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【「街場の親子論」@井上英作】

 内田先生に企画段階から、この本のことは、お聞きしていて、そのときから僕はすでに涙腺崩壊寸前だったのだが、実際に読んでみると、見事なまでに涙腺が崩壊してしまった。ポーカーフェイスを気取っている僕としては、とても、珍しいことである。あまりに珍しい体験だったので、文章にまとめてみることにした。
 まず、僕が立てた問いは、「なぜ「父×娘」の物語は、成立しづらいのか?」というものだ。「父×息子」、「母×息子」といった組み合わせは、石を投げれば当たるほど、古今東西に存在するジャンルだと思う。また、「母×娘」もここ10年くらいで、「毒親」という言葉とセットで、堰を切ったように現出した感がある。では、「父×娘」の組み合わせは、どうだろうか?僕が知っている浅い知識では、「父×娘」ものを扱っている日本の作家といえば、せいぜい、阿川佐和子、壇ふみ、向田邦子ぐらいしか頭に浮かばない。そして、彼女たちに共通するのは、どれも「すでに存在しない怖かった父親」である。すでに存在しない父親を回顧し、「あのときお父さんはこういう気持ちだったんだろうなぁ」という推測により物語は展開する。そこに「生身の父親」は存在しない。しかし、「街場の親子論」には、生身の父と娘が登場する。辛うじて父の不在を前提に存在する「父×娘」というマイナーなジャンルに、「街場の親子論」は、往復書簡という形で、「生身の父」と「生身の娘」が対峙するという快挙を成しとげた。僕の涙腺を崩壊させたのは、この「生身」の情景たちである。
 この本の企画を最初に聞いたときに、内田先生から語られたシャルル・ド・ゴール空港での情景。僕には、その情景は、まるで、ヨーロッパ映画のロードムービーの一コマのように思えた。そして、本のページをめくるたびに、次々と紹介されていく情景たち。バックギャモンやモノポリーを楽しんだり、カルチェ・ラタンの中華料理屋で、ラーメンを食したあとに、内田先生からるんちゃんにこの本の企画のことを告げる情景。なにより、僕を一番キュンとさせたのは、二人でパフェを食べた日のことと、花柄のスカートを穿いたるんちゃんの姿である。
 この二つのことで、内田先生は、深く傷つく。しかし、これらの傷を負うことによって、一つずつ父親に近づいていったのではないかと、僕は想像する。是枝監督の作品に「そして、父になる」というのがある。父親役の福山雅治が、次第に父親として目覚めていくといったものだ。父親というのは、この映画のタイトルが示す通り、初めから「ある」ものではなく、「なっていく」ものなんだろう。僕たち夫婦には、子供がいないので、僕にはリアルな父親の気持ちが分からないので、あくまでも僕の想像というか妄想だが…。。
 そして、僕を一番驚かせたのが、父親に「なる」過程において、一番重要なファクターは、娘からの愛なのでは?という風に気づいたことである。親子関係というのは、親からの愛情が子供に注がれて、子供が成長していくものと普通に思っていたが、実は、それは、逆ではないだろうかと、ふと思い至ったのである。「自分のことをもっと気にかけて欲しいと思っても、どこまで要求していいのか分からず、育児の至らない部分を怒ったり責めたりする気にはなりませんでした。あの頃のお父さんは、死にかけのウサギの赤ちゃんのように弱っていたので…。」とるんちゃんが書いています。その年頃の僕と比べるまでもなく、明らかにるんちゃんは、「大人」で、しかも、自分のことは脇に置いて、父親のことを気遣う愛に満ち溢れている。そんな「大人」の娘と、これから「父」になろうとしている「父」との倒錯した関係は、分かりやすい物語には、到底なりにくいだろうと思う。親と子供の物語が成立する要件は、「巨人の星」のような親と子の関係における非対称性ではないだろうか?その非対称性が、「父」と「娘」の場合、必ずしも成立しない。
 先日、野村克也のドキュメントを観た。晩年、息子と対談するというもので、いかにも居心地の悪そうな野村克也が、最後にポロっと本音を話す。同じプロ野球の指導者の道に進んだ息子に、「僕に、どうしてほしいか言ってくれ。言われたことには、すべて応えるから。」と苦悩に満ちた顔で言う。自分の父親を見ていても、子供に対して、どう接していいのか分からないというのは、父親の本音なんだろうと思う。だから、壇一雄は「家宅の人」となり、阿川弘之は、娘の前でムスっと押し黙り、寺内貫太郎は、暴力的になるしか、父としての選択肢がなかったのだろう。自分がもし父親になっていたら、どんな父親になっていたのだろう?何となく想像できる。
 内田先生は、るんちゃんからの愛情に支えられ、リアルに接してきたことで、今回のような父と娘の往復書簡という世にも稀な作品が出来上がった。
 さらに、るんちゃんは、現在でも「「内田樹さん」がどんな人間であるか、じつはとても興味があるのです。」と公言していて、その愛情は、子供のときから少しも変わっていない。
 そんな奇跡のような父と娘の物語である。

【七日間ブックカバーチャレンジ最終 @井上英作】

「七日間ブックカバーチャレンジ」もとうとう最後となった。中島らも、石井隆、橋本治、こだま和文、中沢新一、村上龍と続き、トリにどの本を選ぼうか、随分迷ったが、五月ということで、追悼の意味も込めて寺山修司にした。それにしても、我ながら、随分偏った選択だなと思う。

まだ、タモリが黒い眼帯をして、中洲産業大学教授と名乗っていたころ、東北弁で話す知識人の真似をしているのをテレビでよく見かけた。寺山修司のモノマネだった。小学生高学年ごろだったと記憶している。それから僕は、イギリスのニューウェーブという音楽にどっぷりとはまり、それらの音楽がきっかけでヌーベルバーグの映画を観るようになる。そんなころ、深夜テレビで、海外で評価されている劇団「天井桟敷」の稽古風景の映像を観た。確か、フランスの国際演劇祭に招待されたことについての報告だったとように思う。その映像には、全身白塗りの男や、20㎝ぐらいの大きさのフェイクの唇を口に上下に装着した女優たちを、ニヤニヤしながら指導している男の姿がとても印象的だった。その映像は、ヌーベルバーグの映画批評でよく登場する「前衛」ということばを、具現化したものだった。その指導しているのが寺山修司だった。それから数年後、1983年、僕がまだ17才のころ、寺山はわずか48才という若さでこの世を去ることになる。彼の死をきっかけに、映画監督として有名だった寺山の作品が、彼の亡くなった五月に名画座を中心によく特集が組まれた。インターネットなどなかったそのころ、僕は、「Lmagazine」の映画の上映情報をくまなくチェックし、いろいろな映画館に出かけた。とりわけ、「田園に死す」は、何度観たか分からないほどで、おそらく、僕のなかで、一番たくさん観た作品だろう。冒頭のお寺でのかくれんぼのシーン、川上から流れてくるひな人形、空気人形の春川ますみ、新高恵子の美しさ、そしてあまりにも有名なラストシーン。かなりベタな感じはするが、思い切り背伸びして芸術映画をかじり始めた僕にとっては、とっつき易かった。

