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「この世界の片隅に」(井上英作 2017年1月11日)

僕は、今日元気がない。今日、テアトル梅田で、奥さんと映画「この世界の片隅に」を観たからだ。映画が終わり、僕はことばを失った。ことばが見つからなった。僕たちは、20分ほど、お互いに押し黙ったまま、地下鉄「梅田」駅へと向かった。お腹が空いたので、阪急三番街のうどん屋に入り、店員に注文を伝え、ようやく今日観た映画について話を始めた。

僕はよい芸術作品に出会うと、決まって元気がなくなる。例えば、村上春樹の本を読んだあとなどがその典型で、お腹の中に鉛を含んだような感じが一週間ほど続き、徐々にすこしづつその鉛が溶けていく。僕は、この元気のなくなる感じを味わいたくて、良質な芸術作品を探しているといっても過言ではない。

映画「この世界の片隅に」は、敬愛する映画評論家、町山智浩を、2016年世界で一番よかったと言わしめ、僕の大好きなアーティスト、高橋幸宏、こだま和文が、わざわざ映画館に足を運んで観たということで、僕も観ないわけにはいかなかった。

この映画は、所謂「戦争映画」である。しかし、「戦争映画」といっても、例えば「地獄の黙示録」に代表されるような、兵士を描いた「戦争映画」とは全然違う。この映画は、19才の普通のどちらかというと、かなり鈍くさい女の子の眼を通して描かれた戦争だ。主人公の女の子を中心とした呉市を舞台にした、ごく普通の生活、結婚、義姉の意地悪などが、テンポよく描かれる。「世界」で戦争が始まっていようが、市井の人たちは、モンペを補修したり、料理を作ったり、井戸に水を汲みにいったりと、毎日の日常生活の方が重要で、戦争に日本が勝とうが負けようが、それほどリアリティはなかったのではないだろうか。しかし、戦争という理不尽な暴力は、どこまでも非情だった。そんな、ごく普通の人たちにも容赦なく襲い掛かってくる。主人公の女の子にとっての戦争とは、広島に落とされた原爆でもなく、8月15日にラジオから流れた玉音放送でもなく、失った右腕そのものが、戦争すべてだった。戦争は、決して一般化されることなどできるはずもなく、100人いれば100個の戦争が存在するのである。

そして、この映画のもう一つの大きな特徴は、製作費の一部をクラウドファンディングという手法を用いて資金を捻出したことにある。広告代理店、TV局など既存のメデイァからの資金を断ち切り、作家性を全面に押し出すこの手法は、今後、映画製作方法の転換に大きく寄与することになるだろう。さらに、うれしいことに、この映画は、口コミで、評判が広がり、じわじわと興行収入を伸ばしたうえ、2016年度キネマ旬報ベスト・テン第一位を、アニメ作品として28年ぶりに獲得した。僕たちは、もう、広告代理店やTV局など既存のメディアがいいと思っているものを、評価していない。むしろ、クラウドファンディングに参加した人たちの知性に敬意を表する。

安倍首相は、年初のTVのインタビューで、お正月休みの過ごし方について質問を受け、映画「海賊と呼ばれた男」を観て感銘を受けたと答えていた。「海賊と呼ばれた男」に対して、僕は何の恨みもないが、少なくとも、今、安倍首相が観ないといけないのは、この作品ではないだろうか?

自分の嗜好が偏っていることに、僕は、自覚的なつもりでいるので、自分の好きなものを、あまり人に勧めたりしないのだが、この映画は、ぜひ、一人でも多くの人に観てもらいたい。本当に、そう思う。

「Fantôme」(井上英作 2017年1月7日)

Fantôme。フランス語で「幻」、「気配」などを意味する。宇多田ヒカルの8年振りの新作のアルバムタイトルだ。

宇多田ヒカルの曲を最初に聞いたのは、1999年の冬、言わずと知れた名曲「Automatic」だった。その頃、僕は当時としては若くして管理職になり、管理職の難しさに悶々としていたころで、この曲のことは、今でもはっきりと覚えている。宇多田ヒカルの偉大さを挙げればきりがないが、僕が、最初に驚いたのは、その言葉の使い方だった。「Automatic」の出だし部分、「七回目のベルで」を「な なかいめのベ ルで」というようにことばを分解し、その意味を取っ払ってしまったのである。それ以前に、桑田佳祐が、繋がりのない言葉を繋げる手法(勝手にシンドバッドなど)により文章を解体しことはあったものの、宇多田ヒカルは、それ以前のことばの持つ意味そのものをなくしてしまった。しかも、15才という若さで。僕は、凄い人が出てきたなと、妙に感心してしまった。

