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「傷だらけの天使」(2017年3月1日 井上英作)

おそらく、一番、繰り返し観ているドラマである。そのドラマとは、「傷だらけの天使」のことだ。主演は、ショーケンこと萩原健一、水谷豊、岸田森、岸田今日子という個性的な俳優が脇を固めている。特に、ショーケンが好きなわけでもなく、水谷豊の熱烈なフアンでないにも関わらず再放送があると、必ずと言っていいぐらい、このドラマを繰り返し観ている。

このドラマは、1974年、つまり僕が9才の時に日本テレビ(10CH)で土曜日の22時から放映されていた。その頃の僕は、夜更かしをしたくてたまらなく、毎日のように親から早く寝るように言われては、親に隠れてこっそりと「プレイガール」を観ていたのだが、なぜか土曜日の夜に限っては、親は寛大だった。土曜日の夜のテレビのラインナップは、19時半「仮面ライダー」、20時「8時だよ!全員集合」、21時「Gメン75」と夢のようなものだった。そして22時からは「傷だらけの天使」である。

このドラマは、いまでもたくさんの記号が伝説となり、後世に伝えられている。まずは、あまりにも有名な、オープニングのシーン。井上堯之の軽快な音楽をバックに、ヘッドフォンをしながらゴーグルを付けて寝ていたショーケンが、朝、目覚めて、朝食を摂る。新聞紙をナプキン代わりに首からぶらさげ、トマトを丸ごと頬張り、牛乳瓶の先っぽを器用に吸い出して紙蓋をあけ、そして最後は、「これ」を食べる。こどもの僕には、「これ」が何なのか、さっぱりわからなかった。ようやく大人になって、これがコンビーフだということを知る。

次に、何と言ってもいつも髪をリーゼントで決めている水谷豊の存在。若い人たちにとっての水谷豊は、おそらく、ドラマ「相棒」の杉下右京だろうが、僕にとっての水谷豊は、映画「青春の殺人者」、ドラマ「俺たちの勲章」で演じた孤独な殺人犯でしかなく、この作品では、ショーケンに対していつも「アニキ~」と甘えるダメな男の役を見事に演じた。

それ以外にも、ショーケンのファッションを提供した「BIGI」の洋服、岸田今日子扮する綾部の事務所でいつもレコードプレーヤーから流れる不気味な曲「マヅルカ」(寺山修司作のNHKドラマにBGMとして使われていたらしい!!)、岸田森のカツラなど、あげればきりがない。

では、なぜ、僕はこのドラマを飽きもせず、繰り返し観るのだろうか?その理由が、僕自身にもよくわからなかった。しかし、ラカンの言葉にあるように「問いが発せられた瞬間に、すでにその答えは用意されている」のである。それは、この問いについて考え始めた途端に、答えらしきものがみつかったからだ。それは、ほんの偶然(=必然)によるものだった。

先日、この「問い」のことをぼんやりと考えながら、なにげにPCを観ていると、尊敬する映画評論家、町山智浩の「映画塾」というサイトを見つけた。そこで、映画「仁義なき戦い」について、いつもはニコニコしながら語る町山が、このときは珍しく熱く解説をしていた。町山によると、この映画は、政治の映画だそうだ。さらに町山は続ける。社会に出ると、金子信雄扮するダメな親分「山守」のような本当の「悪」が存在し、その「悪」の前にたくさんのものが失われていくことを、この映画は描いているということだった。町山は、サラリーマン経験があるそうで、そのときの経験談によると、彼は骨身を削り、一生懸命仕事をしながら、目の前の「悪」(=上司や会社)と戦ってきたが、その悪を結局倒すことができず、会社を辞めたそうだ。

