月別アーカイブ: 2015年12月

12/27(日)稽古納め 阿波座

2015年も残すところあと数十分となりました。
日ごろの掃除無精のせいで、大みそかに日が暮れるまでゴシゴシ。
ぎりぎり滑り込みで、年内の稽古日誌を書かんとパソコンの前に。ぜいぜい。
さすがに年末はスケジュールがタイトで、日誌書けませんでした。
いえ、稽古だけで忙しかったわけではなく、打ち上げやらエゴ・ラッピンやら納会やら納会2やら餅つきやら同窓会やら、要するに遊ぶのにもたいへん忙しかったのであります。ま、殆ど毎日が飲み会。
飲み過ぎて記憶をなくすという、武道家としてあるまじきことを、この年末は何度もやってしまいました。
お世話になったみなさま、また泥酔した井上に暴言を吐かれたというみなさま、この場を借りて深くお詫び申し上げます。
今回は相当反省しましたので、どうかお目こぼしください。

23日 中津 二部制 
  一部 剣・杖 四方切りの剣、組太刀、一の杖組み杖
  二部 体術
24日 石橋 
27日 阿波座 稽古納め

今週は正面打ちシリーズ
20日  裏へ入り身して線をはずす
23日  表へひとえに足を捌いて線をはずす
24日  打たれる前に裏に入って制す

で、最終日27日の稽古納めは、正面打ち一教返し技
(取りが先に正面を打ち、受けが一教をかける→取りが一教で返す)

まずは一教を受けがかける→取りが返す
の表と裏。

返す、為には、受ける方が自分のバランスを常に取っていなければならない。
返せる位置に足と体軸と正中線がないとまず返せない。
まんぜんと受けてしまっては返せない。
いつでも、すきあらば返す、ということを前提として受けるのと、ただ受けるのでは、体軸のポジション、正中線の取り方、足の位置、全てがまったく異なることがわかる。
いかにいつもは、「受けの為の受け」をやっているかがよくわかる。

一教を互いに
取り合う、通称「くるくる一教」と呼ばれる稽古があるが、
これの『裏&表』バージョンを思いついたのでやってみる。
一教裏→返・一教裏
を通常は受け取りで繰り返すのだが、
一教表→返・一教表→一教裏→返・一教裏
と、表と裏を交互に繰り返すというもの。

裏だけの「くるくる一教」すらやったことない初心者もいて、少々困った様子だけど、これ面白い。

で最後に、一教表・裏、固めまで。

返し技からの四方投げ
相手の懐に内回転的に入る。
裏が遠くて、ちょいと難しいですね。

同じ入り方で天秤投げ

同じ入り方で、入り身投げ、上段・下段

内回転に入らず、返してそのまま入り身へ入る入り身投げ
で、最後はシンプルに、気持ちよく豪快に投げあって、2015年の稽古納め。

みなさん、一年間お稽古おつかれさまでした!
この、「一週間同じ取り手シリーズ」は結構面白くて、当面はまりそうですのでよろしくです。
新春は何で始めようかなー、わくわく。

そのまま我が家で納会。
体験稽古の留学生も来てくれて、大いに盛り上がりました。
みなさん、ありがとう!
また来年も楽しく稽古しましょう!

12/20日曜日 阿波座

たまってきたので、取り急ぎやった技を覚えているうちに

【一部】
剣 
振る、回す、
四方切り

杖 
一の杖、基本、A,B
組杖

【二部】
正面打ち
入り身に入る足の稽古
入り身投げ
小手返し
入り身に入ってから手を下からはね上げて四方投げ、
入り身に入ってから手をかけて一回回してからの一教
入り身に入って天地投げ下段
入り身に入って天地投げ上段

12/19土曜日 中津 

土曜日の夜の稽古を、上級者向けの稽古にしようと思います。
武器を使った技など、普段できない稽古に少しだけ特化してやっていきます。
もちろん、初心者も誰でも参加してOK。

今日は短刀取り

短刀の下からの振り突きは基本、中段突きと同じだが、相手が手に短刀というなまなましい実体を手にした途端、より恐怖感が生まれ緊張してしまう。
相手や手元の武器を見ない、などの目付の注意点は他の技でも同じ。
全体を見る。シンプルに無駄なく足を捌く。

