月別アーカイブ: 2015年1月

1/12にお問い合わせくださった、稽古見学ご希望の方へ

1/12に、清道館HPに問合せを頂いた、2月に稽古の見学をご希望の女性の方、

メールは拝受いたしており、書いて頂いたアドレスに返信を何度かお送りしましたが、送られずに返ってきてしまいます。
書かれていたメールアドレスが間違っているかもしれないので、もしよろしければご確認いただいて、もう一度ご連絡くださいますか。

HPのシステム上、問合せメールにそのまま返信することができませんので、
ご連絡の取りようがなく、このような形でお知らせさせて頂きますことをご容赦ください。

井上

フランシーヌの場合  井上英作(宴会方)

フランシーヌの場合

音楽に囲まれながら今まで生きてきた。タワーレコードのコピーではないが「No Music No Life」な生活である。そんな僕が初めて覚えた「大人の歌」がこの曲である。調べてみると、1969年6月に新谷のり子と言う人が歌い、ヒットした曲らしい。つまり僕は、この曲に3才10ケ月で出会った計算になるが、まさかその年齢で覚えたはずはなく、その後に覚えたのだろうとは思うが、とにかく、自分の音楽歴を遡っていくと最終的にはこの曲に辿り着く。

 この曲は、パリで政治的抗議により自殺した一人の学生のことを題材にしたもので、当時の政治的に不安定な時代背景を反映した、極めて政治色の強いものである。そんな社会的な曲が、僕の音楽生活のスタートとは、自分でも以外な感じがする。

 僕はこの曲を聞くと、今でも幼いころの心象風景が鮮やかに甦る。それは、一言で言えば、「貧しさ」である。

 当時、僕たち家族は、3Kの長屋に家族3人で住んでいた。家の前をドブ川が流れているため、時折悪臭が立ち込め、風通しも日当たりも悪い暗い家だった。トイレは汲み取り式で、辛うじてお風呂はあったものの、洗面所などあるはずもなく、台所で歯を磨き、顔を洗った。もちろん、エアコンなどあるはずもなく、夏の暑さ、冬の寒さが本当に身にしみた。また、当時子供の着ていたものなど、素材も悪かったため、夏の暑さ、冬の寒さに、更に拍車をかけた。時々、母の作る晩ご飯のメニューの少なさに、僕が不満げな態度を取ると、烈火の如く怒られた。それは、明らかに「叱って」いるのではなく、「怒って」いたのである。そんなことは、子供に言われるまでもなく、母親自身が、一番身に沁みて感じていたはずで、誰よりも母親が悔しかったに違いない。

 このように、僕の家は決して裕福ではなかった。しかし、僕のまわりを見渡せば、殆ど周辺の家も同じようなものだった。皆が貧しかったのである。1969年といえば、歴史的には、高度経済成長期ということになるのだが、今から振り返ってみても、そんな実感は、全くと言っていいほどない。その貧しさは、言うまでもなく、日本が戦争に負けたことによるもので、僕が子供の時には、その傷跡が、まだ周辺には残っていた。

 子供のころ、僕は片足のないおじさんを町でよく見かけた。スラックスの右足部分の真中あたりから半分に折り曲げ、松葉杖をつきながら歩いているのを、何度も何度も見かけたものである。母に聞くと、戦争によるものだと教えてくれた。また、時々、母の買い物に連れられ繁華街へ出かけると、軍服を着たおじさんが、足元に金タライを置き、頭を下げながらお金を乞う光景を時々見かけた。まだ、戦後は終わっていなかった。

 今、この曲を聞き直しても、夏の西日で充満されたあの長屋の二階の部屋のことや、歯をがくがく震わせながら、母と停留所でバスを待った真冬の寒い夜のことなど、あのときのあの体感をありありと感じ取ることができる。

