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2023年10月21日(土) 北教室(北スポーツセンター多目的室)

久しぶりの北スポ多目的室、剣杖稽古となった。以前は定期的にここで剣杖を振っていたのだが、このドーム型の天井の高い鏡張りの部屋はこんなに音が反響していたのかと、懐かしくも新鮮な感じがする。

剣の稽古。手元にあるDNDには、大先生がよく剣の稽古をされていたことを示す映像がたくさん残されている。多田先生の組太刀の原型のような映像もあり、剣や杖が合気道の動きの原点にあることがよくわかる。内田先生は合気道とともに居合や杖道を極めてこられ、合気道の理合いの説明に頻繁に剣の理合いを引き合いに出される。すべては通じていて、繋がっている。その系譜に我々も連なっている。一ミリでも近づきたい。

不思議なもので、剣も、最初は構えることすらおぼつかない初心者も、稽古を重ねるとある日突然のように身体と剣がひとつになってくる。急にぐんとうまくなる。物事の上達はよく例えられるように、スロープを傾斜状に上がっていくのではなく、踏み面の長ーい階段を上がっていくような感じだ。本人はわからないが見ているこちらにはよく見える。剣を一人で振るとき、相手はいないのでひたすら無言の剣と向き合うことになる。剣は何も言わないので、うまく振れているのかわからない。何が上手くて何がどう悪いのか、わからないけど振っているうちにぼーっとしてきて、うまく振ろうという気持ちを忘れそうになる。お腹すいてきたなとか、明日は何があったっけ、とか違うことを考えてしまったりして、「上手く振ろう」というのをふっと忘れる瞬間が来る。そんな時、どん、と階段を一段登る(ことがあると思う)。

組太刀、深く入り身する脚、をまず稽古する。相手(打ち太刀)の手元近くへ深く遠く入り身するには、腰を落とすことだ。腰を落とすとは、膝が緩んでいて、股関節と膝と足首がスプリングのように上下に動いている状態、そのスプリングを重力の方向に「正しく」微調整し続けている状態。この、地球の重力と下半身が折り合っていて、股関節から下が緩んで動き続けているからこそ自由にどの方向へも遅れることなく動ける状態をこそ、自立した構造的な安定であり、武道的な自由と言っていいと思う。この状態から、一歩出るとき、後ろ脚を蹴るのではなく、真下(重力方向へ)沈む。不思議なことだが、「沈む」と動く。遊びなく、遅れることなくすっと出ることができる。

一番、二番、と四番小手。三番は今日、少し修正した。修正したことで、三番の間合いの疑問が少し解消した。多田先生が今この三番をどう稽古なさっているかわからないので、分からないところは手探りしかない。適当にやっているわけではない、「とても真剣に」試行錯誤している。

「決めたことは必ず実行する、とか、始めたことは止めない、というのは『小人の徳』であると孔子も言っている」、と内田先生が仰っていた。変えていい。というか変わらざるを得ない。私自身がどんどん変わる。「学ぶ」とは「別人」になること、とは内田先生の教育論。多田先生だって会うたびに変わる。呼吸法だってまた変化していた。だから仕方ない。などと言い訳しながら、すみません、昨日と言ってることまた変わります、と謝って、しょっちゅう変えてしまう。正直に変えざるを得ない。

修正した四番を初心者のUさんと組んで、Uさんに指導しながらひとつ大事なことに気づいた。今日はやらなかった三番も同じだが、相手の脇を斬って抜けるとき、なぜ剣が頭上にないといけないか。頭上になくても抜けられるし、背の高い人は(もちろん私でも)そのほうが断然楽だけど、違うのだ。頭上に剣を振りかぶるというのは、相手を斬りつつも自分をの身を守るためではないだろうか。考えたら当然のことだけど、わかってなかった。初心者の門人に教えてもらった。感謝。

最後に、最近多田先生が呼吸法に加えられた、「頭に気を送る呼吸法」を丁寧にやって終わる。これも最初は何なのかよくわからなかったが、最近やるようになってわかったその効能についてはまた改めて。多田先生の仰る、「(なんでも)無邪気にやる」ことの大事さも、今ごろになってやっとわかってきたように思う。

2023年10月19日(木) 石橋教室

しばらく休止していた石橋のお稽古を再開。久しぶりに行ってみるとやはり、石橋北会館の氣の流れのよさ、すぐ側を流れる川のせせらぎの音に癒されて、ああやっぱり月に一度という少ない頻度でもここで稽古したいという思いを確認した。以外にも人が集まってくれて、稽古が成り立ったことに感謝したい。

諸手取りで、今日も氣の流れを稽古する。それにしても、氣の流れをさまざまなメタファーを用いて稽古を試みるが、なかなかに難しい(と毎回言い訳している)。

有我有念から有我無念→無我一念→無我無念 を目指すが、無我無念になるそのひとつ前の段階、「無我一念」。一念法とも呼ばれる稽古法。一念を向ける、つまり集注するのが相手ではなく、技を掛けようという執着でもなく、例えば自分の身体、足裏の感覚や重心の低さや体軸の傾きに気持ちを向ける、指先の働きが相手とは関係のない働きをすることに集注する、ということを、相手に手を掴ませる、打ってこさせるという、相手に執着せざるを得ない対立的な状況をあえて作ったうえで執着しない稽古をする。