僕は、この解説を聞き、目の前が急に明るくなったような気がした。

このドラマの設定では、修は中卒、亨は小卒である。大学進学率が上昇していくなかで、この二人の学歴の設定は、こどもだった僕でも違和感を覚えた。また、二人が住んでいるビルの屋上のペントハウスのようなプレハブも、近代化していく東京の高層ビルが立ち並ぶまわりの風景になじまない。さらに、このドラマは、どこか時代に取り残されたような人物がゲストとして登場し、そして、彼らはやがて消えていく。第7話「金庫破りに赤いバラを」で、川口昌は殺され、第10話「自動車泥棒にラブソングを」で、小松政男は逮捕される。第12話で、修は辰巳(岸田森)にこう言い放つ。「約束を守って死んでいった男の気持ちが、おまえには、わからないだろう!!」「あぁ、わからんね。バカな奴だ」。修は、そう言い放つ辰巳の胸ぐらをつかみ、顔をにらみつける。主人公の修(ショーケン)と亨(水谷豊)は、時代に取り残されようとしながらも、必死で動かしがたい「大きなもの」(時代、権力、悪…)に抗いながら懸命に生きている。このドラマが放映された1974年というのは、僕は実質的に戦争が終わった年だと思っている。戦後処理をめぐり、安保闘争に敗れた多くの若者の命が失われ、そして世界とつながった日本はオイルショックにより大きく傷つく。そこには、戦争に負けたかつての日本はいなかった。時代は、大きく変わり始めていたのである。

僕が、このドラマをこの年になっても繰り返し見るのは、僕の中にある、いつまでたっても消えない「こども」の部分をくすぐられるからではないだろうか。

今、BS12、火曜~金曜、夜の9時から何度目かの再放送が放送されている。今晩も、酒を飲みながら、修や亨に会えるのを楽しみにしている。

 

 

 

 

MY MUSIC PORTRAIT(荒井由美以前)(2017年1月31日 井上英作)

清道館のある門人から、CDが5枚送られてきた。僕に聞いてほしいとのこと。彼は、その前に、「META FIVE」の好きな僕に、少し鼻を膨らませながら「Dip In The Pool、知ってます?」と聞いてきた。もちろん、僕は知っていた。そのことが、悔しかったのかどうか真意は知らないが、彼はCDを送ってきたのである。そんな彼に対して、僕は自分の好きな曲を編集してCDを作り対抗しようかとも思ったが、面倒くさいので、僕が今まで聞いてきた音楽を選んでみることにした。きわめて個人的なことだが、このことで、自分のことが少しくらいわかるかもしれないとも思う。第一回目は、小学校低学年までに聞いて印象に残っているものを選んだ。

「フランシーヌの場合」(1969年) https://www.youtube.com/watch?v=Ei3l-P4oNCQ

この曲が、僕と音楽との最初の出会いである。このことは、以前、ブログに投稿した。

https://kiyoe3seidokan.wordpress.com/2015/01/15/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%81%AE%E5%A0%B4%E5%90%88%E3%80%80%E3%80%80%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%8B%B1%E4%BD%9C%EF%BC%88%E5%AE%B4%E4%BC%9A%E6%96%B9%EF%BC%89/

「時に母のない子のように」(1969年) https://www.youtube.com/watch?v=uHCxfTtUrXE

ある時期、僕のアイドルは寺山修司だった。八尾西武で「寺山修司展」を観に行き、吹田英劇やサンケイホールで「寺山修司特集」の映画を観に行き、近鉄小劇場で劇団万有引力の「奴婢訓」を観に行った。その寺山が、作詞を手掛け大ヒットした曲がこの曲。リアルタイムでこの曲を聞いたわけではないが、この当時の時代の雰囲気が、一番体現できる曲のひとつだと思う。つまり、僕はこの曲を通じて、4才の僕を追体験しているわけだ。「去りゆく一切は、比喩にすぎない」。寺山がよく引用していた言葉だ。

 

