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2023年9月8日(金) 桃谷道場

少しだけ秋を感じた朝だったが、稽古が始まる頃にはすごい湿度。やっぱり暑い。

呼吸法の前に、全身の緊張を取るための体操。手と上体を完全脱力して、股関節を左右に振ることでぶらぶら回したり、股関節を回すことで腕を八の字に回したり、をやってみる。本当に力というのは抜いているつもりで抜けないものである。

養生あんまのあと、呼吸法で下丹田に、身体に通したすべての氣を降ろし重心をそこへ。

剣を振る 正面、前後斬り

肩どり 天地投げ、呼吸投げ、一教表裏、二教裏、入り身転換で相手を抜けて角落とし、振り返るだけの呼吸投げ

大型の台風11号が関東地方に接近しているらしい。台風の天気図を想像してほしい。「台風の目」は臍下丹田にある。そこを中心に時計回りに外へ外へと、指先のその先へ氣の流れは強い遠心力で開いていくのだ。

今日も楽しいお稽古でした。今日も精いっぱい稽古した、というだけで「今日の業をなし終えた」と思えるから不思議なのです。

「ネイティブ・アメリカン」~アメリカ先住民の苦難と今~  寺子屋ゼミ発表3/19 井上

先日、凱風館寺子屋ゼミで発表しました内容を、せっかく(苦労した)ので僭越ながら掲載します。
興味のある方はどうぞ。(長いです)
太字はレジュメ記載
*資料(や図等)について(アナログなため)ここには添付できないものがありますのでご了承ください。レジュメ・資料はお申し出くだされば差し上げます。

「ネイティブ・アメリカン」 ~アメリカ先住民の苦難と今

1. テーマについて ・・・高橋さんの発表を受けて
「我々は他の大陸から渡ってきたのではない、ここ(アメリカ大陸)が起源である」

アメリカンインディアンと日本人はそのルーツを同じくするとはすでによく言われていることで、前回の高橋さんも発表されたとおり、数万年前、ロシアのバイカル湖の湖岸から、マンモスを追って東に向かい、ベーリング海陸を渡ってアラスカにたどり着いた狩猟民族が古代のパレオインディアンとなり、同じバイカル湖東から南下して日本列島にたどり着いた狩猟民族が縄文人となったと言われていて。我々とアメリカの先住民とは顔や肌の色がそっくりなのもさることながら、言語や習慣・宗教儀礼などにも、似たようなものが残っているようです。
もともと縄文文化に興味があったこともあり、今年のゼミのテーマが発表された時点で、もし自分に発表が回ってきたらアメリカンインディアンについてやってみよう思っていましたので、僭越ながら高橋さんの後を受けてトライしてみることにいたしました。

科学的一般論としては彼らの祖先は大陸から渡ってきたということですが、当の先住民たちは、自分たちの先祖はよその大陸から渡ってきたのではなく、あくまでもこのアメリカ大陸に起源を持つといいます。
実際、考古学的証拠が極めて少なく、連綿と語り継がれてきた諸部族の伝説では、天から降りてきたり(イロコイ族)、地下や海から上がってきたり(プエブロ、ナバホ族)、または木の洞穴から現れた(カイオワ族)、というものが多いようです。

2. 「苦難の歴史」 合衆国建国以前   資料1)図1)
1) 1492年 コロンブスの「新大陸発見」以前
*住民人口500万~1000万人 →1890年25万人  400以上の言語と社会集団 →150語以下

1492年にコロンブスがやってくるまで、アメリカ大陸には700万から1200万の先住民が暮らし、400以上の言語と、それを話す同数の社会集団がありました。1890年までの約400年で人口は25万人に、言語も150語以下に激減。

*元前1000年前~ 自然と共生、高度で複雑な社会
大陸発見のはるか前、紀元前1000年ごろには、先住民は北アメリカ各地ですでに高度で複雑な社会を築いていました。地域によって大きく異なる自然環境に適応して生かし、部族ごとに個性豊かな暮らしを営んでいました
部族間では同盟をいくつも結び、幅広いネットワークで様々な交易をしていていました。信仰は生活の中心で、季節ごとに複雑な宗教儀礼を行い、聖地を崇拝し、祖先・動物・植物に宿る霊的存在と交流し、メディスンマンと呼ばれるシャーマン的賢者を中心に社会秩序を構築し、理にかなった子育てをしていました。

*族間同盟(例:イロコイ連合)、交易ネットワーク、信仰と宗教儀礼、‶メディスンマン″理にかなった子育て、合議制政治、土地は共有
政治は合議制で 指導者は多数決や世襲ではなく、能力を重視した合議で決定、土地はあくまでも“集団”の所有であり、部族間では争いもありましたが、どちらかの部族が殲滅されることはなかったといいます。 (*)イロコイ連合:15C前半ニューヨーク州カナダモンタリオ州に住む5部族(モホーク、オネイダ、オノンダガ、カユーガ、セネカ)の政治的連合

2) ヨーロッパ人到来
・・・ 先住民はヨーロッパ人を「客人」として  ヨーロッパ人は先住民を「野蛮人」として  自然の大地=空地

部族ごとに文化が異なって当然だった先住民は、ヨーロッパからの渡来人に対しても当然の儀礼として、まずは暖かく迎え客としてもてなし、対等な交易相手とみなしましたが、渡来したヨーロッパ人は彼らの高度で複雑な文明を理解することはなく、その容貌や言語、慣習や宗教が自分たちとは違うという理由で、「野蛮人」とみなしました。

3) 主な列強の北米植民地政策
以降、列強による植民地競争が始まります、ヨーロッパ勢の先住民との接し方は多種多様でしたが、当初は数で勝るインディアンの協力を得ずにはどの国も新天地で生き残ることはできなかったといいます。

①スペイン:米大陸南部、カトリック改宗目的、金銀鉱山、奴隷、「先住民は野蛮」レッテル、 『インタカルエラ 1943年』
スペインはインディアンをカトリックに改宗目的、主に大陸南部に次々と布教所をつくり、金・銀鉱山で先住民を強制的に働かせたり奴隷として売ったりし、これを正当化するため、「インディアンは野蛮」というレッテルを最初にヨーロッパに流布します。ポルトガルと派遣を争い、教皇が発布した勅令「インタカルエラ」 で優位に立ちましたがフロリダ割譲、メキシコ独立で失敗に終わります。
(代わりにポルトガルはブラジル&アフリカを   トルデリシャス条約1494年)
南米では成功、(コルテスアステカ王国  やピサロ インカ帝国)したものの北米ではフロリダ→アメリカに割譲、メキシコ→独立し終焉

②フランス:「点と線」  東部森林地帯 水脈沿いに交易所、先住民と毛皮交易(ビーバー⇔銃器) 協力と同盟 最も友好的
フランスは毛皮交易で東部森林地帯の水脈を制しながら点々と交易所を置き、当時フランス上流社会で流行していたビーバーの毛皮と銃器と交換する交易を先住民とおこない、これには広大な土地も、恒久の入植地の開拓も必要なく、逆に先住民の協力が必須だったため、列強中最も先住民に友好的だったと言われています。部族と同盟関係を結びつつ、部族同士の敵対関係を巧妙に利用します。この点を線で繋ぐようなフランスの交易は、次のイギリスによる「面」をじわじわと拡げるようなやり方に凌駕されていくことになります。

③イギリス 第一陣:1607年ヴァージニア州ジェームズタウン 「面」の植民地経営  「清掃と植民(クリアランス&プランテーション)」
イギリスの植民地は1607年にヴァージニアのジェームズタウンで第一陣が始まります、阿部珠理氏によると、フランスの点と線に対しイギリスは「面」の植民経営でした
フランス・スペインは国王がお金を出すのに対し、イギリスは議会が財布の紐をにぎっており、君主が特許状を出し、冒険的貴族が入植地の建設運営、野心的中流商人層が入植合弁会社に私財投入する、というやり方で、典型的なのがウォルターローリー卿によるロアノーク島植民地計画
大量にやってきたのは毛織物工業が発達した本国を追われた農民たちで、植民地を経営する貴族は先住民に武力を誇示して強引に土地を割譲させ、抵抗すれば殲滅して清掃クリアランスし、そこへ本国からきた移民を移植プラントしていくという植民地経営で、じわじわと「面」を拡げるように先住民は土地を奪われていきます。強い酒に酔わせて契約を結ばせたり、先住民が珍しがったビーズなどのガラクタや、水で薄めた酒を土地と交換させる、などのやり方で、マンハッタン島はビーズ玉と交換し、ただ同然で手に入れたと言います。

④イギリス 第二陣 1620年ニューイングランド プリマス  ‶巡礼始祖ピルグリムファーザーズ″ 資料2)
・・ピューリタン:厳格な聖書原理主義 資料6)  国家起源神話 「感謝祭」
厳格なカルヴァン主義を信仰し、その苦難をともに分かち合い信仰のために前進するピューリタンの「巡礼始祖」 は、その上陸前に、明確な文字にした誓約書「メイフラワー・コンパクト(メイフラワー号の誓約)」資料2)を交わし、神に選ばれた民セイントは、彼らの信仰に反するものの断罪は当然の使命であるという志で植民地を拡大し1643年にはニューイングランド植民地人口15000人中セイント1708人という階層社会を形成します
そこの先住民ピクォート族が彼らに警告するためイギリス人二人を殺した仕返しに、600人を惨殺したピューリタンは、「異教徒の悪魔たちが地獄の窯にくべられた」ことを神に感謝しました(1630年)
「感謝祭」 ・・・農耕・漁業をインディアンから学び、最初の収穫を祝った
前回話題に上がった感謝祭は、プリマス初期の両者に起きたいい話を、合衆国独立後に、アメリカ国民統合のため掘り起こされた、国家起源の神話でした。
上陸当初のプリマスでは、ピューリタンたちはインデアンと有効的関係にあり コーンやパンプキンといった農耕や漁の仕方をインディアンから教わり、その最初の収穫をともに祝った、というのがいわゆるアメリカで毎年11月に祝われる「感謝祭」の起源と言われています。が、この「感謝祭」が国民的休日として祝われるようになったのは、アメリカ合衆国建国以降でした、アメリカが国家として出発し国民的統合が緊急の課題であった時に、プリマスでのこの“いい話”(本当にあったがその後の感謝祭の始まりかどうかは不明)がアメリカ人の共通の物語として位置づけられ「、国家起源神話」として補強されアメリカ人に浸透していきます

4) 「病原菌の処女地」に持ち込まれた病気の衝撃
*戦争を上回る猛威  100年で 人口→30~10%  死亡率100%  子供と老人 (未来と知識)が ‶一夜にして消えた″
ヨーロッパ人が「病原菌の処女地」であるこの大陸に接触してから、最初に先住民を襲ったのは、彼らとその家畜が持ち込んだ病原菌、疫病でした。
最初の100年で戦争や虐殺を上回る猛威で、驚愕する数のインディアンが死亡、人口は30%を下回るまで激減しました
天然痘、ペスト、コレラ、マラリア、黄熱病、といった疫病の 二つ、もしくはそれ以上が同時に襲ったといいます。
ひとたび感染者が出ると、経験も免疫も知識もない村から村へ爆発的に拡がり、場所によっては死亡率は100%に(例:イスパニョーラ島800万人→ほぼゼロ、天然痘:カリブ諸島半減・ロアノーク植民地死亡率95% ニューイングランド7万人→1.2万人)
とくに弱者である子供と年寄りはひとたまりもなく、子供という共同体の未来と、年寄りの口伝で語り継がれる彼らの歴史、文化、民族の知恵や知識のすべてが、一夜にして消滅したといいます。指導者たちも病に倒れ先住民部はその重要な担い手を失い弱体化します

*人が居なくなった土地→植民地化を容易に ピューリタン: 「清掃」  ‶神は病原菌を遣わし、自らの手を汚すことのないよう土地を空けてくれた″
こうして人が居なくなった村に後からやって来ることで、先住民と接触することなく容易に植民地化できたピューリタンはこの事態を
神による「清掃」 と称し ‶神は病原菌を遣わし、ピューリタンが自らの手を汚すことのないよう、土地を空けて(クリアして)くれたのだと考えた″と考えたと言われています(オブライエン・G)資料2、資料6
このピューリタンたちがやがて中心となってやがてアメリカ合衆国は独立を果たし、建国の立役者WASPの始原となっていきます。
「選ばれしピューリタン」は神への奉仕としての労働、勤勉、質素倹約により富の蓄積を重ねて社会資本を充実させて資本主義を勃興し、やがて世界大国へと成長していくその過程で、先住民はいかにして土地を奪われ、どれほどの犠牲を強いられていったのでしょうか。

3. アメリカ合衆国の 「清掃(クリアランス)」政策 ・・・イギリスの政策を引き継ぐ 契約と反故

イギリスから独立したアメリカ合衆国も、基本的にはイギリスの「クリアランス政策」を引き継ぎ、さらに先住民の土地を取り上げるため、表向きは契約を結びながら、不利な条件は反故にしていきます

1) 「合衆国インディアン局(BIA)」創設(1824年) 図2)

*平和共存路線  →強制移住/同化政策 の急先鋒 (現在:部族自治権尊重をモットー)
1824年、対インディアンの政策と交渉の拠点として、合衆国インディアン局BIAが創設されます。
当初、平和共存を目的に作られたBIAでしたが、まもなくその路線は先住民の強制移住と白人社会への同化政策に変更し、その急先鋒となります(現在:部族自治権尊重をモットー)