 僕は、いまだに60年代~70年初めのカルチャーを生で体現した世代、現在70代の人たちに対する強い憧れがある。その頃東京では、アングラ文化が全盛で、演劇では、寺山修司の「天井桟敷」や唐十郎の「状況劇場」。また、土方巽という天才が暗黒舞踏という新しいジャンルを創作し、その流れの一部を、今や息子の方が有名になったが大森南朋の父、麿赤兒の「大駱駝艦」が引き継ぐ。音楽では、エルビス・プレスリーの登場をきっかけにロック創世記を迎え、映画では、フランスからヌーベルバーグ、アメリカからニュー・シネマといった具合に、新しい運動と才能が次々と現れ、それらは、お互いに融合していった。なんとも羨ましい限りである。なかでも寺山は、当時最先端だったフランスの現代思想の影響を強く受けていたようで、特に、既存の「歴史」に対する批判は厳しい。

「去りゆく一切は歴史にすぎない。が、やがて起こるべき出来事は、歴史などではありえない」、「僕は歴史に興味がなくて、地理が好きだ」など、歴史主義を批判している。映画「田園に死す」は、二人の「私」を登場させる。それは、現在の「私」と少年時代の「私」である。現在の「私」は、少年時代の「私」に対し、これからの少年時代の「私」の未来について、将棋を指しながら会話は進行していく。現在の「私」が、机の引き出しにホタルを閉じ込めたままにしたせいで、家が火事になったというと、少年時代の「私」が、火事などおこらなかったと反論する。すると、現在の「私」が、少年時代の「私」に、ほくそ笑みながら、起こらなかったことも歴史の一部だと言い、一蹴するのである。このように、修正されていく歴史に、寺山は異を唱える。

言うまでもなく、寺山は、ことばの人だった。あまりに有名な絶筆エッセイ「墓場まで何マイル」より。

「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからといって墓は建ててほしくない。私の墓は、私のことばであれば充分。」とまで言っている。そんな寺山のことばのなかで僕の一番好きなのが、「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」である。

寺山が亡くなってから、すでに37年が経過した。その後日本は、バブルを経過し、バブル崩壊後、失われた10年はずっと続き、その間には阪神淡路大震災、オウム事件、東日本大震災など惨事が続き、政治状況はますます悪化するばかりで、予想だにしなかった今回のコロナ禍と、閉塞感ばかりが僕たちに重くのしかかってくる。寺山が生きていたら、こんな今をどのように描いただろう?そう考えると、残念で仕方がない。

本書は、1986年、僕が21才のとき、寺山修司全仕事展「テラヤマワールド」を観にいったときに買ったものだ。久しぶりに本書を開くと、そのときのチケットが挟まれていて、6月28日~7月7日と書いてある。そういえば、すごく蒸し暑かったような気がする。会場は「西武百貨店八尾店」。そして、「吹田映劇」、「大毎地下劇場」、「扇町ミュージアムスクェア」、「近鉄小劇場」も、今は存在しない。

【7日間ブックカバーチャレンジ ③ @井上英作】

4月8日、緊急事態宣言が発令され、50日近く「緊急事態発言宣言後の世界」に今もいる。大阪の緊急事態宣言解除もあと少しといった雰囲気だが、一週間に二日しか出勤しないという、いまだかつて経験したことのない毎日は、いまだに継続中だ。さすがに能天気な僕も、今回のコロナ禍については考えざるを得ない。一体、これからどうなるんだろう?というポストコロナ社会について、誰もが感じている不安を最も強く抱いていた4月上旬、僕は、その答えを、文学に求めることにした。そして、僕の頭に真っ先に浮かんだのが本書だった。僕は、自分の本棚にある「村上龍コーナー」にじっと目を凝らし、本書を探した。何度も探したが、無かった。どうやら引っ越しのときに処分したらしい。翌日、僕は、会社の近くにある、紀伊国屋書店本町店へ行った。僕は、驚いた。文庫本の「村上龍コーナー」は、代表作「コインロッカーベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」、「半島を出よ」、本書といったものは、置かれておらず、あまり聞いたことのないエッセーが数冊、申しわけなさそうに並んでいたのだった。かつては、本棚の四分の一ぐらいは、村上龍のコーナーがあったのだが。もう、誰も村上龍を読まないのだろう、そう思うと僕は、少し寂しくなった。仕方がないので、アマゾンで取り寄せることにした。さらに、追い打ちをかけるように僕を驚かせたのは、出品されている価格が、「1円」だったことだ。つまり、実質ゼロ円というわけだ。以前、高橋幸宏の90年代のCDを買い集めたときと同じ現象だ。自分のマイナーな趣味をどう捉えたらいいのだろう。

かつて、「W村上」と言われた時代があった。村上春樹と村上龍のことだ。この二人が、ある時期の日本の文学を牽引していたのだ。ハルキストを自認する僕も、ある時期までは、村上春樹より村上龍の作品に夢中だった。村上龍の作品は、単純にストーリーが面白い。電車の中で読書に集中するあまり、降車する駅を通過してしまったというのをよく耳にするが、僕の場合、それは「愛と幻想のファシズム」だった。その日、僕は出社時の電車で、降りる駅を通過したばかりか、出社するとすぐに外出し、一日中、「愛と幻想のファシズム」を読み耽っていたのだ。

本書は、「五分後の世界」の続編である。「五分後の世界」のあらすじを簡単に紹介しておく。「日本は太平洋戦争に沖縄戦ののち、アメリカ軍と本土決戦を行い、大日本帝国は消滅した。帝国崩壊後、ビルマなどから帰還した将校団が終結し、日本国地下司令部(アンダーグラウンド)を創設し、戦闘的小国家に生まれ変わる。そして、その世界は、現在より五分間、時空のずれた地球に存在し、日本がもう一つの戦後の歴史を刻んでいる」。そして、本作では、「日本国地下司令部(アンダーグラウンド)が、九州に存在する超高級リゾート地域『ビッグ・バン』の北にあるヒュウガ村で発生したウイルスの発生源を壊滅させる任務を遂行させる…」といったもの。なんとも凄い想像力だと思う。この頃の、村上龍の作品は、どの作品もこのような想像力に満ち溢れていた。次から次へとイメージが増幅し、一気に書き上げたような印象が残る。実際、本書のあとがきによると、二十日間で書き上げたそうだ。

村上龍は、あるインタビューでこう答えている。「自分は、システムのようなものに対して憎悪に近いような感情を抱いている。そのシステムに抗うために、僕は小説を書いている。」「コインロッカーベイビーズ」のキクとハシ、「愛と幻想のファシズム」のトウジ、「希望の国のエクソダス」の中学生たちは、「現実」の転覆を図る。そして、本作においては、「戦後」という「現実」に対し転覆を実行してしまう。歴史に「もし」は、禁句だとよく言われるが、果たして、本当にそうなのだろうか?「あのとき」にどうしてプランBではなく、プランAを選択したのか?その理由は、一体何だったのか、もしプランBを選択していた場合、その後、どのような現実が存在したのか、そのことについて考察し、想像力を膨らませることは、未来を考えていくうえで、とても重要な態度だと思うし、そのことが、文学などの芸術が担っている大きな役割では、ないだろうか?それが、いくらフィクションだったとしても、僕は「物語」の力を信じている。

「五分後の世界」の中で、偶然、五分後の世界に紛れ込んでしまった主人公の小田桐は、いろいろな戦闘に巻き込まれていく。激しい戦闘シーンで、小田桐は、ミズノ少尉にこう言われる。「最も大切なことがある、絶対に悪い想像をしてはいけないということだ、最悪の状況をイメージしたりしてはいけない、大丈夫だと、と自分に暗示をかけるんだ」