「真夜中のギター」(1969年) https://www.youtube.com/watch?v=U4z7UwmdzDQ

僕の両親は、創価学会員である。創価学会というのは、まるで会社のようによくできた組織で、その年代によって、例えば「少年部」、「青年部」などの組織を作り、会員同士の連帯感を強めさせるのである。さらに、一週間に二回ほど、座談会と称し、みんなで集まり、日蓮の教えを勉強する。僕は、子供のころ、母親によく「女子部座談会」に連れていかれた。僕は、子供ながら、強い違和感を覚えたのをよく覚えている。なぜなら、来ているおばさんたちが、どの人も幸せそうに見えなかったからだ。しかし、今になってみると、「女子部座談会」とは、今でいうママ友の集まりのようなもので、母のように、兵庫県の山奥の出身者で、知り合いの少ない人にとっては、居心地の良い共同体だったのかもしれない。その「座談会」では、時々、おばさんたちが、歌を歌った。ある晩に聞かされたのが、この曲である。いつも聞かされる創価学会の曲(そういうのが存在する)と比べて、この曲は、文学的で、繊細な感じがした。

「花嫁」(1971年) https://www.youtube.com/watch?v=no4vlbRSdro

父と母は、顔を合わせば喧嘩をしていた。子供ながら、よくもまぁ、それだけ喧嘩できるものだと感心するぐらいだった。そんな我が家が、この年の夏、初めて家族旅行に出かけた。父の勤めていた会社の保養所のあった天橋立である。その年に、この曲がリリースされたのかどうかは分からないが、この曲を聴くと、いまだに、冷房もない扇風機だけが回っている鈍行列車に揺られながら、全開にした窓から入り込んでくる潮風のことを思い出す。

「ハチのムサシは死んだのさ」(1972年) https://www.youtube.com/watch?v=xAoOH5TRsB4

アニメ「昆虫物語 みなしごハッチ」を周りの子供たちは、テレビで必死で観ていた。「ハッチがかわいそう」と涙ぐむ子さえいたが、僕は、どうしてもこのアニメに感情移入することができずにいた。僕は、それよりも、赤塚不二夫の「モーレツア太郎」の方に親近感を覚えた。ケムンパス、ニャロメ、ココロのボス、べしなどのキャラクターたちが、僕は大好きだった。話が、ずいぶん横にそれた。子供の僕にとって、この曲の歌詞など分かるはずもないが、「フランシーヌの場合」同様、明らかに「学園紛争」のことを歌ったもので、当時いかに政治的に不安定だったのかが、よくわかる。しかし、僕にとってこの曲は、ハチつながりで、あの辛気臭い「 みなしごハッチ」を想起させるものでしかない。

「学生街の喫茶店」(1972年) https://www.youtube.com/watch?v=AbPL8KdXojg

その日は、「初めて」尽くしだった。その日、両親に連れられて「初めてこだま」に乗り、姫路へ行った。姫路駅で僕たちを待っていたのは、子供ながら、どうも信用できそうにない不動産屋さんのおじさんだった。「僕、こんにちは。」と、作り笑顔で話かけられたが、僕はどうしてもそのおじさんと話す気になれなかった。僕たちは、そのおじさんの運転する車に乗り、山に連れて行かれた。父は、土地を買いに来たのである。皮肉ことに不動産屋さんになった僕は、この当時の社会的背景を理解できる。当時、田中角栄の日本列島改造論にあおられて、日本中が土地の投機ブームに沸いたのだ。そして、なぜか、父もその一人だった。

物件(山林)を見学したあと、僕たちは、姫路城を観に行った。そこで僕は、「初めて乞食(敢えてこういう表現にした)」に遭遇する。彼は、ほとんど原型をとどめていない洋服を着、髪の毛、髭の伸びきった恰好で、ごみ箱を漁っていた。僕は、怖くなり、父親の背後に隠れたが、そんな僕の様子を見て、父親は、ゲラゲラ笑った。父は、そんな人だった。それから、僕たちは、姫路駅の方に向かい、薄暗くなった繁華街の一角にあるお店に入った。「初めての喫茶店」である。店内は薄暗く、たばこの煙が充満していた。父は、その日なぜか、機嫌がよく、ウエイトレスにコーヒーを注文した。僕は、何を注文したか、まったく覚えていないが、その店でBGMとしてかかっていたのが、この曲、「学生街の喫茶店」である。そのとき、きっさてん=喫茶店であることを知った。余談だが、この曲を演奏している「ガロ」のバックバンドでドラムを叩いていたのが、僕の大好きな、高橋幸宏である。僕は、この時に、すでに、高橋幸宏と出会っていたわけだ。