2) 「インディアン強制移住法」1830年 アンドリュー・ジャクソン大統領(1829年就任)
*ミシシッピ以西の不毛原野:「インディアン・テリトリー」(現オクラホマ州)」へ10万人  図3)-①②

1829年アンドリュー・ジャクソン大統領が就任すると、その翌年、「インディアン強制移住法」が制定され、インディアン諸部族を肥沃な父祖伝来の土地から、ミシシッピ以西の広大で痩せた不毛な土地、現オクラホマ州のインディアン・テリトリー
へ立ちのかせる法律が国家によって承認され、約10万人の先住民の強制移住が始まります

*抵抗の戦い:ブラック・ホーク、「涙の旅路」1838-39チェロキ-&クリーク族、 「ナバホのロングウォーク」1862
①ブラック・ホーク
サック族首長のブラックホークは承諾なしに売却された土地から立ち退くことを拒み政府軍に抗戦、制圧され部族の大半は殺害
②「涙の旅路」
チェロキーとクリーク族は、1838-39冬 インディアン・テリトリーへ千キロを超える道のりを強制移住、政府は十分な準備をせず、飢えと寒さの中コレラが蔓延 75000人が旅の途上で死亡します(1/4)
③ナバホの「ロングウォーク」1862年
ニューメキシコ州のナバホ族に対しては、わざと作物や家畜に大被害を与えて土地の明け渡し同意に追いこみ強制移住させます凍てついた雪と岩の道350マイルを歩かせ、疲れや病気で動けなくなったものを射殺し、移住先でも飢えと寒さに耐え忍ぶ暮らしでした

3) バッファロー大量殺戮 1800年~1895年  平原インディアンの「命の糧」
*‶皮1枚3ドル″を職業・趣味とする白人ハンター殺到  4000万頭→1000頭~300頭以下
1800年ごろ平原インディアンにとって命の糧であった、バッファローの大量虐殺が始まります。
1枚たった3ドルのバッファローの毛皮を手に入れるためだけに、これを職業や趣味とする白人ハンターが殺到し、1800年には4000万頭いたバッファローはほぼ全滅します

*「できるかぎりのバッファローを殺せ、バッファロー1頭死ぬ度インディアンが一人死んでゆく」(ドッジ大佐)
というドッジ大佐の言葉のとおり、生きるのに必要なすべてをバッファローから得ていた平原インディアンは、一気に追い詰められていきます。
インディアンは食料を得るために一頭のバッファローを苦労して狩ると、アイヌのイヨマンテのように、宗教儀礼をもってその魂に感謝をささげました。ハンターが去った後の平原は、皮だけを剥がれたバッファローの腐った死体で埋め尽くされたといいます。

*仕事を奪われた男性先住民 →部族内権威・存在感の喪失、アルコール依存症、部族内秩序崩壊
家族のために獲物をとってくるという伝統的な役割を奪われたインディアンの男たちは部族内での権威と存在感を失い、自尊心を失ってアルコール依存症に陥り、部族の政治的秩序が崩壊していきます。

4) 居留地=「強制収容所」での隔離と貧困
*バッファロー消滅・農耕不可→生活困窮→生活保護・配給・出兵  南北戦争1861-65年
制移住先の辺境で待っていたのは、隔離された生活と、宣教師たちによる改宗でした。
居留地は「強制収容所」と称され、毎朝出頭して所在を確認、居留地の外に自由に移動することは禁止、アリゾナ州では勝手に外へ出た先住民の射殺が認可されていました
バッファローが取りつくされ、痩せた土地では農耕もできず、極度の貧困に陥った先住民は、連邦政府の生活保護と配給に頼らざるを得なくなり、男たちは南北戦争に駆り出されていきます。
両軍ともに多数の先住民が従軍したが、どちらについても悲惨で、部族は引き裂かれ男たちは命を落とし、家や村は焼き払われた

5) 「ホームステッド法」1862年  西部開拓一気に加速 →インディアン居住地の崩壊
*開拓者の群れ、ゴールドラッシュ、森林伐採、 大陸横断鉄道完成、疫病
1862年「ホームステッド法」以降、さらなる開拓民が押し寄せ、ゴールドラッシュは先住民をどかせ、森林は許可なく伐採され、 マラリアで二万人が死亡、大陸横断鉄道が完成してフロンティアラインが一気に加速、人の群れと鉄道と疫病がインディアン居留地を横断し、フロンティア消滅までの30年で崩壊の一途をたどります

6) 無数の抵抗戦と殺戮 ・・・1864~75年 全米で1000件
白人と先住民の関係は劇的に悪化し、各地で先住民の抵抗と反乱がおこります。無数の戦争、制圧と殺戮が繰り返されて、1890年まで止むことなく続き、全米で1000件に上りました。代表的なもののうち、3つのみ

①「サンドクリークの戦い」1864年コロラド 映画『ソルジャー・ブルー』1970年 資料3)
その一つ「サンドクリークの戦い」は、インディアンに対する戦争犯罪中、屈指の残虐行為とされるもので、その史実を再現したのが、前回、内田先生が仰っていた:映画「ソルジャーブルー」ですが、実際は映画の何倍も残忍だったことが、資料3)米軍指揮官通訳ロバート・ベントの証言からわかります。
コロラド州サンドクリーク インディアンを嫌悪するシヴィントン大佐11月末重装備のコロラド兵800名を率いて、野営中のシャイアン族がアメリカ国旗を掲げて友好を示していたにもかかわらずこれを襲い、100人を超える婦女子と20人を超える男たちを惨殺。

②「リトル・ビッグホーンの戦い」 1876年モンタナ 、インディアン最後の勝利戦  ‶死ぬにはよい日だ″ロー・ドッグ(スー族指導者)
1876年、「ララミー砦条約」の連邦政府による反故が原因でラコタ・スー族とカスター中佐の軍が激突、先住民側が勝利した最後の戦いでした(指導者クレイジー・ホース、シッティング・ブル)が、 米軍カスター中佐の死は白人を激怒させ「カスターの死を忘れるな」という合言葉を生み、インディアン破滅へ油を注ぐことになってしまいます スー族指導者ロー・ドッグの「死ぬにはよい日だ」という言葉が有名

③「ウンデッド・ニーの大虐殺」1890年サウスダコタ で終焉    よいインディアンは死んだインディアンだけだ″FHシェリダン将軍   → ベトナムW
先住民の武力による抵抗も1890年のウンデッド・ニーの大虐殺で終焉を迎えます
ラコタ・ス―族の宗教儀礼ゴーストダンスの異常な盛り上がりに脅威を感じた米軍は、「カスターを忘れるな」と叫びながら、部族の男女子供300人を惨殺
「よいインディアンは死んだインディアンだけだ」 FHシェリダン将軍1869年
→ベトナム戦争時「よいベトナム人は死んだベトナム人だけだ」 という言葉に引き継がれたと言われ、アメリカ人の無反省をうかがわせる

7) 分割と同化 = 土地を取り上げる・インディアンの誇りと魂を殺す
軍事力による制圧だけでなく、連邦政府は数々の同化政策によって、インディアンの文化とアイデンティティを根こそぎにしようとしました。ここで「インディアンの子育て法」について少し触れておきたいと思います

*「インディアンの子育て法」
先住民の文化は多様でしたがどの部族も子育ては同じでした。
大人の都合に合わせた段取りよりも、子供の願いに答える方が大事とされた。トイレのしつけや離乳の時期については子供がその気になってから行われ、走ったり泳いだり馬に乗ったり自然の中で自由に遊びながら学び、疲れたらいつ寝ても、いつ食べてもよく、知恵と知識の宝庫である祖父母から歴史や伝統を学んだ。大人は子供を叱ったり強制したりせず、規範に外れないよう最小限の指示をするにとどめ、やがて思春期を迎えた子は部族伝来の通過儀礼を経て大人になっていきました。
この素晴らしいインディアンの子育てに対し、米連邦政府とBIAが打ち出した最もひどく、かつ効率の良い同化政策
が「寄宿学校」制度でした。

*「寄宿学校」1870年  (~1934年「インディアン再組織法」まで) 保留地内85校/外25校
‶インディアンを殺し人間を救え″(カーライル実業学校モットー)
インディアンの「標(サイン)」を消し去る →アイデンティティの抹殺  トラウマと暴力の連鎖 高い自殺率 資料4)
BIAは1870年先住民の”文明化”に部族単位の集団生活が最大の障害と判断→イの子供を強制的に寄宿学校に入れる政策に出ます。
家族・コミュニティから子供を引き離して再教育し、親が拒否すれば食糧配給を止め、子供を隠せば警察が引きずり出して連行、キリスト教への改宗と、男子は農民や労働者、女子は白人家庭の家政婦にするための職業訓練が主で、高等教育はなく、社会へ出ても最下層に組み込まれていきました
カーライル寄宿学校のモットーは「インディアンを殺し人間を救え」で、その神髄は「インディアンであることの「標(しるし、サイン)」を徹底的に消し去ることでした
インディアンの命が宿る大切なしるし「長い髪」が切られ、「民族服」は洋服に、英語名をつけられ母語は禁止、返事しなかったり母語を一言でもしゃべると、強アルカリ石鹸で歯を磨かされ口の中がただれました。隔離され、規則違反・脱走すると、女子は上半身裸にされ互いに鞭討つ、といった残酷な体罰や折檻がなされました。
地獄のような晴天の霹靂に耐え切れず、「魂」を抜かれて廃人同然になる子、幼い子は淋しさから摂食障害で餓死、ある寄宿学校のはずれには500人もの子供が埋葬されているともいわれています
寄宿学校を生き延びた後もトラウマで苦しみ、暴力の連鎖を生んで家庭内暴力や女性虐待、アルコール依存症となった例も多く、先住民の自殺率が全米平均より高い原因の一つとされます。資料4)
しかも寄宿学校政策は安上がりで、対先住民戦争にかかる1/4の費用で三万人の子供を同化できました
英語教育によって、400種あった言語のうち、若者が話せる母語は35種に、寄宿学校から居留地に帰ってきた子供たちと旧世代との間には言葉の壁から軋轢が生まれます。
が、英語が話せることが皮肉にも若者にとって、後の人権回復運動や自決の闘いの武器となっていきます。

*「一般土地所有法”ドーズ法」1887年  部族の土地を減らす・・・共同体の細分化と破壊、 「部族員名簿」 :公の家系図
1887年一般にドーズ法と呼ばれる法律が制定されます。
居留地の土地を細分化して分け与え農民にするというもので、移住先の先住民共同体を、さらに体よく解体することが目的でした。土地は切り刻まれて先住民に与えられたのは痩せて農業に不向き、信託期間の25年は貸借・売却禁止、 25年たっても発生する財産税は貧困で支払えず、結局二束三文で売却、土地は細分化され解体、共同体は破壊されていきました。
この時、土地を分けるにあたって誰がどこの先住民であるかを明確にするため、血筋をベースとした「部族員名簿」が作られました。この時作られた名簿が後々まで「公の家系図」として基礎づけられ、以降加えたり修正されることはないまま、部族員認定のための絶対的な証拠として現代まで使われていくことになります。

8) ‶光が差す″   「インディアン再組織法」1934年   ‶インディアン・ニューディール″ ジョン・コリア- 連邦インディアン局長就任 資料7)
20世紀に入りようやく光が差し始めます
*部族政府組織化と自治権の強化、連邦・州政府と相互的な関係:部族政府設立、部族憲法・部族政府議会、寄宿学校廃止、強制せず住民投票
1928メリアムレポートと呼ばれる、居留地の窮乏生活を白日の下にさらし、BIAを厳しく非難した衝撃的な報告書が登場します、この流れのなか、
1933ルーズベルト政権が誕生、ニューディールの追い風にのり 連邦インディアン局長に就任した改革者ジョン・コリア-は
「インディアン再組織法」いわゆるインディアンニューディールなる改革法案を成立させ、強制収容所といわれた居留地にようやく光が差すことになります。
再組織法とは、部族政府の組織化と自治権の強化 連邦政府・州政府との対等で相互的な関係を回復しようというもので、 寄宿学校がここで廃校になり、ドーズ法は廃止、インディアン局に先住民職員を増やし、部族ごとに自治政府を設立、部族憲法制定し部族政府による議会制民主主義を促進するものでした。法律の採用については部族の住民投票にゆだねて強制しませんでしたが、全部族の2/3が採用します
再組織法は、ドーズ法による土地の喪失は食い止めましたが、先住民が失った土地のすべてを取り戻すには程遠いもので、
政権が変わると、ふたたび同化政策が復活、さらに状況は悪化することになります

9) 「終結政策」と「転住プログラム」  ~終わらない同化政策
*「連邦管理終結政策」1953年 ディロン・メイヤー インディアン局長就任 ‶部族の自立促進・自由・平等″
居留地を分けて個人所有へ→収税対象、援助廃止、部族の解体、部族員資格喪失、自立支援・インフラ整備約束→反故
1953年:ディロン・メイヤーがインディアン局長に就任し「インディアン終結政策」を打ち出します
名目上は‶部族の自立促進・自由・平等″でしたがその内実は、同化政策への逆戻りでした
これにより、再び居留地は細分化され、部族員の個人所有が復活、政府は土地を与えて援助は打ち切り、代わりに職業支援・インフラ整備を約束します、部族は再び解体され、所属する部族を失った多くの先住民はこのとき部族員資格を失います。
先住民の権利を捨てさせ、マイノリティの一般市民にするこの政策は、居留地の援助や開発予算の削減が目的で、ほぼ強制的に施行されました
見返りとして約束された職業やインフラ整備の支援はなく、個人所有となっても結局土地を生かせず生活が改善されることはなく、収税義務だけが発生した土地の税金を払えず、多くは売却せざるを得ませんでした。(これによって約10年で109部族が承認を取り消され、130エーカーの土地が売却され、先住民12500人が部族員資格喪失したといわれます)

