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「母のこと」(@井上英作)

2018年12月7日3時12分、母が亡くなった。82才だった。

12月6日21時半ごろ、映画「あゝ荒野」を観ているところに、携帯が鳴った。デイスプレイには、妹の名前が表示されていた。「もう、ダメかもしれない」。受話器越しに妹がそう言った。僕は、すぐに着替え、たまたま近くのコンビニで休憩しているタクシーを見つけた。「川西市立病院」とだけ運転手さんに告げると、その意味を察してか、100㎞近い速度のまま、30分足らずで、僕は、病院に到着した。母の様子は、見た目には、昨日と大して変わりなかったが、血圧がどんどん下がってきているとのことだった。そうこうしているうちに、嫁さんと妹が来て、三人で母の顔を眺めていた。24時近くになり、僕たち夫婦は、別の部屋で仮眠を取ることにした。日付が変わり、2時半ごろ、看護師さんに起こされた。「もう時間の問題だと思います」。すぐに病室に行くと、母の呼吸のリズムが緩慢なものになっていた。そして、最後に大きく息を吸い込むと、その吸い込んだ息を吐き出すことは、もう二度となかった。

母は、厳しい人だった。僕が幼稚園に通っていたころ、近所の悪ガキにいじめられて、ワーワー泣きながら家に帰ると、母は烈火のごとく怒り始めた。「男が、ビースカ、ビースカ泣くな!!やかましい!」。それから、僕は、人前で泣かなくなった。しかし、この日だけは、母の教えをどうしても守ることができなかった。でも、「ビースカ、ビースカ」とはならなかったので、母もきっと許してくれるだろう。

また、母は、涙もろい一面もあった。人情ものが大好きで、「松竹新喜劇」、「凡児の娘をよろしく」、「唄子・啓助のおもろい夫婦」をテレビで観ては、よく泣いていた。他人の苦労より、自身の苦労の方が、よほどつらいはずなのにと、子供ながら不思議に思い、涙をぬぐう母の横顔を、よく眺めていた。怪談も大好きで、嘘か本当か知らないが、子供のころ幽霊を見たらしい。その話を、何度も聞かされ続けた僕は、見事なまでに英才教育を受けた結果、ホラー好きになったのである。さらに母は、身も蓋もなかった。貧しかったころ、水のように薄いカルピスに不満を漏らすと、「飲んだらいっしょ」とたった一言で済ませてしまった。このように、母の性格を書き並べていて、はたと気づいた。僕そのものではないか。僕という人間を基礎付けているのは、まぎれもなく母だった。

以前、お見舞いに行ったとき、母は、僕の顔をじっと見つめながら、こう言った。「あんた、全然変わらへんな」。いくつになっても、母の前では、僕は、いつも「こども」だった。ある年のお正月に、妹が僕に、「小さいときから、本が好きだったの?」と僕に尋ねた。すると、すかさず、母が、「大学入ってからや。」と答えた。この人は、僕のことを、本当によく知っていた。そのころ、特に母と話しをすることもなかったはずなのに、その微妙な僕の変化に気づいていたのだ。

母の病気のことを知るきっかけとなったのは、4年前の父の葬儀のときだった。そのとき、風をひいているのか、母の声は、ずっと鼻声だった。僕は、医者に行くように促し、母も首にできた脂肪の塊が気になっていたようで、医者に診てもらったところ、脂肪の塊は、何ら問題なく、むしろ、鼻声の原因が、鼻孔にできた腫瘍だと診断された。ガンだった。すぐに手術でその腫瘍を摘出したのだが、今年になり同じ箇所に再発した。医者からは、もう高齢なので、打つ手がないといわれ、今年からホスピスに入院し、母は逝ってしまった。不幸中の幸いだったのは、その腫瘍は転移していなかったようで、腫瘍ができた箇所が箇所だけに、転移していると顔にその影響が出てひどい状況になったそうだが、それだけは、免れることができた。母に腫瘍のことを知らせ、転移を防いだのは、父の力によるものだと僕は思っている。父と母は、しょっちゅう喧嘩をしていて、若いころは、よくその喧嘩に僕も加勢し、父との対立をどんどん深めていった。そんな父が、4年前に亡くなった。僕は、涙の一粒も流さず、弟から随分そのことを非難されたが、葬儀のときに一番泣いていたのは、意外にも、母だった。あれだけ、父に苦労をかけられていたのに…。今回、母の遺影として、妹が選んだ写真は、2001年に二人でどこかへいったときのもので、とてもいい写真だった。ふたりとも満面の笑みを浮かべている。夫婦間のことは、その二人にしかわからないものだが、母が父のことを愛していたことに、今になって、僕は知ることになる。亡くなる直前に、母は、妹にこう言った。「お父さんに会いたい。」

葬儀が終わり、父の兄弟、つまり叔父たちと話をする機会に恵まれ、僕は、生前の父の「さまざまなこと」について、叔父たちに謝罪した。すると、思いもかけない、返答が返ってきた。「謝らないといけないのは、こちらの方だ。兄貴のことで、一番つらい思いをさせたのは、姉さんとおまえや。すまなかった」。僕は、長い間、胸のなかでつっかえていたものが、少しづつ溶解していくのを実感した。母の僕への最後の贈りものとなった。