これから先、どんな世界、未来が僕たちを待ち受けているのか、そんなことは、誰にも分からない。分からないことは、いくら考えても分からない。でも、僕は、このミズノ少尉のことばを胸に、なんとか明日も生きていこうと思うのである。

【7日間ブックカバーチャレンジ ② @井上英作】

二日目。

その日は、金沢に出張していた。仕事を終え、金沢駅で時刻表を眺めていると、大阪行きのサンダーバードは、出発したところだった。次の電車まで、あと一時間あるので、僕は、あてもなく、駅周辺を歩き始めた。時間を潰すのにも飽きてきて、適当にベンチに座ってぼーっとしていると、古本屋が目に止まった。金沢へは何度も来ていたが、こんなところに古本屋があるなんて全然知らなかった。時計を見ると、電車の出発まで、まだ20分ほど時間があったので、その古本屋に入ってみた。そこには、よくありがちなハウツー本が、無造作に並べてあった。「30代のうちにこれだけは、やっておこう」、「恋愛に悩んでいるあなたへ」、まぁ、そんな感じの本たちだ。地方の古本屋だから、そんなもんだろうと思いながら、店を出ようとしたところ、一冊の雑誌と目が合ってしまった。「石井隆の世界」というタイトルだった。

僕より少し上の世代の人たちにとっては、漫画(劇画)家として認知されているかもしれないが、僕は石井隆のことを、映画を通じて知った。その映画は、「天使のはらわた 赤い淫画」(@池田敏春)という日活ロマンポルノだった。映画産業が斜陽に向かっていくなかで、当時の日活ロマンポルノには、若い才能が結集していた。森田芳光、周防正行、根岸吉太郎など名前を挙げればきりがない。「天使のはらわた 赤い淫画」は、東梅田日活で観たのだが、ポルノ映画という体裁を取っていたものの、そのあまりの切なさに、ポルノ映画としての機能を果たしてくれなかった。なんかとても暗いやるせない気持ちになりながら、映画館をあとにしたような気がする。そのときに、エンドロールで「脚本 石井隆」というのが目に止まった。

その後、石井隆は映画監督としても作品を撮り続け、高い評価を受ける。「GONIN」、「死んでもいい」、「ヌードの夜」などが代表作だろう。映画が公開されれば、劇場に足を運ぶ、僕にとっては、数少ない映画作家のひとりだ。

先日、この企画のためにこの本を選び、僕の一番好きな石井作品「夜がまた来る」を観直した。そのDVDのボーナストラックに入っていた主演の根津甚八のインタビューから。Q「石井作品のハードボイルドについてどう思われますか」A「石井監督の作品は、確かにハードボイルドの側面もありますが、僕は、その切なさに惹かれるんですよね」、「僕は、映画を観て泣きたいんです。楽しかったり、考えさせらるような作品というよりは、ただ、泣きたいんです」

僕もこの根津甚八の答えに、深く同意する。石井作品には、いつも村木と名美という男と女が登場する。ちなみに「夜がまた来る」では、村木を根津甚八が、名美をメジャーになる前の夏川結衣が演じている。石井作品において、村木と名美は、決して結ばれない。結ばれないどころか、常に「すれ違う」。橋本治は、「デビッド百コラム」のなかで、メロドラマについて「男と女がすれ違うことで、初めて成立し、男と女は、すれ違うという意味において等価である」といっているが、石井作品は、メロドラマそのものであると同時に、村木と名美は、すれ違うことで等価となり、決して交わらない。

石井作品では、たくさんの記号が散りばめられている。歌謡曲、廃墟、ネオン管、夜、そして雨。特に、必ずと言っていいほど、作品の中では雨が降り続ける。雨といっても普通の雨ではない。いつも土砂降りの大雨が降る。この雨は、いったい何を象徴しているのか?。先ほど、僕は、村木と名美は決して結ばれないと書いた。そんな二人が、一瞬だけ奇跡的に結ぶつく、あるいは、結びつきたいという衝動を表しているのではないか?天(名美)と地(村木)が、雨という直線によってつながったように思える。しかし、その雨は、いつも凄まじい風によってまっすぐと地に届くことはない。

タランティーノ監督は、以前インタビューで、こう答えている。「僕の好きな日本の映画監督は、二人とも、イシイ監督だ。一人は、タカシで、もう一人は、テルオだ」。このように、タランティーノ監督からもリスペクトを受けている石井隆だが、僕の勉強不足だと思うが、石井監督を評価する人をあまり知らなかった。そんなとき、出会ったのが、金沢の古本屋で偶然見つけたのがこの雑誌だった。

この本の中で、いろんな人が、石井隆論を展開している。なかでも僕を勇気づけてくれたのは、今は亡き橋本治が、寄稿していたことだった。

「少女マンガとしての石井隆」と題されたその寄稿の中から気になった部分を抽出すると、「石井隆は、少女マンガである。その理由としては、作品に描かれている名美は、青年マンガで描かれているヒロインではなくステロタイプで表現された女である。そのことによりかつて男の幻想の中にあった女は他人になってしまった。その他人になってしまった女を前に、男は不能に陥る。このことは、男の側から描かれた少女マンガと同義である。だから、石井隆は後味がよくない」とある。いつもながら橋本治らしい難解な解説である。

さらに、昨年の秋、映画評論家の町山智浩が、僕がいつも参考にさせていただいている「映画その他ムダ話」で、石井隆を取り上げてくれた。町山智浩も石井作品が好きだったのだ。

今回、石井隆に関する評論がないかどうか、ネットで調べてみたが見つけることができなかった。

世界でたったひとつの石井隆「本」として、この本は、僕にとってかけがえのない一冊である。

 

 

 

 