そして、昨年、宇多田ヒカルは、8年ぶりに新作「Fantôme」を発表する。音楽の趣味が、とても偏っていることに自覚的な僕は、もちろん、そんなことなど知る由もないが、昨年末のTV番組「SONGS」で、このアルバムのことを知る。TV画面の向こう側で、歌を歌う宇多田は、歌詞を発するのをためらいながら、それでも、一言一言をとても大事にして、丁寧に歌っているように見えた。そこには、ことばを解体し続けた宇多田はいなかった。その番組を観て以来、年末から年始にかけて、僕たち夫婦の話題は、専ら、宇多田ヒカルのことばかりになってしまった。年越しそばをすすりながら、旧友と焼き鳥を食べながら、録画した「SONGS」を酒を飲みながら何度も見て、僕たちは、宇多田ヒカルの話ばかりをして休日を過ごした。

中でも秀逸な作品が、このアルバムの代表曲「道」である。この曲は、宇多田本人も言っているように、亡くなった母・藤圭子に捧げたものである。宇多田は、「始まりはあなただった」ということを認めた上で、サビの部分では、「lonley」と「not alone」を執拗に繰り返す。さらに、「目に見えるものだけを信じてはいけないよ」と言ったうえで、「あなたの声が聞こえる」と言い放ってみせる。言うまでもなく、この曲は、死者のことを歌った曲である。

中島らもの名著「頭の中がかゆいんだ」の中で、「「生」の反対語は「死」ではなく、「生きていない」ではないのか。「生」に対し、「死」という概念を持ち込んだために話が面倒くさくなった。」というくだりがあるが、僕もまったくそのとおりだと思う。宇多田は、この8年間の間に、、母を失い、子供を産んだ。そんな宇多田にとって、「生」と「死」は対立するものではなく等価なもので、また、不在となってしまった母(=死者)を身近に感じることで、初めて「生」を実感したのではないだろうか、僕は、そんなふうに考える。だから、宇多田には母はすでにそこにはいないから「lonley」だけど、死者の「気配」がいつもそこにあるから「not alone」なのである。母は、「気配」として、彼女にずっとつきまとうのだ。「死ぬのはいつも他人ばかり」と、寺山修司はデュシャンのこのことばをよく引用したが、宇多田にとって母は、死んでいなかったのである。

 

僕もこの年になり、身近に死を体験してきたからこそ、こういうように考えることができるようになったわけだが、宇多田ヒカルは、30代にして、このことに気づき、そして、そのことを自分のことばで表現している。

宇多田ヒカルは、「かっこいい」。

 

 

 

 

 

 

かっこいいとは何か その2

土曜日の朝、このTV番組を観てから出社している。その番組とは、「サワコの朝」である。阿川佐和子がゲストに、思い出に残っている曲を2曲選ばせ、その曲についてトークを展開するというものだ。音楽至上主義的考えの強い僕は、毎週、ゲストの選ぶ曲のセンスの悪さにがっかりして、家を出るのである。ならば、観なければいいのだが、人間というのは、そんな単純な生き物でもないらしい。

若いころ読んだ中島らものエッセイに、その人を知るためには、その人の家へ行って本棚をみればいいというようなことが書いてあった。僕もこの意見にまったく同意するとともに、さらに付け加えるなら、音楽の趣味が、その人の持っているセンスそのものだとも思っている。偏見もいいところだが。同じような番組で、「ミュージック・ポートレート」というのがあり、その番組に出演した山本耀司が、中島みゆきの曲を選んだときには、なんだか少し残念な気がした。普通だったからである。

さて、先週の「サワコの朝」のゲストは、島田順子だった。島田順子というのは、ファッションデザイナーで、僕らの世代にとっては、「いい女」が着る洋服のデザイナーとしてあまりに有名である。当時の、「いい女」は、ワンレングスに、「49AV.JUNKO SHIMADA」のロゴの入ったブティックで手に入れた紙製の大きな袋を肩からかけて、街をさっそうと歩いていたのである。そんな時代も、かつてこの国には存在した。