この集注すべき「一念」を、例えば多田先生は「光の線を描く」と表現される。これは実に難しい。光はそこにそもそもは見えない。見えないものないものをあるとして、空中に描いてその流れに自分も相手も同化する、吸い込まれる、流れに巻き込まれる。昨日までやってみてわかったが、これは一念法の中でも相当にレベルが高いのだ。自分の身体は「ある」から、例えば体軸などは「見えない」けど感じることはできる。「手で水をかき寄せる」や、「剣を抜く」のは、まだ「見えない光の螺旋を描く」よりは多少なりともよりどころがあるのだ。

諸手を取らせる。相手は両手で自分の片腕を掴みに来るのだから、掴ませてから何かをしようとするのはほぼ不可能。相手が手に触れた時には流れはすでに始まっていて、同時にほぼ終わっている。

鍛錬の稽古といって、あえてしっかり掴ませたり、しっかり抵抗させるような態勢を作ってからそれを何とかするという、身体の使い方に特化した、稽古法もあり、こういう「比較の稽古」はわかりやすくて面白いので、ついやりたくなるのだが、全体の稽古の15パーセントまでに留めるように、というのが先生のお教えだ。相手に留まる癖、氣の流れを止めてから何かをする習慣がつくし、「受け」をする際の入力への繊細な感覚が消えて固くなる。

諸手を取らせて転換する、手で相手を引っ張らない、手はそこに置いておく、または(相手ではなく)水をかき寄せる、脚を動かす。

転換して吸投げ、入り身投げ、小手返し、一教、足を引く呼吸投げ、、、

決して相手を引っ張らない、手で相手をどうにかしようという執着をしない、手はただ水をかき寄せる、光の線を描く、線はすでに描かれ始めていて相手が手を取ろうと動き出した時にはその流れの中に自分も相手もいる、、、稽古は続く。

2023年10月14日(日) 西スポーツセンター 2部稽古

一部前半:氣の錬磨&剣杖稽古

呼吸法を丁寧に時間をかけて。

このところ暇さえあれば呼吸法をやっている。稽古時以外、家や普段の生活の中で呼吸法をやることが肝要であるという多田先生のお教えを、実は実践してこなかった事実を告白。家で一人でやるのはなかなか難しいのが呼吸法だが、やるようになって(やっと今頃!変わったかなと実感するのは何よりも「心」。マイナスの感情に襲われることが少なくなったような気がする。今さらながら、多田先生には感謝しかない。

合気道が上手くなるにはもちろん、足の捌き方や技の手順が身体に入っていないといけないし、重心を落としたり、指先から動いたり、体軸を「正しく」立てて地球の重力と折り合うような、身体の使い方は重要だ。また合気道ができる身体を作り維持するためには、もちろん食事や睡眠にも気を付けてビタミンを取ったり、病気になったら医者にかかって薬を飲まないといけないだろう。が、それらと同時に重要なのが「呼吸法」を並行してやることだいう。酸素を取り入れるだけではない、宇宙のエネルギーを取り入れる合気道の呼吸法は、身体の活性化のみならず心を元気にする。マイナスの感情を消して、前向きな気持ちにしてくれる。プラスの心が身体を動かし、身体が動けば心が元気になる。その最も大きな原動力になるのは「呼吸法だけ」と多田先生は断言される。

剣を振る。切っ先で光の線を描く、その先に触覚をくっつける。剣を振るときも「剣」という道具を腕で振るのではなく、剣の切先が描く見えない線を引き、その線を感じる。それは、針の穴に糸を通すような繊細さ、斬っ先の針穴に細い糸を通すように剣を振るのだ。この時、腕の力は必要ない、というか使えない。繊細なことをやるときには無意識に全身が動員される。特に剣を止めるのは手首や腕ではない。この「全身」が剣が地面まで落ちるのを、下丹田の前で止める。剣を振る稽古は「剣を止める」稽古である。

組太刀 一番(遠い間合)、二番(近い間合)、三番(脇抜け)、四番(小手斬り)、五番(受け返し)、ここまでは打ち太刀は正面打ち。やってみてわかることが毎回ある。次回は、打ち太刀横面となる六番、七番。多田先生の組太刀の稽古は、いろいろな稽古要素があると思うが、今わかるのは、組太刀はほんとうに間合いの稽古になる、ということ。やってみて、相手との間合い、剣の間合い、というものがいかに重要かがわかる。形ではなく、動いて初めて感じることが大変多いと思う。