内に入る、外に入る、外に入って転換

の三つの足捌きをまず稽古。

外に入って入り身投げ、小手返し
内に入って一教、四方投げ
内に入って天秤投げ

12/17(木) 石橋

中国人の留学生が見学体験にやってきた。
流暢な日本語、上品なものごし。
日本文化にたいへん興味があるという。
ご実家は内蒙古だそうだ。
日本の合気道の面白さが少しでも伝わったらうれしいな。

一昨日の清道館も、木曜朝の凱風館も両手取り。
清道館中津ではたくさん技数がこなせない、と愚痴りましたが、今日も引き続き両手取りで。
こういうのもいいかもしれない。
一週間、ずっと両手取り、とか。
一週間かければ同じ取り手でたくさん技ができるし。

天地投げ二種類。
転換を入れると、相手が動く。
動きの中で
天地投げ下段

四方投げ 手を引掛けて、剣をふる
四方投げ 手を取る

一教 「あ、一教やろう」という内田先生の説明を試す
目付のこと45度
外回転投げ 手の巻き付け

外回転の手の巻き付けがみんな苦手です。
柔らかく、鞭がくるくるっと巻きつくように。
他にいい喩えがないかな。

12/16(水) 中津

質の高い稽古をもちろんしたい。
今の自分にできる限りの。
多田先生がイタリア合気会を立ち上げられたとき、人を増やして組織を大きくするよりも、とにかく質の高い稽古をする、ということを大きな目標のひとつとされた、ということを仰っていた。

「質が高い」稽古とはなんだろう。
毎日、質の高いものを目指してやっていて、今日は質の低いことをしよう、はない。
自分としては精一杯やるしかなくて、質が低いか高いかは他者、私以外の人が思うこと。

稽古場を立ち上げて三年目、自分が凱風館で助教として担当したり稽古場で指導する稽古数を含めば、稽古量はそれ以前より圧倒的に増えた。
今思うのは「質」の高さは「量」に担保される、ということだ。
少し前にプロのバレエ教師である友人とそんな話になった。
彼女もまったくそのとおりだと思うと言っていた。
映画監督の園子温もテレビのインタビュー番組で同じことを言っていた。
量産し、走り続ける中で、ぽろりと凄いアイデアや、ふっとクオリティ高い映像が撮れる。
そんな感じ。
どんどんやる。わからなくても、間違っているかもしれないけど、理屈は後で考える、とにかく身体を動かして稽古する。
毎日、とにかく四の五の言わずに稽古しているうちに、ふっと回路が開くことがある。
ぱっと光のように射すのは、たいていそういう時だ。
悪い頭でうんうん考えたりもしてみるが、大したものは出て来ない。
身体がどんどん動いて、脳が動きだす。
身体は「動かしているうちに動く」。
稽古は「質」より「量」である、
とまでは言わないけど、「質の高いもの」を「量」やる。
「量」から「質」が生まれるのだと。

中津
平日の夜の稽古は、会社帰りの門人も多く、稽古が始まってからぱらぱらと集まりだすことが多い。
今日は少ないかな、と思って畳を少なめに敷くと、後で人が増えて狭くなり、途中で畳を増やしたりすることも。
畳は増やさなかったが、そんな水曜日。

両手取り
天地投げ
天地投げはつくづく難しい技だと思う。
今朝の内田先生の稽古も両手取りで、先生が「天地投げってほんとに難しい技なんだよね」と仰って、大きく頷いた。
多田先生の体感を思いだそうとするけど、残念ながら覚えていない。
先生の両腕がふにゃりと柔らかかった、その手のうちの感触と、投げられた感はなくて、気が付いたら畳にのめり込んでいた。
という記憶だけが体感として身体に残っている。
よく言われるように、投げられた感がないので、どう投げられたのかよくわからないのである。
上等な技とはそういうものであり、多田先生の合気道がいかに質の高いものであるかは、つまりそういうことなのである。
そういう天地投げを、目指して今日もたくさん稽古する。
全然上手くいかないけど、めげないで何度も投げる。
そのうちふっと、これだ!!という投げが出来る日が来るかもしれないし。

両手取り
入り身投げ 投げるのではなく切る
アーチを作ってパカッとはめるように入り身に入り、アーチのまま腰の回転、体重移動。
前傾しないこと、かかとを浮かせない、といった細かいことをつい指示してしまう。

四方投げ
一教
外回転からの十字絡み

ちなみに内田先生の朝稽古では加えて二教裏、小手返し上段・下段、外回転投げなど。
技数をこれぐらいこなすには、最初の一時間の準備運動や呼吸法をもっと短くしないといけない。
いつも時間が足りない。
悩ましいことである。