番組の冒頭で、阿川佐和子が島田順子のことを、「あこがれる大人」というふうに紹介した。阿川佐和子が、いくつかは知らないが、少なくとも僕よりは、たぶん年上だと思う。そんな年齢の彼女が、いまだに「あこがれる」島田順子に、僕は、俄然興味を持った。そして、この番組の中で、彼女が選んだミュージシャンは、マリアンヌ・フェイスフルとボブ・ディランだった。過去、この番組でセンスいいなと思ったのは、建築家の伊藤豊雄ぐらいだったので、彼女の趣味の良さに僕は興味を覚え、「かっこいい」と思った。

島田順子は、番組の中で、自身のファッションに対する哲学を滔々と語っていた。彼女にとってファッションとは、自己をいかに解放していくのか、その手段であると言っていた(たぶん)。僕は、目から鱗が落ちたような気がした。彼女に言わせると、自分が着たいものを気にせずに着れば、それで洋服は十分その役割を果たしているらしい。彼女は、何かを表現するためではなく、自分がいかに自由になれるかを目指して、洋服をデザインしていたのである。彼女にとって、洋服の向こう側に見えているのは、「自由」だった。

前回、同じテーマで、僕はアーティスト「こだま和文」を題材に、「かっこよさ」の定義について、表現における身体性だと私見を述べたが、今回、島田順子の話を聞いていて、そこに「自由」を加えてみたいと思う。

今まで、ずっと分からなかった「かっこよさ」の輪郭が、おぼろげながら少し見えてきたような気がする。明日も、出社前に「サワコの朝」を観てみよう。

 

「趣味は?」

 「趣味は?」

 人からよく聞かれる代表的な質問だ。いまだにお見合いの席では、この質問が発せられるのだろうか?

 僕はこの質問に対して、例えばコンパなどでは、「映画」と答えていた。本当は、「音楽」と答えたいところなのだが、自分の音楽の趣味が、あまりに偏っていることに自覚的だったので、こう答えるようにしていた。

 10代の頃のあるコンパでの会話。

 「趣味は?」
 「映画かな~」
 「へぇ~。「トップガン」観た?」
 「観てない」
 「じゃぁ、「ハスラー」は?」
 「それも観てない」
 「映画好きなんでしょう~。全然観ていないね。最近、何観たの?」
 「死霊のはらわた」

 その子は、僕と反対側に座っている、ともだちと話し始めていた。

 音楽に対する自分の偏りには自覚的だったが、映画へのそれが、そんなに偏っているということの自覚がなかったのである。若いというのは、そういうことだ。

 さて、「趣味」の話だった。その人を知る、最初の質問として、一番手っ取り早いのが、「趣味は?」だと、世間では思われているようだが、僕は、違うのではないかと思っている。実は、趣味は、その人をなにも表現していないのではないかという気さえする。それは、ロジェ・カイヨワが「いかなる富も、いかなる作品も生み出さないのが、遊びというものの特徴である。」と言っているように、遊び(=趣味)は、生産的ではないからである。以前、近所にあったスペインバルの店主の趣味は、僕と共通するところが多かった。サッカー、村上春樹、山登り、コムデギャルソン…。僕は、この人とどこまで親しくなれるのか、ワクワクしたが、それほど、親しくはなれなかった。一方、自分の周りにいる、親しい友人のことを考えてみると、ほとんど接点らしきものがない。代表的なのは、中学一年からの幼馴染。家にいることが大好きで、大酒を飲み、本を読むことの好きな僕とは対照的に、彼は家にいると気がおかしくなるそうで、宴会が大嫌いで、この年になるまで、多分、本など読んだことがない。ただ一つ、僕たちに共通しているのは音楽だが、お互い好きなミュージシャンは同じなのに、そのミュージシャンの好きな曲は、まったく一致しない。今さらながらであるが、僕と彼は、趣味でつながっていたのではなかったのである。では、何で?それは、僕と彼が過ごした膨大な時間だと思う。昔、観た映画「メイン・テーマ」(@森田芳光)の中で、桃井かおりが、嫉妬深い若い薬師丸ひろ子に向かって、こう言う。
「私にあって、あなたにないものが、あなたにはわかる?それは、私たち(桃井かおりと恋人)が過ごした時間よ。」