すべてが終わり、長い3日間が終わろうとしていた。僕たちは、12月9日19時頃自宅に戻った。そして、近くにある居酒屋で、日本酒を飲みながら、母の好物だった「天ぷらうどん」を二人で食べた。

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「坂元裕二の世界」(@井上英作)

テレビを見なくなって久しい。あんなにテレビが好きだったのに…。理由は、単純明快で、面白い番組がなくなったからだ。例えば、「もーれつア太郎」のようなアニメ、「11PM」のような情報番組、「お笑いウルトラクイズ」のようなバラエティ、そして「寺内貫太郎一家」のようなドラマは、残念ながらもう過去の遺物となってしまった。そんな僕が、唯一観ているのが、脚本家「坂元裕二」のドラマである。

先日テレビ番組「仕事の流儀」(あのスガシカオの曲で始まるNHKの看板番組)を観た。番組は坂元裕二を追ったもの。ほとんど初めてのブラウン管での登場ということもあり、僕はしっかりと録画し、じっくりと番組を拝見した。

余程のドラマ好きでない限り、坂元裕二のことを知らないと思うので、簡単に紹介しておく。もっとも有名な彼の作品は、あの「東京ラブストーリー」で、最近だと「いつ恋」こと「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」とか「カルテット」が有名である。

へそ曲がりの僕は、坂元フアンだと公言しておきながら、「東京ラブストーリー」は観たことがなく、初めて彼の作品を観たのは、彼のデビュー作「同・級・生」(1989年)だった。書きながら初めて知ったのだが、「あの」1989年に「同・級・生」を観ていたことに自分でも驚いた。1989年というのは、言うまでもなく「昭和」が終わり「平成」が始まった年だが、僕にとっては、松田優作が死に、ミュートビートが解散した、大きな喪失感に苛まれていた一年だった。むしろ、そんな時期だったからこそ、僕は、この甘ったるいドラマを必死に観ていたのかも知れない。このドラマが象徴するように、坂元作品に通底しているものは、決して交わることのない男と女である。「同・級・生」における鴨居(緒方直人)とちなみ(安田成美)、「それでも、生きてゆく」の瑛太と満島ひかり、そして、「いつ恋」の有村架純と高良健吾…etc。これらの男女は、見事なまでにすれ違う。橋本治によると「男と女がすれ違うことによってメロドラマは成立し、男と女は初めて等価になる」そうだ。だとすれば、坂元が描き続けているのは、単なるメロドラマなのか?そんな単純な話ではない。

坂元は、「東京ラブストーリー」の大成功のあと、同じようなラブストーリーを描くように制作側からオファーが続き、一旦テレビの世界を離れる。彼を、再びテレビの世界に引き戻したのは、子供が出来、父親になってからだった。その復帰作とも言えるのが「Mother」である。この「Mother」は自分の子供を虐待する母親の話である。実際に子育てを経験した坂元は、その経験から「Mother」を書いた。誤解をされると困るので、敢えて補足しておくが、もちろん、僕は、虐待を肯定しているわけではまったくない。ただ、一方で「虐待はいけない」と声高に叫ぶことで、問題を解決できるとも思わない。坂元は、ドラマの途中から、主人公の母親が、どうして娘を虐待するに至ったか、その道程を丹念に描くことに方向転換したそうだ。

この作品以降、坂元は、従来のメロドラマをベースに、社会から切り離されそうな、犯罪加害者の家族、育児を放棄した母親などにスポットを当てる。番組のなかで坂元は、「すごく簡単に言うと、多数派か少数派かっていったら、少数派のために書きたい。こんなふうに思う人は少ししかいないっていう人のために書きたい」。「小さい積み重ねで人間っていうのは描かれるものだから、僕にとっては大きな物語よりも小さいしぐさで描かれている人物をテレビで観るほうがとても刺激的」と言っている。僕は、このことを聞きながら、強い既視感を覚えた。それは、村上春樹が小説を書く際に言っていたこととほぼ同義だったからである。村上春樹は、自分の好きなアメリカ文学の作家の影響を受け、できるだけ細かくデイテールを描くことによって物語を立ち上げていく。子育てを通じて、「日常」の重要性に気づいた坂元も、丹念にデイテールを細かく描いていく。まるで、それは、普段の生活のなかで零れ落ちていくものを、拾い集めていく作業だ。村上春樹の言葉を借りれば、それは「雪かき仕事」なのかもしれない。

番組では、再びテレビの世界を離れ、舞台の脚本を書く坂元を追う。その脚本の元になっているのは、弟への複雑な感情らしい。「やさしくないお兄ちゃん」だった自分への罪滅ぼしが原点にある作品だそうだ。僕にも四歳年下の弟がいる。坂元同様、僕も弟とは、いまだに上手くいっていない。だから、坂元の気持ちが痛いほど僕には分かる。

僕は、昔から、夢をかなえるような「そんな話」が、どうも好きになれない。「自己実現」という言葉が大嫌いだ。ついでに、「夢」も。「自己実現」というのは、「自己」の「実現」を阻む何かが存在し、それを取り除き、壊せば、「新たな自己」に出会えるという「物語」に過ぎないと思っている。本当にそうだろうか?それは、僕に言わせれば、自分にとって都合の悪い自己を否定しているだけなのではないだろうか。一方、坂元が描くような世界感に、僕は、どうしても共感を覚えてしまう。それは、駄目な自分、しょぼい自分、いまいちな自分、つまり、「そうありたい自己」からそぎ落とされていく「もう一人の自分」と正面から向き合い、寄り添いながら生きていく人たちの物語だからだ。ザルで水を掬うようにその零れ落ちていくものこそが、何気ない「日常」であり、すれ違い続ける「男と女」だったりする。だから坂元は、それらが零れ落ちないように、丁寧に細かく描写することにより、それらを拾い集める作業を繰り返す。