内田先生は技の説明ではあまり細かいことは言われない。
今朝なんて、

突然「あ、一教しよう!」と思いつく。
テンポを合わせない、タイミングをずらす。

内田先生のお稽古では、毎回のようにびっくりするような理合やメタファーが飛び出すが、最初から今日はこれで行こうというのではなく、やってる途中で思いつかれると仰っていた。なかなか自分に真似できるレベルではないが、かといってあれこれ考えて用意していると、きれいにまとまるけどつまらなく終わる。
さっきの話に戻るようだが、やっぱりそうなのだ。やってるうちに出てくるものこそ面白い。「生もの」なんだな。

にしても先生、高度すぎます。

12/12(土) 中津

土曜日、凱風館の二部制ロング稽古は、後半になると集中力が落ち低血糖になる。
直会のおつまみの残りを口に放り込み、内田先生の稽古を途中で切り上げて中津へ。
なぜか誰も来ないような気がして、一人稽古のメニューを道中考えながら着くと三人きていた。
珍しく清道館メンバーだけで畳を敷き始める。

体操
呼吸
剣を振る

合半身
四方投げ
入り身に入る
入り身投げ
小手返し
一教
天秤投げ

内田先生の「目的」の話。
動きには目的が必要。
ここで言う目的とは、今自分の腕を掴みに来ている相手の腕をどうにかして投げてやろう、崩してやろう、という「目的」ではない。
お茶碗を持ってご飯を食べる、筆で字をかく、絵を描く、誰かに呼ばれて振り向く、といった、日常動作的な、無意識的な動き、目をつぶっていてもできるような動きをするときの、身体の「外」に置く目的のことである。

掴んでくる相手の腕に対して、それをこうしてやろう、という意識的な動作では、自分の腕などの意識できる部位や筋肉を使う。
しかし、ご飯を食べるとか、字を書くといった繊細な動作や、あっと振りむくような発作的な動作では、どこの部位や筋肉をどう使おうという意識はしないしできない。ところが実は全身が使われていて、この時、意識下に登らない体幹の強い筋肉も動員されている。全部が「適切に」動員されているのだ。内田先生はそれを「非随意筋」、前者を「随意筋」と表現された。うまいなあ、と思う。
相手を投げよう、とすると随意筋しか使えない。字を書こう、とするとき非意識下の非随意筋が総動員される。

韓氏意拳でも繰り返し示され、教えられる通り、後者のほうが圧倒的に強い。
目的を外に置くことを韓氏意拳では「気持ちが向かう」と表現される。
韓氏意拳では、外部からの入力(相手が掴んでくる、打ってくる)と拮抗すること、対立することを徹底的に排除する。対立すると、対立を感知した部位だけががんばる。そうすると他の部位が動員できないので弱い。
他の部位を動員するためには、目的を外に置く、つまり「気持ちが(外に)向かう」ことが重要だということだ。

その時身体のなかで起こる感覚を捉え、身体に覚えさせるという意味では、こういったメタファーや喩えはとても有効である。
喩えやメタファー抜きには技の説明は難しく、私の稽古は成り立たない。特に新しい技や理合、その感覚を伝える時、特に初心者に向けてはとても有効だと思う。
しかし、一瞬一瞬変化する技のなかでその都度、お茶碗や字を書く、誰かに呼ばれる、といったシチュエーションをいちいち想定できるだろうか。メタファーとはあくまでも、正しい感覚に近づき、身体が覚えるための手がかり、分からなくなった時の道しるべでしかないと思う。
その危険性を韓氏意拳では「意念」として良しとせず、「気持ちが向かう」のとは区別して注意を促しているのではないかと思う。
「意念」(メタファー)に頼る、と「気持ちが向かう」の違いは難しいと思う。

そこで頼りになるのは、合気道の場合、繰り返すようだが剣・杖にその糸口があるのではないかと思う。
もともと剣・杖から発生した合気道の技を、遡って再びそのルーツに解体していく。
もともとの動きに戻ってみる。
このところ毎日しつこく剣を振っている。
「お茶碗を持ってご飯」と、「剣の切っ先にマイクロレベルの振動を起こす」では、前者の方はよりイメージしやすい分、技の身体動作に還元するという過程が一つ入るように思うが、後者はそのまま技の身体運用にダイレクトに繋がるように思う。つまり話が早いのではないか。
話が早いかどうかはもちろん重要ではない。要は、いつどんな入力が来ても「正しく理想的な状態」に身体がぱっとなる、ということが重要で、そのためには、剣・杖を使う感覚に戻す方が、よりオリジナルに近いのではないか。

