「昭和残侠伝 死んで貰います」
初めて観た大人の映画は、「昭和残侠伝 破れ傘」である。1972年の冬、父に連れられ、伊丹の繁華街にある映画館で観た。その映画館は、雑居ビルの中にあり、スーパーや映画館が店子として入っていて、一階の入り口には、映画のポスターがベタベタと貼られていた。それらのポスターは、刺青をしたヤクザや裸の女だったりした。子供ながら、背徳な気持ちになったのを今でもよく覚えている。併映は、梶芽衣子主演、あの「女囚さそり 第41雑居房」だった。どちらも7才の子供に見せるような作品だとは、到底思えないが、父はそんな人だった。本人が観たかっただけなのである。
このように父は、僕を色々な教育的でないところへ連れて行った。厚生年金会館で観た東京ロマンチカのコンサート、天王寺で観た大衆演劇、伊丹の商店街のはずれにある大衆食堂等、どれも幼い僕にとってはショッキングなものばかりだった。
さて、「昭和残侠伝 死んで貰います」である。本作は、先日亡くなった高倉健の代表作で、昭和残侠伝シリーズの中でも最高傑作と言われている。追悼の意を込めて、久しぶりに観てみることにした。
高倉健が亡くなり、関わりのあった色々な人たちのコメントが寄せられた。どれもこれも、「高倉健」という俳優のイメージに合致した、「らしい」ものばかりだった。それらのコメントを聞きながら、僕は、一つの確信を得た。それは、「高倉健」は、「記号」であるということであり、本人もそのことにとても自覚的だったということである。インタビュ―等を聞いていると、高倉健は俳優という職業に馴染むことができず、生活するために仕方なく選んだのだということを告白している。高倉健は、自分と俳優という職業との距離感をどのようにして図っていくのか、そのことに腐心していたのではないだろうかと僕は想像する。その結果、彼は「記号」として生きていくことを選択したのだと思う。
「昭和残侠伝」シリーズは、簡単に言うと、風間重吉と花田秀次郎の二人の男を主軸にした、復讐劇である。ただ、それだけの話である。そんな陳腐な話が、どうして、当時の若者達の心を掴み、今もなお、語りつがれているのか。それは、このシリーズが「定型」の美しさを見事に表現しているからではないだろうか。「定型」というのは、つまり「記号」そのものである。本作においても、様々な記号が散りばめられている。そのような記号で満たされた世界に、生々しい身体は必要とされない。そのことに、高倉健は見事に応えた。鍛え抜かれた身体に施された唐獅子牡丹の刺青、刀のような長いドス、あまりにも美しすぎる着物姿、そして、怒りに満ちた、大半が白目部分で構成された眼球。
繰り返し言うが、高倉健は「記号」である。しかし、このように、「記号」であることに真摯に向き合い、かつ、貫き通すことができた俳優が世界を見渡して、いただろうか?僕は、高倉健と松田優作以外に知らない。
「昭和残侠伝」を七才の時に見た僕は、その後スタイリッシュで切ないものが好きになっていく。知人に言わせると、僕はベタなロマンチストらしい。僕はそんな自分のことを、存外気にいっている。
7才の僕に、このような作品を見せてくれた、今は亡き父親に感謝したいと思う。