しょぼい自分を認めたり愛してくれるのは、世界中でたった一人しかいない。それは、自分自身である。しかし、そのような「雪かき」的な態度は、時に切なく、いつも哀しい。でも、僕は、そんな自分を大切にしながら生きていく、坂元の物語の主人公のような哀しい人たちが大好きだ。だから、僕は、坂元裕二の作品に惹かれるのである。

 

 

「祖父のこと」(@井上英作)

早朝、6時過ぎに携帯電話が鳴った。その日は、木曜日だったので、てっきり朝稽古に出かけた奥さまからの電話だと思い、「また、忘れものだろう」と眠たい眼をこすりながら、鳴り終わった携帯電話の画面を眺めた。違った。デイスプレイには、叔父の名前が表示されていた。ついに、その時が来てしまった。祖父が亡くなったのだろう。折り返し、叔父に電話をかけると、やはりそういうことだった。葬儀などの時間については、追って連絡するとのことだった。父の実家は、兵庫県の山奥、ドラマ「夢千代日記」で一躍有名になった「湯村温泉」にある。すでに他界した父は長男で、僕は、その父の長男ということもあり、お通夜、お葬式に参列するとなると、一泊二日の旅になるため、その日がお通夜になることも頭に入れ、湯村温線行きのバスの時刻表を確認しながら身支度を始めた。とりあえず黒のスーツに白のシャツ、ネクタイだけいつもの会社に行くときのものを締め、いつも通りに出勤した。叔父から連絡が入ったのは、13時ごろだった。お通夜は明日の18時、葬儀は明後日の10時半となった。僕は、その内容を会社に説明し、明日は早退し、明後日は会社を休むことにした。

その日は、午前中に会社で打ち合わせを行い、阪急三番街12時20分発、湯村温泉行の直通バスに乗った。舞鶴道春日ICから北近畿自動車道に入り、八鹿まで高速道路がつながったことにより、以前に比べてはるかに近くなった。湯村温泉についたのは、ちょうど3時間後の15時20分だった。父の実家に向かい、昔の風景と比べながら、湯村温泉の街をとぼとぼと歩く。途中、街のシンボル「荒湯」に立ち寄り、その脇に立っている、「夢千代像」を眺める。その銅像の横に、ドラマ「夢千代日記」の石碑があった。樹木希林も出ていたのかぁ。すっかり忘れていた。ドラマ「夢千代日記」は、1981年~1984年、吉永小百合主演のNHKで放映されたドラマである。その舞台となったのが、この湯村温泉で、脚本は、この間亡くなった早坂暁。主人公の夢千代は母親の胎内にいたとき、広島で被爆した胎内被爆者。その置屋の女将・夢千代を巡る人間模様といったところだろうか。早坂暁が、どうしてこの話の舞台に、湯村温泉を選んだのかは知らないが、余命幾ばくも無い夢千代、裏日本という表現、夜になると海鳴りが聞こえるなど、およそ陰鬱なイメージを、この湯村温泉に投影させた。外からは、この街は、そんな風に映るのだろうか?そんなことを考えながら、父の実家に着いた。玄関に入ると、出迎えてくれたのは、父の従弟のおじさんだった。従弟の結婚式以来となるため、約20年ぶりの再会である。頭が真っ白になり、更に太った姿は、最初は誰か分からなかった。部屋に上がり、お焼香を済ませ、喪主の父の弟(末っ子)に挨拶する。そうこうする内に、「親戚」が、ぞろぞろと集まり始める。父の兄弟、いとこ。祖父のいとこ、その子供。そして僕のいとこやはとこたち。そう、この狭い街には、親戚たちがたくさんいるのである。湯村のお通夜は、お坊さんを呼ばないらしく、食事が始まった。大生まれの元軍人の祖父は、派手なことや騒がしいことを好まなかったので、それこそお通夜のような宴会が始まった。子供の頃、調子に乗ってはしゃいだりしていると、よく怒られたものだ。しかし、酒が入ると、だんだんにぎやかになり、陽気な父の弟(三男)の「今日は、おやじも許してくれるやろ」の号令で、大変楽しい食事会へと移行していく。食事会も終わり、夜の湯村の街を、僕と、父の従弟たちと一緒に、宿へと向かう。雨に濡れた春来川沿いの歩道を歩きながら、僕は、小説「枯木灘」(@中上健二)のことを思い出した。

翌朝、10時30分から告別式が始まった。昨日来れなかった父の兄弟が全員揃った。中でも、父の弟(次男)は、パーキンソン病を患っているらしく、体中の筋肉が弛緩しているようで、特に首の筋肉がひどく、車いすに座りながら、ずっとうなだれたような恰好で葬儀に参列していた。最後に、喪主の父の弟(末っ子)があいさつを始めた。この叔父は、大手上場企業で専務にまで登りつめた人で、そつなく、スピーチをこなしていたのだが、最後に、祖父の簡単な経歴について話を始めた。                                   