番外編

「りんごの唄」 https://www.youtube.com/watch?v=OFXIXF_RYyw

いとこの結婚式の披露宴でこの曲を聞いた。場所は、たぶん、寝屋川市民会館。いとこといっても、僕は小学校低学年で、彼女は、おそらく20代だったのだろう。当時、結婚式といっても、おそらく市民会館ぐらいしか会場がなかったのだろうと推測する。その披露宴の宴席で、終盤に差し掛かったころ、出席者のひとりが、この歌をアカペラで歌い始めた。最初は、みんな、手拍子をしながら聞いていたのだが、最後は、全員で、この歌を歌っていた。子供ながら、いい光景だなと思った。

何年か前、連続テレビ小説「カーネーション」の中で、この時の光景と殆ど同じような光景を見かける。宴席で、全員がこの歌を歌っている。僕は、気になって、この曲を調べてみた。この曲は、戦後のヒット曲第1号ということだった。戦後は、まだ終わっていなかった。

 

「この世界の片隅に」(井上英作 2017年1月11日)

僕は、今日元気がない。今日、テアトル梅田で、奥さんと映画「この世界の片隅に」を観たからだ。映画が終わり、僕はことばを失った。ことばが見つからなった。僕たちは、20分ほど、お互いに押し黙ったまま、地下鉄「梅田」駅へと向かった。お腹が空いたので、阪急三番街のうどん屋に入り、店員に注文を伝え、ようやく今日観た映画について話を始めた。

僕はよい芸術作品に出会うと、決まって元気がなくなる。例えば、村上春樹の本を読んだあとなどがその典型で、お腹の中に鉛を含んだような感じが一週間ほど続き、徐々にすこしづつその鉛が溶けていく。僕は、この元気のなくなる感じを味わいたくて、良質な芸術作品を探しているといっても過言ではない。

映画「この世界の片隅に」は、敬愛する映画評論家、町山智浩を、2016年世界で一番よかったと言わしめ、僕の大好きなアーティスト、高橋幸宏、こだま和文が、わざわざ映画館に足を運んで観たということで、僕も観ないわけにはいかなかった。

この映画は、所謂「戦争映画」である。しかし、「戦争映画」といっても、例えば「地獄の黙示録」に代表されるような、兵士を描いた「戦争映画」とは全然違う。この映画は、19才の普通のどちらかというと、かなり鈍くさい女の子の眼を通して描かれた戦争だ。主人公の女の子を中心とした呉市を舞台にした、ごく普通の生活、結婚、義姉の意地悪などが、テンポよく描かれる。「世界」で戦争が始まっていようが、市井の人たちは、モンペを補修したり、料理を作ったり、井戸に水を汲みにいったりと、毎日の日常生活の方が重要で、戦争に日本が勝とうが負けようが、それほどリアリティはなかったのではないだろうか。しかし、戦争という理不尽な暴力は、どこまでも非情だった。そんな、ごく普通の人たちにも容赦なく襲い掛かってくる。主人公の女の子にとっての戦争とは、広島に落とされた原爆でもなく、8月15日にラジオから流れた玉音放送でもなく、失った右腕そのものが、戦争すべてだった。戦争は、決して一般化されることなどできるはずもなく、100人いれば100個の戦争が存在するのである。