*「インディアン転住プログラム」 ‶豊かな暮らしを求めて″都市移住推進  居留地との繋がりを絶つ  →部族社会の空洞化
スラム街、孤独、陰湿な人種差別 →適応できずアルコールやドラッグへ *「ジム・クロウ法」1876-1964
仕事がなく貧困にあえぐ先住民にBIAは、終結政策の一環として、都会への移住を勧める策に出ます
片道切符代・引っ越し費用・短期の生活費等々を餌に、都市部への転住を促し、仕事は軍需工場の単純労働等を斡旋、転住先として指定されたスラム街での孤独な生活で待っていたのは、縁者に囲まれた居留地では感じることのなかった激しい人種差別でした。適応できずアルコールやドラッグへ走る先住民が多数発生しました。
BIAの真の狙いは、出稼ぎではなく都市に永住させることで 居留地との繋がりを絶ち、部族社会を空洞化させて、居留地に根強く残るインディアン文化を完全に消すことでした

(*)都市での人種差別―「ジム・クロウ法」:有色人種(レッドも含む)を白人から病院・学校・交通機関等全域において隔離 1865年奴隷制廃止→南部諸州が次々と制定1896年最高裁判所が認める判決以降、1964年公民権法成立まで米の人種関係を規定

*「都市インディアン」の誕生   新たなアイデンティティと民族自決ムーブメント

都市部への転住 →先住民の45%  第二世代の増加 人種差別 →民族的起源を自覚 部族を超えたアイデンティティの磁場
→「汎インディアン運動(レッドパワームーブメント)」、「インディアン自決・教育援助法」1975年:インディアン局の支配と管理に歯止め

「転住プログラム」によって1950年代には、先住民の実に45%が都市部に居住するようになります。その結果、都会で生まれ育ち、居留地も先住民文化も知らない第二世代が増加、 都会での人種差別は彼らに逆に民族的な起源を深く自覚させ、「都市インディアン」というアイデンティティを共有した新たな先住民の磁場が生まれます。居留地との繋がり喪失したことで逆に部族を超えた団結を生み、60年代の全米各地での公民権運動の流れにのって、「汎インディアン運動(レッドパワームーブメント)」 が都市インディアンを中心に起こっていきます
1975年には「インディアン自決・教育援助法」成立 インディアン局の実質支配と管理に歯止めがかかり、
それまで白人側からの被支配者研究でしかなかった「アメリカ先住民研究」が、全米各地の大学で立ち上がり始めます

1961年「全国アメリカン・インディアン議会(NCAI)」 90部族から500人の代表者 先住民の権利回復・将来の仮題を議論
「全国インディアン青年評議会(NIYC)」 公民権運動・ベトナム反戦運動の流れに乗る、よりリベラル色強く活動的で若い世代中心、以降汎インディアン運動の中心的存在に
抗議活動
「アルカトラズ島の占拠」1969-1971 フォート・ララミー条約を盾に「Better Red Than Dead(死ぬくらいなら赤として生きる)」・・・米ソ冷戦中「赤」のイメージから社会主義バッシング
「破られた条約の旅」1972年 1000人以上の先住民西海岸からワシントンDCまで歩く
「ウンデッド・ニーの教会占拠」1973年パインリッジ居留地 (AIM)アメリカン・インディアン・ムーブメントと先住民運動支持者 ウンデッド・ニー:血にまみれた先住民の19世紀の終わりを象徴する場所
→メディアの注目
(1960年代の公民権運動の拠点となったのは全米各地の大学キャンパスーアファーマティブ・アクション(差別是正措置)を取り入れる)

4. 先住民の今
1) 貧困と先住民  ~居留地インディアンの約30%が貧困水準以下  ‶あまりの格差″「別世界」「アメリカの第三世界」 移民との違い
平均年収7942ドル/人 =全米平均の1/3(Jカルト&Jテイラー ハーバード大学)
貧困水準以下の人口が、先住民はどの人種よりも多いことがわかります
あまりの格差に「別世界」「アメリカの中の第三世界」とも言われ・・(映画『サンダー・ハート』では主人公の都会育ちの二世が初めて踏み入った自分の父親の故郷の居留地のありさまを目にして絶句するという場面が出てきます)( 『スモークシグナルズ』)
移民との違い
他の移民は子孫の代で慣れ貧困から脱出の可能性有るが インディアン;最も長い期間貧困から脱却の術を持たず貧困を再生産し続けてきたと言われています。現代も先住民の抱える諸問題の多くは極度の貧困に起因していると言います
ハーバード大学インディアン経済開発センターのJカルト&テイラー教授によると、カジノを有する部族を除く居留地先住民の平均年収7942ドル/人=全米平均の1/3で、24%の住宅には配管設備がなく、家には今もお湯や水、水洗トイレ、湯船もシャワーもないそうです。

*「貧困病」: ‶最も不健康な民族″ 配給品のみの食生活  糖尿病: 「コモディティ(配給)・ボディ」
この極限の貧困と生活の急激な変化が、彼ら特有の様々な病気をもたらしており 「貧困病」といわれ 先住民は全米で最も「不健康」な民族と言われています
高い疾病率は貧困と食生活の変化に起因しています。
貧困にあえぎ、狩猟や農耕といった仕事がなく運動量が激減した先住民は、「支援」という名の政府の配給物資、安価で高カロリーの粗悪な食事に頼らざるを得ず、食生活の急激な「アメリカ化」 が起こります。
かつてはバッファロー/トウモロコシといった主食からビタミンやミネラルも豊富に取っていたが、安価な加工食品に含まれる過剰な脂肪や防腐剤・添加物・砂糖、炭水化物だらけの食事で、肥満した体を彼らは自嘲的に「コモディティ・ボディ」 コモディティ=食糧配給と呼びます。同化政策以前になかった虫歯、肝硬も変急増 最も深刻なのは糖尿病で、全米平均の2.5倍、死因の5.7%、10歳から19歳までの先住民の罹患率は白人の9倍にのぼります、(アリゾナ南部ピマ族:35歳~64歳の女性の85% ネブラスカ州ウィネバゴ族:45歳以上の80%

*高い失業率・狩猟民の自尊心 →軍隊へ
また高い失業率から、軍へ入隊する先住民は多く、インディアン男子にとっては伝統的にコミュニティのために戦士として戦うことで、狩猟民としての自尊心を回復し、アメリカという国家の一員として認められる数少ない選択肢の一つでした。そこを巧妙に政府は利用し、南北戦争以来先住民は二つの大戦(映画『父親たちの星条旗』)、朝鮮、ベトナム、湾岸、イラクといったすべての戦争に従軍し 危険の最前線でアメリカの戦争に貢献してきました

2) 核と先住民  ~先住民の貧困と犠牲の上に  居留地は天然資源の宝庫&核開発の最前線
*第二次世界大戦~冷戦期~現在 居留地でウランを採掘  米ウラン鉱山・原子爆弾生産・実験場・核廃棄物処理場 の90%は居留地に
当たり前のことですが、北朝鮮だのイラクだのの核に騒いでいる当のアメリカ自身、今この瞬間もどこかで最新の核兵器の実験と開発を続けています。その場所こそが「辺境」居留地です
アメリカ連邦政府は不毛、不要の土地に先住民を追いやりましたが、実はその辺境の地こそが天然資源の宝庫であることが後にわかります(シャイアン居留地:石炭、ケチャン居留地:金鉱、ナバホ居留地:石炭・ウラン鉱山)
第二次世界大戦から冷戦期、現在にいたるまで先住民居留地は実はウラン採掘と核開発の最前線でした。
この様子は映画「サンダー・ハート」にも出てきます
原子爆弾の生産と実験場、核廃棄物の処理場、米ウラン鉱山の実に90%は先住民居留地にある
*‶居留地にウラン″は好都合・・・安価で酷使できる先住民  →白血病・ガン続出
居留地にウランが発見されたことは連邦政府にとっては皮肉にも、好都合でした
失業と貧困にあえぐ先住民は、安価で酷使できる労働力だったからです
居留地はウラン採掘によって放射能汚染され、開発企業は十分なリスクの情報開示と防御措置を取らず、先住民に白血病・ガン続出しました

*「ロスアラモス研究所」プエブロ族居留地 ‶秘密の研究所″  「ネバダ実験場」ウエスタン・ショニーニ族
隔離された辺境の地は国家機密プロジェクトの最適な拠点です。、
ロスアラモス研究所
は「秘密の研究所」といわれ、一流の科学者が集結 第二次大戦当時は、ナバホ族が採掘したウラン鉱石がロスアラモスに運ばれて、広島・長崎の原爆の材料となりました
電機も水道もない家が並ぶプエブロ族居留地のすぐそばにあり、実験でときおり大地が揺れ異臭がたちこめるそうです
ダム決壊でウラン流出し6000倍の放射能が漏れ、ガンが増加、1990年までに450人のナバホ族元鉱夫死亡
ネバダ実験場
ネバダではウエスタン・ショニーニ族に連邦政府が土地の所有権を認める条約(ルビー・バレー条約1868年)を結びながら権利は反故にして実験場を作り、環境破壊でもはや誰も住めなくなった。
辺境に置かれている各居留地では高レベル放射能廃棄物の貯蔵施設受け入れをめぐり反対派との賛成派の間で反目がおこり、共同体が分裂している例が少なくありません(メキシコ州メスカレロ・アパッチ、ユタ州SVゴシュート族、カリフォルニア州カンポ族
失業率の高い居留地では、こういった研究所や核の迷惑施設に職を得る先住民も当然ながら多く、原発に頼らざるを得ない実情があります

*‶核=迷惑施設″との共生    雇用促進・経済発展⇔環境汚染・破壊
雇用促進や経済発展を産むのと裏腹に環境汚染や破壊を生み、貧困ゆえ選択肢が他になく誘致を拒否できない居留地が多く、米の核開発とエネルギー産業は居留地の貧困と犠牲の上に成り立っているといえます

3) 先住民とカジノ  ~起死回生の生き残り策  賭博産業をビジネスチャンスに
*1990年~カジノ経営:全米224部族 「インディアン・カジノ」総数387
利益 1988年2億1200万ドル/年→2006年250億8000万ドル/年 全米賭博総収入の42%
1990年~迷惑施設の誘致だけでなく、賭博産業を新たなビジネスチャンスにしようという動きがおこり
現在では全米224部族がカジノを経営 、「インディアン・カジノ」総数387(2006年)に登ります
利益は年々増加しており、 図5)-1今や全米賭博総収入の42%にのぼります
州別トップ;カリフォルニア州/ネバダ州 部族別ではマシャンタケット・ペクオート族(77億ドル)

*1970年代~地味な賭博施設(ビンゴゲーム)が拡大→セミノール族がフロリダ州に勝訴→居留地にカジノブーム
1970~80年代 連邦政府が貧窮する部族の経済発展と自立を促すためカジノ産業への参入を促進ーベトナム戦争で経済疲弊した政府が、部族政府への援助削減することが目的でした
始めはビンゴなどの地味な賭博施設として始まり、次第に大きな利益を上げる賭博産業に発展
「インディアン賭博規制法」 1988年 70%以上を部族に還元 ⇔ラスベガス(営利目的)との理念の違い
1988年 カリフォルニア州他で同様の訴訟が頻発したため、連邦議会は「インディアン賭博規制法」 を成立
これによりカジノ収入の70%以上を部族社会に還元することが義務付けられ、営利目的のラスベガスなどとは違い、理念が生まれました  配当方法は、
1部族員への配当・奨学金 2社会福祉関連施設設立 3経済開発 4慈善的寄付/自治体への助成 図5)-2

ただしカジノを開くときは州政府と契約を結ぶ規定で、ギャンブルの影響大きいため州政府と対立・裁判も多数起こっているからです
カリフォルニア州政府やラスベガス(ネバダ州)の反対→住民投票の結果メディア戦略で勝利・・・初めて先住民自ら法案作成・州の民意を問い政治に訴えることができたのもカジノ経営成功による資金力のたまものといえます。
シュワルツェネッガー カリフォルニア州知事2003年共和党
「インディアン賭博収入再分配信託資金」制度樹立:カジノで利益を上げた部族の収益の一部を州政府に寄付→貧困に苦しむ部族に再分配

*起死回生と部族間経済格差  自治権&財力  → ‶もてる部族″と ‶もてない部族″ セミノール族ハードロックカフェ買収
‶どの部族に属しているか″ → 配当金・生活保護  >文化歴史的アイデンティティ    「インディアン=ギャンブル」 イメージ
カジノによる起死回生は先住民部族に大きな財力をもたらし、結果、政治的に強い立場と自治力、存在力を確実に向上させましたが、ここにもてる部族ともてない部族の圧倒的な格差が生まれてしまいます
部族員3300人のセミノール族 は2006年イギリスのハードロックカフェ事業を買収、部族員の配当金は一人当たり45,000ドル/年500万円にのぼります(『セントピーターズバーグ・タイムス(2006年2月8日)』)
(鎌田氏によると、)一人当たり年間2億円以上(200万ドル2002年)の部族もあるらしく
今や「インディアン=ギャンブル」のイメージが定着しつつありますが、成功しているのはほんの一握りで、カリフォルニア州9%、全米6%にすぎません
また、格差が大きくなり、どの部族に属しているかが経済状況に直接影響するため、文化的歴史的アイデンティティより配当金が優先される場合があるのも事実です。
複数の部族の血を引いている先住民が、何十倍も収入が変わるため、より割の良い部族に所属変更するケースが後をたたず、一部の部族には部族認定申請が殺到していると言います。
部族政府が部族員を減らして一人当たりの配当を増やし訴訟になったペチャンガ族では、
部族員数1475人中、労働人口25人 失業率95%に達しながら 部族員一人あたりの配当金は 月15000ドル165万円

