。15分ほど歩いたところで、大きな鋭角のカーブを曲がったところに、小さな看板が目に入る。木々で覆われた看板には、「山の神古墳」と書かれていた。ここだった。どれが古墳なのか、よく分からなかったが、その古墳の脇には、そこだけ平坦で、鬱蒼とした木々がところどころ途絶え、空からは適度な太陽の光が差し込む「場所」があった。僕は、その「場所」に既視感を覚えた。そう、「高宮祭場」だった。何の根拠もないが、ここは、隣が古墳であることを考えると、おそらく祭場だったのだろうと思う。そんなことを考えながら、その場所に佇んでいると、嫁さんは、呼吸法を実践していた。この前宮は、八ケ岳山麓に住んでいた縄文人が移動し、この「モレア山」をご神体と崇めたところと言われている。十分その霊性を堪能したあと、次は、「守屋資料館」へ。この「モレア山」周辺に住んでいた一族は、後に「守屋氏」を名乗るようになり、神長官として、諏訪全体の霊性の保護管(@中沢新一)となった。「守屋資料館」の見学は明日にすることにし、周辺を散策する。そこで、僕は、ついに見つけた。「御左口神神社」(ミシャクジ)である。ミシャクジ信仰というのは、大変古い信仰のことで、僕は、このことを「精霊の王」(@中沢新一)で初めて知った。大きな古木に寄り添うように、大きな石があり崇められている。これを観ることができただけで、この旅の目的は、ほぼ達成したようなものだ。十二分に諏訪の霊性に触れることができ、とても満足した気持ちで、宿へ戻る。あまりに霊的なものに触れすぎたからなのか、部屋に戻ると、強烈な睡魔に襲われ、プチ昼寝。そう、僕は、よく寝る。昨日と同様、お風呂、ビールの後、夕食。昨日と同じようなメニューだったらどうしようと、いらぬ心配をよそに、その日の晩は、やや洋風で、僕たちはとても嬉しくなり、白ワインで夕食を堪能。昨晩同様、諏訪湖に打ち上げられた花火を観る。浴衣を着て花火を観るなんて、まるで「東京物語」に出てくる老夫婦みたいだと余計なことを考える。

8月14日6時 またしても、初老の朝は早い。朝のニュースを見ながら、台風の接近とあおり運転にビビリ、お昼過ぎには、大阪へ帰ることにする。
同日9時「守屋資料館」到着。今日最初の来客だったようで、スタッフの方から、いろいろ話を伺う。建築家の藤森照信のこと、守屋家のこと、御頭祭のことなど。ご丁寧な説明ありがとうございました。その後、そのスタッフの方に教えていただいた「尖石縄文考古館」へ向かう。ひととおり、館内を見学し、尖石遺跡へ。ここも、ミシャグチ信仰の痕跡が、しっかりと残っていた。古い大木に寄り添うような大きな石…。

 今回の旅を通じて、僕は、「聖地」に共通するひとつの傾向に気づいた。まずは、「音楽」の存在。聖地には必ず「音楽」が存在する。それは、川を流れる水の音であったり、鳥の鳴き声だったりする。特に、対馬での鳥の鳴き声は、どこまでも美しかった。これほどまでに、種類によって鳴き声が違うものかと気づかされるほど、実にたくさんの種類の鳥の鳴き声を堪能した。次に、地中から天に向う大きなエネルギーの存在。大仰な言い方をしたが、その抽象性を具体化したものは、自然の中にたくさん存在する。それは、山であったり、雨、雷などなのだろう。そのことを最も分かりやすく象徴しているのが、「御柱」で、まっすぐに天に向かって社殿を取り囲むように建てられている様は、まさにそのもの。また、度々見かけた、温泉の出る手水舎もその文脈で考えると、得心がいく。地下に蓄えられたエネルギーにより噴出する温泉。さらに、熊野でたくさん見た巨岩信仰もその文脈で理解できるのではないだろうか?それは、まさに、地から天への大きな運動。このような、要素を備えた場所に、古代の人たちは霊性を感じ、その場所、そのものに畏れを成したのだろうと思う。

 僕は、若いころから、ずっと音楽を聞き続けてきた。途中、高校生ぐらいからは、音楽に加え映画もたくさん観るようになった。さらに、今から10年ほど前から突然登山を始めた。しかも、北アルプスを中心とした3000m級の急峻な山たちを相手にである。僕のなかでは、この三つのことが、どこかで繋がっていることは、なんとなく直感で分かっていたのだが、「それ」が一体何なのか?僕には、分からなかった。しかし、これも偶然始まった、「聖地」巡りで、おぼろげながらこの三つを繋ぐ糊のような存在の輪郭が、浮き上がってきているのが分かる。それは、おそらく、「目に見えないもの」を感じる「宗教」のようなものだと思っている。