の「本当の」祖父は、実は、この世には、すでに存在しない。昭和21年に38才という若さで亡くなっている。今回亡くなった「祖父」は、その「本当の祖父」の弟にあたる。そのことは、父から聞いていたので、知っていたのだが、詳しくは知らなかった。昨晩、そのあたりの詳しい事情を知りたくて、宿で一緒に泊まった父の弟(三男)に酔いの力も借りて、思い切って聞いてみた。ところが、その反応は、僕がまったく予想していなかったもので、父の弟(三男)は、僕のその態度に怒りを覚えたようだった。「今更、そんなことを聞くな!!」と一蹴されてしまったのである。しかし、そのもやもやが、まさに今、父の弟(末っ子)の口から語られ始めた。「祖父」は、昭和24年に、捕虜として4年間を過ごしたシベリアから復員を果たす。しかし、やっと日本に帰ってきた「祖父」を待っていたのは、夫を亡くした未亡人と、5人の子供と「祖父」の二人の親だった。この8人の生活を、どのように支えていくのか、重くて喫緊の課題がすぐ「祖父」の目の前に鎮座していたのである。そして、両親に説得され、「祖父」は、この8人の面倒を見ていくことを決心する。そして、昭和26年に父の弟(末っ子)が誕生するわけである。村上春樹は、エッセイで、父が戦争中の中国での出来事を、亡くなるまで、ついぞ一言も話さなかったという風に書いているが、「祖父」もシベリアでの出来事については、何も語らなかった。僕が知っているのは、シベリアにいたという事実だけである。日本から遠く離れた極寒の地で、「祖父」が経験した4年間というものが、一体、どういうものだったのか、僕には、まったく想像すらできない。さらに、やっと日本に帰ってきたのに、待ち受けていた、あまりに重くて生々しい現実を、どのように自身のなかで消化し、生活をしていたのか、そのことについても、同様である。一方、10才のときに父を亡くし、13才のときに戦争から帰ってきた「叔父」を「父」と呼ぶようになった、少年時代の「僕の父」が、どのような気持ちで毎日を過ごしていたのか、そのことさえも、僕には想像できない。さらに、昭和21年から昭和24年の3年間、たった一人で家族を守ってきた「祖母」の、計り知れない苦労が、一体どれほどのものだったのか。これらのあまりに重い「事実」が、僕の頭の中を駆け巡り、頭がくらくらした。それは、「戦争は悲惨だ」などという言葉では、とてもじゃないが、覆いつくすことなどできない、もっともっと大きな何かだ。そんな状況のなかで、最後のお別れで棺に入った「祖父」へ、花が手向けられた。韓国映画「国際市場で逢いましょう」のなかで、朝鮮戦争とベトナム戦争に巻き込まれていく主人公が、ポツリというセリフがある。「生まれた時代が悪すぎた」。「祖父」がそのように思っていたかどうか、僕には分からないが、世界の不条理を身をもって体現した「祖父」の人生のことを思うと、僕は、花を手向けながら、涙が止まらなかった。ふと、目をやると、父の弟(次男)の眼鏡の奥から、涙が頬を伝い流れていた。パーキンソン病のため、涙がぬぐえないのだ。僕は、時間の冷酷さに、ただただ打ちひしがれた。

 

「ヤンキーがいっぱい」(@井上英作)

「その傾向」は、子供のときから確かに存在した。幼稚園に通っていたころ、工作の時間に、僕たちだけ、工作をせずに、お互いの顔に糊を塗りたくり、はしゃいだりしていた。卒園時に、「もっとも心配な子供だった」と当時の教師が、母親に漏らしていたことを、僕は、大人になってから知る。小学生のころは、まわりの子供たちが熱中していた野球のことが大嫌いだった。中学生から大学生にかけては、イギリスのロックを聞きまくり、「変な」映画をたくさん観た。大学生の時、合コンで、女の子に「趣味は?」と聞かれた。自分の音楽の趣味が偏っていることは自覚していたので、僕は、「映画」と答えた。以下、そのときの会話。「トップガン観た?」「観ていない」「じゃあ、ハスラー2は?」「観ていない」「え~、観てないのぉ。じゃあ、最近何観たか教えて?」「死霊のはらわた」「…」。社会人になってから、同業種の宴会があった。その当時、世間では、宮崎勤の事件で持ち切りだった。特に、宮崎の部屋から押収された大量のビデオとその内容に世間は驚愕した。当然のように、その宴会でもその事件が、酒のアテとなった。僕は、酔っぱらっていたこともあり、ぽろっと、宮崎の部屋から押収されたスプラッター映画「ギニーピッグ」を自分も観たと、漏らしてしまった。場が凍りついた。翌日から、僕は「ヤバイ奴」という烙印を押されてしまった。このように、僕は、物心ついてから、何か世界に対して居心地の悪さを感じてきた。若いころは、その居心地の悪さは、「世の中は、バカばかりだ」と虚勢を張っていたのだが、ある年齢に達したとき、「そうか、自分は、やはり少し変わった奴なんだ」と、ほぼ諦めに近いような境地に至ることになってしまった。