*「依存症」 ・・・‶壊れる″先住民 ペチャンガ族 失業率95% 月額15000ドル(165万円)/人
極貧状態に莫大な収入が突然入るようになれば、人は壊れるのは当然で、ギャンブル「依存症」も深刻化しています
カジノに絶対手を出さないという部族もあり、彼らに言わせると「娯楽がない居留地で、自分の経営するカジノで一日中、生活保護や配当金を擦っているだけ」だと言います

4) イメージの変容 ‶先住民になりたがる人たち″ 増え続ける「先住民」 20C後半~
先住民は今も圧倒的マイノリティであり、不遇なる「消えゆく民」であったにもかかわらず、実は1950年以降、その数を増やし続けています。
6) ここでいう「先住民の数」とは国勢調査により、連邦政府や部族政府に先住民と認定された人の数のことをさします。

「先住民アイデンティティ」 として鎌田遵さんによると、
①血筋(生物学・遺伝的)  ②部族政府認定の「部族員」(法的・政治的権利)  ③部族固有文化の知識・精神的帰属意識(文化的継承)
の3つがあり、この3つがそろって備わっているケースはむしろ少なく、 この3つは別物ということになります。
自分はどこそこの部族の血をひている、または自分はその部族で育ち文化的にその部族員である、というアイデンティティをはっきり持っているにもかかわらず、法的に部族員になれないケースやその逆が普通に発生します
‶見た目″は関係なく判別不可    ‶部族員部族″≠ ‶出身部族・部族員アイデンティティ‶
ここで、外見‶見た目″というのは実はほとんど関係ありません。見た目には白くてブロンドで青い目なのに先住部族の部族員であったり、逆にどこから見てもインディアンなのに部族員ではないという人がたくさんいます。見た目は黒人で先住民というケースもあり(南米W後 先住民の奴隷も解放され部族員として登録)
(・・・アメリカ在住の兪先生にお尋ねしたとこと→外見では「まったくわからない」とのことでした)

*「部族員」 になると :居留地在住権、社会保障やサービス(カジノ高配当)
部族員が年々増加している理由のひとつとしては、正式な「部族員」には、居留地に住む権利、部族や連邦政府が提供する独自の(医療・教育・福祉等)社会保障サービスや支援政策も受けられる、ということがあります、またカジノの項でお話ししたように、多額の生活保護や配当金もあり、近年、部族員認定の申請は殺到しているといいます。
*「部族員」 になるには:部族員認定制度 :‶連邦政府が先住民部族と承認している部族″からの部族認定が必要
「部族員認定制度」 :基準は部族により異なる  「血筋の濃さ」 ; ‶1/4以上″が一般的 (8割の部族が採用)
都市部:多様な混血   例)1/4×1/4=1/8   →どちらの部族員にもなれず
新たに「部族員」になるのはそう簡単ではなく、連邦政府から部族として承認された部族から部族員認定を受ける必要があります。
これには その部族社会で生まれ育ったかどうか、や、部族の言語や文化に精通しているかどうかは関係なく、もっぱら血筋の証明が必要となります。その際の、血の濃さの規定は部族によって異なり、現在は1/4以上の血(クウォーター以上) というのが一般的で、8割の部族が採用しています。(ホピ族:両親のどちらか1/2 ~ イースタンバンド・チェロキー族:1/16イースタンバンド・チェロキー族)
しかし話はそう簡単ではなく、
両親が違う部族員で双方が1/4ずつの血を引いている場合、その子供はどちらの血も1/8となり
どちらの部族員にもなれず、同じ家族に先住民と非先住民がいることになります。
都市では多様な混血が生まれていますが、複数の部族の血を引いていても血の濃さの基準を満たさず、法的にどこの部族員にもなれない「部族難民」も多数発生しています。
一方で白人に認めてもらう必要はない、と認定部族としての承認自体をあえて受けない部族や先住民もいて、実情は複雑です。

*「部族員名簿」(ドーズ法1887年)のみが血縁証明 白人が作った制度・名簿→DNA鑑定
そもそも白人によって作られた「部族員認定制度」の起源は、1887年の「一般土地割当法(ドーズ法」に遡り、この時作った「部族員名簿」が唯一、血筋を証明する家系図として、当時のまま今日まで部族認定のもっとも重要な基準でした。しかしこの名簿は、白人との混血を(より同化しているという理由で)優先して作ったと言われ、今日では、DNA鑑定で証明する人も出てきました。
ここで触れておきたいのがエリザベスウォーレンです。少し前にトランプの失言で話題になりました。
*エリザベス・ウォーレン  米民主党上院議員 2020年大統領選  トランプ「ポカホンタス」
民主党の上院議員で、来年の大統領選に出馬がほぼ確実視されているエリザベスウォーレンは、昨年10月アメリカ先住民の6~10代前の先住民の血を引くことをDNA鑑定で証明、公表。
トランプは以前よりウォーレンを「優遇措置を目当てに先住民系だと主張してきた嘘つき」 「偽のポカホンタス」と揶揄と非難を繰り返し、こともあろうかナバホ族を称える行事(第二次大戦中部族の言葉を暗号として使い貢献)の席で「ポカホンタス」発言、先住民を侮辱したとして非難

(*)「ポカホンタス」ディズニー映画17C実在の先住民女性、捕らわれた英国人開拓者ジョン・スミスの命を救った

*「ワナビー」  want to be=なりたがる人  「真似るだけの偽物」  消費の対象、リベラルさの誇示、アイデンティティの空白
1960年代ヒッピー起源、インディアンルック流行、ニューエイジ、東洋的精神世界ブーム スローライフ運動(マインドフルネス)

また、こういった経済的・政治的理由とはまったく別の理由で、先住民になりたがる人たちも増加しています。彼らは嘲笑的に‶ワナビー″と呼ばれ、「スローライフ運動」の流れの中増えつつあります。
先住民の間では、スタイルだけを美化して真似る、先住民の実情を理解していない「偽物」と、嘲笑や批判の対象で、1960年代のヒッピーが起源といわれ、インディアンルックの流行に始まり、物質的主義からの脱却を求めて、それこそ前回の桧垣さんの発表「マインドフルネス」などのブームに繋がって、先住民文化は新たな消費の対象になっていきます

*‶白人ワナビー″:歴史や文化への理解度・リベラル度を誇示、先住民への‶罪悪感″「インディアン性」にIDを求める
白人がワナビーになりたがるのは、歴史や文化への理解度・自身のリベラル度を誇示するためとも言われ
過去の侵略や残虐行為に対する‶罪悪感‶からか、または歴史的文化的基盤がないアメリカ人にとっては自己のアイデンティティの空白を、キリスト教や建国物語ではなく「インディアン性」にもとめるようになったのでは?とも言われ、私は後者だと感じています。

* 「反逆者・反体制」のイメージ  ・・・「ボストン茶会事件」
一方で、インディアン・アイデンティティは「反逆者・反体制」のイメージ作りに昔から利用されてきました、建国期まで遡り、 かの「ボストン茶会事件」では、英国植民地支配に抵抗するアメリカ人はなんとインディアンの恰好をしていました
今アメリカ人の間に拡がる地球にやさしいオーガニック生活やスピリチュアリティこそ彼らがやってくるはるか何千年も前からアメリカの先住民が実践してきたことだったのです。

5. 歴史の転換点  ~「もしも・・・だったら」
‶「辺境」だった中世イギリス″  (玉木敏明 『先生も知らない世界史』) 図7)
「北海帝国」1013-1042  と 「アンジュー帝国」 1154-1399の分割統治 → 「大英帝国」はなかった
悲惨な先住民の歴史のどこかに、転換点はあったのでしょうか。
私にはピューリタンが諸悪の根源と思えて、17世紀もっとも友好的だったフランス人がもっと頑張ってくれていてイギリス人より優勢だったらどうだったでしょうか。今回はカナダまではできませんでしたが、フランスが進出したカナダでの植民地政策は北米より緩やかだったことを考えると、その可能性はどこかになかったんだろうかということで、11世紀初めのヨーロッパまで遡ります
図7)ヨーロッパ史研究の玉木敏明さんによると、11世紀初めの一時期、イングランドは「北海帝国」というデンマークの支配となったのですが、実はそのまま長期間にわたり占領される可能性があったといいます この後すぐにフランス人の「アンジュー国」に支配され250年も公用語がフランス語だったことを考えると、当時のイギリスはユーラシア大陸の端のヨーロッパのそのまた辺境にすぎなかったわけで、島国として存在しえた可能性は明らかに日本より低かったといいます。イギリス、少なくともイングランドは北海帝国とアンジュー帝国によって分割統治、北欧とヨーロッパ大陸の一部となって永続し「大英帝国」は存在しなかった可能性は十分あって、もしそうなっていたら、世界は、そしてアメリカ大陸とアメリカ先住民の歴史大きく変わっていたでしょう。 (玉木敏明 『先生も知らない世界史』)

6. 福島と先住民居留地   「辺境」へ追いやられ人たち
お気づきのように、アメリカ先住民の置かれてきた状況は、おどろくほど福島と酷似しています
原発事故でも 人災によって父祖伝来の土地が汚染され住めなくなり、住み慣れた場所から見知らぬ土地へ追われた福島の人たちを、日本人よりも真剣に心配しているのは、鎌田さんの著書によると アメリカの先住民の人たちだそうです。
先祖伝来の「土地」を失う=生きていく糧と同時に、伝承されてきた伝統や文化:祭り・宗教儀礼 のすべてを失うことと同義であり
先住民の男性は、どれだけ汚染されても地域に帰りたいという気持ちがなくなることはないという被災者の気持ちがわかるといいます
海を奪われようとしている辺野古の人たちも同じです。
私自身が当事者であり、人ごとのように言うつもりはありませんが、それでも先住民には今も、自分たちの生活や文化を守り通そうとしている人たちが多くいます。
アメリカには素晴らしい国定公園がたくさんありますが、すべては、もとはインディアンたちのテリトリーでした、国立公園に指定されて以降、彼らは父祖伝来の土地に自由に立ち入ることができなくなりました。
つい先日、ハリウッドでアカデミー賞が発表されました。観慣れている雄大な山の中腹に立つハリウッドの大看板も、アカデミー賞の派手な中継今年は、そこにかつて幸せに暮らしていた先住民たちの幻影を思い、複雑な思いで観ることになりました。

 

【参考年表】   文献②及び文献⑥他の抜粋に井上が追加
BC75000~8000   ベリンジア陸橋 表出(ベーリング海峡)
BC70000~30000  ロシアバイカル湖東の狩猟民が移動
12000年前     多くの部族が北米大陸に生活していた
BC5000      最古の遺跡
AC7C       プエブロ族の先祖はメサベルデ国立公園地域を生活圏としていた
1492 コロンブス 新大陸「発見」
1565 スペインフロリダに植民地建設
1607 イギリス第一陣 ヴァージニア会社 ジェームズタウンに植民地建設
1620 ピルグリムファーザーズ プリマスに上陸 プリマス植民地建設
1776 アメリカ合衆国 独立
1824 連邦インディアン局 (BIA)設立
1829 アンドリュー・ジャクソン 大統領就任
1830 インディアン強制移住法施行
1861-1865 南北戦争
1870 米義会でインディアン教育予算通過、寄宿学校 始まる
1862 ホームステッド法、パシフィックレイルウェイ法 施行
1876 リトルビッグホーンの戦い
1876 ジム・クロウ法 施行
1887 一般土地割当法‶ドーズ法″制定
1890 ウンデッド・ニーの大虐殺
1890 国税調査でフロンティア消滅
1901 ニューヨーク博覧会
1914-18 第一次世界大戦
1924 インディアン市民憲法制定 先住民に市民権付与→ 第一次大戦へ徴兵
1928 メリアム・レポート
1933 Fルーズベルト大統領就任
1934 インディアン再組織法
1939-1945 第二次世界大戦
1950-53朝鮮戦争
1952 インディアン転生プログラムの開始
1953 Dメイヤー BIA局長就任 連邦管理終結政策開始
1955-75 ベトナム戦争
1961 アメリカンインディアンシカゴ会議
1964 公民権法 制定
1969 アルカトラズ島占拠事件
1973 ウンデッド・ニー武装占拠事件
1975 インディアン自決、教育援助法制定
1988 インディアン賭博規制法制定
2004 ワシントンDCにアメリカン・インディアン博物館建設
2006 セミノール族 ハードロックカフェ買収
2003-11 イラク戦争