 そんなことを考えながら、僕たちは、諏訪を後にし、大阪へ向かった。ラジオから、NHK FM『今日は一日“YMO”三昧』が流れている。思わぬプレゼントに気をよくしながら、僕は車を運転した。あおり運転に遭遇しないことを祈りながら。

「心が風邪をひいた日」(@井上英作)

ほぼ毎日、同じ店で昼食を食している。その店は居酒屋で、750円の日替わり定食にコーヒーが付いているため、いつも近くで働くサラリーマンたちでにぎわっている。その店では、なぜかBGMがお琴で奏でられる歌謡曲で、そのことが、僕を少しだけ喜ばせてくれる。

その日、いつものように、その店で昼食を取っていると、お琴で演奏された、「想い出のセレナーデ」(1974年、@天地真理)がかかった。僕は、この曲がとても好きで、その日は、午後からずっと僕の頭の中でリフレインされた。仕事を終え、僕は、すぐにPCを立ち上げ、ユーチューブでこの曲を繰り返し聞いた。そうすると、ほとんどの人がそうだと思うが、この曲周辺の曲も聞きたくなってくる。気が付けば、僕は、太田裕美の曲ばかり聞いていた。「木綿のハンカチーフ」、「雨だれ」、「赤いハイヒール」…etc。これらの曲を聴いているうちに、僕は、以前録画した「名盤ドキュメント」のことを思い出し、「心が風邪をひいた日」(@太田裕美)を特集した回を見なおしてみることにした。この「名盤ドキュメント」というのは、NHKで不定期に放送されるもので、当時の「名盤」の録音テープを基に、その作品がいかに「名盤」であるかを、当時の制作に関わった人たちの証言で構成されている。過去には、「風待ちろまん」(@はっぴいえんど)、「ソリッドステイトサバイバー」(@YMO)、「ひこうき雲」(@荒井由美)などが取り上げられ、いつも大変興味深く観ている。

ロック少年になる前の僕は歌謡曲小僧だった。テレビで放映される歌謡番組は、ほとんど観ていたし、それに飽き足らず、ラジオでも歌謡曲を聴いていた。そんな僕にとって、一番のお気に入りは、太田裕美だった。僕は、太田裕美の歌が大好きだった。いや、正確に言うなら、太田裕美が歌い上げる、作詞家松本隆の世界観に僕は魅了された。

「心が風邪をひいた日」は、太田裕美の3枚目のアルバムで、彼女の代表作「木綿のハンカチーフ」が収録されている。いろいろなファン、制作者が、このアルバムの凄さについて、熱く語り合っていた。しかし、どのコメントも決して的は外れてはいないものの、なにかしっくりとこなかった。子供のころの僕は、どうしてこれほどまでに、太田裕美が歌い上げる作詞家松本隆の世界観に魅了されたのか?。そして、数あるラブソングの中から、どうして太田裕美の作品だけを選択し、さらに、どういわけか、松本隆の描く「女の子」に感情移入してしまうのはなぜか?僕は、このことへの答えがほしかった。そこで、僕は、世界で僕のことを一番知っている嫁さんに、この質問をぶつけてみた。近所の居酒屋「うおのや」で、延々とどうでもいいこんな話に彼女を付き合わせ、いろいろ話をするうちに、だんだんとこの「問い」の輪郭がはっきりと見えてきた。

僕の通っていた小学校は、2年ごとにクラス替えが行われた。子供のころから、お調子者の僕は、特に、人間関係で悩んだ経験などないのだが、小学校3年生~4年生のころは、特に親しい友人がいなかったような気がする。つまりそれは、1974年~1975年のことである。今でも、鮮明に覚えている風景がある。それは、そのころの夏休みの暑い日だった。適当に誰かを誘い遊びに行こうと、何人かの同級生の家に行ったのだが、その日は、誰一人いなかった。その日は、本当に暑く、町には誰もいなくて、ゴーストタウンのような様相を見せていた。僕は、一人で、炎天下の中、どこに行くともなく、少し遠くまで行ってみたくなり、自転車で隣町まで出かけた。自転車に乗りながら、「今、自分は、世界でたった一人だけなんだ」、そう思うと、僕は大きい声を上げて泣き出しそうになった。また、そのころの冬の景色。伊丹高校のグランド沿いの道を、ぴゅーぴゅーと北風が吹いている中、ぶるぶる震えながら自転車をこいでいると、電信柱に、切り取られた段ボールに貼りつけられた、映画「ジョニーは戦場へ行った」のポスターが、くるくるとちぎれそうに、曇り空の下で舞っていた。僕は、「いちご白書をもう一度」の一節「雨に破れかけた街角のポスターに~」(@荒井由実)みたいだと思った。僕は、おそらくこのころに「孤独」というものの存在を知ったのだと思う。この「孤独」というキーワードが、この問いを解決するための大きな手掛かりだと確信し、僕は、少し興奮した。

