昨日、26日は、初の此花スポーツセンター(西九条)第二体育場でのお稽古となった。
畳が異常に軽くて、持ち運びが楽だとはじめは喜んでいたのだが、この畳、軽い上に大きく反っていて、持参したいつもの滑り止めマットが殆ど効かないのだ。少し体重をかけただけで動いてしまう。
これは困ったと思ったが、それでも稽古はスタートした。
畳の隙間に指が挟まれて転倒や骨折といった怪我は多い。
私もみんなもびくびくと強張った動き。
足捌きをやり始めた時、ふと、この畳が動かないような脚の動きこそが大事なのではないかと思いついた。
畳の上に薄い濡れた和紙が敷かれていて、その和紙を破らないように足を使うべし、という多田先生の教えがある。
畳が大きく動くような体重移動ではなく、するすると畳の上を滑るように、濡れた和紙を破らないように脚を捌く、ずるずると動きやすい畳が動かないように身体を使う。
そう言うと、まずみんなの雰囲気がぱっと変わって、それまでこわごわ動いていた身体の力がすっと抜けた。
足の裏を敏感にすることによって動きがスムーズになったのだ。
この不安定な畳の上で、どんな稽古をすればよいのか。
稽古が進む中、頭の中でぐるぐると「どうするどうする」と自問する。
ふと、そうだ、これは使えるではないか、と。
守さんの講習会、二足歩行になった人間がまだ不安定な大地で生きていたころの方が、人は全身の筋肉と神経を総動員してバランスよく身体を使っていた、というあれだ。メキシコのララムリ族の驚愕の走り(160キロマラソンで上位30位を山岳民族ララムリが独占)は、衝撃を吸収するランニングシューズも舗装されたフラットな道でもなく、山岳の急な崖斜面やデコボコの道を、ペタンコの簡素なゴム草履で毎日生活のために走り続けることよって何世紀にもわたって培われたのだ。
一教を指二本で。指の接点二か所で一教をかけるという、受けも取りも共に繊細な感覚と集中力を要する稽古。
動く畳の隙間に足の指を入れないように、最新の注意を払う。受ける相手をも不安定な畳の上で繊細な楽器のように扱う。
足元が常に動いていること、不安定なことを考慮に入れて身体を使う。
と言うと、皆の動きがぱっと変わった。
畳が動くのはもちろん稽古場としては今後も問題だが、たまにこういう稽古法もありかもしれないと思いながら、寺子屋ゼミへ。
今日の寺子屋の発表は永山さんで、テーマはタイムリーにも「言語か身体か」
人間の身体運用には、言語・観念が先行しているという内田先生の論に深く頷く。
三次元、いや潜在的な無意識の筋肉や細胞の動きも含めすべてが同時多発的であることで言えば、もっと複数次元のできごとである身体運用を、たった二つ次元である言語に置き換えて説明することは困難であり限界がある。
道場で合気道を教え始めた私には日々突き付けられる難題である。
感覚的に教えることはもちろん重要だ。身体図式を持たない子供にはメタファーは通じない。子供も、日本語のわからない留学生も、言葉ではなく視覚情報、つまり先生の手本を見てその通りに身体を動かすことで技を覚えていく。
しかし、子供が見る視覚情報すなわち先生の動き、もまた理なのではないだろうかか。
「先生と同じように動く自分」という幻想と連想。
連想業という稽古法があるが、これは視覚、触角といったあらゆる体感を脳内で再生するもの。
つまり、理を先行させることによって身体がそれに追いつくということを知っている先人の考えた、優れた稽古法なのだ。
技を見る、かける、かけられる、そのリアルな身体感覚を脳が追う。
言葉によって脳が幻想する、その身体感覚を身体が追う。
この二つはほぼ同次元のことのように思えてきた。
どちらかだけではだめで、たぶんどちらも必要なのだ。
漫画家の井上毅彦さんが、画力がアップすることによって、ネーム/ストーリーの展開が変わると言っていたとのこと。
愚直に稽古していれば技が上がり、それによって理合が深まる、ということが合気道家にもあるのだろうか。
昨日内田先生に質問すればよかったが、それはあるということだと思う。
内田先生の弟子である私たちは、合気道を言語化する、ということからは逃れられない宿命のようなもの、と前に佐藤さんが言っていた。でもそれこそがきっと理にかなっていることなのだ。
私の稽古はほぼ内田先生と多田先生の受け売りだ。というかそれを伝えるのが自分の役目であり、できるだけ正確にパスするための媒体であると思ってきた。しかしやってみてわかったことだが、先生が言うどんなすぐれた理合も言葉も、自分の体感を通したものでないと、自分の口をついて出てきてもくれない。単なる右から左へのパスはまったく通らないのである。ま当然と言えば当然なのだが。
私自身はというともちろん、超動物的な感覚人間だ。
でも昨日内田先生のお話を聞いて、どんなに稚拙でも、受け売りでも、どこまでも理を追い続けることをあきらめてはいけないと思った。
やがて理に身体が追いつき、身体に理が追いつき、双方がドライブし高め合う日の来ることを信じよう。
「理より入るがはやし」
ヨーロッパで多田先生からこの言葉をお聞きしたとき、これは、ともすれば漫然と稽古することに没頭しまいがちな自分のために向けられた言葉だ、と、はっとしたことを思い出した。