【7日間ブックカバーチャレンジ ① @井上英作】

友人の富田さんから、このお誘いを受けた。とりあえず暇なので、参加することにした。この企画の概要は、以下のとおりです。ご興味ある方は、どうぞ。
「これは読書文化の普及に貢献するためのチャレンジです。 参加方法は、好きな本を1日1冊、7日間投稿するというもの。 本についての説明なしにカバー画像だけをアップし、毎日1人のFBの友達をこのチャレンジに招待して参加してもらいます」
一日目「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」(@中島らも、1989年)
先日、テレビで漫才を観ていた。ティーアップと笑い飯という人選に惹かれたからである。番組の趣向は、その放送するテレビ局に残っている自分たちの持ちネタの映像から、自身が推薦するネタを披露するというものだった。僕は、笑い飯のネタの一つの映像を見ながら、西田(髭を生やしている方)が着ているTシャツに目が釘付けになった。そこにプリントされていたのは、中島らもだった。
かつて、中島らもという天才がいた。「いた」というふうに過去形で書かないとけないのは、彼がもうすでにこの世にはいないからだ。
中島らもの文章に最初に触れたのは、友人の家でだった。その友人の机の上に何気に置かれてあった「SAVVY」をぱらぱらとめくってみると、最後の方に、中島らものエッセイがあった。「SAVVY」というのは、女性向けの情報誌のことで、友人は、女の子とのデートコースをよく「SAVVY」から情報を得ていた。
それより以前にも中島らもの存在は知っていて、「啓蒙かまぼこ新聞」の漫画を描いている漫画家、テレビ番組「どんぶり5656」の構成作家というふうに思っていたので、そのとき、エッセイも書くんだと思いながら、僕はそのエッセイを読み始めた。内容は、よく覚えていないが、読み終えると僕は、大声でゲラゲラと笑っていた。文章を読んで、声を出して笑ったのは、生まれて初めての経験だった。それからというもの、僕は、中島らもの悪魔的な魅力に魅了された。劇団リリパットアーミーを観に「扇町ミュージアムスクェア」に何度も足を運び、新刊が出れば、その日に書店へと向かった。何度か本人を見かけたこともある。サンケイホールで映画「突然炎のごとく」を観た帰り道の、夕方の桜橋交差点近辺だったように記憶している。当時の中島らもは、前髪を左から右に斜めに切り、黒いサングラスをかけていたころで、僕が18才ぐらいなので、1983年ごろではないだろうか。
さて、本作は、初期に出されたエッセイである。ご本人もあとがきで「十代前半の明るさに比べると、後半はひたすらに暗い」と書いてあるとおりである。すこし長くなるが、本文からの引用。「十代の僕は一種狂暴なほどに自分自身を憎んでいた。そしてそれ以上に、自分がその一隅を占めているところの「世界」そのものを憎み、呪っていた。中略。酒の酔いは、そういう破滅的な気分に実によくフィットした」。
このあまりにもペシミスティックな心性は、中島らもからついに離れることはなく、晩年は、アルコール依存と躁鬱病に悩まされ、2004年、52才の若さで亡くなった。その訃報を知ったとき、僕は、特に驚くこともなかった。「やっぱり、そうか」という感じの方が強かったのを今でもよく覚えている。
中島らもから教わったことは、たくさんあるが、僕にとって一番大きかったのは、「考える」ということだったのではないかと思う。
中島らもが世に出るきっかけとなったのは、朝日新聞での「明るい悩み相談室」の連載である。読者から寄せられる、珍問、難問に対して、答えるというもの。その中島らもの哲学、思考が凝縮されているのが、名著「僕にはわからない」である。例えば、こんなことが普通に書かれてあったりする。「「生」の対立概念として「死」というものを持ってくるから話がおかしくなる。中略。「死」という状態は想像力によってのみ想定され得る架空の概念でしかない」。まるで哲学者のように、古今東西の文学者、哲学者を引き合いに出しながら、彼独特の文体で、思考が展開していく。しかも、このような哲学的な文章が、世界一くだらないと言われている映画「死霊の盆踊り」と同列に語られているところにこの人の奥深さが垣間見える。とても頭のいいひとだった。
そんな、ペシミスティックで頭のよかった中島らもが、この「世界」で生きていくには、さぞかし辛かっただろう。そしてその生きづらさを彼の持つピュアさが更に加速させていった。
「笑い」や「恐怖」が大好きだった中島らもだが、その根底にあるのはセンチメンタルだろう。本作からの引用。「十八のときに、そのころつき合い始めた女の子とこの山に登った。ヒマはあるけれど喫茶店に行く金はない、そんな夕暮れだった。頂上で、僕は生まれて初めて女の子とキスをした。鳥同士のあいさつみたいな、そんなカチッと音の出るようなキスだった。保倉山を見ると今でも胸がキュンとなる」。痛々しいまでのセンチメンタルである。
僕は、54才になった今でも、この文章を読むだけで胸がキュンとなる。

「「先生」のこと」(@井上英作)

僕には、「習い事」の経験がない。それは、いうまでもなく僕の性格によるものだ。飽き性で、根気がなく、何より向上心のない僕には、「習い事」は無縁のものだった。何より、教わったことができなかったときの自分を許すだけの、キャパの少ない狭量な鼻くそのようなプライドが、僕から、「習い事」を遠ざけていた。これまで、僕が経験した「習い事」といえば、小学生のときの珠算と学習塾ぐらいのもので、いずれも親に言われるがままの受動的なものだった。

ある宴席で、内田先生にこう言われた。「50代までは、それまでのリソースで何とかなるけど、50才を過ぎると、そうはいかないよ。そのためにも、ちゃんとした人からきちんと何かを習った方がいいよ。」僕は、そのアドバイスを聞きながら、とても居心地の悪さを感じざるを得なかった。それは、まさに、僕が漠然と感じていた、僕の「問題」の核心を見事に言い当てていたからだ。僕という人間の中心にあるものは、若いころから聞いてきた音楽、映画、少しの文学で、僕のものの見方、考え方に、それらが大きな影響を与えていて、そのことについて、僕は自覚的ではあった。しかし、例えば、人と話をしていたりすると、自分でも、いつも同じようなことしか言ってないことに、少し飽き始めていたのである。

その日を境に、僕は考え始めた。「誰」から「何」を教えてもらおうか?おそらく内田先生がイメージしていたのは、伝統的なものだろうことは、容易に想像できた。しかし、どれもこれも、しっくりくるものが、見当たらず、ため息をつきながら、部屋でボーっとしている僕の眼に、ギターが飛び込んできた。このギターは、1996年に亡くなった友人が持っていたもので、僕は、彼の死後彼の家に出向き、一方的に頼み込んで、彼の母親から譲り受けたものだ。しかし、譲り受けてから、ほとんど、そのギターはインテリアと化していた。しかも、埃まみれになりながら。「そうだ、ギターを弾こう。」とその瞬間に僕は決めた。では、誰に?

「先生」と出会ったのは、1984年秋のことだった。大学の先輩に誘われて、大阪大学の学祭のライブを観に行った。お目当ては、「ヒカシュー」だった。「ヒカシュー」というのは、日本のニューウェーブシーンをけん引した立役者のようなバンドで、その「ヒカシュー」が、1,500円(だったと思う)で観れるならと大阪大学のある石橋に行ったのである。会場は、さすがに「ヒカシュー」が出演するということで、たくさんの人たちが詰めかけていて、異様な熱気に包まれていた。

照明が落ち、最初のバンドが登場した。そのバンドは、ギター、ベース、ドラム、キーボード、サックスという構成で、パンクとファンクを融合させたような、いままで僕が聞いたことのない前衛的な音楽を演奏した。特にボーカルは、古着のようなスーツを着こなし、ロックぽくない雰囲気を醸し出していた。「In Fake」というバンドだった。カッコよかった。そのあと今は亡き「どんと」の「ボ・ガンボス」の前身「ローザ・ルクセンブルグ」、「ヒカシュー」と続いたのだが、この日のライブは、「In Fake」が「ヒカシュー」を食ってしまい、ダントツでよかった。「先生」は、「In Fake」のボーカルだった。

そのあとのことは、話が長くなるので割愛するが、僕と「先生」は、その大阪大学のライブから30年を経て、2014年に邂逅を果たすのである。僕は、「先生」の経営する中津のバーに知人に連れて行ってもらった。少し緊張しながら、店の中に入ると、「英作ちゃん」と言いながら、「先生」は、ニコニコしながら大きく手を拡げ、初対面の僕を迎え入れてくれた。その晩、僕は、「先生」からいろいろな話を聞いた。メジャーデビューを二度断ったこと、バーと塾を経営していること、そしてフィッシュマンズとの間接的なつながり…etc。

