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「僕とその町」(@井上英作)

僕は、物心ついてから高校二年生の夏まで「その町」で過ごした。「その町」は、飛行機の騒音がひどい町として有名だった。「その町」には、社会の底辺に生息しているような人たちがたくさんいた。戦争で片足を失った老人、ヤクザ、在日朝鮮人、犯罪者…etc。とりわけ、小学校六年生のときに同じクラスだったI君は、小学校低学年から「その町」の小学校に在籍していたが、転校を繰り返しては、「その町」に帰ってきた。そして、帰ってくるたびに、苗字が変わっていた。僕は、子供の頃、その意味がよく分からなった。今となれば、よく分かる。彼の母親が離婚を繰り返していたのだろう。彼は、狂ったように荒れていて、中学校に入ると悪い先輩に誘われるままヤクザとなり、薬漬けにされたらしく、その後のことは、僕は知らない。最後に彼を見たのは、中学校に通学途中の阪急バスの中で、彼はしきりに何かブッブツ言っていて、その目の焦点は合っていなかった。同級生の間で噂になっていた、薬漬けにされたらしいということが真実味を帯びて、僕は、声をかけることができなかった。

小学校低学年だった頃の夏休み、いつものように昆虫採集に近くの神社に出かけた。特に収穫もなく、カンカン照りの太陽の下、とぼとぼと神社の長い階段を降り終えたあたりで、向こうの方から二人組の上級生が歩いてくるのが見えた。そして、すれ違いざまに、「おぇ!ちょっと待て!!おまえ、なにメンチ切っとんねん、こら!」と因縁をつけられたかと思うと、僕は子分らしき男に足を掬われ、大柄の方の男が馬乗りになり、グーで頬を殴られた。「朝鮮人思て、バカにすんなよ!!シバクぞ!」

「その町」は、そんな風だった。

「その町」には、某上場企業の本社があり、そこで働く工員たちが、大半を占めていた。にもかかわらず、これほどまでに荒んでいるのは、一体、どうしてなのか、僕には、その理由が全然分からなかった。

その後、高校二年生の夏に引っ越し、「その町」とは、完全に縁が切れた。中学校から私立に行き、地元の同級生たちともつながりがなくなったことも大きかったように思う。もう「あの町」と関係を持つこともないだろうと思うと、僕は、安堵を覚えた。ただ、僕の中での大きな疑問は、頭の片隅にへばりついたままだった。

しかし、神様は、悪戯好きのようで、僕は、約40年ぶりに「その町」と邂逅を果たすことになる。僕は、不動産会社に勤務しているが、あるプロジェクトで、「その町」を担当することになったのだ。

このプロジェクトは、僕が今在籍している部署に過去に在籍していたときから進行していた。このプロジェクトは複数の市にまたがったもので、その当時、僕は別の市を担当していたのだが、一昨年の秋にこの部署に出戻ったと同時に、僕は「その町」を担当することになった。僕の勤務している会社で「出戻り」は、大変稀有なことを考えると、僕は「その町」との深い因縁を感じざるを得なかった。

僕は、仕事を通じて、「その町」の自治会長と話をする機会を得た。僕は、自分が「その町」で幼少期を過ごしたことを告白し、昔話に花が咲いた。ずっと気になっていた「あの廃屋」のことも自治会長に教えてもらった。僕は、このタイミングしかないと思い、思い切って昔の「この町」の荒み具合について、自治会長に質問をしてみた。会長は、なにごともなかったかのように、すぐさま今から話す内容の概略を教えてくれた。ショックだった。僕は、この年になるまで、まったくそんな事実を知らなかったからだ。

そして、ほぼ時を同じくして、知り合いの在日問題に詳しい大学の先生と飲食する機会があり、この内容について、話を聞いてみた。すると、その先生は、「私に聞いてくれたら、もっと早くに教えてあげたのに。本も出ているよ。」と言ってくれた。

僕は、近くの図書館で、すぐに、その本を借りた。その本には、このように書かれていた。

「しかし、ふだん利用するその飛行場の「中」に、長年にわたって、日々の暮らしを立てている人びとがいることは、ほとんど知られていない。ここはいわゆる「不法占拠」地域である。このことは、一般の人びとだけでなく、研究者のあいだでさえ意外なほど知られていない。なぜであろうか。まず、大きさでいうならば、日本でも最大規模の「不法占拠」地域である。3万4千平方メートルの国有地に、159世帯、404人もの人びとが暮らしている。住民の9割近くが在日朝鮮・韓国人の集落である。一方、同じ「不法占拠」として全国的に有名なウトロ地区(京都府宇治市)があるが、そこは、2万平方メートルの民有地に65世帯、約200人が暮らしており、伊丹の「不法占拠」地域と比べると、およそ半分の規模である」(「生きられた法の社会学」、@金菱清、新曜社 P33、P34)

「その辺りは、一面竹やぶで、昼でもあまり人が通らん所じゃったよ。何年くらいやったかはっきり覚えとらんが、飛行場の仕事を請け負っていた大日本土木の豊中出張所から大勢人夫を連れて来て、竹を切って大きな飯場を二棟建てましたよ。その飯場へ同胞をたくさん連れてきよったのをよう覚えとる。」(前出、P73)

「吹き溜まりみたいなのよ、ここは。暮らすことができない人が、みんなこぼれ落ちてきたのよ。」(前出、P67)

僕は、在日の人に対して、特別な感情はない。あの夏の日に殴られたということがあったにせよ、特に、彼らに対し、強い憎しみは持ち合わせていない。と同時に、彼らの人権を特別に擁護することもない。僕にとって、彼らは他の人たちと何ら変わらない日常的な存在だ。

しかし、彼らが味わったであろう、貧困や差別に対しては、僕は、想像することさえできないし、その原因を作ったのが、いかなる理由であれ、僕たちの国であることは、間違いなく、そのことについては、大変申し訳ないと思う。

以前、ある人からこんな話を聞いた。その人は、酔いも手伝い、目にうっすら涙を浮かべながら、子供時代のことを話し始めた。その人の一日は、次のようなものだった。朝早く起床し、豚小屋の掃除をしたあと小学校に行く。学校から帰ると、夕方、新聞配達をし、腹ペコのお腹を満たすのは、わずかなキムチだけだったそうだ。しかも、土間にゴザをひいた程度の家だったらしい。僕は、言葉を失った。

映画「国際市場で逢いましょう」のなかで、主人公が、ポツリと言う。「生まれた時代が悪すぎた。」

「その町」は、その「不法占拠」地域とそんなに遠くない距離に位置する。だから、「不法占拠」地域の要素を「その町」は、多分に含んでいたことは、容易に想像できる。

僕たちは、「世界」のことを、まだ何も知らない。