【参考文献】
文献①『メイキング・オブ・アメリカ -格差社会アメリカの成り立ち』阿部珠理 2016年彩流社
文献②『ネイティブ・アメリカン -先住民社会の現在』  鎌田遵 2009年 岩波書店
文献③『ネイティブ・アメリカン-写真で綴る北アメリカ先住民史』
アーリーン・ハーシュフェルダー  BL出版
文献④『「辺境」の誇り ーアメリカ先住民と日本人』  鎌田遵 2015年 集英社
文献⑤『先生も知らない世界史』  玉木敏明 2016年 日本経済新聞出版社
文献⑥『アメリカ・インディアン史』ウィリアム・Tヘーガン 1983年 北海道大学図書刊行会
文献⑦『増補改訂 アース・ダイバー』  中沢新一  2019年3月5日刊 講談社
文献⑧『縄文文化が日本の未来を拓く』 小林達雄 2018年 徳間書店

【参考映画】    (*井上観)
『ソルジャー・ブルー』 1970年 ライフ・ネルソン*
『ラスト・オブ・モヒカン』 1992年 マイケル・マン*
『サンダー・ハート』 1992年 マイケル・アプテッド*
『ダンス・ウィズ・ウルブス』 1990年ケビン・コスナー*
『デッド・マン』  1995年 ジム・ジャームッシュH*
『レヴェナント』 2015年 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ*
『スモーク・シグナルズ』 2002年 監督クリス・エア 脚本:シャーマン・アレクシ―
『ビジネス・オブ・ファンシー・ダンシング』2002年監督・脚本シャーマン・アレクシ―

資料1)  カール・ワルドマン(先住民族学者)による10の分類(現:カナダ以北を除く) 下記図-1)参照)
*大平原部 様々な先住部族が入れ替わる地域、ラコタ族、ダコタ族、シャイアン族、クロウ族などのバッファロー(アメリカバイソン)狩りが文化基盤の狩猟民族 (一般的インディアンイメージ、馬上で羽飾りなびかせて狩り、は誤り、馬は欧から持ち込まれた)、川沿いでのヒダッサ族、アリカラ族等の農耕部族、と狩猟を組み合わせた躍動的な生活
*北西海岸部(カナダ~アメリカ) 人口密集地、温暖な気候、豊かな海洋資源、木の共同住宅、階層社会*政治的指導者・宗教的指導者・平民・奴隷、トーテムポール、宗教政治儀礼:ポトラッチ、広大な森の巨木で家を建てた
*高原部 カスケード山脈とロッキー山脈に挟まれた山間部の生活文化圏 ネズパース族・スポーケン族・ヤカマ族 山麓に流れる川を中心に狩猟・採集
*大盆地部 (ユタ・コロラド・ワイオミング・アイダホ・オレゴン・カリフォルニア州の一部) 砂漠地帯:過酷な自然環境・農耕困難~年間を通しての大移動による狩猟採集生活と漁労、トウモロコシ栽培
* 北東部沿岸部(森林地帯) ミシシッピ川東 初欧植民地ニューイングランド周辺(五大湖を含む)、森林資源の宝庫を余すところなく生かす、農耕・交易 ミシシッピ文化、マウンド、母系制、明確な階級制度、イロコイハウス
*南東部 (テキサス州東部~メキシコ湾岸・ケンタッキー・バージニア・メリーランド州) チェロキー族・チョクト-族・クリーク族・セミノール族 農業・漁業・狩猟採集等多種多様な生活手段 比較的「文明化」した5部族
*南西部(アリゾナ・ニューメキシコ・ユタ・コロラド・カリフォルニア・テキサス・オクラホマ) 乾燥地帯に人々は適応して農耕が栄えた、アパートのような土レンガ住居の集合住宅-.ホピ族・プエブロ族(現在も伝統的土レンガの家で暮らしている)・ナバホ族(全米最大の居留地)・アパッチ族 農耕・牧畜 北アメリカ初の大規模 トウモロコシ(メキシコインディアンより)、豆、カボチャ(「三姉妹」) 高い栽培効率と栄養価、(ホホカム、ナゴヨン文化)→アナサジ文化(メキシコ・アリゾナ・ユタ・コロラド):高度な技術(星運行、トウモロコシ栽培・貯蔵、編籠・土器、土木建築、狩猟道具、家畜、綿花栽培
*カリフォルニア カリフォルニア沿岸部~メキシコ ポモ系諸部族・チュマッシュ族 陸海両方から多様な動植物 どんぐりの採集と加工、たばこ栽培、高人口密度(1940年当時人口30万)、言語多様性(100以上の異なる言語)

「インディアン再組織法」
シャロン・オブライエン(政治学者)による5つの要点
①部族政府の権限を強め、部族政府と連邦政府の相互的な関係を回復する
②ドーズ法廃止:土地の分割と個人所有を廃止する
③部族の経済開発を支援し協力する
④インディアン局の職員に先住民を増やす
⑤文化や伝統工芸の作成、言語の継承の必要性を認識し援助する

資料 6)  「ピルグリムファーザーズ」ピューリタン誕生の淵源
ピューリタン:カルヴァンの教えにのっとるプロテスタントの一派
ヘンリー8世の宗教改革 イギリス国教会 アンチカトリック プロテスタントの萌芽 (アン・ブーリンとの再婚を合法化するため離婚を禁ずるカトリック教会から離脱、
ローマ教皇の支配から独立、 絶縁、自ら教会の長となる)ルターのような純粋宗教的動機なく外面的・政治的側面での変革、
→メアリ一世 イギリス国教会をカトリックへ戻 プロテスタントを徹底弾圧 処刑者多く”血のメアリ”「ブラッディメアリ」の由来→弾圧を逃れて800人のプロテスタントが
ヨーロッパに逃げたうちジュネーヴのカルヴァン主義の強い影響を受けた一派「ピューリタンの始まり」
→エリザベス一世(ヘンリー8の子)  プロテスタントを復活、カトリックを一掃、カルヴァン主義による教会改革 英国教会の体制確立
毛織物業布教→海外発展の時代
→ジェームス一世 息子チャールズ1世が圧制 カトリック主教派の巻き返し ハンプトンコート宮殿会議 再度プロテスタント弾圧 ピューリタン革命
穏健派と急進派=独立派→会衆派 →メイフラワー号に乗って新天地「天の都」へ
1608年 メイフラワー号 信仰の自由を求めてオランダへ 唯一の自由の地 1581年スペインから独立「エミグレ亡命者」であふれる
アムステルダム→ライデン手工業(織物工、大工、石工)に従事 butオランダにとどまらず→1620年メイフラワー号で新天地へ→プリマス上陸

資料 7)
「インディアン再組織法」の5つの要点 シャロン・オブライエン(政治学者)
①部族政府の権限を強め、部族政府と連邦政府の相互的な関係を回復する
②ドーズ法廃止:土地の分割と個人所有を廃止する
③部族の経済開発を支援し協力する
④インディアン局の職員に先住民を増やす
⑤文化や伝統工芸の作成、言語の継承の必要性を認識し援助する

資料 8) 先住民関連映画
『ソルジャー・ブルー』 1970年 ライフ・ネルソン*
『ラスト・オブ・モヒカン』 1992年 マイケル・マン*
『サンダー・ハート』 1992年 マイケル・アプテッド*
『ダンス・ウィズ・ウルブス』 1990年ケビン・コスナー*
『デッド・マン』  1995年 ジム・ジャームッシュH*
『レヴェナント』 2015年 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ*
『スモーク・シグナルズ』 2002年 監督クリス・エア 脚本:シャーマン・アレクシ―
『ビジネス・オブ・ファンシー・ダンシング』2002年 監督・脚本シャーマン・アレクシ―    (*井上観)

資料 6)  「ピルグリムファーザーズ」ピューリタン誕生の淵源
ピューリタン:カルヴァンの教えにのっとるプロテスタントの一派
ヘンリー8世の宗教改革 イギリス国教会 アンチカトリック プロテスタントの萌芽 (アン・ブーリンとの再婚を合法化するため離婚を禁ずるカトリック教会から離脱、
ローマ教皇の支配から独立、 絶縁、自ら教会の長となる)ルターのような純粋宗教的動機なく外面的・政治的側面での変革、
→メアリ一世 イギリス国教会をカトリックへ戻 プロテスタントを徹底弾圧 処刑者多く”血のメアリ”「ブラッディメアリ」の由来→弾圧を逃れて800人のプロテスタントが
ヨーロッパに逃げたうちジュネーヴのカルヴァン主義の強い影響を受けた一派「ピューリタンの始まり」
→エリザベス一世(ヘンリー8の子)  プロテスタントを復活、カトリックを一掃、カルヴァン主義による教会改革 英国教会の体制確立
毛織物業布教→海外発展の時代
→ジェームス一世 息子チャールズ1世が圧制 カトリック主教派の巻き返し ハンプトンコート宮殿会議 再度プロテスタント弾圧 ピューリタン革命
穏健派と急進派=独立派→会衆派 →メイフラワー号に乗って新天地「天の都」へ
1608年 メイフラワー号 信仰の自由を求めてオランダへ 唯一の自由の地 1581年スペインから独立「エミグレ亡命者」であふれる
アムステルダム→ライデン手工業(織物工、大工、石工)に従事 butオランダにとどまらず→1620年メイフラワー号で新天地へ→プリマス上陸

資料 7)
「インディアン再組織法」の5つの要点 シャロン・オブライエン(政治学者)
①部族政府の権限を強め、部族政府と連邦政府の相互的な関係を回復する
②ドーズ法廃止:土地の分割と個人所有を廃止する
③部族の経済開発を支援し協力する
④インディアン局の職員に先住民を増やす
⑤文化や伝統工芸の作成、言語の継承の必要性を認識し援助する

資料 8)

「ある日の研究会」菱田伊駒

「ある日の研究会」菱田伊駒

 

その日は、いつものp4c(=philosophy for childrenこどもの哲学)の研究会で、M先生が小学生の子どもたちが描いたポスターをたくさん持ってきた。教室の絵、その日の給食の献立まで細かく描きこまれた絵、色とりどりの風船が描かれた絵、友だちと花火を楽しむ様子が描かれた絵。大体30枚くらいのポスターが机に並べられ、研究会のメンバーの皆が意見を交わす。

 

自分には何が言えるだろうか。そう思いながら目の前のポスターを眺める。こういう大勢が集まる会では、発言するからには価値のあることを言わなければと思ってしまう。

 

他の人の発言を聞いたり聞かなかったりしながら、4枚ばかり気になったポスターを手元に並べてみる。4枚のポスターのうち、それらしい問いがすぐ立てられそうなポスター2枚と、ぱっと見たところあまり取り上げるところのなさそうな2枚のポスターに分けてみる。

 

それらしい問い。ポスターの中に「授業にふさわしい気持ちと、そうでない気持ちを分ける」と書かれていて、それに対して「ふさわしい、ふさわしくない気持ちってどういうことだろうね?」と問いかけてみたくなる。学校の授業に対する「こうあるべき」という規範意識が浮かんでくるのでは、という先読みがあって、なんだか嘘くささがある。

 

ぱっと見たところ取り上げるところのなさそうなポスター。友だちと花火をして遊ぶ様子が描かれていて、解説には「とても楽しかった」とある。あまりp4cとは関係なさそうだ。p4cについてのポスター、という意味が分かっていないのか、それともあえてなのか、分からない。ただ、自分の思うがまま描いているような自由さを感じる。「花火をしてどうだった?」そんな問いかけから始めてはどうか。そんなことを思う。予想外の展開を求める気持ち、誘導したくないという気持ち、それらがこのポスターを取り上げたいと思った背景にある。

 

こうやって2種類のポスターを対比させることで、色々と言えることがあるのではないか。そうやって考えをまとめ、効果的な発言になるよう考えているうちに周囲の音は遠ざかっていく。なんとなく追っていた、今話されている内容は聞こえなくなる。何か言ってやろう、そういう気持ちで体に力が入り、緊張が高まっていく。こうやっているうちに時間切れになることもしばしばで、今日は発言できるかな、などと焦りも生まれる。

 

そうして数十分くらい時間が過ぎたとき、N先生が一枚のポスターを手に取った。「なんか・・・これ気になります」。そういって手にとったポスターを周りに見せる。そこには、教室の絵と、丸く円になった椅子が数脚描かれていた。教室を描いた絵は他にもあり、見た感じ何も思わなかった。N先生は何を言おうとしているのか。

 

「これ見てると色々と聞きたいことが浮かんでくるんですが、いいですか?」そういってM先生に質問を向ける。 (絵を描いた子のこと、教室の風景を知っているのはM先生だけだ。) N先生が気になったことを聞いていく。どうしてこの教室には椅子しかないのだろうか。この絵は、絵の手前側から教室を見ているようだ。視点の手前にある、自分が座るはずの椅子が小さく感じるけど、どういう目で教室を見ているのだろうか。

 

そうやって質問を重ねてくるうちに、その子のことを全く知らないぼくの中に、いくつかのイメージが浮かぶ。広い教室、遠くの方から黒板を眺める自分、声の大きいクラスメートたち、何も言えない自分。あぁまた自分のイメージの中に閉じこもり始めた、慌てて2人の先生のやり取りを聞くことに集中する。関心を向ける相手を自分は間違えていたのだ。ポスターを見ているようで、何も見ていなかった自分が恥ずかしくなった。

 

N先生の話を聞きながら、自分も同じような観察力を身につけなければと思う。やり取りだけ聞いていると、その絵を描いた子の様子を言い当てているように思う。しかし、それは間違いだ。当たる当たらないは、経験であるとか、知識であるとかに左右される。当てようと思って当たるものでもない。N先生はこう言った。「問いかける、というのがミソだと思う」。あなたはどういう人ですか?こう考えているのですか?こういう気持ちですか?N先生の問いは、相手に対して開かれている。