一方で、僕は、昔からヤンキーが大嫌いだった。特に、僕らの世代は、ヤンキー全盛で、僕は、不思議とよく絡まれた。絡まれた経験のない人のために、簡単にそのシーンを再現すると、このような感じ。阪急三番街の急に人気の少なくなるようなゾーンで彼らは、獲物を待ち構えている。普通に歩いていると、後方から、急に親しげに肩を組んでくる輩が登場する。ヤンキーである。「おい!ちょっとこっち来いや」とメンチを切られ、非常階段口のような、さらに人気のいない場所へと連れ去られる。「金、出せ!!」「ない」「嘘つけぇ!!」「ない」。内心、僕は怖かったのだが、その怖さを上手く表現することができず、相手を白けさせてしまうことが多く、特に、大きな被害を被ることもなかった。僕の幼馴染などは、更に卓越した技術を発揮する。「やるんかぇ!!おぅ!」とすごまれても、「何をですか?」という超絶話法で、ピンチを切り抜けたりしてきた。しかし、この世には、ヤンキーは、ごまんといて、僕が嫌えば嫌うほど、周りに常に、彼らは存在した。そして、彼らを観察するうちに、共通した傾向があることに僕は気づいた。以下に、その傾向を列挙する。異常に仲間意識、地元意識が強い。すべての趣味が悪い。特に、音楽の好きな僕には、耐えられないセンスで、意外に彼らは、しんみりとしたバラードを好む。思い込みが激しく、人の意見に耳を傾けない。そして、マザコンで、女々しい。

この二つのことが、ある本をきっかけに、パズルのピースがかちんと合わさるように結びついた。「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」という本である。著者は、斎藤環という人で、「引きこもり」の研究者として有名な医学博士だ。僕の観察による結果については、細かく斎藤先生が分析しているので、ここでは省略する。それにしても、である。この本のなかで紹介される人とたちは、すべてと言っていいぐらい、見事なまでに僕にとって苦手な人たちで、そこに伏流しているのが、彼らの持っているヤンキー性ということに、目からうろこが落ちた。橋下徹、木村拓哉、エグザイル、相田みつお…etc。そして、「世の中の9割はヤンキーとファンシーでできている」(@根本敬)そうだ。もし、それが、本当だとしたら、僕がこの世界に対して抱いていた「心地悪さ」への説明がつく。さらに、このヤンキー性を通して、斎藤は、この本を、古典「アメリカの反知世主義」(@ホフスタッター)に倣い「日本の反知性主義」を目指したらしい。

さらに、斎藤は、こうも言っている。

「教養がないというのは、恐ろしいもので、放射能も気合いを入れれば何とかなるなどと言う発想で原発再稼働などをやられたのでは、たまったものではありません。自由と権利には責任と義務が伴うなどというフレーズも、いつの時代だったか自民党の政治家が言い出したことで、民主主義やわが国憲法の立憲主義とはズレた発想です。こういうヤンキの風潮が勢いをつけると、いろいろと世の中を動揺させるような言動が出てきますから、私たちは冷静に、近代民主主義がどのように発達し、これからどのような未来を切り開くべきか、よく考えたいものでございます。」

(季刊「SIGHT」(2013SPRING P71「自民党は、保守というよりヤンキー政党である」)

この本一冊のおかげで、今まで悶々としていたことが、自分のなかで少しずつ瓦解していくのが分かる。

ドラマ「半分 青い」(@井上英作)

ドラマ「半分 青い」が終わった。ドラマ「半分 青い」は、今年前半の「朝ドラ」の題名である。取り付く島の多かったドラマだったと思う。その島について思うところを整理してみた。

①バブル

若い方はご存知ないかもしれないが、かつてこの国には、「バブル」という「瞬間」が存在した。しかし、その「瞬間」は、あっという間にあっけなく終わりを告げる。日経平均株価は、1989年12月29日に史上最高値38,957円44銭を付け、翌年から株価は下がり続ける。「失われた10年」の始まりである。極めて個人的なことだが、この1989年に、僕の中では、何か大きなものが失われた気がした。それは、僕が今でも世界一のアーティストだと信じて止まない、こだま和文率いるダブバンド「MUTE BEAT」の突然の解散と、俳優松田優作の急死が象徴している。その時の喪失感は、かつて味わったことのないもので、そのときの感じは、今でも生々しく僕の中に残っている。

そして、このバブルを経過した後、大きく日本は変わっていったように思う。それは、戦争に負けた日本が、戦勝国のアメリカに対し今度は経済という武器で復讐を試みるのだが、その結果、最終的にはアメリカに息の根を止められてしまったからだろう。僕は、本当の敗戦は、この1989年だったのではないかと思っている。そのことのショックがあまりに大きかったのか、このバブルを検証した文献や文学がどうして存在しないのか、僕には不思議だったのだが、ようやく30年の時間を経て、ぽつぽつとバブルと向き合うようになってきた。本作においても、脚本の北川悦吏子が、ほぼ同世代ということもあり、かなり正確に当時のことを描いている。特に印象的だったのは、正人とディスコに遊びに行こうとする、律のファッションで、当時の時代の空気感が見事に描かれていた。

来年で、「平成」という時代が終わる。「失われた●年」という言い方は、あちこちで耳にする言葉だが、「平成」という時代そのものが、失い続けた時代なのかもしれない。北川悦吏子は、本作を「平成」という時代へのレクイエムとして、執筆したのではないだろうか?だから、この作品を2018年に放送することには、とても意味のあることのように思える。