そして、この映画のもう一つの大きな特徴は、製作費の一部をクラウドファンディングという手法を用いて資金を捻出したことにある。広告代理店、TV局など既存のメデイァからの資金を断ち切り、作家性を全面に押し出すこの手法は、今後、映画製作方法の転換に大きく寄与することになるだろう。さらに、うれしいことに、この映画は、口コミで、評判が広がり、じわじわと興行収入を伸ばしたうえ、2016年度キネマ旬報ベスト・テン第一位を、アニメ作品として28年ぶりに獲得した。僕たちは、もう、広告代理店やTV局など既存のメディアがいいと思っているものを、評価していない。むしろ、クラウドファンディングに参加した人たちの知性に敬意を表する。

安倍首相は、年初のTVのインタビューで、お正月休みの過ごし方について質問を受け、映画「海賊と呼ばれた男」を観て感銘を受けたと答えていた。「海賊と呼ばれた男」に対して、僕は何の恨みもないが、少なくとも、今、安倍首相が観ないといけないのは、この作品ではないだろうか?

自分の嗜好が偏っていることに、僕は、自覚的なつもりでいるので、自分の好きなものを、あまり人に勧めたりしないのだが、この映画は、ぜひ、一人でも多くの人に観てもらいたい。本当に、そう思う。

「Fantôme」(井上英作 2017年1月7日)

Fantôme。フランス語で「幻」、「気配」などを意味する。宇多田ヒカルの8年振りの新作のアルバムタイトルだ。

宇多田ヒカルの曲を最初に聞いたのは、1999年の冬、言わずと知れた名曲「Automatic」だった。その頃、僕は当時としては若くして管理職になり、管理職の難しさに悶々としていたころで、この曲のことは、今でもはっきりと覚えている。宇多田ヒカルの偉大さを挙げればきりがないが、僕が、最初に驚いたのは、その言葉の使い方だった。「Automatic」の出だし部分、「七回目のベルで」を「な なかいめのベ ルで」というようにことばを分解し、その意味を取っ払ってしまったのである。それ以前に、桑田佳祐が、繋がりのない言葉を繋げる手法(勝手にシンドバッドなど)により文章を解体しことはあったものの、宇多田ヒカルは、それ以前のことばの持つ意味そのものをなくしてしまった。しかも、15才という若さで。僕は、凄い人が出てきたなと、妙に感心してしまった。

そして、昨年、宇多田ヒカルは、8年ぶりに新作「Fantôme」を発表する。音楽の趣味が、とても偏っていることに自覚的な僕は、もちろん、そんなことなど知る由もないが、昨年末のTV番組「SONGS」で、このアルバムのことを知る。TV画面の向こう側で、歌を歌う宇多田は、歌詞を発するのをためらいながら、それでも、一言一言をとても大事にして、丁寧に歌っているように見えた。そこには、ことばを解体し続けた宇多田はいなかった。その番組を観て以来、年末から年始にかけて、僕たち夫婦の話題は、専ら、宇多田ヒカルのことばかりになってしまった。年越しそばをすすりながら、旧友と焼き鳥を食べながら、録画した「SONGS」を酒を飲みながら何度も見て、僕たちは、宇多田ヒカルの話ばかりをして休日を過ごした。

中でも秀逸な作品が、このアルバムの代表曲「道」である。この曲は、宇多田本人も言っているように、亡くなった母・藤圭子に捧げたものである。宇多田は、「始まりはあなただった」ということを認めた上で、サビの部分では、「lonley」と「not alone」を執拗に繰り返す。さらに、「目に見えるものだけを信じてはいけないよ」と言ったうえで、「あなたの声が聞こえる」と言い放ってみせる。言うまでもなく、この曲は、死者のことを歌った曲である。