その日の晩のことが縁で、僕は、時々「先生」のライブを観に行くようになった。ライブで演奏される曲は、30年前の「In Fake」のような、アバンギャルドで激しいものでなく、まるでニール・ヤングのような、深みのある、歴史を感じさせるものだった。「先生」に対して、大変おこがましいが、どの曲も完成度が非常に高かった。

そして、僕は、「先生」にギターを習うことにした。レッスン前のオリエンテーションで、僕は、持参したCDを一緒に聞いてもらいながら、自分が弾きたいギターのイメージを「先生」に伝えた。「カッティングやね」そう「先生」は一言だけ言い、翌週からレッスンが始まった。週一回のレッスンである。まずは、「先生」が見本を見せてくれる。まったくできない。しかし、「先生」は、粘り強く、「こんな感じ」という例えをいくつもいくつも示しながら、教えてくれる。決して怒ったり、叱ったりはしない。むしろ、僕ができなかったときには、僕と一緒に、大声で笑ってくれる。それは、できない僕をバカにしているのではなく、「そのうちできるようになるから、気にするな」という励ましに僕には思えた。かつて、特に運動において、このような場面で、僕は、よく怒られた。「どうして、できないかな~」というのが、定型句だった。そう言われても、僕の方がその答えを知りたいぐらいで、だから、僕は、運動が嫌いになった。

このような具合で、10月から週一のレッスンが続いている。レッスンで教えてもらったことを、翌週までに復習し確認するというルーティンが現在進行している。僕は、レッスンを終えた翌日から、ほぼ毎日、復習に励んでいる。ギターを弾かない日はない。酔っぱらって帰ってきた夜、朝早く目がさめた早朝にもギターを弾いている。さらに、仕事中でも、会社の廊下を歩きながら、信号が青になるのを待ちながら、僕は右手でストロークの練習をしていたりする。さながら、映画「Shall We Dance?」の役所広司のようだ。僕は、そんな毎日を過ごしながら、既視感を覚えた。そうだ、かつて学業の成績のよかった頃の僕は、毎日をこのように過ごしていたんだ。僕は、すごく懐かしい感じがした。僕は、ギターを弾きながら、古くて新しい自分と、あるいは亡くなった友人と出会っているのかもしれない。そして、何より、このレッスンを通じて、音楽のグルーヴというものの存在が僕のなかで明らかになり始めた。「先生」のたくさんの引き出しから、それぞれのジャンルの音楽のリズムパターンを教えてもらっている。僕がこれまで聞いてきた音楽が、どのリズムによるものなのか、新鮮な気持ちで音楽を聞くきっかけを与えてもらった。

レッスンは、「先生」の経営するバーで行われている。レッスンが終わると、補講が始まる。ワインを飲みながら、「先生」のいろいろな話を聞く。この補講が、また楽しい。古代史に関わること、政治の話、もちろん音楽の話も。どの話も、僕の予想を大きく超えるものばかりで、特に古代史に関する話が大変興味深く、僕は、「先生」からたくさんの知見を学びつつある。

「先生」は、どれだけの人が読んでいるのか分からないが、ほぼ毎日ブログを更新している。 「先生」は、ほんのわずかな観客を前に、「ライブ」を続けている。            「先生」は、僕の知らないことをたくさん知っている。

そんな「先生」は、本当にカッコいい。

 

 

 

 

 

 

「さよなら、テレビ」(@井上英作)

7月19日、午後5時、僕は、新橋駅「SL広場」 にいた。山本太郎の演説を聞くためである。

その日、たまたま東京出張があり、せっかく東京まで来たのだから、何か観るものはないか情報をチェックしているところに、「れいわ祭2」を発見したのである。

会場につくと、そこは、街頭演説会場というよりは、まるでロックフェスのような様相を呈していて、ざっと見渡す限り群衆の数は、1,000人あまりといったところだろうか?蒸し暑く、多くの人がごった返したなか、「れいわ祭2」は、「東京音頭」の生演奏で始まった。まさしく「祭り」なのである。その後、髪の毛を金髪に染めた木内みどりの司会により、演説が始まる。トップバッターは、応援に駆け付けた映画監督、森達也によるものだった。森達也は、ドキュメンタリー映画監督で、オウム真理教信者達の日常を追った作品「A」が、特に有名。森は、冒頭、このように吠えた。以下、概略。

「今日、たくさんのテレビ局が、撮影に来ているようだが、いったい今日のこの模様をいつ放映するんだ!どうせ、選挙後の総括を行うために撮りにきたんだろう!そんなことなら、今すぐ帰ってほしい。上司の言うことを、ハイハイと聞くような人間にジャーナリストを名乗る資格などない!!」

残念ながら、この日の森の指摘は、現実のものとなってしまった。今回の参議院選挙日まで、「れいわ新選組」の活動が、テレビで放映されることはなかった。しかし、山本の戦略が功を奏し、山本がいう「当事者」として重度障害者の二人を国会に送り込むことに成功した。選挙後、テレビは、「れいわ新選組」を扱い始めた。山本自身は、この現象は、折り込み済みだったようで、このバブルをすぐに終わるだろうと、冷ややかにインタビューに答えていた。それにしても、である。

僕が、テレビに違和感を感じ始めたのは、大学を卒業したころぐらいの、1989年だったと記憶している。当時、栗良平という人の書いた「一杯のかけそば」という話が、世間を賑わせた。「日本中が涙した」などという触れ込みにより、連日、ワイドショーは、この話題で持ち切りだった。しばしば「赤い血の流れていない男」と評される僕は、やはり、この陳腐な話に興味が持てずにいた。ところが、事態は思わぬ方向へ動き出す。この栗良平という人の過去に、さまざまな問題があることが発覚する。途端に、テレビは、手のひらを返したように、それまでこの作品を称賛していたことが、あたかもなかったかのように振舞い、そのバッシングの強さは、それまでの称賛をはるかに凌ぐものだった。それはないだろうと、僕は、そのときに思った。まず、この古臭い陳腐な話を手放しで称賛したことにも疑問を抱くが、テレビの役割として、その作家の過去を詮索し、その良否を判断することなど、少し出しゃばり過ぎなのではないか?と思ったのである。

若い人には、想像しづらい事例だったかもしれないが、最近も同じような事例が起こった。「佐村河内守」にまつわる一連のことだ。「一杯のかけそば」と、ほとんど、同じような構造だ。

僕は、子供のころからテレビが大好きで、テレビからは、たくさんのことを教えてもらった。腹を抱えて腹筋が痛くなるほど笑った「天才バカボン」や「もーれつア太郎」、加藤茶の真似をしては、母親に叱られた「8時だョ!全員集合」、いまだに再放送があると観てしまう「傷だらけの天使」、中島らもが構成作家として参加した「どんぶり5656」、そのラインナップがあまりに先鋭的だった「CINEMAだいすき!」など、数え上げれば切りがない。

かつてテレビは、当時大変力のあった新聞に比べると、低く見られがちなメディアだった。そのため、テレビ局には、「反権力的」なパンクな人たちが、たくさんいた。田原総一郎(元テレビ東京)や久米宏(元テレビ朝日)を思い浮かべれば、想像しやすいと思う。だから、テレビは、面白かった。そして、何より、情報源としての機能も十分果たしていて、寺山修司やレオス・カラックスなどの新しい才能を、僕は、テレビを通じて、その存在を知ったのである。しかし、その役割を、どうやらテレビは、終えてしまったようだ。テレビをつければ、そこに映し出されるているのは、食べ物や旅の情報ばかりで、政治に関しては、今更いうまでもない。僕が、一番驚いたのは、NHKで流れたニュース速報だった。「安倍首相は、ハンセン病患者に対して控訴しないことを表明しました。」といった内容だった。7月9日だった。まず、速報で流すほどのトピックなのかどうか?そして百歩譲ったとしても、この速報の主語は、「安倍首相」ではなく、「国」ではないのか?