 

そうやって浮かんだ問いかけが、次の日から相手へのまなざしを変える。どう接するかの態度を変える。次の授業内容をどうするかを変える。その変化を本人が感じ取った時、その子にも変化が生まれていくのだろう。

 

研究会の終わりの方で、M先生はp4cについて「自分はプロレスをしているんじゃない、ボクシングをしてるんだ」と言った。次は教師がこう言う、それに合わせて子どもはこう反応する・・・そういう筋書きの決まったやり取り、その筋書きを共犯的になぞっていくのがプロレス的な授業。それに対して、p4cは次に何が出てくるかわからない、誰かの抱える闇が噴き出すかもしれない、傷つくかもしれない、そういうやり取りをp4cではしているのだと。

ドラマ「半分 青い」(@井上英作)

ドラマ「半分 青い」が終わった。ドラマ「半分 青い」は、今年前半の「朝ドラ」の題名である。取り付く島の多かったドラマだったと思う。その島について思うところを整理してみた。

①バブル

若い方はご存知ないかもしれないが、かつてこの国には、「バブル」という「瞬間」が存在した。しかし、その「瞬間」は、あっという間にあっけなく終わりを告げる。日経平均株価は、1989年12月29日に史上最高値38,957円44銭を付け、翌年から株価は下がり続ける。「失われた10年」の始まりである。極めて個人的なことだが、この1989年に、僕の中では、何か大きなものが失われた気がした。それは、僕が今でも世界一のアーティストだと信じて止まない、こだま和文率いるダブバンド「MUTE BEAT」の突然の解散と、俳優松田優作の急死が象徴している。その時の喪失感は、かつて味わったことのないもので、そのときの感じは、今でも生々しく僕の中に残っている。

そして、このバブルを経過した後、大きく日本は変わっていったように思う。それは、戦争に負けた日本が、戦勝国のアメリカに対し今度は経済という武器で復讐を試みるのだが、その結果、最終的にはアメリカに息の根を止められてしまったからだろう。僕は、本当の敗戦は、この1989年だったのではないかと思っている。そのことのショックがあまりに大きかったのか、このバブルを検証した文献や文学がどうして存在しないのか、僕には不思議だったのだが、ようやく30年の時間を経て、ぽつぽつとバブルと向き合うようになってきた。本作においても、脚本の北川悦吏子が、ほぼ同世代ということもあり、かなり正確に当時のことを描いている。特に印象的だったのは、正人とディスコに遊びに行こうとする、律のファッションで、当時の時代の空気感が見事に描かれていた。

来年で、「平成」という時代が終わる。「失われた●年」という言い方は、あちこちで耳にする言葉だが、「平成」という時代そのものが、失い続けた時代なのかもしれない。北川悦吏子は、本作を「平成」という時代へのレクイエムとして、執筆したのではないだろうか?だから、この作品を2018年に放送することには、とても意味のあることのように思える。

②故郷

寺山修司は、映画「田園に死す」のなかで、子供時代の故郷について、劇中「これは、すべて嘘である」と言い放ち、観客を挑発した。つまりは、過去というのは、創作された物語に過ぎないというわけだ。人は、自身の過去を、自分の都合の良い過去に書き換えてしまう。どうやら人間とは、そういう生き物のようだ。

主人公スズメと律は、同じ日に生まれ、高校を卒業するまで、仲間たちと楽しく岐阜で過ごす。その仲間とは、男二人に女二人という構成で、学校の帰りには、たまり場の喫茶店で、お好み焼きを食べながら、恋愛や将来について語り合う。僕は、そんな前半の岐阜でのシーンを、自分の学生時代と照らし合わせながら観ていた。僕は、そんなシーンを懐かしいというよりは、羨ましく思いながら観ていた。なぜ、羨ましかったのか?それは、現実には、おそらく存在しないからだ。確かに、僕たちも、土曜の午後、学校の近くのお好み焼き屋で、たこ焼きを食べながら、あるいは、無料券を片手に「王将」で餃子を頬張りながら、よく延々とバカ話をしたものである。ただ、そこには、女子の存在は皆無で、いつもそこにいたのは、むさ苦しい男連中だった。男女のグループがなかったわけではないが、思春期の子供たちが、まったく、異性としての女性を気にせず付き合うことなど、到底不可能だった。そう思うと、本作における「岐阜」は、「そうあってほしかった過去、場所」ということなんだろうと思う。

一方、「そうあってほしい過去、場所」に対し、「東京」では、果てしなく冷徹で非常な現実が待っている。漫画家を夢見て上京したスズメだが、デビューを果たすも、自分の才能に限界を感じ、漫画家をやめる。その後、結婚した相手に捨てられ、シングルマザーとなる。再度、上京を果たすが、勤め先の会社経営者津曲に夜逃げされる。

この作品が、単なるご都合主義や陳腐なサクセスストーリーに陥らずに済んだのは、この「東京」を冷徹な態度で描ききったからこそ、その対比として、甘美なまでに虚構としての「岐阜」を際立たせたことによるものだと思う。

③死者の存在

最後にこのことが、僕を最も魅了したことだ。この作品では、風吹ジュン扮する、スズメの祖母のナレーションが、物語を進行させていく。もちろんこの祖母は、すでにもうこの世には、存在しない。ただ、あたかもそこに存在しているかのようにナレーションが毎回繰り返される。

物語では、スズメにとって大事な人たちが、次々に亡くなっていく。祖母、祖父、律の母、そして親友のユウコ。

本作の最後の方の回、「マザー」(スズメと律が開発したそよ風扇風機)のお披露目のスピーチで、スズメは「私たちは、生と死の境界線のようなところで生きていて、死者は、そのすぐ傍にいつもいる」というようなことを言う。僕は、この考え方を支持する。

北川悦吏子自身も、病と向き合いながらの人生のようで、そんな彼女にとって、死の存在を身近に感じていたことは、想像に難くない。

ある時、僕は暇に任せて、自分にとって大事な人たちについて、何か共通点がないかどうか考えてみた。考えてみて、自分でも想像していなかったことに気づいた。彼らに共通していたのは、死者の存在を信じているということだった。僕は何もオカルトめいたことをいっているのではなく、目に見えないものを感知し、信じることは、人にとって最も重要な要素だということだ。宇多田ヒカルの名曲「道」の歌詞「It’s a lonely road But I am not alone」といったところだろうか。

みんなの部室投稿「水辺」菱田伊駒

「水辺」 菱田伊駒

その日は、外に出てぼんやり過ごしていた。最近、梅田で再開発が進んでいる地域には、緑が植えられ、人工の川が流れ、近くにベンチが置いてある場所が増えた。パラソルで出来た陰のあるベンチに座り、水遊びをする数組の親子を眺める。幼稚園くらいの子どもが2~3人、水をかけあって遊んでいる。

小学校低学年くらいの子とp4c(※「p」hilosophy 「f」or 「c」hildren=こどものための哲学)をやっていると、慣れてくるといきなり背中に飛びかかってくる。あるいは肩にぶら下がってきたり、コミュニティーボールを投げつけてきたり、人のボールを奪い取りにいったりする。周りにある道具を触ったり転がしたり、上に乗ったり、箱であれば中に入ってみる。最後の方は、みんなでとっくみあいになって、ふとした拍子に頭をぶつけて、泣き出してしまったりする。

子どもたちと接していると、人や物との関わり方の直接的な面白さを感じる。もっと小さいと、なんでも口にいれてみたりする方法があるのだろう。鼻の中にビーズを入れたまま何日もたって、病院に行って取り出してもらった男の子の話を思い出す。

今の自分は、そういうことをしようとは思わない。それは、経験を積んだ人間であることの1つの証拠だろうか。

みんなの部室投稿「代稽古」菱田伊駒

「代稽古」菱田伊駒

ここ最近、合気道の稽古が楽しい。稽古に行くと人がたくさんいて、話をしたり技をかけあったりする。他の人がにぎやかに喋っているのを心地よく聞けるのは、珍しい機会だと思う。道場には、日常とは違った時間が流れている。

 

昨日の稽古は、K先生が海外遠征中のため、M本さんの代稽古だった。稽古をしていると、上手くいくこと、上手くいっていないことがそれぞれ感じられる。こういう時は、充実した稽古なのだと思う。上手くいっていない動きについても、この方向性で稽古していけばよいのでは、と課題意識を持って取り組める。自分が上達する予感がなんとなくあり、何度も動きを確かめてみたくなる。普段は、2回ずつ技を掛け合うところを、お願いして回数を増やしたり、スローで動きながら体にかかる力、形を確認した。M本さんの言ったことを実現しようと思うと、自然と丁寧な稽古になっていった。

上達する予感というのはなかなか貴重だ。初心者のうちは、とりあえずの動きをなぞるだけになってしまう。どちらかが上級者であれば、改善の方向を示すような声かけをしてくれる。初心者同士で組むと、二人ともわけがわからないという状態になって、見た目だけの動きをなぞることになりがちだ。「これでいいのだろうか?」という迷いが生まれる。お互いそう思っているので、ぎこちない技の掛け合いになる。それでも、どうしてよいか分からないので「難しいですね」などと、お茶を濁すようなことを言いながら動きを繰り返す。やはり昨日も、同じ繰り返しから抜け出せないでいた。

そういう時、M本さんが近づいてきて、手を添えて体の形を確かめてくれる。あるいは、一緒になって掛かり稽古をしてくれる。ある瞬間、自分の肩甲骨から手の平までがつながった感覚があり、「あっ」と思う。その時、M本さんもぼくの感覚が伝わったようで「うん、それでいいよ」と言う。この方向でよいのだ、と背中を押された気になり、安心した。

石橋だより② ~ズレとズレの間で考える~  菱田伊駒

石橋だより② ~ズレとズレの間で考える~
菱田伊駒

子ども哲学カフェの参加者の親御さんから、「兄妹ケンカが少し減ったように思う」と聞いた。なんとなく、先輩たちの経験談からp4c(こどもの哲学)の影響として話には聞いていたけれど、実際にそう言われると驚いた。
彼ら(兄妹)が参加してくれたp4cは、先日「上手くいかなかった」と振り返った回であり、失敗の一因は1~6年生を混合にしたからだと思っていた。だから、次回からは1~3年、4~6年に分けてプログラムを作り直すつもりだった。その兄妹は兄が4年生で、妹が1年生だった。次に来てくれる機会があったとしても、彼らは別々のプログラムに参加することになる。そうすると、「兄妹ケンカが減る」といったような兄妹の関係の変化は起こらなくなるのではないか?
そもそも、自分では「上手くいかなかった」と振り返ったp4cは、本当に「上手くいっていなかった」のだろうか?あるいは、ぼくが「上手くいった」と思っていたp4cは本当に「上手くいっていた」のだろうか?そうした疑問が浮かび初め、紆余曲折を経て、もう少し今の「学年に関わらず参加可能」の形のままでp4cを続けてみようと考え至った。
以下に紹介する文章は、揺れ動いた考えの記録であり、迷いの中心にあった人との「ズレ」について書いたものです。読んでいただけると幸いです。

**********
「ズレとズレの間で考える」
以前、自分が行ったp4cを「上手くいかなかった」と振り返った。その原因は、1~6年生までを一緒にしてp4cを行ったからだと考えて、これからはある程度学年を分けようと思っていた。その考えの後ろには、「やはり1年生と6年生では考えていることのレベルが違っている。それぞれの「幼さ」に合わせたクラス設定が必要だ」という思い込みがあった。
その思い込みにはさらに1つの前提がある。「哲学的対話にもスキル的な要素があり、積み上げて身に着けていくものだ。段階的な学習が必要だ」と。確かに、対話が成り立つためにはスキル的な要素は不可欠だ。
しかし、一方で、そういった「スキル的な要素」ばかりが先行する風潮に嫌気がさしているのが自分ではなかったのか?その風潮を批判しながら、結果として自分がやっていることは「積み上げ型」を鵜呑みしているだけではないのか?という疑念がわいてきた。
人と話すときに大切なこと、それは「聴く」ことであり、「聴く」ことは、相手の話題について事前に勉強するとか、相槌のテクニックを学ぶとか、相手の目を見るとか、そういうマニュアル的なこととは一切関係がない。そのような「スキル」とは遠く離れた場所に「聴く」という行為はある。
性別にも、年齢にも、学歴にも、それまで積んできた人生経験とは全く関係がなく「聴く」ことはできるし、反対にどれだけ相手と共通点があったとしてもそれだけで「聴く」ことはできず、単に聴く前の準備体操が少しできているのかできていないかだけの違いでしかない。そんな思いで、大人であっても、子どもであっても向き合おうとしていたつもりで、全くできていなかった。
自分が、いつのまにか聴くことを「身につける、段階的に学習していくテクニック」だと勘違いしてしまっていたことと同時に、もう1つ気づいたことがある。それは、相手とのコミュニケーションのズレ、衝突、そういうものを単にネガティブだと決めつけ、無意識のうちに避けようとしていたことである。
*********
相手との「ズレ」に関して、ある会話を引用したい。ある日の職場での出来事。
Aさん「子どもが小さいころから哲学をやってるとどうなるんだろうね」
ぼく「そうですね。まだ分からないんですけど、でも、イベントの最中に話がうまくできるようになるとか、そういうことじゃなくて、イベントの外の子どもの生活というか、そういう普段のことが変わっていくと面白いと思いますね」
Aさん「それは壮大なことやねぇ」
(少し時間があく)
Bさん「でも、こどもの性格が変わるなんてちょっとすごいことですね・・・」
ぼく「あ、いや、そうじゃないですよ。『生活』です」
Bさん「あ、『性格』じゃなくて『生活』ですか」
ぼく「それは性格が変わったら面白いですが、そこまで狙ってやると洗脳になっちゃう」
Bさん「いや、そうですよね」