②故郷

寺山修司は、映画「田園に死す」のなかで、子供時代の故郷について、劇中「これは、すべて嘘である」と言い放ち、観客を挑発した。つまりは、過去というのは、創作された物語に過ぎないというわけだ。人は、自身の過去を、自分の都合の良い過去に書き換えてしまう。どうやら人間とは、そういう生き物のようだ。

主人公スズメと律は、同じ日に生まれ、高校を卒業するまで、仲間たちと楽しく岐阜で過ごす。その仲間とは、男二人に女二人という構成で、学校の帰りには、たまり場の喫茶店で、お好み焼きを食べながら、恋愛や将来について語り合う。僕は、そんな前半の岐阜でのシーンを、自分の学生時代と照らし合わせながら観ていた。僕は、そんなシーンを懐かしいというよりは、羨ましく思いながら観ていた。なぜ、羨ましかったのか?それは、現実には、おそらく存在しないからだ。確かに、僕たちも、土曜の午後、学校の近くのお好み焼き屋で、たこ焼きを食べながら、あるいは、無料券を片手に「王将」で餃子を頬張りながら、よく延々とバカ話をしたものである。ただ、そこには、女子の存在は皆無で、いつもそこにいたのは、むさ苦しい男連中だった。男女のグループがなかったわけではないが、思春期の子供たちが、まったく、異性としての女性を気にせず付き合うことなど、到底不可能だった。そう思うと、本作における「岐阜」は、「そうあってほしかった過去、場所」ということなんだろうと思う。

一方、「そうあってほしい過去、場所」に対し、「東京」では、果てしなく冷徹で非常な現実が待っている。漫画家を夢見て上京したスズメだが、デビューを果たすも、自分の才能に限界を感じ、漫画家をやめる。その後、結婚した相手に捨てられ、シングルマザーとなる。再度、上京を果たすが、勤め先の会社経営者津曲に夜逃げされる。

この作品が、単なるご都合主義や陳腐なサクセスストーリーに陥らずに済んだのは、この「東京」を冷徹な態度で描ききったからこそ、その対比として、甘美なまでに虚構としての「岐阜」を際立たせたことによるものだと思う。

③死者の存在

最後にこのことが、僕を最も魅了したことだ。この作品では、風吹ジュン扮する、スズメの祖母のナレーションが、物語を進行させていく。もちろんこの祖母は、すでにもうこの世には、存在しない。ただ、あたかもそこに存在しているかのようにナレーションが毎回繰り返される。

物語では、スズメにとって大事な人たちが、次々に亡くなっていく。祖母、祖父、律の母、そして親友のユウコ。

本作の最後の方の回、「マザー」(スズメと律が開発したそよ風扇風機)のお披露目のスピーチで、スズメは「私たちは、生と死の境界線のようなところで生きていて、死者は、そのすぐ傍にいつもいる」というようなことを言う。僕は、この考え方を支持する。

北川悦吏子自身も、病と向き合いながらの人生のようで、そんな彼女にとって、死の存在を身近に感じていたことは、想像に難くない。

ある時、僕は暇に任せて、自分にとって大事な人たちについて、何か共通点がないかどうか考えてみた。考えてみて、自分でも想像していなかったことに気づいた。彼らに共通していたのは、死者の存在を信じているということだった。僕は何もオカルトめいたことをいっているのではなく、目に見えないものを感知し、信じることは、人にとって最も重要な要素だということだ。宇多田ヒカルの名曲「道」の歌詞「It’s a lonely road But I am not alone」といったところだろうか。

(哭声/コクソン 2017年11月1日 井上 英作)

 映画「哭声」を観た。映画「哭声/コクソン」は、「チェイサー」を監督したナ・ホンジン監督の最新作である。「チェイサー」は、レオナルド・ディカプリオが、ハリウッドでのリメイク権を獲得したほどの大作で、韓国映画の、ひとつの頂点といえるかもしれない作品だといっても過言ではないだろう。そして、「哭声」を有名にしたのが、なんといっても、國村隼の存在である。彼は、外国人(日本人!)として初めて韓国のアカデミー賞と言われている青龍映画賞で賞を得たのである。

 「哭声」は、「変な」映画である。「チェイサー」も実に変な映画で、全編、ほとんど真っ暗で、まるで、闇を見続けたような印象が強い。さて、こういった「変な」映画の解説は、僕が最も尊敬する映画評論家、町山智浩の手を借りられずにはいられない。町山智浩は、自身が運営するインターネットサイト「映画その他ムダ話」で独自の映画評論活動を行っている。その評論対象となっている作品は、邦画、洋画、時代を問わず、娯楽作品から芸術作品まで、非常に多岐にわたっていて、しかも、一回216円ととても安価で、くだらないテレビを見るより大変「役に立つ」、僕にとっては、間違いなく新しいメディアである。