 僕は、この曲と出会ったことで、初めて「社会」と出会ったのかも知れない。だとすれば、この曲が社会的なものだったことは、ただの偶然ではないだろう。

合気道的スキーについて

今年もス道会に行ってきました。
清道館からも二名(佐藤君、岡田君)の参加者があり、総勢37名、去年の3倍の人数で、一泊二日、蟹付きのイベントは大盛会でした。

スキーと合気道は似ている。これは内田先生も、ス道会を仕切る谷尾プロも仰ることです。
体重移動や、股関節や膝の使い方、一つ先の自分をイメージしてそこに体を放り込む、など共通点が多く、「スキーが上手くなれば合気道が上手くなる」、という谷尾プロの甘い言葉に乗せられて、20年ぶりぐらいにまたスキーを始めたのが3年前。高橋圭三先生というちゃんとした指導者にちゃんと教えてもらうようになって、今年も4回目のス道会となりました。(ちなみに谷尾さんは本当のプロではないのですが、私から見ればプロの称号に値するスキー技術の持ち主でありますので、敬意を表してこう呼ばせて頂きます、あしからず)

さて、今年。4回目ともなれば、相当上手くなったと思われるでしょう、というより自分ですっかりその気になって今年は挑みました。
なんてったって、去年はマイ靴、今年はなんとマイ板を購入しての参戦ですからね。
(しかも、高橋先生の更にお師匠様である丸山先生のご指導までも、一昨年、昨年と2度も受けたのです!私の板は、その丸山先生のお見立てなのであります!!!)
てなわけで、私の鼻は3倍ぐらいに膨らんでいたと思うのですが、雪面に立つやその鼻はぺしゃんこになりました。
だって難しい。スキーは本当に難しいです。あたりまえですけど。

今年ゲレンデで気付いたのは、使えないと思っていた(そのせいで膝を痛めている)左の股関節、よりも、実は右の股関節のほうが体重を乗せにくいということでした。右股関節を使う左から右へのターンの際、体重が乗りきらないので体を捩ってしまう。
明らかに、左の股関節に乗る方のターンとは違う、これは合気道の稽古では今まで気付かないことでした。

合気道はフラットで動かない、柔らかな畳の上で身体を操作します。
スキーでは当然ですが斜面ですから、この雪面の上では常に体重が正確に板に載ってないと滑って転んでしまう、とても不安定な状態。
しかもその雪面は斜度、幅、雪の深さや硬さ、こぶの有無などコンディションは刻々と変わる。天候も分単位で変わるので視野や視界が突然悪くなる。様々な条件が一瞬一瞬で変化していくのに対応する、重心をピンポイントで移動させていく、そういう身体運用を求められるわけです。頭で考えている暇はない。一瞬でも操作を誤ったり、気を抜いた途端、激しく転倒したり、谷へ落ちてしまう危険と常に隣り合わせで、ものすごい集中力を持続しなくてはなりません。もちろん私の今の技量では、ですが。

合気道では「受け」の人が技を受けてくれます。相手は人間ですが、受け人の体格や技量や性格(笑)や様々な条件によって技は変わります。
スキーではその「受け」が山なのです。山と言う厳しい自然を相手に、つまり「受け」にして稽古している訳です。
合気道でもどうしようもない、技がかからない難しい相手はいます。が、雪山ほど厳しい「受け」はいない。
どんなに激しい技でも、安定した畳の上では基本的に大きな怪我や命を落とす危険まではない。

上手く滑れた!と思っても、次の瞬間にちょっと斜度や幅や雪面の状態が変わるだけで全く通用しなくなる。
ほんとに、簡単には「受け」をとってくれないのです。

ス道会に出会うまで、実は長年、スキーの何が面白いのかと思っていました。
だいたい、スキーや陸上競技、水泳といったスポーツは、球技や格闘技に比べて孤独に見えます。
己の記録の更新を追求することがひたすら面白いのかも、ぐらいに思っていました。確かにそれも面白いと思います。
陸上や水泳はわかりませんが、少なくともスキーの面白さは、山とは相当厳しい「受け」と同じであるという意味においては、合気道のそれにかなり近い、というのが今回の大きな実感です。
それはイタリアや、多田塾の合宿や本部道場の稽古で、すごい先生や先輩にバンバン投げられる時の感じや、自分の技が全くかからない時の感じと同じで、自分の問題点が浮き彫りになる、課題をくれる。