この会話のズレは単純だ。ぼくが発言した「せいか『つ』」が、相手には「せいか『く』」に聞こえていたのだ。音1つの違いでしかないし、聞き間違いはよくあることだ。しかし、この2つの違いが与える印象は大分違う。子どもを預ける親の気持ちになってみれば、「性格を変えられてしまうのか・・・」と不安に思う気持ちが湧くかもしれない。
幸い、この会話では「ズレ」は明らかになり、何がズレているかのギャップも分かったので、簡単に修正することができた。しかし、いつもそうだとは限らないし、こうした場面は気づかないだけで多いのかもしれない。

もう1つ、子ども哲学でのある場面。
小3「ピアノをやってると結構難しいことが多くて、自分より年下の子が、自分ができないことできると悔しいわ」
小1「ピアノ簡単、猫ふんじゃったもすぐ弾けたよ」
小3「それは簡単だから。そんなんじゃない」
小1「でも・・・」
(少し空気がざわつく)
ぼく「まぁ簡単な曲と難しい曲があるから。それで、どうして悔しいって思うの?」

このp4cの時間は、1年、3年、4年、6年、大人と、参加者の年齢も様々で、テーマは「憧れ」、この直前に6年生の女の子が「憧れは、自分ができないことをやっている人に対して持つ感情だと思う」という発言をした。少し、1年生の女の子にとっては難しい話が展開されていて、それでもなんとか話に入ろうと1年生の女の子は頑張っていた。この会話のズレは、少しややこしい。見ていたぼくの推測にすぎない部分も混じっているが、1つずつ考えてみたい。
まず、1年生の女の子の中でのズレ。多分、会話に入りたいという気持ちが先行して、参加したいがために思ってもみない発言を言ってしまったような印象がある。なんとなくだが、こういうことはよくあると思う。一発逆転の発言というか、周りと違うことを思い切ってやってみることによって注目を集める方法。多分、1年生の女の子は、ピアノが簡単だとは思っていないと思うし、猫ふんじゃったを弾けるようになるのにもそれなりの練習をしたと思う。けれど、話の流れとちょっと違った発言をしてやろうと、「ピアノなんて簡単」と言ったのだと思う。口調も少し攻撃的だった。
もう1つ、3年生の女の子とのズレ。なんとなく、ぼくの側では「この子が言いたいのは、『自分も発言したい、聞いてほしい』ということではないかな?」と思った。一方、3年生の女の子は、自分が攻撃されたように感じたのか、強い口調で「それは簡単だ」と発言した。
そして最後のズレ。ぼくの発言だ。いくつかのズレが会話の中で重なっていて、1つ1つがそれぞれの子どもたちの思いによって生み出され、意味のある物だったと思う。それらの思いとは全く別の「難しい曲も簡単な曲もある」というお茶を濁す発言で、もっとも大きなズレを生み出して全体を覆って、煙に巻いたのだった。せっかくの散らばっていた材料を「大人のやり方」で片付けてしまったのだった。
この後、会話は全く別の方向に、それなりに展開していった。けれど、ぼくのなかに「片付けてしまった」という気持ちは残った。それぞれの子どもたちにも、「意図せぬ形で片付けられてしまった」という思いが無意識のうちかもしれないが、もやもやと残ったのではないかと思う。何が正しかったのか、もう終わってしまったことについてのぐるぐるとした思いが今も残っている。

**********
普段でも、ぼくたちの会話は、どこか「ズレ」ている。そのズレを、時にはどちらかが我慢をして、ごまかして、もしくは共犯になって「ズレ」が目立たないよう覆い隠す方法でやりすごしている。目立たなくなり、隠された「ズレ」は、日の目を見ないままですむ。けれど、「ズレた」という感覚だけは、互いの中に残る。それが、少しずつ積み重なってある日、取り返しのつかない「亀裂」を生んだりする。
大事なのは、「ズレ」を生み出さないようにすることではない。どうしたってすれ違いは起きる。そうではなくて、その不協和音に耳を傾け、観察することだ。それが自分を知り、人を知り、関係性を変化させていく方法になるのだと思う。「ズレた」と思うことは初めの第一歩だ。普段どんなズレをごまかし、なかったことにし、自分の中や、他人の中に押し込めているのかを思い知らされること。そうした悔しい、辛い、恥ずかしい、照れくさい経験からしか出発することはできない。
そう思ったとき、ぼくにとって、子ども哲学のイベントが「上手くいく」とはどういうことだろうかと改めて考える。話がスムーズに展開されるとか、考えが深まるとか、子どもの発言がしっかりしているとか、そういうことは二の次でしかないはずだ。
「ズレ」が目の前に生まれ、それを目の前に困惑し、今までできていたことが、できなくなる体験。それこそが大切なのだ。派手である必要はない。ただ、「上手くいった」と感じたときは大抵上手くいっていない。だから、「上手くいかなかった」という体験こそ味わうべき、貴重な瞬間なのだ。
もう少し、学年混合でやってみようと思う。「ズレ」を見つめ、そこから出発するしかない。そうすることでしか次のズレに向かう道はない。
*******

ここまで読んでくださってありがとうございました。
(以上)

「たくさんの先達と桂米朝師匠」  本間隆泰

「たくさんの先達と桂米朝師匠」  本間隆泰

桂米朝(敬称略)といえば、
戦後に担い手がおらず、
滅亡寸前とまでいわれた上方落語を
八面六臂の活躍で復活させた立役者であり、
最近ではアンドロイド人形にもなった大変な人物である。
その桂米朝の生い立ちから晩年までの様子に触れられるということで
先日、兵庫県立歴史博物館(姫路市)の
特別展示「人間国宝 桂米朝とその時代」を観に行ってきた。

幼少のころの写真から
小学校、中学校のころの通信簿(数学や化学は苦手だったような)や自由研究、
東京での下宿時代に寄席通いをされていた時の記録帳や
会社員時代に姫路で寄席の世話人をされていた時の資料など
貴重な遺品が時代に沿って展示されており、
その一つ一つを興味深く拝見させていただいた。

数々の興味深い資料の中で特に印象深いものが二点あった。
そのうちの一つは米朝の師匠である四代目米團治(1951年没)から
米朝に宛てられた遺言にあたる手紙である。
手紙のなかで、まだ入門五年目である米朝の行く末を案じながら
「私の芸が必ず世間に認められる時が来る。
私が生きている間には無理かもしれないが、
あなたの代か、それ以降に認められる時が来ることを確信している。
私と私の芸の継承してこられた諸先輩方のために
あなたの芸が認められてほしい」と想いが綴られていた。
(私の記憶より引用 原文のママではありません)

自分の信じた芸術を自身の代で滅ぼしてしまってはいけないという切実さが
直筆の手紙からひしひしと伝わってきた。
私が物心ついて以降、落語に人気があったかどうかはわからないが、
落語が消滅するという危機感を抱いたことはなかった。
このたびの米團治の手紙を拝見した時は痩身の四代目米團治の写真も相まって
感慨深いものがあった。

もう一つの興味深い展示物が
1959年の三代目桂春團治(2016年没)の襲名時の資料であった。
福團治から3代目春團治を襲名する際、
米朝は春團治に対して「持ちネタの数が少な過ぎるのではないか」と苦言を呈するとともに
「代書屋」(四代目米團治の創作)、「皿屋敷」、「親子茶屋」等の演目を
春團治に伝授したという凄い話があるのだが、
「親子茶屋」については、口伝えで稽古する時間がなかったため、
内容は原稿用紙に記されて春團治に渡されたとのことであった。
その原稿用紙が三代目春團治の遺品から発見され、
今回の展示で展示されていた。
「親子茶屋」の口演内容の一言一句が原稿用紙に丁寧に記されており、
原稿の末尾には柔らかな筆跡で「御身大切に 春團治師匠様」と記されていた。
仲間である春團治を気遣うとともに落語という芸をよりよい形で
継承したいという思いが伝わるもので、
両師の「親子茶屋」がより一層味わい深くなった気がした。

俳優の小沢昭一が米朝へ宛てた寄せ書きのなかで
米朝を偉大な先達と評していたが、まったくその通りだと感じた。
米朝のように自身の芸を追及してきた沢山の先達がいたからこそ
いまのんびりと落語を聞くことができる。

博物館からの帰り道、
壁面が真新しくなった姫路城を眺めながら
米朝の大きさと沢山の先達の有り難さを
しみじみ実感した次第である。

「石橋キャンパス研究会立ち上げにあたっての覚書」 菱田伊駒

「石橋キャンパス研究会立ち上げにあたっての覚書」   菱田伊駒

 ここで書かないと次に進めない、というときがある。書く、でなくてもいいかもしれない。とにかく、自分の外に出して、人に眺めてもらえる形にすること。声に出す人、絵にする人、メロディにする人。色々な形があると思う。そういう時は不思議なことに、他人にどう思われるとか、そういうことが気にならなくなる。やけくそとも少し違う。どちらかというと、「しょうがない」という諦めの感情に近い。ぼくはこう感じていて、こんなことを考えていて、言葉にしてみるとこのようにしか表現できない。そういう形で外に出しているので、それについて色々と言われても仕方ないし、甘んじて受け入れよう。

そういう時、他人の目は気にならなくなる一方、他人自身ことが気になる。「自分がどう思われているか」から「あなたはどう思うか」に変わる。あなたにぼくの考えは伝わっているのか、それで少しでも感情は動いたのか。その変化はあなたにとってどんな意味をもつのか。聞かせてほしいと思う。

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「石橋キャンパス研究会」を始めようと思った動機は何だろうか。地域活性化とか、商店街とか、そういうのはどうでもいいのだと思う。どうでもいいというか、偶然の要素に過ぎない気がする。世界線が違えば舞台は都市だったり、農村だったりしたのだと思う。これらの要素は歴史の偶然なんだろう。もちろん、ぼく自身も偶然の産物ではある。「ぼく」というのもはっきりと分からない。ただ、「ぼく」として指し示される意識が「ぼく」だったとすると、どんな時代のどんな場所に「ぼく」が生まれたとしても、これから始める活動とそんなに変わらないことをするのだと思う。そういう幻想を持てるのは不思議だ。
世の中には、出会ったことのない人がたくさんいて、その人たちの、聞いたこともない、見たこともない考えが山のようにある。その痕跡を、本や、映像から少しだけ覗き見ることができる。そういうものにもっともっと出会っていきたい。そういうことなのだと思う。そして、もう1つ大切なのが、それを誰かと共にすること。随分な寂しがり屋だなぁと思う。でも、嘘やごまかしを抜きにして、その人自身と意見を交わし、互いの時間を編み上げてみたい気持ちがある。

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 商店街にどっぷり浸かっていると、人間関係がどうしようもなくつながっていると感じる。何かをしようと思った時、すでに出来上がった網目の上を動くしかないような。誰に協力を仰いで、どういう手順で物事を進めていくかが決まっているのだ。でも、本当にそうだろうか。今、ぼくはむしろそういう関係を断ち切りたいと思うようになっている。断ち切りたい、そう言うととても冷たく映るかもしれない。ただ、それは馴れ合いが嫌いだというだけ。関係を持ちたくないわけではない。むしろ、気になっている。気になっていなければこんな文章は書かない。関係を持つため、人間関係を接続するために、切断する。そういう逆説的なことがあると思う。もう一度出会い直したいからこそ別れる。別れるからこそもう一度感情を交わしたいと思う。だから、冷たいという評価は全くの間違いで、どうしようもなく湿っぽいのである。

人と人のつながりが絶えて久しいと言われる。人と人が出会う場が必要だと言われる。それは確かにそうだ。見知らぬ者同士が出会い、言葉を交わし、互いに刺激を受ける。そういう場所は必要だと思う。しかし、見知った者同士が、互いの関係を見直せるような場も必要だと思う。見知らぬ者同士が見知った仲になれる場、見知った者同士が、見知らぬ仲になる場。 

相手が見知った相手でも、それが子ども相手であってもはっとさせられる瞬間がある。最近のこども哲学カフェの一幕。小学生高学年の男の子。
「みんな、本当は多重人格やと思うねん。表に出てるのは冷静なやつやけど、その後ろには怒ってる人とか、悲しんでる人とか、面白い人とか、そういうのが色々おって、表に出てきたり出てこなかったりするねん。」
「相手が怒ってたら、それに反応して俺の中の怒ってるやつが冷静なやつをつぶしちゃうねん。その時は、表が入れ替わるっていうより冷静なやつが怒ってるやつにつぶされちゃう感じ。」
「でも、冷静なやつも、面白いやつも、何も表に出てないやつもおる。そういうやつは何もなくて、無っていうか、無関心な感じ。」
「長いこと付き合ってると、その分感情の量みたいのがたくさんたまってくるから。嫌なことがある分、いい感情の量も多いから、それでまぁいいや、みたいに思えたりするねん。」
普段は一緒に騒ぐだけの仲でも、ふっと違う子の顔をしている。そういう時、あぁ自分はこの子のことを何も知らないのだ、と思う。どんな経験をして、何を感じてきたのか。聞いたところでその断片しか見ることができない。

友人や、友人とも呼べないような知人。同僚。なんとなく、「この人はこんな人だ」と思うことはある。それは、ぼくの思い込みにすぎない。わかっているつもりで、そういう仮で貼ったつもりのラベルを、いつの間にか本物だと思い込む。

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 先日、ヴィクトル・シロフスキーの「異化」という考えを教えてもらった。慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法、のことらしい。ここまで、ぼくは他人と自分の関係の切断についてしか書いていない。しかし、ふと気づく。自分自身に対しての切断もあるのではなかろうか?見知った関係を切断し、見知らぬ関係に変えることが重要なように、知っていると思う自己を、突き放すことも大事ではないだろうか?自分が自分でなくなっていける場は、自分が自分らしくいられる場と同じくらい大事ではないだろうか?