 さて、映画「哭声」の話である。僕は、この作品を「変な映画」だといった。では、その「変さ」は、何によるものなのか?それは、その「ごった煮」感にあるのではないだろうか?、というのが僕の仮説である。この作品は、過去の名作ホラー映画に対するオマージュなのか、映画的記号が、ちゃんこ鍋の具材のように、ひとつの入れ物の中に詰め込まれている。人里離れた寒村で、次々と起こる謎の連続殺人事件は、横溝正史を想起させ、突然、変異する主人公の娘は、「エクソシスト」そのものだ。そして、祈祷(悪魔祓い)を行うファン・ジョンミンは、「エクソシスト」の神父に他ならない。では、この作品は、ナ・ホンジン監督の映画に対する偏愛を寄り集めただけの、ホラー映画なのか?僕は、それは、違うと思う。なぜなら、この作品は、韓国国内で観客動員700万人に迫る大ヒットとなっているからである。単なる映画への偏愛というだけでは、これだけ大衆に受け入れられる理由は説明がつかず、もっと他のところに原因があると考える方が、理にかなっているのではないだろうか。なにより、「かみ合わないたくさんのパズルのピース」(@町山智浩)により、観客を不安定にさせていく話の展開は、ナ・ホンジン監督の醍醐味だとはいえ、こんなにわけのわからない映画を、大衆が支持する理由が、僕には、どうしても理解できなかった。

 ナ・ホンジン監督へのインタビュー(@映画その他ムダ話)によると、この映画のテーマは、「神の不在」だそうだ。クリスチャンである彼にとって、この世界の不条理は、どうもキリスト教的思考では、整理がつかないらしい。だから、國村隼の存在が、最後まで確定しないまま、観客は置き去りにされ、映画は終わってしまう。そのことが、インタビューで、ナ・ホンジン監督が答えているように、「神の不在」という問題を提起しているなら、そのように思える。しかし、あえて僕は、別の解釈をこの映画に与えたいと思う。

 前回の投稿「Kホラー」において、内田センセからは、韓国ホラー映画が同じ話型に留まり続けているのは、韓国のなかで、いまだに過去を抑圧してしまったことが、昇華しきれていないのでは?というご意見をいただいたと書いた。しかし、1998年の「女高怪談」から始まった「Kホラー」は、約20年の時を経て、ようやく、昇華を始める入口に立ったのだろうと思う。そのためには、そう、定型的な物語から脱出するためには、過去の映画的記憶を引用することが必要で、その結果、映画「哭声」は、「ごった煮」感を醸成させたのだと思う。そして、その「ごった煮」感、つまり、過去への抑圧を昇華させようという運動が、韓国の多くの大衆に受け入れられたのだろうと、僕は想像する。韓国内における「移行期的混乱」(@平川克己)が、始まったのである。

 なぜ、村上春樹の本が世界性を獲得できるのか、ハルキストの僕にも、よくわからなかった。例えば、「「騎士団長殺し」ってどんな話?」と人に聞かれて、「騎士団長殺し」を読んでみたくなる答えを用意することができるだろうか?僕には、到底自信がない。しかし、僕は、この一連の「Kホラー」を観ていくことで、ひとつの答えらしきものの尻尾が少し見えてきたような気がする。文学なり映画は、ストーリーからどんどん離れていくことにより、記号に満ち溢れた物語になることで、初めて、その物語は、世界性、普遍性を獲得するのだろう。それは、「世界」とつながる最短の方法かもしれない。僕は、そんな風に考える。だから僕は、村上春樹の本を読み、デビッド・リンチの映画を見続けるのである。

 今後の、「Kホラー」に注目していきたい。

「Kホラー」(2017年10月13日、井上英作)

 2015年10月、僕は念願の「寺小屋ゼミ」生になった。「寺小屋ゼミ」とは、内田樹先生の主催するゼミのことで、元々は、内田センセが神戸女学院大学時代に、社会人向けに講義を始めたことに端を発する。ルーティンを重んじる内田センセは、その始める日時も、神戸女学院大学時代と同じ、火曜日16時40分という、カタギの人間にはなかなか参加するとのできない時間帯だったのだが、水曜日が定休の業種で働いている僕にとっては、火曜日というのは、比較的休みやすく、また、昨今の働き方を見直す世間の風潮を追い風に、ようよくゼミに参加することが可能になった。

 この世で嫌いなものの上位に、学校、あるいは教師を挙げるような僕が、なぜか休みの日に、電車で約1時間かけて、「元大学の教師」の話を聞きに行くなど、若かりし自分には、想像することさえできなかったのだが、年を取るというのは不思議なもので、今では、内田センセの前、つまり一番前の席に鎮座し、挙句の果てに、毎回質問をするなどという事態になってしまっている。こんな事態に、何より自分自身が一番驚いている。

「寺小屋ゼミ」は、内田センセの与えられたテーマに沿って、ゼミ生が発表を行うというもの。2017年度のテーマは、「東アジア」。「東アジア」の何れかの国の政治、経済、文化…について考察するという内容である。僕が今回発表をするにあたって選んだ国は、韓国。選んだ理由は、数年前に朝日新聞の記事で知った、韓国の自殺率の高さにショックを受けたからだった。その年、OECD加盟国で、自殺率第一位が韓国、そして第二位が日本だった。韓国の自殺率の高さについては芸能人の自殺など、ある程度の認識はあったが、ここまでの高さだとは、思ってもみなかった。続いて日本だったことも、さらにショックに追い打ちをかけた。この事実と、当時、僕が集中的に観ていた韓国映画のあまりに生々しい暴力描写とが、僕のなかでひとつにつながった。韓国映画について調べれば、韓国が内在している「闇」がわかるような気がした僕は、まずは、韓国映画の歴史について調べようと思い、仕事帰りに、紀伊国屋梅田本店の映画コーナーに立ち寄ってみた。すると、何と一冊も韓国映画史に関する本がなかったのである。「まぁそんなこともあるさ」と虚勢を張り、西梅田のジュンク堂本店にも行ったが、徒労に終わってしまった。僕は、絶望的な気分で家に帰り、PCでamzonの画面を開き、期待もせず「韓国映画史」と入力してみた。すると、タイトルもそのまま、「韓国映画史」(キネマ旬報社)という本がヒットした。やれやれ。