太田裕美の歌う女の子たちは、みな等しく孤独である。「雨だれ」(1974年)では、「ひとり、雨だれはさみしすぎて」と告白し、「木綿のハンカチーフ」(1975年)では、相手の恋人に「僕は、僕は帰れない」と別離を宣言され、「赤いハイヒール」(1976年)では、「さみしがり屋の打ち明け話」と自分のことを認めている。もちろん、作詞は言うまでもなく、松本隆である。

松本隆は、はっぴいえんどを解散後、ドラマーとしてではなく、作詞家として生きていく道を選んだ。以前、何かで、その「転換」について、周りでは、随分と非難され、たくさんの人たちが去っていったというのを聞いたことがある。太田裕美の仕事は、プロの作詞家としてごく初期のものである。当時の、松本隆の「孤独」がいったいどれほどのものだったかは、本人にしか分からないが、相当なものだったろうと容易に推測できる。松本隆は、その孤独を、「女」になる直前の「少女」を通じて表現した。僕は、どうやら、問いの立て方を間違っていたようで、僕は、「恋する女」に感情移入してしまっていると思い込んでいたが、そうではなくて、「孤独な少女」に感情移入していたのである。「少女」と「少年」という、大人と子供の間にある、ほんのわずかな瞬間を、「孤独」を媒介として、僕は、松本隆の世界にアクセスしていたのである。そして、このことが、僕という人格の基礎を作り上げたのである。

 

 

 

「しぇきなべいびぃ」(@井上英作)