この文章を書きながら、僕は、思いもかけないことに気づいた。僕が、テレビに違和感を感じ始めた契機となった「一杯のかけそば」は、1989年のことだった。そう、平成元年である。

テレビがテレビらしくありえたのは、「昭和」のことで、「平成」に入り、すでにテレビは、その役割を終えていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「夏の思い出」(@井上英作)

8月12日9時、僕たちは梅田を出発した。諏訪大社に行くためでる。

2016年3月に宗像大社、宮地嶽神社に行って以来、まとまった休みがあると、僕は「聖地」に出かけている。そのベースになっているのは、「神社アースダイバー」(@中沢新一、週刊現代で連載。近々刊行予定。)の存在で、中沢新一によると、現在、神社のある場所は、元々古代の人たちが霊性を感じていた場所だということ。宗像大社をスタートに、2017年GWに対馬、2018年GWに熊野、そして今年のGWには天橋立。その合間に、熱田神宮、磐船神社、石鎚山など。なにより、宗像神社の高宮祭場(※)で味わったあの感じを味わいたく、この旅を続けている。
(※)宗像三女神の降臨地と伝えられている。沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場。

同日16時半、宿泊先のホテルに到着。お盆の渋滞に見事に巻き込まれ、休憩時間を含めて7時間半のロングドライブ。流石に疲れたので、プチ昼寝。その後、温泉に浸かり、ビールで喉を潤した後、19時より夕食。蓼科に別荘を持っていた小津安二郎が好きだったと言われている日本酒「ダイヤ菊」をいただく。夕食後、ホテルの目の前が諏訪湖のため、花火を鑑賞する。諏訪湖では、夏になると毎日800発の花火が打ち上げられる。そのピークは、8月15日の「諏訪湖花火大会」で、打ち上げ総数約40,000発と国内最大級だそうだ。今度来るときには、是非見てみたい。

8月13日 6時起床。初老の朝は早い。この時間になると自然と目が覚める。昼まで寝ていたあの頃が懐かしい。朝風呂に入り、7時半から朝食。旅行の楽しみの一つは、何と言っても朝食だと断言できる。
 
同日9時頃諏訪大社下社(秋宮)到着。大きな狛犬を両脇に配した神楽殿で参拝。この狛犬は、2m近くもある代物で、こんなに大きな狛犬を僕は観たことがない。神楽殿の四方を囲むように「御柱」が4本、天空を目指して鎮座している。この「御柱」は、「御柱祭」が大変有名で、テレビでよくその勇壮な様子が放映されている。
その後、頃諏訪大社下社(春宮)へ。いつものように参拝の準備のため手水舎の水で手を清めようとしたら、それは水ではなく、なんとお湯だった。長野県という立地を考えれば、そのお湯が温泉から湧き出たものであることは、すぐに察知できたが、なぜか僕のなかでは、このことが、心の中に引っかかった。僕は、参拝を済ませ、境外にある「万治の石仏」を目指した。「万治の石仏」は、そのフォルムに岡本太郎がほれ込んだことで有名だ。境内の敷地の西端に沿うような恰好で砥川が流れている。この川の水がとても美しく、その流れから発せられる「音楽」を聞いて歩いているだけで、ちょっとしたトランス状態に陥る。そんな状態のまま10分ほど歩くと、左に道が折れ曲がり、奥まった少しだけ広くなった場所に「万治の石仏」があった。石仏はこんな感じ。https://shimosuwaonsen.jp/wp/wp-content/uploads/c2a9ff5a551caa913ac9ff06837f8a803.jpg
この石仏をお参りするには、次のような一定のルールがあるとのこと。①正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。②石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。③正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。僕は、石仏の周りをくるくる廻りながら、昔、伊丹美術館で観た、しりあがり寿の「回転」展での中沢新一の言葉を思い出した。「世界中に回転を基にした祭事は多く存在し、このことは人類が誕生して以来の大変古い思考によるものだ。日本では、盆踊りがその典型だ。」その後、諏訪大社上社(本宮)へ移動。そして、ここでも温泉の出る手水舎を発見。境内を散策したあと、西門を出たあたりで、本宮周辺の過去の様子を描いた看板を眺める。かつて、この本宮に近接した形で寺社がたくさんあったことが分かる。しかし、今、その姿はない。かつてのお寺は、現在そば屋に変貌していたりする。明治時代、「廃仏毀釈」によってなくなってしまったのだ。「廃仏毀釈」については、内田先生のブログが、大変面白い。参考までに。http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html 

 午後からは、今回の旅のメイン、諏訪大社上社(前宮)へ。今回、諏訪への旅のきっかけの一つになったのが、同じ寺小屋ゼミ生の福丸さんから聞いた話による。その福丸さんから借りていた資料を片手に、前宮周辺を歩いてみる。中でも「山の神古墳」は、僕の興味を引き付けた。本殿の脇の山の中へ続く道を、炎天下の中とぼとぼと歩く。その道に沿って、小さな川が流れている。「万事の石仏」に至る行程と同じだ。そして、まわりには、誰もいない。静かだ。15分ほど歩いたところで、大きな鋭角のカーブを曲がったところに、小さな看板が目に入る。木々で覆われた看板には、「山の神古墳」と書かれていた。ここだった。どれが古墳なのか、よく分からなかったが、その古墳の脇には、そこだけ平坦で、鬱蒼とした木々がところどころ途絶え、空からは適度な太陽の光が差し込む「場所」があった。僕は、その「場所」に既視感を覚えた。そう、「高宮祭場」だった。何の根拠もないが、ここは、隣が古墳であることを考えると、おそらく祭場だったのだろうと思う。そんなことを考えながら、その場所に佇んでいると、嫁さんは、呼吸法を実践していた。この前宮は、八ケ岳山麓に住んでいた縄文人が移動し、この「モレア山」をご神体と崇めたところと言われている。十分その霊性を堪能したあと、次は、「守屋資料館」へ。この「モレア山」周辺に住んでいた一族は、後に「守屋氏」を名乗るようになり、神長官として、諏訪全体の霊性の保護管(@中沢新一)となった。「守屋資料館」の見学は明日にすることにし、周辺を散策する。そこで、僕は、ついに見つけた。「御左口神神社」(ミシャクジ)である。ミシャクジ信仰というのは、大変古い信仰のことで、僕は、このことを「精霊の王」(@中沢新一)で初めて知った。大きな古木に寄り添うように、大きな石があり崇められている。これを観ることができただけで、この旅の目的は、ほぼ達成したようなものだ。十二分に諏訪の霊性に触れることができ、とても満足した気持ちで、宿へ戻る。あまりに霊的なものに触れすぎたからなのか、部屋に戻ると、強烈な睡魔に襲われ、プチ昼寝。そう、僕は、よく寝る。昨日と同様、お風呂、ビールの後、夕食。昨日と同じようなメニューだったらどうしようと、いらぬ心配をよそに、その日の晩は、やや洋風で、僕たちはとても嬉しくなり、白ワインで夕食を堪能。昨晩同様、諏訪湖に打ち上げられた花火を観る。浴衣を着て花火を観るなんて、まるで「東京物語」に出てくる老夫婦みたいだと余計なことを考える。