「こぶ(←これが大曲者)と戦ってはいけません、友だちになりましょう」と丸山先生はにこやかに仰います。
「雪山」という究極の「受け」と対立せず、いかに融和し同化するか。
それこそ多田先生の仰る、対立と執着を捨て「宇宙」と融和し同化する、に通ずる。

スキーの修行は合気道の修行。
ということで、怪我には十分注意して、今年もスキーを楽しみたいと思います。

2月の稽古予定 変更のお知らせ

2月の稽古予定ですが、下記の2箇所を勝手ながら変更させていただきます。
すみませんが、よろしくお願いいたします。

① 2/5(木)稽古場所変更 西スポーツセンター(阿波座)にて18:00~ 剣・杖の稽古
② 2/8(日)二部制に変更 西スポーツセンター(阿波座)にて、
一部:第二体育場15:20~合気道、二部:多目的室18:00~ 剣・杖

・2/5(木)18:00~ は当初 此花スポーツセンター(西九条)にて剣杖稽古を予定しておりましたが、西スポーツセンター(阿波座)の第二体育場を取ることができましたので、場所を変更させて頂きます。

・2/8(日)は、稽古を二部制に変更します。
15:20より 一部:合気道の稽古をした後、18:00より多目的室に移動して、二部:剣・杖の稽古をします。

井上

「お前、へたくそ」  森川祐子(清道館)

「お前、へたくそ」

 最近よく、向こうから森川祐子がやって来て、すれ違い様に“お前の母ちゃん出ベソ”と言うかのように、
「お前、へたくそ」
と言ってスタスタ行ってしまう。さすが森川祐子、そのとおりとは思うもののあんまりストレートなので腹立つし、傷付く。
「あ、ひと(他人)の技の批判したらあかんのに」
と言うと、
「ひと(他人)と違うからええの! あほか」
とひと言。くぅ〜。
「『うまくできなかったことも、できたように書き変えて、連想しなさい』って、先生いつも言うてるやんか」
と食い下がっても、
「それがでけへんこと、よう分かってるくせに」
と、にべもない。

