「かっこいいとはなにか」
「「めちゃくちゃかっこいい」。なんとも言いようがないんだけど、「めちゃくちゃかっこいい」としか言いようがない。」(「東京大学「80年代地下文化論」講義」@宮沢章夫、白夜ライブラリー、2008年8月)。宮沢章夫がこう評しているのは、僕が世界一のアーティストだと信じて疑わない、小玉和文が率いていたバンド「Mute Beat」のことだ。
僕が初めて「Mute Beat」を知ったのは、1986年のことである。僕の幼馴染の親戚が、この「Mute Beat」でトロンボーンを演奏していたことがきっかけだった。
出会いというのは、存外こういうもので、いつでも自分のまわりに転がっていたりするのかもしれない。ただ、そのことに気付くかどうかという、こちら側の事情というか、タイミングがあるようには思うのだが。
「Mute Beat」は、インストルメンタルのダブ・バンドだった。ダブというのは、レゲェのジャンルの一つで、あるパートに極端にエコー処理を施したりするのが、大きな特徴だ。カルチャー・クラブの名曲「Do You Really Want To Hurt Me?」の編曲部分を思い出してくれれば、想像しやすいだろう。
僕たちは、それから半年後、「Mute Beat」が出演するイベントのことを知る。そのイベントの名前は「Deptra」といい、ミナミの古着屋「Dept」と「Mute Beat」がよく取り扱われていたカセットマガジン「TRA」を掛け合わせたものだった。そのイベントは、今から思えば「クラブ」の先駆けのようなものだった。当時、音楽を大音量で聞くことのできる場所と言えば、代表的なのが「ディスコ」か「ライブハウス」で、そのどちらでも僕の好きな音楽はかからず、僕は、このような「クラブ」の出現を心待ちにしていたのである。さて、1986年というと、世間はバブル前夜で、僕たちはバイトで得たお金を殆ど全て洋服代につぎ込むという、当時のバカな大学生の典型で、僕も友だちも競うように洋服を買っていた。当時の僕のお気に入りは、Mens Bigiのマオカラーのジャケットだった。マオカラーのジャケットいうと、今では料理研究家の服部幸應しか、この世で着ている人はいないのではないかという代物で、今思い出しても顔から火が出る思いである。
僕は、その日、そのお気に入りのマオカラーのジャケットを着てイベントに出かけた。行き慣れたはずの「Dept」の店内は、古着たちが端っこに寄せられ、大音量でレゲェがかかっていた。僕たちは、ビールを片手に体をゆらゆらと揺らせながら、「Mute Beat」の演奏が始まるのを待っていた。
ほどなくして、店内が暗くなり、「Mute Beat」のメンバーが出てきた。まず、そのファッションに驚いた。かっこよかった。リーダーの小玉さんは、タキシードジャケットに、ジーンズを穿いて、黒いハットを被り、靴はアディダスのバスケットシューズだった。後にシンプリー・レッドのメンバーとなるドラムの屋敷豪太のヘアースタイルは、ドレッドだった。彼らは、MTVでしか見ないような海外のアーテイストの出で立ちだった。マオカラーのジャケットを気取って着ている自分を、恐ろしいぐらいかっこ悪いと思った。その日から、僕は、小玉さんの大ファンになった。
さて、本題に入ろうと思う。
小玉さんは、数々のスタンダードをカバーしている。「ロシアより愛を込めて」、「Take Five」、「ジェンカ」…etc。これらの名曲たちは、小玉さんのトランペットにかかると、小玉さんの曲に見事に変身するのである。同じような現象は、キムタクの演技にも見て取れる。誰を演じてもキムタクというやつだ。では、なぜ、僕は小玉さんを「かっこいい」と思い、キムタクを「かっこいい」と思わないのか?それは、単なる僕の好みの問題なのだろうか?違う。僕は、そう断言する。
1999年の冬、僕は京都のクラブ「メトロ」に小玉さんを見に行った。小玉さんが10年ぶりに音楽活動を再開したのである。そのときの、トランペットの最初の音が僕には忘れられない。その場の空気が一瞬にして変わったのである。空気が緊張するというか、密度が濃くなるというか、多くのライブを見てきたのに、そんなことは、僕には初めての経験だった。
僕は、こう思う。小玉さんは、自身が見える世界を、自身の身体を通してできるだけ丁寧に僕らの前に提示してくれている。その真摯さが、小玉さんとキムタクを隔てている大きな違いだろうと思う。更に、小玉さんの根底にあるのは、世界の謎を「知りたい」という大きな欲望につき動かされて、大きな何かを見ようとしている態度だと思う。しかし、この世界の不条理さは、恐らく、人間が一生かかっても分からないことだらけだと僕は思っている。しかし、である。「分からない」という一種の敗北感、無能感に自覚的であることの真摯さ、それこそが、小玉さんの「かっこよさ」を担保しているのだと僕は確信する。だから、僕にとって「かっこ悪い」のは、あらかじめ用意された「答え」を声高に叫んだり、「分かったような気になっている」人たちである。
黒澤明は、79歳の時、アカデミー賞特別名誉賞の受賞式で、こう言った。「私は、まだ、映画がよく分かっていない…」と。
なぜ、僕は、突然こんなことをくどくどと考え始めたのか?それは、小玉さんがツイッターで公開している写真たちが、あまりにも「かっこいい」からである。