 忙しい。本当に忙しい。僕は、これほどまでの忙しさを、かつて経験したことがない。会社の親しい先輩も、僕のそんな様子を見て、「忙しいそうやな?」と声をかけてくれた。「めちゃくちゃ忙しいんです。サラリーマンになって一番忙しいんです。」と答えると、「今までに味わってない方が、問題ちゃう。」と冷たく突き返された。そんな忙しい毎日を送っているので、毎日ヘトヘトになって帰宅している。先日も、いつものように疲れ果て、晩ご飯を食べると、強烈な睡魔に襲われ、21時から1時間ほど寝てしまった。本格的に寝ようと、ベッドに入ったが、全然眠れない。暫くして眠るのを諦めた僕は、本を読むことにした。本を読もうと決めた瞬間、本棚に目を向け、僕の目に止まったのは、中島らもの追悼を特集した雑誌だった。
 僕は、20代のころ、むさぼるように中島らもの本を読んだ。中島らもの描く切なさに、僕は惹かれた。改めて、その雑誌を読んでみると、中島らもが憎悪していたのが、権威だったのがよくわかる。僕も、この年になっても権威的なものが大嫌いで、むしろ、歴史から置き去りにされそうな「こと」や「もの」に、ついつい目がいってしまう。こればかりは、性分としかいいいようがない。そんな眠れない夜を過ごし、翌朝、いつものように起床し、歯を磨きながら、テレビをぼんやり見ているとある訃報を知ることになる。内田裕也だった。   
 内田裕也に対する特別な思い入れは、まったくない。でも、なぜか、少しショックだった。自分でも、一体何にショックを受けているのか、分からなかったのだが、昨晩、ベッドの中で読んだ中島らものことと内田裕也が、僕の中で繋がった。彼らは、僕より一回り以上年上の人たちで、反骨なところが、共通している。反骨というのは、つまり、「ロック」なことである。しかし、大変残念なことに、「ロック」な人たち、つまり、この世代の人たちが、少しづつこの世からいなくなり始めている。僕は、内田裕也の死に、その寂しさを募らせ、少なからずショックを受けたのだろう。
 僕が、初めて、内田裕也のことを知ったのは、大晦日の「ニューイヤーズロックフェスティバル」をテレビで観たときだったような気がする。その時の出演メンバーは、記憶は定かではないが、ARB、アナーキーなどが出演していたように思う。当時の僕は、イギリスの音楽にかぶれていたので、特に印象にも残らなかった。むしろ、僕にとって大きく内田裕也を印象付けられたのは、皮肉にも音楽ではなく、映画だった。以前投稿した「私的「1980年代日本映画ベスト・テン」」にも次のように書いた「この本(キネマ旬報特別号)のなかでの映画評論家等のアンケートを見てみると、内田裕也作品がたくさんノミネートされている。本作(「十階のモスキート」)以外に、「水のないプール」、「嗚呼!女たち 猥歌」、「コミック雑誌なんかいらない!」が選ばれている。特に、僕は、内田裕也自身に何の思い入れもないが、80年代の日本映画において、彼の果たした役割は無視できない。日本映画がどんどん衰退していくなかで、そのことを逆手に取って、内田裕也は、崔洋一(十階のモスキート)、滝田洋二郎(コミック雑誌なんかいらない!)などの新しい才能を開花させていく一方、衰退していく「新しかった」才能、若松孝二(水のないプール)、神代辰巳(嗚呼!女たち 猥歌)への愛情も決して忘れていない。そんな時代の狭間で、引き裂かれそうな思いのなか、内田裕也は本来の音楽ではなく映画の世界にこの10年ほど深くコミットしている。その苦悩が、一体どういうものだったのか、僕には想像できない。だから、内田裕也演じる登場人物は、どの作品においても、暗くて暴力的なのだ。この時代にしか現れなかったであろう俳優だと思う。」
 ミュージシャンとしての内田裕也のことを、僕は、殆ど知らない。映画「嗚呼!女たち 猥歌」の中で、歌っているのを聞いたぐらいのものだ。下手だった。おまけに声量がない。そのことは、妻の樹木希林もよく知っていて、「裕也さんは、歌が下手なのね。」と生前に言っている。しかも、長いキャリアの割には、ヒット曲も一曲もない。それでも、彼は、最後まで一定の存在感を示した。それは、彼の「才能を見出す才能」によるものではないだろうか?彼は、沢田研二を見出し、「フラワートラベリンバンド」をプロデュースし、映画監督の崔の洋一、滝田洋二郎を世に送り出した。
 これと言って、特に才能のない僕にも、唯一、人より優れていると自負していることがある。それは、新しい才能を発見することだ。そのことにおいては、僕と内田裕也は、同類と呼べるかもしれない。しかし、僕と内田裕也が決定的に違うのは、その立場の違いだろう。内田裕也は、ものを作ることを生業としたが、僕は、そういう道を選ばなかった。というより、選ぶだけの才能が僕にはなかった。同じアーティストとして、プロデューサー的立場に甘んじた、内田裕也の苦悩を、僕は想像することさえできない。
 内田裕也は、しばしば「ジョニーBグッド」をライブで歌っていた。言うまでもなく、ロックンロールの定番である。なぜ、内田裕也は、この曲ばかり歌い続けたのか?僕には、彼の歌う「ジョニーBグッド」が、なんとも虚しく響くのである。

「追悼 橋本治」(@井上英作)

橋本治が亡くなった。昨晩、内田先生のツイートによって知った。

初めて、橋本治のことを知ったのは、「桃尻娘」(1978年)が世間で話題になっている頃だったので、僕は、中学生だった。「桃尻娘」のことは、日活ロマンポルノとして映画化されていたので、「そういう」作品だと思っていた。その頃、あるテレビ番組(番組名は覚えていない)を見ていると、童顔で大柄な男が画面に映っていた。橋本治だった。テレビの画面に映し出された橋本治は、当時セーターの制作に熱心で、セーターの制作がいかに楽しいかを滔々と語り、デビッド・ボウイの顔を一面に描いた彼の編んだセーターは、異様だった。「変な人」というのが、僕の第一印象である。しかし、音楽至上主義者だった僕は、デビッド・ボウイを描いているという、たったそれだけで、勝手に橋本治にシンパシーを覚えた。