 そうやんな、やっぱり“ヘタは稽古せにゃ直らない”というわけでせっせとお稽古に励むものの、毎回課題が見えて、見えているのに体が言うことをきかなくて、また私が向こうからやって来る。そんな繰り返しのこの頃だったが、つい先日ちょっとした“事件”が起こった。
 13年11月の内田先生の観世さんとのスイッチインタビューはきっと大勢の方が見られたことだろう。私もそのひとりで録画したままだったが、このままでは夫に消去されてしまうので、ディスクにダビングすることにした。“事件”が起こったのはその時。久しぶりに見た画面から流れる内田先生の言葉が初めて聞く言葉のように身体に流れ込んで来る。思わず何度も停止を押して手近のノートに書き留めた。
「自然の力を一回自分の身体に通すことによって、人間の世界に有用なものを実現させていくための技術。いくら筋力をつけても骨格を逞しくしても絶対に出せない強大な力を、自分の身体をひとつのパイプにして発動させていく、それが武芸だ」
 放映された時に聞いて感激したのはもちろんのこと、常日頃、井上先生からも教わっていることと違いないのだから初めてであるはずはないのに、この時この言葉は“心や頭にしみ込んでくる”のではなく、“身体の中の細胞を揺らす”感じがした。わけが分からないけれど、確かに身体中の楕円形の細胞が「そうだ、そうだ」と合唱している気がした。「それが合気道だ」と。興奮が収まってから考えてみるに、これはとてもシンプルに、稽古数の違いがさせたことだと思う。スイッチインタビューを初めて見た13年11月までの稽古数は25回、久しぶりに見た日までの稽古数はそれも含めて165回。確かに“身体で学ぶ”“身体を通してしか分からない”ことがありそうだ。
 私は長らく子どものおもちゃを販売する仕事に従事していたから、子どもの発達について少し学んだ。その際よく言われることの一つに、“子どもは手で学ぶ”というものがある。例えば形はめ。手の中にブロックを握り、重みを感じ、何度も何度も触って、角や丸みを感じ、長い短い大きい小さいを十分に手で味わった子は、ものの形という存在が分かって、穴にブロックを入れる。例えば積み木。手のひらで一つの木の固まりを味わって、もう一つ持って来て比べ、それらを並べて、積んで、崩して...を繰り返した子は、ものの成り立ちが分かって、さらに大きな構造物を造るようになる。手で学ぶことをおろそかにして知識偏重になると、いつか人はパンクする。それは、本当に身に沁みるようには分かっていないから。分かるということの楽しさが分かっていないから。
 これは子どもに限ったことではない。私自身、園の先生方に教具の使い方を説明する時、説明書を読んだだけではうまくいかない。実際にその教具で遊び、なにが起こるのかを自分で感じたら、相手に届く説明ができることを何度も経験した。そう言えば、凱風館を建てた光嶋さんのドローイング展を見に行ったとき、対談の席で、「旅先で建築物を片っ端からスケッチしました。・・・時間がなくて途中から写真を撮って帰った場合、スケッチした部分しか鮮明に思い出せません」というような意味合いのことを話され、あの時も子どものものの分かり方と一緒だと思った。
 話は飛ぶけれど、パリのいくつもの美術館で、模写している人が多いことに驚いた。松家仁之『火山のふもとで』の建築家の主人公が、卒業したての卵のとき、尊敬する先達の建てた教会を実測し図面に起こすくだりがあって、建築物そのものを“模写”するのかと、これも驚いた。創作者である画家や建築家と“模す”という行為に隔たりを感じたと言ってもいいかもしれない。でも、これも同じこと。“手で学ぶ”“身体を使って真似てこそ分かることがある”に違いない。模すために動かす一筆ごとに、線の1センチごとに、先達の表現しようとしたことが分かる“手がかり”があるに違いない。
 
 稽古のはんこが165個の今だから、25個のときとは違う分かり方があることを身をもって知った。私の意思と関係なく細胞レベルで分かったことは、忘れない。だから、やっぱり、稽古しかない。耳で井上先生の言葉を聞いて、目で動きを見て、時には先生の手や身体に触れて、頭と心にそれら全てを入れたら、今度は自分の身体を使って真似よう。すぐにはできっこないから、何度も何度も稽古しよう。はんこがもっと増えたら、もしかしたら原子レベルで分かることもあるかもしれない。今はへたくそだけど、もしかしたら“分かる”だけじゃなくて、“知らん間に勝手にできた”“動けた”と思えることもあるかもしれない。わくわくしてきた。

2015年稽古初め

2015年がスタートしました。

今日は、合気道 清道館の稽古初めです。
みなさん、今年も楽しくお稽古していきましょう。
よろしくお願いいたします。

昨日は、私井上が属する親道場、多田塾甲南合気会、改め、「合気道 凱風館」の稽古初めでした。
多田塾甲南合気会は、多田宏先生のご意向により、名称が新年度より「合気道 凱風館」に変更になりました。
これに準じまして、当会も正式名称を「合気道 清道館」としたいと思います。
すでに、「合気道 清道館」という名称ではありましたが、場合により「清道館」としたりと、今までは多少曖昧でしたので、これを機に明確化したいと思います。

年末の稽古納め・納会から、4日の新年会と、宴会続きでお疲れさまでした。
今日からまた稽古の日々が始まります。
我々の本分はあくまでも合気道の稽古です(宴会ではなく!笑)。
今日もまた健康で、皆で楽しく稽古できることに感謝して、一日一日を、一回一回の稽古を大切に。