 この「韓国映画史」という本は、なかなか興味深いもので、中でも、チョン・ソンイルという映画評論家の分析に、僕は興味をひかれた。彼によると、韓国映画のベースにあるのは、メロドラマで、それが変形したものとしてホラー映画、アクション映画が存在するというものだった。この分析を読んだとき、僕は、自分の大きなミスに気が付いた。僕は、韓国ホラー映画を一本も観ていなかったのである。しかし、同時にこのことは、今回の発表について、大きな方向が見えてきたような気がして、僕は少し興奮した。

 早速、僕は、ホラー映画に関する文献を集めた。これらの文献を読み漁ってみて、僕は、気づいた。僕は、ほとんどいっていいほど、文献に紹介されている「死霊のはらわた」、「悪魔のいけにえ」、「ブレインデッド」…など、ほとんどのホラー作品を観ていたのである。僕は、物心ついてから怖いものが大好きで、その延長としてホラー映画もたくさんみてきた。正確に言えば、実は、僕は映画ファンではなく、ホラー映画フアンなのかもしれない。僕は、慌ててそれらの文献で紹介されている韓国ホラー映画を、職場の近くにある「TSUTAYA」で借り、毎晩のように、韓国ホラー映画を観た。もし、職場近くで猟奇殺人事件が起こり、「TSUTAYA」で僕のレンタル履歴を調査されたら、僕は、間違いなく容疑者の一人になっていたであろう。

 韓国ホラー映画を観ていくうちに、そこには、大きな特徴と傾向が見て取れた。まず、どの作品も話型が同じだということ。そして、映画内に散りばめられた記号が同じということである。例えば、ハリウッド映画は、実にたくさんのジャンルのホラーを制作している。ゾンビもの、SFもの、猟奇殺人もの…などなど。挙句の果てに、最近では、明らかにネタ不足の様相を呈し始めている。「エイリアン」VS「プレデター」、あるいは、「ジェイソン」VS「フレディ」と、いくところまでいった感さえある。このように、アメリカ人が、ありとあらゆるものを恐怖の対象としているのに対し、韓国人は、同じ話型、同じ記号に恐怖を感じているのである。具体的には、次の記号たち、「大変美しい女」、「姉妹」、「悩む姉」、「殺され(そうになる)る妹」、これらを組み合わせることによって、韓国ホラー映画の話型は、大体成立する。例えば、韓国ホラー映画の代表作「箪笥」を例に取ってみる。継母(=「大変美しい女」)にいじめられる「姉妹」。「殺された妹」の亡霊に「困惑する姉」。他のホラー作品も、ほぼ同様に、これらの記号を少しアレンジすることで物語が成立する。僕は、このことが一体何を意味するのか、その答えを知りたかった。悶々とした日が、何日も続いた。そんなとき、以前、四方田犬彦のことを、知人から聞いていた僕は、彼の著書「怪奇映画天国アジア」を、藁をもすがる思いで読んでみることにした。その中に、フロイトの「不気味なもの」という論文が紹介されていた。不気味とは、ドイツ語でunheimlichというそうで、「heimlich」ということばを「un」で打ち消しているとのことだった。「不気味なものとは、慣れ親しんだもの、馴染みのもの(=heimlich)であり、それが抑圧された後に回帰してきたもののことである」(「ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの」2011年、フロイト、中山元訳、光文社、P187 )と定義されていた。

 僕は、ひとつの仮説を立てた。韓国ホラー映画がジャンルとして確立されたのは、1998年の「女高怪談」からである。そしてこの作品は、韓国で大ヒットし、以後シリーズ化されている。奇しくも1998年といえば、韓国がIMF危機に遭遇した翌年である。日本の植民地から解放され、その後長く続く軍事独裁政権を経て、ようやく民主化を果たした韓国が、通貨危機という最大の国難に見舞われる。その国難を回避するために、それまでのもの(文化、伝統…)をかなぐり捨てて、大きく舵を切った結果、失うものも相当大きかったに違いない。そのことが抑圧され、恐怖という形で回帰しているのだろう。つまり、韓国ホラー映画に散りばめられた記号たち、「大変美しい女」とは、「慣れ親しんだ、馴染みのある」かつての文化や思想のことで、「妹」とは、受け入れ難い「新しい思想」を指し、最終的には、物語のなかで「殺される」のである。

 この発表を終え、内田センセからは、このように韓国ホラー映画が同じ話型に留まり続けているのは、韓国のなかで、いまだに過去を抑圧してしまったことが、昇華しきれていないのでは?というご意見をいただいた。それから、僕はずっとそのことを考えつづけていた。

 そして、あの「チェイサー」の監督ナ・ホンジンの最新作 『哭声/コクソン』を、僕は、観ることになるのである。