その後、どういうきっかけで、橋本治の本を読み始めたのかは、よく覚えていない。確か「恋愛論」か「デビッド100コラム」だったよう気がする。読んでみて、僕は驚いた。どうすれば、これほどまでに、正確かつ的確に物事を捉えることができるのか。そして、その捉えたものを平易な言葉で表現する橋本治の知性に、僕は魅了され憧れた。簡単なことをわざと難しい言葉で語りたがる人たちは、この世にごまんといるが、世界あるいは人間の複雑な仕組みや構造を平易な言葉で表現する人は、残念ながらあまりこの世には存在しない。橋本治の著書の中には、世界の本質を言い当てた言葉が散りばめられていて、その言葉たちは、今でも僕の「核」のようなものとして、下腹部あたりに、でんと鎮座している。どの著作に書かれていたか覚えていないし、また、正確さは欠くが、次のような言葉たちだ。「だから、田舎者は嫌いだ。」、「怠惰はいけない。」、「世の中には二種類の人間しかいない。それは「分かっている人」と「分かっていないひと」だ。」、「男と女は、すれ違うことによって、初めて等価になる。」、「人は恋愛を通じて、自分の闇と対峙する。」…etc。どうすれば、このようにうまく表現できるのだろうか?

僕ごときのような人間が、偉そうに言うまでもないが、橋本治は「考える人」である。橋本治の著作を読んだ人なら分かると思うが、橋本治は、その著作を通して一つのトピックについて考え始める。そして、その考えていく過程を、それをそのまま文章に変換していく。つまり、もし、橋本治の作品に主題があるとするならば(もちろん、そんなものはないのだが…)、それは、考えるという行為そのものだと言っていいだろうと思う。圧巻なのは、第1回小林秀雄賞を受賞した『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』だ。大変難解な内容だが、三島由紀夫という人間を、「豊穣の海」を題材に、粘り強く、丁寧に解体してくさまは、見事としかいいようがなく、どうして、僕は三島由紀夫に興味を抱かないのかも、この本を読んで、スッキリしたことをよく覚えている。

時折、僕は、このように思ったことを文章にし、ブログに投稿している。もともと文章を書くことは、嫌いではなかったので、軽い気持ちで書き始めたのだが、実際にこうして文章を書いてみて大きな発見があった。何かについて書こうと思ったとき、おおよその見取り図のようなものは、すでに頭の中で出来上がっている。しかし、毎回そうだが、8割ほど出来上がっても、そのあとが続かない。その2割を埋めるためにいつも悶々とする。そして悶々としているうちに、自分でも気づいていなかったことを書き始める。これは、なかなか面白い体験で、この2割を書くために、僕はブログに投稿しているようものだ。つまり、この2割を書くことによって、自分が何を考えていたのか、感じていたのかが、顕在化するのである。換言すれば、考えていることを書くのではなく、書くことで考え始めるということである。このことを教えてくれたのは、紛れもなく橋本治である。

一昨年の夏、「オンザロック」というテレビ番組に、珍しく橋本治が出演した。あまりに珍しかったので、僕は、録画したその番組を、そのままハードディスクに保存しておいた。今日改めてその番組を観てみたが、この番組の司会者で、40年以上も親交のある中井戸麗市(RCサクセションのギタリスト)に会いに来たような気がしてならない。そういえば、松田優作が、亡くなる直前に、テレビ番組「おしゃれ」に出演し、昔の俳優仲間である阿川泰子に、「君に会いにきた」と照れながら告白していたのを思い出した。この時点で、橋本治が自分の死期を覚悟していたのかどうか、知る由もないが、貴重な最期の映像となってしまった。さらに、昨年末、寝室を大掃除しながら本棚を整理していると、橋本治の本が、自分で認識しているよりもたくさん持っていることに少し驚いた。

僕は、追悼の意を込めて、本棚に「橋本治コーナー」を設けることにした。心よりご冥福をお祈りします。

「かっこいいとは何か その3~映画「SAVE THE DAY」公開に向けて」(@井上英作))

僕は、1977年にラジオでセックス・ピストルズの「マイ・ウエイ」を初めて聞いた。ショックだった。それ以来、僕はそのような音楽、「New Wave」周辺の音楽をずっと聴いてきた。そんな僕の音楽遍歴の到達点といえるのが、ミュートビートだった。1986年、21才のときである。しかし、バンドは、1989年に突然解散した。1989年といえば、ミュートビートが解散し、松田優作が亡くなるという、僕にとっては、ある意味節目の年で、僕のなかで、大きな何かが失われたような気がした。そんな空虚な感じのまま、時代は90年代に突入するわけだが、僕は、ミュートビートの幻影をずっと追い続けていた。