中島らもの名著「頭の中がかゆいんだ」の中で、「「生」の反対語は「死」ではなく、「生きていない」ではないのか。「生」に対し、「死」という概念を持ち込んだために話が面倒くさくなった。」というくだりがあるが、僕もまったくそのとおりだと思う。宇多田は、この8年間の間に、、母を失い、子供を産んだ。そんな宇多田にとって、「生」と「死」は対立するものではなく等価なもので、また、不在となってしまった母(=死者)を身近に感じることで、初めて「生」を実感したのではないだろうか、僕は、そんなふうに考える。だから、宇多田には母はすでにそこにはいないから「lonley」だけど、死者の「気配」がいつもそこにあるから「not alone」なのである。母は、「気配」として、彼女にずっとつきまとうのだ。「死ぬのはいつも他人ばかり」と、寺山修司はデュシャンのこのことばをよく引用したが、宇多田にとって母は、死んでいなかったのである。

 

僕もこの年になり、身近に死を体験してきたからこそ、こういうように考えることができるようになったわけだが、宇多田ヒカルは、30代にして、このことに気づき、そして、そのことを自分のことばで表現している。

宇多田ヒカルは、「かっこいい」。

 

 

 

 

 

 

かっこいいとは何か その2

土曜日の朝、このTV番組を観てから出社している。その番組とは、「サワコの朝」である。阿川佐和子がゲストに、思い出に残っている曲を2曲選ばせ、その曲についてトークを展開するというものだ。音楽至上主義的考えの強い僕は、毎週、ゲストの選ぶ曲のセンスの悪さにがっかりして、家を出るのである。ならば、観なければいいのだが、人間というのは、そんな単純な生き物でもないらしい。

若いころ読んだ中島らものエッセイに、その人を知るためには、その人の家へ行って本棚をみればいいというようなことが書いてあった。僕もこの意見にまったく同意するとともに、さらに付け加えるなら、音楽の趣味が、その人の持っているセンスそのものだとも思っている。偏見もいいところだが。同じような番組で、「ミュージック・ポートレート」というのがあり、その番組に出演した山本耀司が、中島みゆきの曲を選んだときには、なんだか少し残念な気がした。普通だったからである。

さて、先週の「サワコの朝」のゲストは、島田順子だった。島田順子というのは、ファッションデザイナーで、僕らの世代にとっては、「いい女」が着る洋服のデザイナーとしてあまりに有名である。当時の、「いい女」は、ワンレングスに、「49AV.JUNKO SHIMADA」のロゴの入ったブティックで手に入れた紙製の大きな袋を肩からかけて、街をさっそうと歩いていたのである。そんな時代も、かつてこの国には存在した。

番組の冒頭で、阿川佐和子が島田順子のことを、「あこがれる大人」というふうに紹介した。阿川佐和子が、いくつかは知らないが、少なくとも僕よりは、たぶん年上だと思う。そんな年齢の彼女が、いまだに「あこがれる」島田順子に、僕は、俄然興味を持った。そして、この番組の中で、彼女が選んだミュージシャンは、マリアンヌ・フェイスフルとボブ・ディランだった。過去、この番組でセンスいいなと思ったのは、建築家の伊藤豊雄ぐらいだったので、彼女の趣味の良さに僕は興味を覚え、「かっこいい」と思った。

島田順子は、番組の中で、自身のファッションに対する哲学を滔々と語っていた。彼女にとってファッションとは、自己をいかに解放していくのか、その手段であると言っていた(たぶん)。僕は、目から鱗が落ちたような気がした。彼女に言わせると、自分が着たいものを気にせずに着れば、それで洋服は十分その役割を果たしているらしい。彼女は、何かを表現するためではなく、自分がいかに自由になれるかを目指して、洋服をデザインしていたのである。彼女にとって、洋服の向こう側に見えているのは、「自由」だった。

前回、同じテーマで、僕はアーティスト「こだま和文」を題材に、「かっこよさ」の定義について、表現における身体性だと私見を述べたが、今回、島田順子の話を聞いていて、そこに「自由」を加えてみたいと思う。

今まで、ずっと分からなかった「かっこよさ」の輪郭が、おぼろげながら少し見えてきたような気がする。明日も、出社前に「サワコの朝」を観てみよう。

 

「趣味は?」

 「趣味は?」

 人からよく聞かれる代表的な質問だ。いまだにお見合いの席では、この質問が発せられるのだろうか?

