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2019年清道館合同合宿の様子

6月15日(土)ー16日(日)に淡路島で行った、合同合宿の様子です。

すがすがしい場所で、気持ちよくお稽古しました。

「心が風邪をひいた日」(@井上英作)

ほぼ毎日、同じ店で昼食を食している。その店は居酒屋で、750円の日替わり定食にコーヒーが付いているため、いつも近くで働くサラリーマンたちでにぎわっている。その店では、なぜかBGMがお琴で奏でられる歌謡曲で、そのことが、僕を少しだけ喜ばせてくれる。

その日、いつものように、その店で昼食を取っていると、お琴で演奏された、「想い出のセレナーデ」(1974年、@天地真理)がかかった。僕は、この曲がとても好きで、その日は、午後からずっと僕の頭の中でリフレインされた。仕事を終え、僕は、すぐにPCを立ち上げ、ユーチューブでこの曲を繰り返し聞いた。そうすると、ほとんどの人がそうだと思うが、この曲周辺の曲も聞きたくなってくる。気が付けば、僕は、太田裕美の曲ばかり聞いていた。「木綿のハンカチーフ」、「雨だれ」、「赤いハイヒール」…etc。これらの曲を聴いているうちに、僕は、以前録画した「名盤ドキュメント」のことを思い出し、「心が風邪をひいた日」(@太田裕美)を特集した回を見なおしてみることにした。この「名盤ドキュメント」というのは、NHKで不定期に放送されるもので、当時の「名盤」の録音テープを基に、その作品がいかに「名盤」であるかを、当時の制作に関わった人たちの証言で構成されている。過去には、「風待ちろまん」(@はっぴいえんど)、「ソリッドステイトサバイバー」(@YMO)、「ひこうき雲」(@荒井由美)などが取り上げられ、いつも大変興味深く観ている。

ロック少年になる前の僕は歌謡曲小僧だった。テレビで放映される歌謡番組は、ほとんど観ていたし、それに飽き足らず、ラジオでも歌謡曲を聴いていた。そんな僕にとって、一番のお気に入りは、太田裕美だった。僕は、太田裕美の歌が大好きだった。いや、正確に言うなら、太田裕美が歌い上げる、作詞家松本隆の世界観に僕は魅了された。

「心が風邪をひいた日」は、太田裕美の3枚目のアルバムで、彼女の代表作「木綿のハンカチーフ」が収録されている。いろいろなファン、制作者が、このアルバムの凄さについて、熱く語り合っていた。しかし、どのコメントも決して的は外れてはいないものの、なにかしっくりとこなかった。子供のころの僕は、どうしてこれほどまでに、太田裕美が歌い上げる作詞家松本隆の世界観に魅了されたのか?。そして、数あるラブソングの中から、どうして太田裕美の作品だけを選択し、さらに、どういわけか、松本隆の描く「女の子」に感情移入してしまうのはなぜか?僕は、このことへの答えがほしかった。そこで、僕は、世界で僕のことを一番知っている嫁さんに、この質問をぶつけてみた。近所の居酒屋「うおのや」で、延々とどうでもいいこんな話に彼女を付き合わせ、いろいろ話をするうちに、だんだんとこの「問い」の輪郭がはっきりと見えてきた。

僕の通っていた小学校は、2年ごとにクラス替えが行われた。子供のころから、お調子者の僕は、特に、人間関係で悩んだ経験などないのだが、小学校3年生~4年生のころは、特に親しい友人がいなかったような気がする。つまりそれは、1974年~1975年のことである。今でも、鮮明に覚えている風景がある。それは、そのころの夏休みの暑い日だった。適当に誰かを誘い遊びに行こうと、何人かの同級生の家に行ったのだが、その日は、誰一人いなかった。その日は、本当に暑く、町には誰もいなくて、ゴーストタウンのような様相を見せていた。僕は、一人で、炎天下の中、どこに行くともなく、少し遠くまで行ってみたくなり、自転車で隣町まで出かけた。自転車に乗りながら、「今、自分は、世界でたった一人だけなんだ」、そう思うと、僕は大きい声を上げて泣き出しそうになった。また、そのころの冬の景色。伊丹高校のグランド沿いの道を、ぴゅーぴゅーと北風が吹いている中、ぶるぶる震えながら自転車をこいでいると、電信柱に、切り取られた段ボールに貼りつけられた、映画「ジョニーは戦場へ行った」のポスターが、くるくるとちぎれそうに、曇り空の下で舞っていた。僕は、「いちご白書をもう一度」の一節「雨に破れかけた街角のポスターに~」(@荒井由実)みたいだと思った。僕は、おそらくこのころに「孤独」というものの存在を知ったのだと思う。この「孤独」というキーワードが、この問いを解決するための大きな手掛かりだと確信し、僕は、少し興奮した。

太田裕美の歌う女の子たちは、みな等しく孤独である。「雨だれ」(1974年)では、「ひとり、雨だれはさみしすぎて」と告白し、「木綿のハンカチーフ」(1975年)では、相手の恋人に「僕は、僕は帰れない」と別離を宣言され、「赤いハイヒール」(1976年)では、「さみしがり屋の打ち明け話」と自分のことを認めている。もちろん、作詞は言うまでもなく、松本隆である。

松本隆は、はっぴいえんどを解散後、ドラマーとしてではなく、作詞家として生きていく道を選んだ。以前、何かで、その「転換」について、周りでは、随分と非難され、たくさんの人たちが去っていったというのを聞いたことがある。太田裕美の仕事は、プロの作詞家としてごく初期のものである。当時の、松本隆の「孤独」がいったいどれほどのものだったかは、本人にしか分からないが、相当なものだったろうと容易に推測できる。松本隆は、その孤独を、「女」になる直前の「少女」を通じて表現した。僕は、どうやら、問いの立て方を間違っていたようで、僕は、「恋する女」に感情移入してしまっていると思い込んでいたが、そうではなくて、「孤独な少女」に感情移入していたのである。「少女」と「少年」という、大人と子供の間にある、ほんのわずかな瞬間を、「孤独」を媒介として、僕は、松本隆の世界にアクセスしていたのである。そして、このことが、僕という人格の基礎を作り上げたのである。