僕と同じようなことを感じていた人たちが、世の中にはたくさんいるようで、ミュートビートに影響を受けたミュージシャンが、この時期、たくさん輩出される。僕は、それらのバンドのライブを片っ端から、観てまわった。それは、そうするとことで、ミュートビートの「あの感じ」を再現したかったからだ。フイッシュマンズ(@神戸チキンジョージ、心斎橋クアトロ他)、リトルテンポ(@メトロ)、AUDIO ACTIVE(@ベイサイドジェニ-)、デタミネーションズ(@ダウン)。一方、海外に目を転じると、MASSIVE ATTACK(@IMPホール)、スミス&マイティ(@マザーホール)、ダディ・G(元MASSIVE ATTACK)(@メトロ)、神戸でフイッシュマンズを観たあと、京都まで移動し「メトロ」で観たマッド・プロフェッサー。当日来れなくなった友人のチケットを、勇気をふり絞って、いかにもその筋の人にしかみえないダフ屋のオッサンに、チケットを裁いた、アズワド(@IMPホール)など。書きながら気づいたのだが、これらの「ハコ」は、ほとんどが、すでに存在しない。僕の「クラブ」活動も、すでに過去の遺物だ。そんななか、「SILENT POETS」は、観たことがなかった。ユニット自体が、DJユニットなので、基本的にはライブをしない。その「SILENT POETS」が、25周年を記念した一夜限りのキャリア初のフルバンドライブが、渋谷「WWW」で行われた。サッカー日本代表がセネガルと対戦したあの日だ。僕は、年甲斐もなく、このライブを観に行くことにした。お金がなくライブの次の日が仕事ということもあって、「ぷらっとこだま」で行き、深夜バスで帰るという高校生のようなプランで東京弾丸ツアーを敢行した。

ライブの会場は、渋谷「WWW」という「ハコ」で、以前は、「シネマライズ」というミニシアターの先駆け的映画館として一世を風靡した。僕は、1988年、社会人になる直前の春に「汚れた血」(@レオス・カラックス)を観た。ノスタルジーに浸りながら、僕は相棒の幼馴染とライブ会場周辺を、ぶらぶらした。僕たちは、夜のミナミの街を、よくあてもなくぶらぶらしたものだ。何だか自分が20代に戻ったような気がした。

そして、ライブが始まった。一般的なバンド編成に、ストリングス3人、ホーン2人を加えた厚みのあるもので、メンバーの背後には、その演奏される曲をイメージした映像がスクリーンに写し出された。特に圧巻だったのは、「RAIN」が演奏されたときだった。ゲストにこだま和文(元ミュートビート)が登場し、いつものダークでメランコリックなこだまさんのトランペットが会場内に響き渡る。『こだまさんとのレコーディングの日、都内は大雨だった。トランペットを吹き終えたこだまさんが一服してこう言った。「曲名、RAINがいいんじゃないか?」1秒でRAINに決めた。』と「SILENT POETS」ご本人がツイートしているように、この曲は、雨の曲で、スクリーンに映し出される映像も、もちろん雨の映像だった。言葉にしてしまうと、なんとも陳腐な感じがするが、とにかくかっこよかった。『なんともいいようがないんだけど、「めちゃくちゃかっこいい」としかいいようがない。』(「東京大学「80年代地下文化論」講義」 P71@百夜書房、宮沢章夫)のである。

ライブを十分に堪能し、僕は、「SILENT POETS」のかっこよさについて、思いをめぐらせていた。僕はこれまで「かっこよさ」について考察を続けてきたが、新しいファクターを発見することができた。そのヒントは、最新アルバム「DAWN」に収録されている「Non Stoppa」という曲に隠されていた。この曲で、繰り返されるパーカッションの音、これはミュートビートの名曲「アフターザレイン」からサンプリングしたものだ。そしてこの曲を作曲したのが、2016年に亡くなった朝本浩文である。「SILENT POETS」は、ミュートビート、そして朝本浩文へのリスペクトから、このパーカッションの音を採用したのだろう。それは、取りも直さず、すでに存在しないもの(ミュートビート)、あるいは死者(朝本浩文)への深い畏敬の念によるものだと思う。そういえば、僕の好きなアーティスト、こだま和文、高橋幸宏、Bryan Ferryは、過去の名曲をよくカバーしているという共通点に、僕ははたと気づいた。彼らは、とにかくかっこいい。そのかっこよさを担保しているのは、すでにこの世に存在しないものあるいは死者への深い愛情なんだろうと思うのである。