 おそらくだが、その人の本性が、一番露わにになるのは、趣味ではなく仕事ではないかと僕は思っている。たまに、お菓子作りが趣味のお客さんに、手作りお菓子をいただいたりすることがあるが、そのなんとも言えない「もの足りなさ」こそが、「趣味」の本質では、ないだろうか?ストリートで演奏しているバンドしかりである。「趣味」には、責任がなく、「仕事」には責任がつきまとう。だから、僕は、お金を払って、村上春樹の本を買い、こだま和文のライブを観に行くわけである。

 世の中には、奇特な人がいるもので、僕のこんなどうでもいい文章を読んでいる人がいるらしい。生身の僕のことを知らない人たちは、僕の文章を読んで、かなり気難しい人だと思っているようで、実際の僕と出会うと、あまりのバカさに困惑するそうだ。別に趣味として、このようにブログを投稿しているわけではないが、何一つ責任がないという意味では、「趣味」といえるかもしれない。

 先日、ある人から、某作家が鬱病だと聞いた。僕は、驚いた。その作家の世間的なイメージは、自由奔放な「趣味の世界に生きている人」だったからである。僕は、思った。きっとこの作家は、元々は趣味だったものを仕事にしたことにより自滅してしまったのだろう。趣味が、それほど自滅に追い込むことなどないだろうから。

 誤解してほしくないが、僕は何も「趣味」を否定しているわけでは決してない。ただ、「趣味」は、世間で思われているほど、価値のあるものではないと言っているだけである。

 どうでもいい話を、くどくど書いてしまった。なぜこんなことを僕が書き始めたかというと、朝日新聞の朝刊で毎日掲載されている、鷲田清一の「折々のことば」に、ロジェ・カイヨワの言葉を発見したからである。

「日活ロマンポルノ」

 僕が子供の頃、昭和40年代後半には、町のいたるところに映画館があった。例えば、当時、僕の住んでいたのは川西だったが、阪急宝塚線沿線にあった映画館は、駅名でいうと、梅田、十三、岡町、池田、川西能勢口(それ以降は、知らない)といった具合だ。それと同時に、町のあちらこちらに映画のポスターが、電柱にところ狭しと貼られていた。ばんばんの名曲「いちご白書をもう一度」の歌詞の一節にある「雨に破れかけた街角のポスターに~♪」(@荒井由美!)的風景そのものである。そのポスターは、刺青をした高倉健や、寅さんだったりしたわけだが、それらの映画スターに混じって、裸の女たちもたくさんいた。ポルノ映画のそれである。題名もショッキングなものが多く、「悶絶くらげ」、「貝くらべ」、「壇の浦夜枕合戦記」など、意味がわからなくても、そのいかがわしさだけは、子供の僕にも十分過ぎるほど伝わった。そんなポスターが、通学路に貼られていた、そんな時代だった。

 1960年代後半、映画産業が斜陽に向かう中、日活の取った経営判断は、「ポルノ映画」だった。低予算で量産体制を目標に掲げ、たくさんの作品が制作されたわけだが、一方で、この方法は、多くの若い才能を受け入れる場所としても機能したわけである。つまり、女の裸さえ見せておけば、映画が撮れるというもので、演出などには一切口を出さないやり方に、若い才能がたくさん集まった。松竹や東宝など、所謂大手映画製作会社にいれば、長年、監督の下で助監督を務め、監督になるのに膨大な時間がかかるこのシステムは、若い才能には、まどろっこしかったに違いない。実際、名前を挙げればきりがないが、ポルノ出身の代表的な監督といえば、森田芳光、周防正行、井筒和幸などなど、その後、一般映画で第一線で活躍する監督ばかりである。

 若いころ、飲んで電車がなくなると、行くところといえば、オールナイトの喫茶店か「ポルノ映画館」だった。ある日、梅田から終電を逃し帰れなくなった僕たちは、いつものように「東梅田日活」で一晩を過ごすことにした。その日に上映されていたのは、「変態家族 兄貴の嫁さん」というものだったが、その内容といえば、周防正行が小津安二郎に捧げたもので、小津のローアングルを多用し、セリフも小津風そのもので、僕はポルノ映画を見る目的を達成することができず、また、寝るための目的も達成されないまま、この変な映画を食い入るように観る羽目になったわけである。このように、このころの、日活ロマンポルノ映画には、才能が満ち溢れていて、この流れは、1970年代日本のアングラ文化を支え続けた、低予算でも作家性にこだわり、良質な作品を世に出し続けたATGの流れを汲んでいるといっても過言ではない。

