久しぶりの北スポ多目的室、剣杖稽古となった。以前は定期的にここで剣杖を振っていたのだが、このドーム型の天井の高い鏡張りの部屋はこんなに音が反響していたのかと、懐かしくも新鮮な感じがする。
剣の稽古。手元にあるDNDには、大先生がよく剣の稽古をされていたことを示す映像がたくさん残されている。多田先生の組太刀の原型のような映像もあり、剣や杖が合気道の動きの原点にあることがよくわかる。内田先生は合気道とともに居合や杖道を極めてこられ、合気道の理合いの説明に頻繁に剣の理合いを引き合いに出される。すべては通じていて、繋がっている。その系譜に我々も連なっている。一ミリでも近づきたい。
不思議なもので、剣も、最初は構えることすらおぼつかない初心者も、稽古を重ねるとある日突然のように身体と剣がひとつになってくる。急にぐんとうまくなる。物事の上達はよく例えられるように、スロープを傾斜状に上がっていくのではなく、踏み面の長ーい階段を上がっていくような感じだ。本人はわからないが見ているこちらにはよく見える。剣を一人で振るとき、相手はいないのでひたすら無言の剣と向き合うことになる。剣は何も言わないので、うまく振れているのかわからない。何が上手くて何がどう悪いのか、わからないけど振っているうちにぼーっとしてきて、うまく振ろうという気持ちを忘れそうになる。お腹すいてきたなとか、明日は何があったっけ、とか違うことを考えてしまったりして、「上手く振ろう」というのをふっと忘れる瞬間が来る。そんな時、どん、と階段を一段登る(ことがあると思う)。
組太刀、深く入り身する脚、をまず稽古する。相手(打ち太刀)の手元近くへ深く遠く入り身するには、腰を落とすことだ。腰を落とすとは、膝が緩んでいて、股関節と膝と足首がスプリングのように上下に動いている状態、そのスプリングを重力の方向に「正しく」微調整し続けている状態。この、地球の重力と下半身が折り合っていて、股関節から下が緩んで動き続けているからこそ自由にどの方向へも遅れることなく動ける状態をこそ、自立した構造的な安定であり、武道的な自由と言っていいと思う。この状態から、一歩出るとき、後ろ脚を蹴るのではなく、真下(重力方向へ)沈む。不思議なことだが、「沈む」と動く。遊びなく、遅れることなくすっと出ることができる。
一番、二番、と四番小手。三番は今日、少し修正した。修正したことで、三番の間合いの疑問が少し解消した。多田先生が今この三番をどう稽古なさっているかわからないので、分からないところは手探りしかない。適当にやっているわけではない、「とても真剣に」試行錯誤している。
「決めたことは必ず実行する、とか、始めたことは止めない、というのは『小人の徳』であると孔子も言っている」、と内田先生が仰っていた。変えていい。というか変わらざるを得ない。私自身がどんどん変わる。「学ぶ」とは「別人」になること、とは内田先生の教育論。多田先生だって会うたびに変わる。呼吸法だってまた変化していた。だから仕方ない。などと言い訳しながら、すみません、昨日と言ってることまた変わります、と謝って、しょっちゅう変えてしまう。正直に変えざるを得ない。
修正した四番を初心者のUさんと組んで、Uさんに指導しながらひとつ大事なことに気づいた。今日はやらなかった三番も同じだが、相手の脇を斬って抜けるとき、なぜ剣が頭上にないといけないか。頭上になくても抜けられるし、背の高い人は(もちろん私でも)そのほうが断然楽だけど、違うのだ。頭上に剣を振りかぶるというのは、相手を斬りつつも自分をの身を守るためではないだろうか。考えたら当然のことだけど、わかってなかった。初心者の門人に教えてもらった。感謝。
最後に、最近多田先生が呼吸法に加えられた、「頭に気を送る呼吸法」を丁寧にやって終わる。これも最初は何なのかよくわからなかったが、最近やるようになってわかったその効能についてはまた改めて。多田先生の仰る、「(なんでも)無邪気にやる」ことの大事さも、今ごろになってやっとわかってきたように思う。