あの奇跡的な夜の余韻も冷めやらぬうちに、あの日のライブが映画化されること、映画化に向けてクラウドファンディングを立ち上げたことを、僕は知る。僕は、なんの迷いもなく、そのクラウドファンディングに参加した。その甲斐もあったのか、映画「SAVE THE DAY」として、映画化が実現することになった。大阪では、1月26日~2月1日、シネマート心斎橋で上映される。https://films.spaceshower.jp/savetheday/

 

 

 

 

 

 

私的「1980年代日本映画ベスト・テン」(@井上英作)

1980年、僕は、15才だった。

キネマ旬報社が、創刊100周年を記念して特集を組んだ。その一つが「1980年代日本映画ベスト・テン」である。僕は、すぐに紀伊国屋書店で購入した。

僕は、80年代、つまり、15才~25才にかけて、特に10代の頃は勉強そっちのけで、イギリスの音楽をひたすら聞き、洋画、邦画を問わずに実にたくさんの映画を観た。今回の「1980年代日本映画ベスト・テン」を読んで、自分でも驚いたのだが、そこに掲載されているベスト10はもちろん圏外の作品もほとんど観ていたのである。そこで私的「1980年代日本映画ベスト・テン」を選んでみた。なお、()内は、この本でのランクである

・家族ゲーム(1)

・人魚伝説(17)

・のようなもの(29)

・天使のはらわた 赤い淫画(38)

・ときめきに死す(38)

・火まつり(46)

・それから(52)

・タンポポ(52)

・十階のモスキート(62)

・キッチン(86)

10本のうち、半分も森田芳光監督の作品を選んだ。森田監督は、1984年、弱冠34才で「家族ゲーム」、その2年後「それから」で、キネマ旬報賞日本映画監督賞を受賞するという快挙を成し遂げる。今回の本の中でも、80年代は森田の時代だったという意見が多い。音楽至上主義者だった僕に、新しい世界を教えてくれたのは、映画だった。当時よく聞いていたミュージシャンたちのインタビューでヌーベルバーグの存在を知り、ヨーロッパのアート系の映画を見始める。一方、邦画といえば、僕は東映ヤクザ映画か角川映画しか知らず、少し低く見ていた。そんな僕の偏見を見事なまでに覆したのが、「家族ゲーム」だった。僕は、映画のその自由さに驚愕した。僕は、「家族ゲーム」を機に、森田監督の大フアンになり、全作品を観た。特に、初期の作品は、どれもこれも引けを取らず、名作ばかりだ。「家族ゲーム」で、図鑑を脇に抱えながら登場する松田優作。「のようなもの」での、夜中中、東京の街をひたすら歩く志ん魚。「ときめきに死す」での冒頭の駅のシーン。「キッチン」での、あまりに美しい函館の街並み。まだまだ、森田監督の作品を観たかった。

10本のうち、池田敏春監督の作品を2本選んだ。大学生になる直前の3月の終わりに、今は亡きサンケイホールで「人魚伝説」を観た。それから年月が流れ、もう一度観てみたいと思っていたのだが、その頃には、「カルト作品」という範疇に収められ、ビデオが10,000円以上もするという事態になっていた。そして、ようやくDVDを手に入れることができ、数十年ぶりにこの作品との邂逅が実現する。先日、改めて、観てみると、今の時代の気分を象徴するかのようで、主人公のみぎわは、原発に一人立ち向かっていく。劇中、白都真里演じる主人公みぎわがつぶやく。「原発ゆうんは、どこや!。うちの人殺した原発ゆうのは、どこにおるんや!!」。本作の有名な復讐のラストシーン、公開当時は、少しくどい印象を受けたが、「巨悪」に、たった銛一本で生身の身体をさらけ出し、立ち向かう姿は、むしろ神々しささえ感じさせる。そして、「天使のはらわた 赤い淫画」である。その当時、ポルノ映画界には、有能な若い才能が、うようよと存在した。森田芳光、根岸吉太郎、周防正行、滝田洋二郎…etc。この作品は、東梅田日活に、この作品を観るためだけに行ったのを覚えている。脚本は、石井隆。そのあまりの切なさに、僕は、ポルノ映画の本来の目的を、まったくといっていいほど達成することができなかった。村上春樹は、以前、エッセイで映画の魅力について、こう言っている。観た映画のストーリーは、ほとんど覚えていないが、観た日のことの記憶は鮮明に残っていると。僕も、これらの作品を観た日のことを、なぜかいまでもよく覚えている。「人魚伝説」を観た日の夕暮れの桜橋交差点、桜橋ボールのちゃちい看板、冬とは違う春の冷たい風。「天使のはらわた 赤い淫画」を観た日の、「シェイキーズ」の店内の照明の明るさ、外に漏れてくるピザの美味しそうな匂い。そして、地下の劇場に続く東梅田日活の狭い階段。現在、東梅田日活は、すでにもうなくなっていて、コンビニに変わっている。べたべたと張られていたポルノ映画のポスターは、もうそこにはなかった。