 僕はこの質問に対して、例えばコンパなどでは、「映画」と答えていた。本当は、「音楽」と答えたいところなのだが、自分の音楽の趣味が、あまりに偏っていることに自覚的だったので、こう答えるようにしていた。

 10代の頃のあるコンパでの会話。

 「趣味は?」
 「映画かな~」
 「へぇ~。「トップガン」観た?」
 「観てない」
 「じゃぁ、「ハスラー」は?」
 「それも観てない」
 「映画好きなんでしょう~。全然観ていないね。最近、何観たの?」
 「死霊のはらわた」

 その子は、僕と反対側に座っている、ともだちと話し始めていた。

 音楽に対する自分の偏りには自覚的だったが、映画へのそれが、そんなに偏っているということの自覚がなかったのである。若いというのは、そういうことだ。

 さて、「趣味」の話だった。その人を知る、最初の質問として、一番手っ取り早いのが、「趣味は?」だと、世間では思われているようだが、僕は、違うのではないかと思っている。実は、趣味は、その人をなにも表現していないのではないかという気さえする。それは、ロジェ・カイヨワが「いかなる富も、いかなる作品も生み出さないのが、遊びというものの特徴である。」と言っているように、遊び(=趣味)は、生産的ではないからである。以前、近所にあったスペインバルの店主の趣味は、僕と共通するところが多かった。サッカー、村上春樹、山登り、コムデギャルソン…。僕は、この人とどこまで親しくなれるのか、ワクワクしたが、それほど、親しくはなれなかった。一方、自分の周りにいる、親しい友人のことを考えてみると、ほとんど接点らしきものがない。代表的なのは、中学一年からの幼馴染。家にいることが大好きで、大酒を飲み、本を読むことの好きな僕とは対照的に、彼は家にいると気がおかしくなるそうで、宴会が大嫌いで、この年になるまで、多分、本など読んだことがない。ただ一つ、僕たちに共通しているのは音楽だが、お互い好きなミュージシャンは同じなのに、そのミュージシャンの好きな曲は、まったく一致しない。今さらながらであるが、僕と彼は、趣味でつながっていたのではなかったのである。では、何で?それは、僕と彼が過ごした膨大な時間だと思う。昔、観た映画「メイン・テーマ」(@森田芳光)の中で、桃井かおりが、嫉妬深い若い薬師丸ひろ子に向かって、こう言う。
「私にあって、あなたにないものが、あなたにはわかる?それは、私たち(桃井かおりと恋人)が過ごした時間よ。」

 おそらくだが、その人の本性が、一番露わにになるのは、趣味ではなく仕事ではないかと僕は思っている。たまに、お菓子作りが趣味のお客さんに、手作りお菓子をいただいたりすることがあるが、そのなんとも言えない「もの足りなさ」こそが、「趣味」の本質では、ないだろうか?ストリートで演奏しているバンドしかりである。「趣味」には、責任がなく、「仕事」には責任がつきまとう。だから、僕は、お金を払って、村上春樹の本を買い、こだま和文のライブを観に行くわけである。

 世の中には、奇特な人がいるもので、僕のこんなどうでもいい文章を読んでいる人がいるらしい。生身の僕のことを知らない人たちは、僕の文章を読んで、かなり気難しい人だと思っているようで、実際の僕と出会うと、あまりのバカさに困惑するそうだ。別に趣味として、このようにブログを投稿しているわけではないが、何一つ責任がないという意味では、「趣味」といえるかもしれない。

 先日、ある人から、某作家が鬱病だと聞いた。僕は、驚いた。その作家の世間的なイメージは、自由奔放な「趣味の世界に生きている人」だったからである。僕は、思った。きっとこの作家は、元々は趣味だったものを仕事にしたことにより自滅してしまったのだろう。趣味が、それほど自滅に追い込むことなどないだろうから。