などと勝手に考えて、日々いろいろ試している。
トライ&エラー

12/9(水) 中津

四方投げの手の取り方を剣で稽古する。
右半身、左半身で其々、中段、下段、に振る。

左半身、つまり左手を上にして剣を持つというのは、普通しない。
が合気道の体術では左右の半身がある。敢えて両方で剣を振ることを以前から自分自身では稽古していたが、自分の指導の時にやっていいものかどうか迷いもあったが、四方投げの為の剣となれば、植芝盛平大先生もお許し下さるのではないかと思い、私の責任でやることにした。
この時大事なのが、剣の持ち方。
多田先生は必ず剣杖の稽古の時に丁寧に説明される。
その重要性を最近思い知る。
四方投げはもちろん、小手返し、三教、四教、五教といった技は、剣の握りと振りそのものだ。

話はそれるが、昨日、凱風館の朝稽古から特別稽古まで時間があったので、同じくヒマそうな神田君を捕まえて、剣、三教、四教、五教を自主稽古。
五教はなぜ裏しかないのか、と神田君に聞かれて、返答に窮する。
なんで裏しかないのか。おぉそういえばちゃんと自分で考えたことがなかった。
だって裏しかないと教わってきたから・・・思考停止。
正面打ちの五教、相手が手を切り上げる、または切り下ろす前に制して取る。表も試しに何度もやってみる。
できなくはない、けど確かにやりにくい。???
そこで剣で五教の表・裏をやってみる。
五教の手の取り方で剣を取ると、裏は刃が外に向かい斜に切り下ろすことができるが、確かにこの剣の持ち方では表には振り下ろせない。
そういうことか。これが正しい理由かどうか確信はないが、またまた自分の無知と思考停止に恥じ入るばかりである。

それにしても、なるほど剣でやってみると、手技の何倍もの感覚で返される。
微細なずれや気持ち悪さといったものが、増幅されて顕れる。
剣・杖を振れば、普段の技の「あら」がも何倍にもなって顕れる、とは多田先生がよく仰る言葉だ。
イェレナの言う、「剣が教えてくれる」とはこのことだ。

というわけで再度一日遡って、水曜日の中津。

剣を振る手を、多田先生の四方投げの手の取り方で、
入り身→前を切る→回転→後ろを切る(表)
入り身転換→後ろを切る→回転→前を切る(裏)
左右の手を持ちかえてそれぞれ。

という手で、
合半身 四方投げ
剣の握り方としては合半身が分かりやすいかと思ったけど、相手が取り手を握っているため、今一やりにくそうなので取り手を変えて、

逆半身 四方投げ
そうなんですよねーそういうことだと思うんですよ、たぶん。

逆半身 入り身投げ
小手返し、一教、天地投げ上段、天地投げ下段

しかしすべては独りよがりであることもまた思い知る今日。
自分が面白いことと、人が面白いということは別の話だ。
全ての苦悩は合気道の神様からの贈り物。
まだまだだよ、という教えのほかない。

12/8(火) 阿波座

多田先生の講習会が終わってから1日たって、まだ興奮冷めやらぬ火曜日。
凱風館の朝稽古はあえて行かなかった。
最初に清道館で稽古をしたくて。

体操
骨ストレッチ
剣を振る 中段・下段、上丹田で回す、前後切り、同、手を変えて
呼吸法
足捌き 送る、継ぐ、4番、12番(半身を変えて入る)