では道場で会いましょう。

井上清恵

なめらかな稽古とその敵   ささの葉合気会 中野論之

なめらかな稽古とその敵
ささの葉合気会 中野論之

18時半を過ぎたので凱風館まで歩いていく。
2014年9月12日、金曜日。このあとの夜稽古で1級審査を受けることになる。前回までと同じく、い
まだに「審査を楽しむ」などという心境にはほど遠い。とはいえ不安や緊張より先にまず感じるのはぐったり
とした疲労。このところ稽古に関わる不慣れなことにずっと力を傾けていたうえに寝不足が重なれば仕方ない。
今日は18時ごろから凱風館が開くらしいと聞いていたので審査前に最後の確認をすることもできたけれど、
もうそれは控えてさっきまで身体を休めることに専念していた。
これから審査なのに、すでに身体が疲れているのは残念だ。できれば万全の状態で審査を受けたかった。でも、あらかじめ決められた大事な場面へ向けて充分に準備してから臨むことと、調子の悪いときにそれでも何かを決断したり動かざるを得ない局面でなるべく自分を整えて挑むことは、どちらも大切なことだとも思う。
交差点の赤信号で立ち止まっていると清道館の岡田充広さんに声をかけられた。彼の審査も今夜である。連れ立って凱風館へ行く。
更衣室で着替えて道場へ入る。あっちこっちで審査直前の最終確認の最中と思われる門人の姿がある。少し暑いのはこの人いきれと冷房が入っていないせいか。顔見知りの人と会うたびに挨拶する。岡田さんと一緒に3級審査を受ける清道館の佐藤龍彦さんは私よりもずっと早くに来て最後の確認をしていたようだ。端のほうで軽く身体をほぐしたりしていると大松多永さんが寄ってきて「がんばるんだぞ」と茶目っ気たっぷりに言ってくれた。そのうちに全員が道場の南側(出入り口に近い側)へ正座して待機する。見渡せばざっと3列だ。金曜の夜稽古にしてはまだ少ないほうかもしれない。
内田樹先生が来られた。準備体操と阿吽の呼吸、呼吸合わせと呼吸操練、四方斬りを行なう。六方向の転換の受けは神吉直人さんが呼ばれる。この動きについては内田先生からの説明はなし。隣にいた岡田さんと組む。
相変わらず周囲の壁や人に受けをぶつけそうになるので注意しながら取りをした。
逆半身片手取りの動きを題材に内田先生が解説される。
「ないものをあるように扱う。それも水気を含んだものがいい。小さな氷の欠けらとか」
「(逆半身片手取りから入身で導いて相手に気を通す動きをしてみせたあと)足を一歩よこにどけて、受けの
背中側に身体を寄せて——なんて説明してもなかなか伝わらない。それよりも氷の欠けらが掌の上にあって、それを落とさないよう動きながら最後に相手の襟口から ひょいっと氷を入れる、と言うほうが伝わりやすい」「用があるのは神吉くんじゃなくて、神吉くんの着ているジャージのライン。それを巻き取るように動く」
今回の審査にあたり、ささの葉合気会での自主稽古は私が担当させてもらった(ただし一度だけ多永さんと
二手に分かれて行なった)が、伝えたいことがうまく伝わらず、自分の教え方の未熟さに歯がゆい思いをしたものだ。内田先生の言葉を聞いて、〈足を一歩よこにどけて〉式の説明をするばかりで〈氷の欠けらを落とさないように〉といった喩えを私がほとんど用いてこなかったことに気づかされた。また「ないものをあるように
扱う」という言葉は、〈演じる〉という行為と武術との関係を改めて思い出させるものだった。(演劇と武術
の関係については武術家・甲野善紀先生のDVDを紹介する次の一文「甲野善紀による内容紹介」をご参考に。
http://kono.yakan-hiko.com)
逆半身片手取りの技を掛かり稽古で行なう。受けや取りをしながら身体を動かすうち、じきに〈あれっ〉と
感じた。疲れが抜けていないはずなのに、妙に身体が軽く動く。先日の演武会のときとは大違いだ。ふだんのささの葉の稽古でもここまで軽やかには動けていない。緊張で硬くなっている感じはまったくなかった。
自分が取りをするときは、一人に技をかけた直後と次の人に技をかけるまでの間をつなぐように気をつけた。切れ目を作らない、ということを このところずっと注意している。今回の審査でも、技が上手に出来ないのは仕方なくてもひとつひとつの技と技のあいだで気持ちや流れを切らないようにしようと決めていた。とにかく切れ目を作りたくなかった。前回審査時のハンコをゼロ個目(その次の分を1個目)と数えると、今夜のハンコで合計154個となる。
同じ数え方で私を上回る人の存在も具体的に知ってはいるものの、たぶん少なくはないのだろうし多いに越したことはない。それでも、ハンコの数が多いからと安心して道場の外では何の稽古もしない、という態度は やや問題があると感じてしまう。伸びる人は、道場以外でもきっと なにかしらの稽古や工夫をしているはずだから。 道場以外の場で行なうものとしては、たとえば自宅などで自分なりの方法で一人稽古をすればよいはずだが(私の場合は袋竹刀や木刀や杖などの道具を使って一人稽古をすることが多い)、そういうこととは別に、常日ごろ稽古のことを考えているだけでもずいぶん違ってくるのではないかと思う。ふだんから無意識に稽古をしているようなものだからだ。