8月14日6時 またしても、初老の朝は早い。朝のニュースを見ながら、台風の接近とあおり運転にビビリ、お昼過ぎには、大阪へ帰ることにする。
同日9時「守屋資料館」到着。今日最初の来客だったようで、スタッフの方から、いろいろ話を伺う。建築家の藤森照信のこと、守屋家のこと、御頭祭のことなど。ご丁寧な説明ありがとうございました。その後、そのスタッフの方に教えていただいた「尖石縄文考古館」へ向かう。ひととおり、館内を見学し、尖石遺跡へ。ここも、ミシャグチ信仰の痕跡が、しっかりと残っていた。古い大木に寄り添うような大きな石…。

 今回の旅を通じて、僕は、「聖地」に共通するひとつの傾向に気づいた。まずは、「音楽」の存在。聖地には必ず「音楽」が存在する。それは、川を流れる水の音であったり、鳥の鳴き声だったりする。特に、対馬での鳥の鳴き声は、どこまでも美しかった。これほどまでに、種類によって鳴き声が違うものかと気づかされるほど、実にたくさんの種類の鳥の鳴き声を堪能した。次に、地中から天に向う大きなエネルギーの存在。大仰な言い方をしたが、その抽象性を具体化したものは、自然の中にたくさん存在する。それは、山であったり、雨、雷などなのだろう。そのことを最も分かりやすく象徴しているのが、「御柱」で、まっすぐに天に向かって社殿を取り囲むように建てられている様は、まさにそのもの。また、度々見かけた、温泉の出る手水舎もその文脈で考えると、得心がいく。地下に蓄えられたエネルギーにより噴出する温泉。さらに、熊野でたくさん見た巨岩信仰もその文脈で理解できるのではないだろうか?それは、まさに、地から天への大きな運動。このような、要素を備えた場所に、古代の人たちは霊性を感じ、その場所、そのものに畏れを成したのだろうと思う。

 僕は、若いころから、ずっと音楽を聞き続けてきた。途中、高校生ぐらいからは、音楽に加え映画もたくさん観るようになった。さらに、今から10年ほど前から突然登山を始めた。しかも、北アルプスを中心とした3000m級の急峻な山たちを相手にである。僕のなかでは、この三つのことが、どこかで繋がっていることは、なんとなく直感で分かっていたのだが、「それ」が一体何なのか?僕には、分からなかった。しかし、これも偶然始まった、「聖地」巡りで、おぼろげながらこの三つを繋ぐ糊のような存在の輪郭が、浮き上がってきているのが分かる。それは、おそらく、「目に見えないもの」を感じる「宗教」のようなものだと思っている。

 そんなことを考えながら、僕たちは、諏訪を後にし、大阪へ向かった。ラジオから、NHK FM『今日は一日“YMO”三昧』が流れている。思わぬプレゼントに気をよくしながら、僕は車を運転した。あおり運転に遭遇しないことを祈りながら。

「心が風邪をひいた日」(@井上英作)

ほぼ毎日、同じ店で昼食を食している。その店は居酒屋で、750円の日替わり定食にコーヒーが付いているため、いつも近くで働くサラリーマンたちでにぎわっている。その店では、なぜかBGMがお琴で奏でられる歌謡曲で、そのことが、僕を少しだけ喜ばせてくれる。

その日、いつものように、その店で昼食を取っていると、お琴で演奏された、「想い出のセレナーデ」(1974年、@天地真理)がかかった。僕は、この曲がとても好きで、その日は、午後からずっと僕の頭の中でリフレインされた。仕事を終え、僕は、すぐにPCを立ち上げ、ユーチューブでこの曲を繰り返し聞いた。そうすると、ほとんどの人がそうだと思うが、この曲周辺の曲も聞きたくなってくる。気が付けば、僕は、太田裕美の曲ばかり聞いていた。「木綿のハンカチーフ」、「雨だれ」、「赤いハイヒール」…etc。これらの曲を聴いているうちに、僕は、以前録画した「名盤ドキュメント」のことを思い出し、「心が風邪をひいた日」(@太田裕美)を特集した回を見なおしてみることにした。この「名盤ドキュメント」というのは、NHKで不定期に放送されるもので、当時の「名盤」の録音テープを基に、その作品がいかに「名盤」であるかを、当時の制作に関わった人たちの証言で構成されている。過去には、「風待ちろまん」(@はっぴいえんど)、「ソリッドステイトサバイバー」(@YMO)、「ひこうき雲」(@荒井由美)などが取り上げられ、いつも大変興味深く観ている。

ロック少年になる前の僕は歌謡曲小僧だった。テレビで放映される歌謡番組は、ほとんど観ていたし、それに飽き足らず、ラジオでも歌謡曲を聴いていた。そんな僕にとって、一番のお気に入りは、太田裕美だった。僕は、太田裕美の歌が大好きだった。いや、正確に言うなら、太田裕美が歌い上げる、作詞家松本隆の世界観に僕は魅了された。

「心が風邪をひいた日」は、太田裕美の3枚目のアルバムで、彼女の代表作「木綿のハンカチーフ」が収録されている。いろいろなファン、制作者が、このアルバムの凄さについて、熱く語り合っていた。しかし、どのコメントも決して的は外れてはいないものの、なにかしっくりとこなかった。子供のころの僕は、どうしてこれほどまでに、太田裕美が歌い上げる作詞家松本隆の世界観に魅了されたのか?。そして、数あるラブソングの中から、どうして太田裕美の作品だけを選択し、さらに、どういわけか、松本隆の描く「女の子」に感情移入してしまうのはなぜか?僕は、このことへの答えがほしかった。そこで、僕は、世界で僕のことを一番知っている嫁さんに、この質問をぶつけてみた。近所の居酒屋「うおのや」で、延々とどうでもいいこんな話に彼女を付き合わせ、いろいろ話をするうちに、だんだんとこの「問い」の輪郭がはっきりと見えてきた。

僕の通っていた小学校は、2年ごとにクラス替えが行われた。子供のころから、お調子者の僕は、特に、人間関係で悩んだ経験などないのだが、小学校3年生~4年生のころは、特に親しい友人がいなかったような気がする。つまりそれは、1974年~1975年のことである。今でも、鮮明に覚えている風景がある。それは、そのころの夏休みの暑い日だった。適当に誰かを誘い遊びに行こうと、何人かの同級生の家に行ったのだが、その日は、誰一人いなかった。その日は、本当に暑く、町には誰もいなくて、ゴーストタウンのような様相を見せていた。僕は、一人で、炎天下の中、どこに行くともなく、少し遠くまで行ってみたくなり、自転車で隣町まで出かけた。自転車に乗りながら、「今、自分は、世界でたった一人だけなんだ」、そう思うと、僕は大きい声を上げて泣き出しそうになった。また、そのころの冬の景色。伊丹高校のグランド沿いの道を、ぴゅーぴゅーと北風が吹いている中、ぶるぶる震えながら自転車をこいでいると、電信柱に、切り取られた段ボールに貼りつけられた、映画「ジョニーは戦場へ行った」のポスターが、くるくるとちぎれそうに、曇り空の下で舞っていた。僕は、「いちご白書をもう一度」の一節「雨に破れかけた街角のポスターに~」(@荒井由実)みたいだと思った。僕は、おそらくこのころに「孤独」というものの存在を知ったのだと思う。この「孤独」というキーワードが、この問いを解決するための大きな手掛かりだと確信し、僕は、少し興奮した。