 先日、久しぶりに「東梅田日活」の前を通った。しかし、そこには、もう「東梅田日活」の姿はなかった。中学二年生のときに、クラスメート10人で生まれて初めていったときのこと、終電を逃しては寝に行ったこと、石井隆特集を観に行ったこと、さまざまな思いがこみあげてきた。その思いとは、「社会」と敵対することでしか、自分の居場所を見いだせなかった未熟な自分と、尖がった作品を作りながらも、世間には、ただの「ポルノ映画」でしかないという作品たちと相似形をなしたものだった。

 今日、NHKBSで21時~「ロマンポルノという闘い」という番組が放送される。ワインでも飲みながら観てみようと思っている。

 

「苦悩する男、苦悩しない女」

 今から約10年程前、僕は会社で干されていた。元来、欲のない僕は、干されても、特に以前と変わらず、仕事をしていたわけであるが、干されている以上、仕事そのものがない。膨大に時間があるわけである。そんな当時の僕にとっての楽しみは、昼休みに読む、内田樹のブログだった。僕は、昼ご飯を早々とすませ、余った時間は、会社のPCで内田先生のブログを貪るように読み続けた。当時の内田先生のブログは、ほぼ毎日更新され、哲学的で難解な内容だった。しかも、長い。ブログの中に散りばめられた言葉たちは、僕にとっては、初めて目にするものばかりで、僕は、その一言一言を調べながら、その難解なブログを毎日読み続けた。それは、難解ながらも、僕にとって必要なことのように思えたからである。

 今年の夏、内田先生が「細雪」の解説をブログに投稿され、僕は、懐かしい気持ちでそのブログを拝読した。その内容は、あの頃僕が、ほとんど誰もいない薄暗い事務所で、一心不乱に読んでいたあのときの内田先生のブログの感じとすごく近かったからである。僕は、あの時のように、知らないとことばたちを、一言ずつ調べながら読み進めた。僕は、「細雪」を読みたいと思った。できれば、内田先生と次にお会いするときまでにと思ったのだが、残念ながら「海の家」でお会いするまで、あまり時間がなく、とりあえず、市川崑の映画「細雪」を見ることにした。

 映画「細雪」を観た僕は、「滅んでいくものの美学」というテーマを比較したくなり、立て続けにヨーロッパの映画、「地獄に堕ちた勇者ども」(@ルキノ・ビィスコンティ)、「暗殺の森」(@ベルナルド・ベルトルッチ)と「野火」(@塚本晋也)を観てみた。改めてみて気づいたのだが、この四作品は、いづれも第二次世界大戦時のことを描いているのだが、「細雪」は、女を主人公に、「地獄に堕ちた勇者ども」、「暗殺の森」、「野火」は男を主人公に描いているのが大きな違いだった。「細雪」の主人公、鶴子(岸恵子!!)は、戦争に突入していこうしている状況を無視するかのように、四女の見合いに着ていく帯のことを気にし、夫の東京の栄転に対して、「京都より東へは言ったことおまへん」と言いのける。一方、ヨーロッパの映画の主人公たちは、ひたすら暗い。「地獄に堕ちた勇者ども」のヘルムート・バーガーは、女装するは、幼女趣味はあるはと、変態オンパレードで、同様に「暗殺の森」のジャン=ルイ・トランティニャンも同性愛の自分に悩みナチスに傾倒するというもので、何だかよくわからない。一方「野火」の主人公も、どちらかといえばパワハラに悩まされる。

 男たちは、「社会」の中に組み込まれて、苦悩していく。それは、自分の立場をどう今後維持していくかという類のもので、「しょうもない」といえば、しょうもない。かつて中島らもが、バンドを結成しない理由について、エッセイで、「バンド」を結成することにより、「社会」の一員になることが面倒だと言っていた。一方で、鶴子は、そんな「社会」とは、距離を置き、「社会」が成立する以前のものに、重心をおく。それは、嵐山の桜であったり、箕面の紅葉だったりする。「女」たちは、「男」の苦悩をよそに、まったくといっていいほど苦悩しないのである。

 「細雪」は、世界各国で翻訳されている。それほどまでに、「細雪」が世界性を獲得できたのは、「女」の特性を、描き切ったからではないだろうか。しかし、現在、「かつての女」が、いなくなってしまったことは、残念で仕方がない。僕が「女ぎらい」を公言する理由は、そこにある。