どこにいても、何をしていても周囲にあまり馴染めない気持がいつもある。5センチくらい周囲から浮いている感覚。だからとかして地に足をつけようとする。周りと違わないよう、恐る恐る発言する。行動する。それも疲れるので、できればそういうことを気にせずに過ごせる場。それが、居心地の良い場だと思っていた。自分が自然体でいられる場所。自分が自分らしくいられる場所。でも、それでは飽きるのだ。居心地の良さに。自然体の自分に。同じようなメンバーで、同じような話題を、同じような表情で話す。もっと違う表情をそれぞれができるはずで、違う表情を隠しているがそれが表に出る機会がない。考えも変わらない。ただただ、つまらない。

成長とか、そういうことではない。成長は同じ直線状を動いているに過ぎない。それはつまらない。変容が必要なのだ。質そのものが変わってしまうような変化。ポジティブでもネガティブでもかまわない。変容したとき、人の顔が変わる、声の響きが変わる、動きが変わる。変容は、狙って起こりはしない。気づくと変わっている。向こう側からやってくる。だから、大切なのは待つこと。リラックスして待つこと。変化を受け入れる用意をすること。本当の意味で自分らしくいられるということは、同時に、自分が自分でなくなるきっかけなのだと思う。

見知った人間同士が、もう一度「知らない仲」になれるような場。見知った自分が、見知らぬ自分になってゆくような場。「知」を通してそのような変化の往来が活発化するような、そんな場を出会った人たちと共につくっていきたい。
(以上)

「暮らしの中でぼくが考えること」 菱田伊駒

「暮らしの中でぼくが考えること」菱田伊駒

 ぼくは書くことが苦手だと思う。原稿を前にするとことばが出てこない。しかし、書く手前でぐるぐる回るのにも疲れた。今回は自分で書いた文章を読むことから始めてみる。

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「ある内面」

 文章を書くことは好きではない。自分と向き合わなければいけないから。自分と向き合う以前に、自分の姿を否応なしに、見せつけられることになるから。録音した自分の声。動画に映った自分の姿。人に見られると思うと恥ずかしい。最も最悪な状況は、死んだ後の姿を誰かに見られること。できれば死ぬと同時に、意識と共に消えてほしい。

 学校の作文を書くときの感覚を思い出す。このように書けば褒められる、ではいけない。「このように書けば褒められる」と分かったつもりで文章を書くような人間ではありませんよ、と示す。僕は、分かってる人間なんですよ、と示してやる。こいつ違うな、と思ってもらえればしめたもの。文章を書いては、学年通信に掲載される。学年集会で前に出て発言する。パフォーマンス。人のための文章、人のための発言。

 だから、バンドのボーカルに「歌詞を書いて」と言われた時に書けなかった。歌詞は外を向いては書けない。内を向かなければ書けない。ボーカルの彼が書いた歌詞に、付け焼刃のような知識であれこれと文句をつけた。彼の顔色を窺いながら。顔色を窺っていることを、悟られることが一番怖かった。批判も称賛も、遠慮なく述べているよう振舞った。「他の人は気を遣うかもしれない。でも、俺はしないよ」そのような自己像を演出したかったのだろう。中学から高校にかけての話。

 大学生になって、ジャズ研に入った。ジャズにはアドリブがある。歌詞や作曲とは違ってハードルが低い。しかし、創作であることには、違いない。セッションにもよく通った。自分はクリエイティブな行為に関わっている。そんな喜びが、あったのかもしれない。

 ある時、高校時代のバンド仲間と一緒にライブをする機会を持った。ライブに向けた練習中、仲間のギタリストと2人になった。そこで彼は、自己表現ができない、と話してくれた。僕は得意気に、セッションの経験を話した。表現すべき自己がない、と思うのであればジャズをすればいい。とりあえずアドリブを演奏してみればいい。それも立派な自己表現だ、と。そしてセッションを持ちかけた。

 酷なことをした。(当然ながら)大したセッションではなかった。自分の思いを吐露してくれた友人を、無理やり、自分の土俵に持ち込み傷つけようとした。傷つけることで、自分の優位を保った。ぼくはサークル内では全く実力がなく、存在感がなかった。そのような環境で傷ついた自尊心を、回復したかったのだろう。

 創ることは、難しい。曲でも、歌詞でも、絵でも、何であれ。人間関係も、そう。「これが私の作品です」、と世に向かって差し出すことは、本当に勇気のいる行為だ。作品には、その人の実力、意図がそのまま現れる。隠せない。言い訳できない。逃げられない。誠実な評価だけでなく、悪意ある評価に晒されることもある。

 それでも、言わずにはおれない、書かずにはおれない、と切実に感じている人がいる。そうした人が、創る。しかし、切実さだけでは足りない。加えて、自尊心が必要になる。どのような周囲の反応があっても、それはそれとして区別するための自信がいる。

 自信がない人は、創ることができない。しかし、不全感は残る。不全を解消したい。そして、壊す。壊すことは、創ることの何倍も簡単。大きな違いは、壊した人の実力、意図は隠されていること。なぜ壊したのか、壊された側はわからない。壊すことで、その人の不全や、実力や、意図は覆い隠せる。優位に立てる。

 壊すことは、簡単だ。中毒性も高い。だから、一度壊すことを覚えた人は、次々と壊す。周囲を壊し続けられる人はいい。中途半端な良心を持っていると大変だ。周囲に迷惑をかけたくない。でも、不全は解決したい。ジレンマから逃れたい。だから、壊す対象として、自分を選ぶ。自分の心、体は自分だけのものではない、それを忘れて。

 中毒。何かに依存してしまうと、抜け出すことは難しい。煙草やアルコールのようなもの。依存心は、自分の気持ちのありようだから、気持ちを変えてやればよい。そう考える人がいる。脳的な人。気持ちを、脳が支配していると考える人。しかし、これは誤りだ。私の心のありようは、私が支配しているわけではない。制御不可能なもの。

 病は気から、とは上手い言い方だと思う。まさに、「気」、こそが、制御下にないのだから。気が上向きになれば、快方に向かう。下向きになれば、回復が遅れる。しかし、病に冒されている状態で、気が上向きになることは稀だろう。だから、ふとしたきっかけで気が上向きにさえなれば、回復に向かっていると考えてよい。そういうことだろう。

 ぼくは、創る人間になりたいと思って、この文章を書いた。この文章には「こうありたい」、「このように他人に思われたい」、と思うぼくの感情が、入り混じっている。読み直していて気づき、削除した文章も多い。気づいても、どうにもできず、そのまま残した文章もある。そして何より、今の自分では気づくことができない感情が、残っている。それが、知りたい。

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 この文章は半年前、熱中していた作家の高石宏輔さんの文章をトレースしながら、ぼくのエピソードを上乗せしたに過ぎないものだ。だから、自分でゼロから書き起こした感覚はなく、模倣だ。エピソードも正確ではない。にも関わらず自分のこれまで書いた文章の中で、読み直すならこれだと思った。どうしてだろう。これまで書いてきた文章が少ないことも理由だろうが、それ以上に「ちゃんと書けた」と思う体験だったからだ。それまでにはない体験だった。どうしても書こうとすると、普段の生活からどんどん遠ざかっていってしまう。書きたい対象から、違う方向に向かっていってしまう。暮らしの中で感動した、悲しい、嬉しい、そういう瞬間の生の充実感ともいえる輝きが書くことを通じて色あせていく。もっと悪い場合は、書く行為でその輝きに泥を上塗りして、汚してしまう。そんなことをするくらいなら、書かなければいいのだ。

 何が違ったのだろう。それは、書くことと生きることが重なっているか否かではないか。いや、少し違う。書く、がほとんど意識されず、書く=考える、の状態。考えることがそのまま書くことにつながっていたから、そして考えることがそのまま生きることにつながっていたから、印象に残る体験ができたのだと思う。書くことについて考えずにキーボードを叩けていた。ぼくが考えたいのは書くことではなかった。考えることと、生きることの関係が知りたい。

 考えることと生きることを重ねたい、考えるように生きたい、生きるように考えたい。ずっと前からそう思っていた。今はまだ、一つしか方法を知らない。生きるを考える、考えるを生きる。両者をひたすら往復するのだ。大抵、生きるを考える、で終わってしまう。自分の中にこれまで眠っていた感情を発見する、或いは経験を内省するうちに、新しい意味を見出す。そして満足する。一方通行。しかし、往復すると新しい経験が用意されている。ふと立ち止まって考えてみる。考えているうちに、それまで思いつかなかった考えに出会う。その新しい考えを飲み込むと、それまでと違った日常が現れる。自分が自分らしくなる。自分が自分でなくなってゆく。不思議な感覚。

 

 生きると考えるの往復について考えるとき、二人の友人が頭に浮かぶ。

 一人は、ある友人の話。共に社会に対する問題意識を共有し、語り合った「同志」であった。

でもその人は、やりたいことを実現するには金がいると言って、そのためにやりたくもない仕事をしている。まさに学生時代に彼が疑問を感じていたビジネスによって。その姿は、学生時代に共に疑問を投げかけていた対象とそのまま重なる。社会の、どこの誰かも分からない人間が用意した物語を、彼は自分の人生として生きているように見える。その人の生きるには、もっとたくさんの輝きが眠っているようにぼくには見えるのに。

 もう一人は、ある先輩。とても仕事ができる人で、これがクリエイティブであることなんだと教えてくれた人だった。でも、その人はいつも自己評価が最低だった。「私はダメなやつなんだ」いう考えが根っこでその人を縛っているように見えた。自ら進んで囚われにいっているように見えた。ぼくがどのような声をかけたところで、届かなかった。ぼくが尊敬するまさにその人によって、そのリスペクトは間違いだと言われたような気になった。それは、自分に厳しい、ストイックだ、そういった類ではなかった。ぼくはこう思う。その人は、あるとき自分の生きるを考えた(それは無意識にだったかもしれない)。考えた結果、導き出されたのは「私はダメなやつなんだ」という考えだった。考え、生き方の思想、その人の物語。そしてそれは強固なものとして、生きられた。なぞればなぞるほど、強化された物語は生きると考えるの往復を許さず、固まってしまったのではないか、と。

 もちろん、二人の姿は、勝手に解釈したものだ。本当のところはわからない。だから、描き出した二人の像を通じて、ぼくは、ぼくの考えを言っているだけだと思ってもらっても構わない(それくらい、二人について語る言葉を、ぼくは信用していない。信用できない)。けれども、そのように見えてしまうのだ、感じてしまうのだ。だから、続けさせてもらう。

 二人のことを思うと、生きると考えるの往復は、一往復目がいかに難しいか、一往復できたからといって二往復目も最初と同じくらい、もしくは最初の一歩以上に難しいのだと思い知らされる。そしてその難しさはそのままぼくにも当てはまる。だからこそ、二人に対して投げかけたい言葉を自分にも向けなければいけない。「本当に?」と。本当にその考えはぼくの人生と重なっているのか?本当にその考えはぼくの人生から出てきたものか?と。その問いかけからしか始まらないし、引き返すこともできない。少しずれた新しい道を拓くこともできない。

 

 「本当に?」こう問うことは何を意味するのだろう。それは、自分に向けた疑いの声である、ずっとそう思っていた。自身に向けた批判的思考だと。だから、「本当に?」とぼくに向かって語りかけるその声は、いつも厳しい口調で、早口だった。しかし、それは違うと思うようになった。疑いや、批判ではない。むしろそれは、願いに近い。自分自身に未だ秘められた可能性、より洞察の深い思想、魅力的な物語。その存在の可能性があってほしい、知りたい、表現したい、そう願う気持ちである。可能性の端緒を見つけるためにぼくたちができる唯一の方法が、問うことなのだ。問う相手が他人であっても、自分であっても、「知りたい」と思う気持ちが原動力になる。今、どのような状況にいるのか、その状況をどのように認識しているのか、どう感じているのか、辛いのか、悲しいのか。だからそれは、優しく、穏やかに、しかし切実さをもって語られるはずなのだ。

 今の自分の人生は下り坂で、いいことはなにもない。世界で自分は一番不幸せだ。どうして俺だけが。「本当に?」世の中こんなもんだ、生きる意味なんてない、死んだほうがいいんだ。「本当に?」問いかけたからといって、一発逆転なんてことはそうない。でも、少し意味がずれてゆく。虚しさの中に一点の希望が灯るかもしれない。もちろん、その逆もあるだろう。明るいと思っていたものに影が差し込む、楽しいと思っていたものに虚しさが生まれる。

 ぼくにできることは、問い続けることだけだ。問いかけによって新しく生まれた何かを待つ、僕に向けて送られた響きを聞き取る。また問いかける。絶えず繰り返す。生きることを、もっと深く生きたい。考えることを、もっと深く考えたい。そう、思う。