 誤解してほしくないが、僕は何も「趣味」を否定しているわけでは決してない。ただ、「趣味」は、世間で思われているほど、価値のあるものではないと言っているだけである。

 どうでもいい話を、くどくど書いてしまった。なぜこんなことを僕が書き始めたかというと、朝日新聞の朝刊で毎日掲載されている、鷲田清一の「折々のことば」に、ロジェ・カイヨワの言葉を発見したからである。

「日活ロマンポルノ」

 僕が子供の頃、昭和40年代後半には、町のいたるところに映画館があった。例えば、当時、僕の住んでいたのは川西だったが、阪急宝塚線沿線にあった映画館は、駅名でいうと、梅田、十三、岡町、池田、川西能勢口(それ以降は、知らない)といった具合だ。それと同時に、町のあちらこちらに映画のポスターが、電柱にところ狭しと貼られていた。ばんばんの名曲「いちご白書をもう一度」の歌詞の一節にある「雨に破れかけた街角のポスターに~♪」(@荒井由美!)的風景そのものである。そのポスターは、刺青をした高倉健や、寅さんだったりしたわけだが、それらの映画スターに混じって、裸の女たちもたくさんいた。ポルノ映画のそれである。題名もショッキングなものが多く、「悶絶くらげ」、「貝くらべ」、「壇の浦夜枕合戦記」など、意味がわからなくても、そのいかがわしさだけは、子供の僕にも十分過ぎるほど伝わった。そんなポスターが、通学路に貼られていた、そんな時代だった。

 1960年代後半、映画産業が斜陽に向かう中、日活の取った経営判断は、「ポルノ映画」だった。低予算で量産体制を目標に掲げ、たくさんの作品が制作されたわけだが、一方で、この方法は、多くの若い才能を受け入れる場所としても機能したわけである。つまり、女の裸さえ見せておけば、映画が撮れるというもので、演出などには一切口を出さないやり方に、若い才能がたくさん集まった。松竹や東宝など、所謂大手映画製作会社にいれば、長年、監督の下で助監督を務め、監督になるのに膨大な時間がかかるこのシステムは、若い才能には、まどろっこしかったに違いない。実際、名前を挙げればきりがないが、ポルノ出身の代表的な監督といえば、森田芳光、周防正行、井筒和幸などなど、その後、一般映画で第一線で活躍する監督ばかりである。

 若いころ、飲んで電車がなくなると、行くところといえば、オールナイトの喫茶店か「ポルノ映画館」だった。ある日、梅田から終電を逃し帰れなくなった僕たちは、いつものように「東梅田日活」で一晩を過ごすことにした。その日に上映されていたのは、「変態家族 兄貴の嫁さん」というものだったが、その内容といえば、周防正行が小津安二郎に捧げたもので、小津のローアングルを多用し、セリフも小津風そのもので、僕はポルノ映画を見る目的を達成することができず、また、寝るための目的も達成されないまま、この変な映画を食い入るように観る羽目になったわけである。このように、このころの、日活ロマンポルノ映画には、才能が満ち溢れていて、この流れは、1970年代日本のアングラ文化を支え続けた、低予算でも作家性にこだわり、良質な作品を世に出し続けたATGの流れを汲んでいるといっても過言ではない。

 先日、久しぶりに「東梅田日活」の前を通った。しかし、そこには、もう「東梅田日活」の姿はなかった。中学二年生のときに、クラスメート10人で生まれて初めていったときのこと、終電を逃しては寝に行ったこと、石井隆特集を観に行ったこと、さまざまな思いがこみあげてきた。その思いとは、「社会」と敵対することでしか、自分の居場所を見いだせなかった未熟な自分と、尖がった作品を作りながらも、世間には、ただの「ポルノ映画」でしかないという作品たちと相似形をなしたものだった。

 今日、NHKBSで21時~「ロマンポルノという闘い」という番組が放送される。ワインでも飲みながら観てみようと思っている。