「思い出ごはん」

 怠惰な休日の過ごし方をしている。僕のことを少し知っている人は、釣りをしたり登山をしたりと、アクティブな印象を持っているかもしれないが、僕は、完璧なまでにインドアな傾向が強い。友だちなどは休みの日に家にいてると、頭がおかしくなりそうな気がするそうだ。僕は、まったく逆で、休みの日に次々と予定が入ったりすると、それだけで、気が滅入ってしまう。

 先月、内田樹先生他数名と、白馬にトレッキングにいったのだが、僕のあまりのスカスカのプラン(何せ、プランの中には、昼寝が入っている!)に、「こんなに何もしなくていいのだろうか?」とお褒め(?)の言葉をいただいたぐらいである。僕としては、精一杯立案したつもりだったのだが…。

 さて、そんな怠惰な休日の楽しみのひとつが、TV番組「よ~いどん」の中の「思い出ごはん」である。毎週、ゲストを迎え、今までに印象に残っているごはんと、それにまつわるエピソードを披露するというものだ。どのエピソードもほとんどが、昔自分が苦労していたときに食べたあの時のあの味というものが多く、人の苦労話が大好きな僕は、休みの日の午前中から、キュンとしてしまう。この番組をみていて、つくづく思うのだが、どういうわけか、ごはんの記憶というのは、楽しい記憶とはリンクせず、悲しかったり、つらかったり、切ない記憶とともに保存されているらしい。

 その日、小学校から帰ってくると、母親から、すぐに買い物に出かけることを伝えられた。その頃、我が家では、ちょっとしたものの買い物には、阪急伊丹駅周辺のスーパーによく行った。「伊丹」に行くのは、土、日の昼間と決まっていたのに、平日の夕方から「伊丹」に行くのに、僕は少し違和感を覚えた。母親にそのことを尋ねると、母の父、つまり祖父が「キトク」なので、明日、田舎に帰るとのことだった。小3の僕は、「キトク」の意味が分からず、「キトクって何?」と母に聞いた。母は、「死ぬかもしれないってことよ」とぶっきらぼうに教えてくれた。当時、田舎に帰るときには、必ず、僕は服を新調してもらった。母にとっては、自分が生まれ育った家にも関わらず、結婚した彼女にとっては、そこは、何か特別な神聖な場所だったのかもしれない。そういえば、田舎に帰るといえば、母親はなぜか機嫌が悪くなっていたような気がする。

 最寄りのバス停からバスに乗り、「伊丹」へと向かった。バスの窓は、曇っていて、手でキュッキュッと窓を拭き外を眺めた。いつも見慣れている風景が、冬の夜の風景となると、別のものに見えた。伊丹に着くと、夜の伊丹の街は、僕の知っている表情とは一変し、初めてみる「夜の街」は何か少し怖い感じがした。僕は、母に連れられて、「関西スーパー」の2階にある洋品コーナーに行き、ジーパンを買ってもらった。当時、毎週TVで観ていた「太陽にほえろ」のジーパン刑事と同じフォルムの「BIG JOHN」のだった。店を出てあたりを見渡すと、真冬ということもあり、真っ暗だった。吐いた息が真っ白く、夜の空は、カラスのようにどこまでも黒かった。関西スーパーからいつもの商店街に向かった。商店街を歩きながら、母が「遅くなったし、ごはん食べて帰ろう」と言った。僕は「うん」と頷いた。そして、僕たちは商店街に面したうどん屋に入った。ごく普通のどこにでもあるうどん屋だった。当時の我が家の外食といえば、長崎屋で買い物をしたあとに食べる、地下1階のフードコート内にあるお好み焼き屋だったので、この日が初めての「外食」だったかもしれない。母は、天ぷらうどんを二つ注文した。母の好物は、天ぷらうどんだった。

 落ちのない話となってしまった。この天ぷらうどんにまつわる話は、これだけである。特に、何があったわけではない。しかし、僕の「思い出ごはん」といえば、あの日、伊丹の商店街のうどん屋で食べた「天ぷらうどん」になる。あの日の夜の街の感じ、あの日の冬の寒さ、うどん屋の店内の様子は、今でもありありと思い出すことができる。

 先日、実家に帰り、母といつものようにたわいのない話をしていた。今年で80才になる母の横顔は、すっかりおばぁちゃんとなり、しわだらけである。母が、唐突に「あんたと昔行った、伊丹のうどん屋のこと覚えているか?おいしかったなぁ」と、遠くをみるような目をして、ぼそっと言った。