7月19日、午後5時、僕は、新橋駅「SL広場」 にいた。山本太郎の演説を聞くためである。
その日、たまたま東京出張があり、せっかく東京まで来たのだから、何か観るものはないか情報をチェックしているところに、「れいわ祭2」を発見したのである。
会場につくと、そこは、街頭演説会場というよりは、まるでロックフェスのような様相を呈していて、ざっと見渡す限り群衆の数は、1,000人あまりといったところだろうか?蒸し暑く、多くの人がごった返したなか、「れいわ祭2」は、「東京音頭」の生演奏で始まった。まさしく「祭り」なのである。その後、髪の毛を金髪に染めた木内みどりの司会により、演説が始まる。トップバッターは、応援に駆け付けた映画監督、森達也によるものだった。森達也は、ドキュメンタリー映画監督で、オウム真理教信者達の日常を追った作品「A」が、特に有名。森は、冒頭、このように吠えた。以下、概略。
「今日、たくさんのテレビ局が、撮影に来ているようだが、いったい今日のこの模様をいつ放映するんだ!どうせ、選挙後の総括を行うために撮りにきたんだろう!そんなことなら、今すぐ帰ってほしい。上司の言うことを、ハイハイと聞くような人間にジャーナリストを名乗る資格などない!!」
残念ながら、この日の森の指摘は、現実のものとなってしまった。今回の参議院選挙日まで、「れいわ新選組」の活動が、テレビで放映されることはなかった。しかし、山本の戦略が功を奏し、山本がいう「当事者」として重度障害者の二人を国会に送り込むことに成功した。選挙後、テレビは、「れいわ新選組」を扱い始めた。山本自身は、この現象は、折り込み済みだったようで、このバブルをすぐに終わるだろうと、冷ややかにインタビューに答えていた。それにしても、である。
僕が、テレビに違和感を感じ始めたのは、大学を卒業したころぐらいの、1989年だったと記憶している。当時、栗良平という人の書いた「一杯のかけそば」という話が、世間を賑わせた。「日本中が涙した」などという触れ込みにより、連日、ワイドショーは、この話題で持ち切りだった。しばしば「赤い血の流れていない男」と評される僕は、やはり、この陳腐な話に興味が持てずにいた。ところが、事態は思わぬ方向へ動き出す。この栗良平という人の過去に、さまざまな問題があることが発覚する。途端に、テレビは、手のひらを返したように、それまでこの作品を称賛していたことが、あたかもなかったかのように振舞い、そのバッシングの強さは、それまでの称賛をはるかに凌ぐものだった。それはないだろうと、僕は、そのときに思った。まず、この古臭い陳腐な話を手放しで称賛したことにも疑問を抱くが、テレビの役割として、その作家の過去を詮索し、その良否を判断することなど、少し出しゃばり過ぎなのではないか?と思ったのである。
若い人には、想像しづらい事例だったかもしれないが、最近も同じような事例が起こった。「佐村河内守」にまつわる一連のことだ。「一杯のかけそば」と、ほとんど、同じような構造だ。
僕は、子供のころからテレビが大好きで、テレビからは、たくさんのことを教えてもらった。腹を抱えて腹筋が痛くなるほど笑った「天才バカボン」や「もーれつア太郎」、加藤茶の真似をしては、母親に叱られた「8時だョ!全員集合」、いまだに再放送があると観てしまう「傷だらけの天使」、中島らもが構成作家として参加した「どんぶり5656」、そのラインナップがあまりに先鋭的だった「CINEMAだいすき!」など、数え上げれば切りがない。
かつてテレビは、当時大変力のあった新聞に比べると、低く見られがちなメディアだった。そのため、テレビ局には、「反権力的」なパンクな人たちが、たくさんいた。田原総一郎(元テレビ東京)や久米宏(元テレビ朝日)を思い浮かべれば、想像しやすいと思う。だから、テレビは、面白かった。そして、何より、情報源としての機能も十分果たしていて、寺山修司やレオス・カラックスなどの新しい才能を、僕は、テレビを通じて、その存在を知ったのである。しかし、その役割を、どうやらテレビは、終えてしまったようだ。テレビをつければ、そこに映し出されるているのは、食べ物や旅の情報ばかりで、政治に関しては、今更いうまでもない。僕が、一番驚いたのは、NHKで流れたニュース速報だった。「安倍首相は、ハンセン病患者に対して控訴しないことを表明しました。」といった内容だった。7月9日だった。まず、速報で流すほどのトピックなのかどうか?そして百歩譲ったとしても、この速報の主語は、「安倍首相」ではなく、「国」ではないのか?
この文章を書きながら、僕は、思いもかけないことに気づいた。僕が、テレビに違和感を感じ始めた契機となった「一杯のかけそば」は、1989年のことだった。そう、平成元年である。
テレビがテレビらしくありえたのは、「昭和」のことで、「平成」に入り、すでにテレビは、その役割を終えていたのかもしれない。