稽古を日常化したうえで道場へ通うのを〈なめらかな稽古〉と呼ぶのなら、その対極の、ふだんは道場以外
でまったく稽古も工夫もしないでおきながら道場へ来て「さあ稽古を始めよう」という状態を〈なめらかでな
い稽古〉、あるいはもっと端的に なめらかな稽古の〈敵〉と表現してもいいだろう。その〈敵〉が自分の外で
はなく内にあることも、なめらかな稽古とその敵のあいだが無数のグラデーションで切れ目なく つながってい
ることも、私にはなんとなく身体で感じられる。
なめらかな稽古をするには、とりあえず出来るところから少しずつでも手をつけていくしかなさそうだ。そ
んな気持ちが、ここ最近の「切れ目をなくす」ということに結びついたように思う。せめて道場にいるあいだ、
いまのいまだけは動きと動きの狭間に切れ目を作りたくない、境目をなくしたい、と。
審査が始まる。内田先生以外の門人全員が道場の南側へ正座していく。その隙に水を飲んだ。私が座ったのは右端(東側)の後ろのほう。自分のカバンをそのあたりに置いていたので喉を潤すついでに座っただけだが、たまたまそこは網戸つきの窓のそばだった。おかげで外からの風で涼むことができて ずいぶんと助かった。正座している門人の全体を見ると約5列にまで増えている。
せっかく身体が軽く動いているからには、本音を言えば流れが消えないうちに私の審査をしてほしいくらい
だ。が、残念ながら1級審査は最後となる。集中した気持ちを切らさないように、と思った。
まずは男性の5級審査から。ささの葉の会員で受けるのは廣田景一さん。次に女性の4級審査を挟み、男性の3級審査が行なわれる。ささの葉からは坂東克則さんが、清道館からは佐藤さんと岡田さんが出た。最前列の左端で審査の様子を撮影する永山春菜さんに加え、このときは列の右端のいちばん前から井上清恵先生がカメラを回し始めた。そのあとに女性の審査が続く。
他の人の審査を正座して静かに見ているといきなり動悸が激しくなった。〈なんだ、自分もちゃんと緊張す
るんじゃないか〉と、胸がどきどきするのを感じながら少し安心した。ひとまず下丹田を意識して深い呼吸を
繰り返す。そのうちに鼓動は落ち着いていった。
中野さん、と内田先生に呼ばれて前へ出ていく。同じく1級審査を受ける大山順平さんとともに内田先生へ
礼。受けとして出てくれたのは前回もお世話になった松下昌裕さんと、日ごろ清道館で一緒に稽古している佐藤さんと岡田さん。5人で互いに礼。審査の順番は甲南合気会の大山さんが先かと思ったら私からだ。両手取りの天地投げを佐藤さんにかける。入身投げ・小手返し、四方投げの表・裏と続く。流れを切らないようにと、そんな想いだけが胸にあった気がする。一教の表を岡田さんにかけていく。息を吐きながら ふだんよりゆっくりと岡田さんの手首を畳につけた。次の一教の裏は技をかけた弾みにギャラリーの最前列の右端あたりの人のかなり近くで固めをすることになったものの別に何も焦りはしない。落ち着いて立ち上がる。続く二教の裏のあとは正面打ちの一教の表と裏、二教の表と裏。二教の裏の固めでは、両手の指を手刀のように揃えて伸ばす(または反らせる)のではなく、大きめのボールを握り潰すように五指を軽く曲げて強く張りを持たせるという方法を、なぜか独りでに身体が行なっていた。こうすると受けの腕や手首をきっちりと締めつけることができ、さらに受けの腕を極めた自分の身体がよりまとまるように感じられる。誰に教わったわけでもなく、いま