なかなか最後まで読めない本、あるいは作家というのが、誰しも一冊や二冊はあると思う。僕の場合、それは「枯木灘」(@中上健二)である。そのあまりに濃密な雰囲気にいつも途中で負けてしまう。その中上健二が脚本を担当したのが、映画「火まつり」である。公開当時、何だかよくわからなかったが、とにかく、主演の北大路欣也の存在感が際立った。それは、「枯木灘」の主人公、秋幸のイメージと重なる。今年の春、熊野に行った。たくさん見て回った神社の一つ、神倉神社には、538段の急峻な石段があり、毎年2月6日に、「上り子」と呼ばれる参加者が、松明を手に、この石段を一気に駆け降りる。その勇壮で幻想的な様子を見て、中上健二がこのお橙祭りを「火まつり」と名付けたそうだ。熊野が持っている土地の磁力、その力を背景に紡ぎ出される中上健二の物語、それをどのように映像化したのか、もう一度この作品を観たくなった。

80年代の日本映画は、様々な業界から映画監督に進出した人たちが多かった。彼らは、「異業種監督」と呼ばれた。とりわけ、北野武、伊丹十三が有名である。僕は、伊丹十三のデビュー作「お葬式」を、三番街シネマで観た。映画の日だった。観客席は満席で、立ちながら観たのを覚えている。観終わったあとの印象は、あざとくてしたたかだなと思った。その余分な肩の力を抜いたような作風で、今でも大好きな作品が、「タンポポ」である。ラーメンウエスタンと名付けられたこの作品は、食にまつわるエッセイのような映画で、実に「かわいい」のである。そして、なにより登場人物が、全員「かわいい」。タンポポ役の宮本信子、ゴロー役の山崎努。そば屋で、もちをのどにつまらせる老人役を大滝秀治、その大滝秀治の運転手役で桜金造…etc。とりわけ一番好きなシーンは、ゴローが墨汁をたっぷりと含ませた筆で看板に「タンポポ」と書き、その看板を店の入り口に掛け、全員で嬉しそうに眺めるというものである。僕は、このシーンを見ると、「幸福」という抽象が具現化するその瞬間を感じるのである。

この本のなかでの映画評論家等のアンケートを見てみると、内田裕也作品がたくさんノミネートされている。本作以外に、「水のないプール」、「嗚呼!女たち 猥歌」、「コミック雑誌なんかいらない!」が選ばれている。特に、僕は、内田裕也自身に何の思い入れもないが、80年代の日本映画において、彼の果たした役割は無視できない。日本映画がどんどん衰退していくなかで、そのことを逆手に取って、内田裕也は、崔洋一(十階のモスキート)、滝田洋二郎(コミック雑誌なんかいらない!)などの新しい才能を開花させていく一方、衰退していく「新しかった」才能、若松孝二(水のないプール)、神代辰巳(嗚呼!女たち 猥歌)への愛情も決して忘れていない。そんな時代の狭間で、引き裂かれそうな思いのなか、内田裕也は本来の音楽ではなく映画の世界にこの10年ほど深くコミットしている。その苦悩が、一体どういうものだったのか、僕には想像できない。だから、内田裕也演じる登場人物は、どの作品においても、暗くて暴力的なのだ。この時代にしか現れなかったであろう俳優だと思う。

こと音楽の世界では、80年代は、ポスト・パンクの時代で、「何もない時代」などと当時マスコミからよく揶揄されたものだが、このように振り返ってみると、新しい才能が続出したなかなか面白かった時代だと思う。この本のなかでも、「80年代は日本映画にとって何と実り多き年だった」(@土屋好生)、「80年代に限っては外国映画より日本映画を選んでいるときのほうがワクワクした」(@夏目深雪)、「あらゆる意味で日本映画は、1980年代が一番面白いんじゃないかと率直に思う」(@森直人)、「最近、若い衆から80年代の日本映画はぶっとんでクールだと讃えられ、何も答えられなかった」(@増冨竜也)、「80年代の日本映画は1本の作品が独力で自分の世界を開拓していく爽快感があった」(@渡部実)というコメントが寄せられている。僕も、このことに深く同意する。