両手取り天地投げ、といきたいところだが、まだあの感覚を自分の中で消化できずにいる。
というか、簡単に分析などしたくない。できるわけがないし。

というわけでまずは正面打ち。試したいことあり。

足捌きは、後ろ脚を蹴らない、ということをずっとやっている。
蹴る、と指導されることがあるが、蹴れば必ず「おこり」が出る。
蹴るのではなく、「滑り出す」感じ。
よく使う喩えは、リニアモーターカーのような磁場が畳の上にうっすら張られていて、そのすれすれのところを足が滑る、というやつ。
あくまでも、畳に敷かれた濡れた薄紙が破れてはいけない。
蹴れば、紙は破れる。足の裏の1点に力が集中すれば、そこは破れてしまう。
足の裏全体に均等に圧がかかる。いや足の裏のどこにも圧がかかってはいけないのだ。
これには、体軸が動く感覚が必須だと思う。
体軸を傾けずにまっすぐ、前後左右に、下に駒が付いているように滑る。
つまり体重移動のことだけど、体重移動、というと少し違う気がする。
体軸が移動して前足に乗るか後ろ脚に乗るか。前傾しても後傾してもだめ。
体軸を前足に移動して、前へ思わず滑り出すように足が出る、が送り足。
後ろ脚を前足に寄せた瞬間、前足に体軸が乗り、前足が思わず出る、が継ぎ足。
4番、12番はこの応用、まったく同じ。

正面打ち、足捌き12番で相手の裏に線をはずして、入り身に入る。同化する
切ろうと思ってはいけない、手の重みを乗せる。

正面打ち、表側に線をはずして、反対の手で切り下ろす。
この時の手の取り方、を今から変えようと思う。
今日、正面打ちをやりたかったのは、これをまず稽古したかったからだ。
四方投げの手。相手の手、すなわち剣を持つ手だ。
多田先生の手の取り方が最近変わったらしい、という噂は聞いていた。
最近変わったのか、もともとそうだったのか、とにかく「違うよ」という指摘を、何度か先輩や他道場の同門の方から頂いていたのに、ちゃんと検証してこなかった、すみません)、
講習会の時、原さんがそれをきちんと教えてくださった。
講習会では人も多くて、いまいちわからないまま終わってしまった。

要は、添える方の手が、相手の4本の指を取る、というあれ。
確かに相手の手腕を長く取れるので、小さい人、腕の短い人、肩や肩甲骨が堅い人にも、楽に入れるではないか!
みんなも試して驚いている様子。
家で再度、剣を振って検証。そうか、なるほど剣をそう振っているではないの!
いやあ、目から鱗。
というか、自分が知らなかっただけかもしれない。
無知を恥じ入るばかりである。
原さん、本当にありがとうございます!!!

というわけで今日から四方投げ、ちょっと変わりました。

正面打ち 入り身投げ
受けの相手と入り身してせっかく同化しても、転換したら離れてしまう。
身体の一部が相手にくっついていること。
などと説明するが、みんな腑に落ちない様子。
どう言えば相手と一体になる感じが伝わるのだろう。

正面打ち小手返し。
多田先生が、小手返しは「小さな円をくるっと描くように」、「小さく巻き取るように」という表現をされるが、今までずっとその意味がよくわからなかった。
小さく巻くと、相手の手首をこじる。手首を攻める感じになるような気がしていて、違和感があったからだ。
内田先生が言われる、すぱっと切る、のほうが私にはしっくりきていた。
ところが今日、森川さん小手返し中に突然、あ!と思いついた。
そうか、剣だ。剣を持てばよい。剣を小さく巻くように切る。剣先が描く円が小さいのではない、テコのようにすれば、手元はくるっと小さく巻いても、剣先は大きく回る、「巻く」。これが多田先生の仰る、「小さく円を描いて巻き取る」ではないだろうか。

最後に、両手取り、は置いといて、正面打ちで天地投げ。
とはいえ、正面うちでも両手取りでも理合いは同じ。
多田先生の「天の手」を思い出す。真下に落とされるあの感じ。
手の旋回、角度。後ろ脚の転換。いろいろ試すが、ぜんっぜん違う。

正面打ち一教
裏の時、最初に入る位置がみんな結構ずれてると思う。

正面打ち二教
二教裏は、今まさにOSを変更中であります。
今もできない、わからない技のひとつ。
長くなるので、もう少し試して検証を重ねてから書いてみたいと思います。

このような言い方が不遜であることを恐れず言うと、体格、体重、身長、手足や各パーツの長さ太さ、堅さ柔らかさ、年齢性別、もちろん稽古年数、全てが違うから、誰ひとり同じ技はない。
だから恐らくなんびとも多田先生の技を再現はできない。多田先生の身体に幽霊体離脱して入る以外。
が再現しようという努力は無駄ではないし、試し続けるしかない。
トライ&エラー。
たゆまぬ繰り返しの中で、「身体」がある日気付くのだと思う。
コップに一滴一滴水がたまって、いつかこぼれ出すように。
富士山も一歩一歩登り続ければ、いつか雲の上に顔がでる。
と信じて。