太田裕美の歌う女の子たちは、みな等しく孤独である。「雨だれ」(1974年)では、「ひとり、雨だれはさみしすぎて」と告白し、「木綿のハンカチーフ」(1975年)では、相手の恋人に「僕は、僕は帰れない」と別離を宣言され、「赤いハイヒール」(1976年)では、「さみしがり屋の打ち明け話」と自分のことを認めている。もちろん、作詞は言うまでもなく、松本隆である。

松本隆は、はっぴいえんどを解散後、ドラマーとしてではなく、作詞家として生きていく道を選んだ。以前、何かで、その「転換」について、周りでは、随分と非難され、たくさんの人たちが去っていったというのを聞いたことがある。太田裕美の仕事は、プロの作詞家としてごく初期のものである。当時の、松本隆の「孤独」がいったいどれほどのものだったかは、本人にしか分からないが、相当なものだったろうと容易に推測できる。松本隆は、その孤独を、「女」になる直前の「少女」を通じて表現した。僕は、どうやら、問いの立て方を間違っていたようで、僕は、「恋する女」に感情移入してしまっていると思い込んでいたが、そうではなくて、「孤独な少女」に感情移入していたのである。「少女」と「少年」という、大人と子供の間にある、ほんのわずかな瞬間を、「孤独」を媒介として、僕は、松本隆の世界にアクセスしていたのである。そして、このことが、僕という人格の基礎を作り上げたのである。

 

 

 

「しぇきなべいびぃ」(@井上英作)

 忙しい。本当に忙しい。僕は、これほどまでの忙しさを、かつて経験したことがない。会社の親しい先輩も、僕のそんな様子を見て、「忙しいそうやな?」と声をかけてくれた。「めちゃくちゃ忙しいんです。サラリーマンになって一番忙しいんです。」と答えると、「今までに味わってない方が、問題ちゃう。」と冷たく突き返された。そんな忙しい毎日を送っているので、毎日ヘトヘトになって帰宅している。先日も、いつものように疲れ果て、晩ご飯を食べると、強烈な睡魔に襲われ、21時から1時間ほど寝てしまった。本格的に寝ようと、ベッドに入ったが、全然眠れない。暫くして眠るのを諦めた僕は、本を読むことにした。本を読もうと決めた瞬間、本棚に目を向け、僕の目に止まったのは、中島らもの追悼を特集した雑誌だった。
 僕は、20代のころ、むさぼるように中島らもの本を読んだ。中島らもの描く切なさに、僕は惹かれた。改めて、その雑誌を読んでみると、中島らもが憎悪していたのが、権威だったのがよくわかる。僕も、この年になっても権威的なものが大嫌いで、むしろ、歴史から置き去りにされそうな「こと」や「もの」に、ついつい目がいってしまう。こればかりは、性分としかいいいようがない。そんな眠れない夜を過ごし、翌朝、いつものように起床し、歯を磨きながら、テレビをぼんやり見ているとある訃報を知ることになる。内田裕也だった。   
 内田裕也に対する特別な思い入れは、まったくない。でも、なぜか、少しショックだった。自分でも、一体何にショックを受けているのか、分からなかったのだが、昨晩、ベッドの中で読んだ中島らものことと内田裕也が、僕の中で繋がった。彼らは、僕より一回り以上年上の人たちで、反骨なところが、共通している。反骨というのは、つまり、「ロック」なことである。しかし、大変残念なことに、「ロック」な人たち、つまり、この世代の人たちが、少しづつこの世からいなくなり始めている。僕は、内田裕也の死に、その寂しさを募らせ、少なからずショックを受けたのだろう。
 僕が、初めて、内田裕也のことを知ったのは、大晦日の「ニューイヤーズロックフェスティバル」をテレビで観たときだったような気がする。その時の出演メンバーは、記憶は定かではないが、ARB、アナーキーなどが出演していたように思う。当時の僕は、イギリスの音楽にかぶれていたので、特に印象にも残らなかった。むしろ、僕にとって大きく内田裕也を印象付けられたのは、皮肉にも音楽ではなく、映画だった。以前投稿した「私的「1980年代日本映画ベスト・テン」」にも次のように書いた「この本(キネマ旬報特別号)のなかでの映画評論家等のアンケートを見てみると、内田裕也作品がたくさんノミネートされている。本作(「十階のモスキート」)以外に、「水のないプール」、「嗚呼!女たち 猥歌」、「コミック雑誌なんかいらない!」が選ばれている。特に、僕は、内田裕也自身に何の思い入れもないが、80年代の日本映画において、彼の果たした役割は無視できない。日本映画がどんどん衰退していくなかで、そのことを逆手に取って、内田裕也は、崔洋一(十階のモスキート)、滝田洋二郎(コミック雑誌なんかいらない!)などの新しい才能を開花させていく一方、衰退していく「新しかった」才能、若松孝二(水のないプール)、神代辰巳(嗚呼!女たち 猥歌)への愛情も決して忘れていない。そんな時代の狭間で、引き裂かれそうな思いのなか、内田裕也は本来の音楽ではなく映画の世界にこの10年ほど深くコミットしている。その苦悩が、一体どういうものだったのか、僕には想像できない。だから、内田裕也演じる登場人物は、どの作品においても、暗くて暴力的なのだ。この時代にしか現れなかったであろう俳優だと思う。」
 ミュージシャンとしての内田裕也のことを、僕は、殆ど知らない。映画「嗚呼!女たち 猥歌」の中で、歌っているのを聞いたぐらいのものだ。下手だった。おまけに声量がない。そのことは、妻の樹木希林もよく知っていて、「裕也さんは、歌が下手なのね。」と生前に言っている。しかも、長いキャリアの割には、ヒット曲も一曲もない。それでも、彼は、最後まで一定の存在感を示した。それは、彼の「才能を見出す才能」によるものではないだろうか?彼は、沢田研二を見出し、「フラワートラベリンバンド」をプロデュースし、映画監督の崔の洋一、滝田洋二郎を世に送り出した。
 これと言って、特に才能のない僕にも、唯一、人より優れていると自負していることがある。それは、新しい才能を発見することだ。そのことにおいては、僕と内田裕也は、同類と呼べるかもしれない。しかし、僕と内田裕也が決定的に違うのは、その立場の違いだろう。内田裕也は、ものを作ることを生業としたが、僕は、そういう道を選ばなかった。というより、選ぶだけの才能が僕にはなかった。同じアーティストとして、プロデューサー的立場に甘んじた、内田裕也の苦悩を、僕は想像することさえできない。
 内田裕也は、しばしば「ジョニーBグッド」をライブで歌っていた。言うまでもなく、ロックンロールの定番である。なぜ、内田裕也は、この曲ばかり歌い続けたのか?僕には、彼の歌う「ジョニーBグッド」が、なんとも虚しく響くのである。