まで思いつきもしなかったのに、自分の身体が自然とそんな工夫をしていたことに あとで気づいて何とも不思議だった。審査という、独特の緊張と集中を強いられる場だからこそ起きた現象だったのかもしれない(なお、手や指を強く張るよりも、形は同じままで手と指の余計な力みを取り去るほうがもっと有効なようだが、いまも検証中である)。——審査は続いている。正面打ちの三教の表と裏、そして入身投げと続く。右の手刀をさっと挙げて右半身であることを示し、松下さんに技をかける。正面打ちから入身に入る際は取りと受けの手刀の接した部分が いったん天へ上がる形になる方法もあるが、私はそうせず、接した部分を大事にしながら右肩を抜き、左半身に差し替えながら身体を薄くして入身に入る。そのあとの小手返し、四方投げの表、内回転投げ、内回転三教の表をかけたところで「後ろ両手取り四方投げ」と内田先生の声を聞く。四方投げの表と裏をかける。その直後の入身投げは掌を地に向けた左手を佐藤さんに対してさっと出し、右手を取らせる前に受けの背中へ抜けて投げた。動き続ける自分の身体に硬さも重さも感じない、ただ流れに乗って動けている感触だけはある。切れ目なく動き続けられるなら技がうまく出来なくてもかまわなかった。小手返し、二教の裏と続く。横面打ちと中段突きの技も一通り稽古したけれど、次の取り手は肩取りだ。入身投げ・小手返し、四方投げの表。そして二教の裏を松下さんにかける。どの技も、自主稽古でさんざん私が受けや解説をしたものばかり。最後の座技呼吸法は引き続き松下さんに受けてもらった。そのあと大山さんの審査の受けをして、すべて終えて列に戻るときにはもう喉がからからになっていた。
審査のあと、いろんな人から声をかけていただいた。「感動しました」「見ていて涙が出そうになった」と
まで言ってくれた人もいる。でも、それは私の動きが特別に凄いわけではなく、私の動きから何かを感じ受け
取ったその人の力が凄いのだと思う。神吉さんからは「でっかい篠原さんみたいだった」と言ってもらえて、
その一言が なんだかとてもうれしかった。
現代人の常識的な身体の動かし方と比べ、武術的な身体の遣い方には面白さと難しさの両方がある。〈こんな身体の遣い方があったのか〉という驚きが、私を武術の世界へ惹きつけて離さない。「半年後には初段だね」と何度となく言われたし、さすがに初段審査のことも意識はしている。とはいえ、 段や級が欲しくて稽古をするわけではないのも確かだ。なぜ合気道を続けているのかと改めて考えてみても、浮かんでくるのは〈面白いから〉という答えぐらい。もう少し別の理由がありそうな気もするけれど、合気道をするのに ややこしい理由など あってもなくても かまわないと思う。どっちでもいい、なめらかな稽古をするのに差し障りはないはずだ。
だから、審査が過ぎたくらいでは私の稽古は終わらない。