二部後半 合気道体術

横面打ち 入り方三種 1.入り身転換、2.起こりを取って11時/1次の方向へ送り脚、3.前足を約230度引く(入り身しない)3はfrom多田先生

1.2.3.各種で入るとき、一番変わるのは間合いである。間合いの稽古。

最後は氣の流れで呼吸投げ。引っ張らない、手を掴まない、ひたすら自分も相手も、気の流れに巻き込まれ、吸い込まれることで安生打坐=相手に囚われないを目指す。トランスに入るための氣の流れ=光の線=見えないものを稽古する。顕幽一如。

目では見えない光の線がどこまで見えるか。いやー、ほんとうに難しいです。

2023年10月13日(金) 桃谷道場

13日の金曜日。天高く、筋雲が遠い空を掃く、爽やかな秋空。今日も「多田先生をお稽古」します。

逆半身方手取り。四方向の転換から。

「先の先」とはスピードのことでも、早い遅いでもなく、「氣の位」のことである。と先生は仰る。氣の位、つまりどちらが氣を制するうえで先んじて場を主宰しているか。どちらが、というのはもちろん、相手と比較しているのではなく、最初から、「すでに」制している、ということ。「お前はすでに死んでいる」というあれだ。

同時に(相手は関係なく)絶対的道場に、「光の線を描いてその先端に触覚をくっつける」のだ。

呼吸投げ、天地投げ上段、天地投げ下段、四方投げ、入り身投げ、一教、小手返し、などなど。

この中で今日はさらに、「相手の正中を外す」を試してみる、自分の正中ではない、相手の正中をほんの少し外すのだ。相手との対立が消えぶつかる感じが軽減する。相手の正中を少し外したところに自分の線を描く。目付を少しずらすだけも効果がある。対立や手を取らせている感覚への執着が消えるのではないか。ただしこちらの方が「やった感」はない。やった感がないということは、悪くないということかもしれない。

今やろうとしている「心の稽古」はほんとうに難しい。なので少し身体的なものも、しばらく風韻しようと思っていたが、つい試してしまった。目付や体軸といった体の使い方を工夫したりあれこれ試したり実験するのも、要は相手への執着や対立を消すことが目的であり、究極「心の稽古」の助けになるはず。ただそればかりでは相対的なだけの稽古になってしまうので(もちろん比較認知できる分わかりやすいし面白いのだが)、しばらくは意識的に自粛したいと思っているところであります。

2023年10月9日(月・祝) 桃谷道場

前日8日、多田先生の本部道場多田塾研修会が4年ぶりに開催された。コロナでほぼ三年以上、先生の講習会という講習会は内外含めて全て中止となったが、昨年の秋の自由が丘剣状講習会からようやく再開、以降3回目となる。驚くべきは、多田先生が毎回、確実にパワーアップされていることである。「若返った」と皆が口にするほどこの3回、だんだん元気になられているのだ。この12月で御年94歳。3時間を予定していた講習会の、2時間半、呼吸法に始まって、以降先生は立ちっぱなしで一滴の水も取られずお話しされ続け、残り30分となったところで進行役の原さんが思わず、「先生、残り30分ですので何か技のお稽古を!」と言われたところで、はっと気づかれて「しゃべりすぎちゃったなあ」と笑われて、そのまま原さんと土屋さんをぶんぶん投げた。30分では足りなくてもう30分投げ続けて、トータル3時間半、その間一度たりとも椅子に座られることも、壁にもたれるようなそぶりもなく、集中力とパワーと頭の回転と言葉の湧出が切れることはなかった。失礼を承知で言うが、驚きというほかない。

その多田先生が3時間半で何を語られたかについては、ここでは語りつくせない。どれも貴重なお教えだったが、中でも先生が何度も繰り返し強く仰っていたこと、それは「命の力を高めるのは呼吸(法)だけ」ということである。コロナ禍後、去年の秋に3年ぶりにお会いしたときはさすがに少しお歳を取られたように見えたが、そこから不死鳥のようにどんどん元気になっておられる。呼吸法を誰より毎日丁寧に行われているご自身の、リアルな実感であるに違いないと確信する。

なので、今日は呼吸法を、一時間かけて丁寧にやる。呼吸法の重要性、呼吸法によって氣の流れ、すなわち宇宙のプラスのエネルギーを全身に取り込み錬り上げ、心を透明な感覚に整えていくこと、これ以上に命の力を高める方法はない、と94歳現役の「生き証人」が伝授くださった方法を、また今日から丁寧に皆と稽古していきたい。

氣の流れを止めない、相手に囚われない、絶対的な場、絶対的な稽古。

昨日と同じ、諸手呼吸投げをいくつか。最後に自由技を試す。上手にできなくてもいい。技の巧拙ではない。「場を主宰する」を稽古する。初心者も上級者ももちろん私も、稽古すべきはいつも同じなのです。

2023年10月6日(金) 桃谷道場

剣 正面を打つ、横面を打つ

横面打ちの足捌き

横面打ち 入り身なしで転換(前足を引く)捌く を稽古する

受けが横面を打ってくる、その氣の流れを止めないで捌く

四方投げ、入り身投げ表・裏、小手返し、天地投げ

通常の、入り身転換して捌く、ではなく、入り身は無しで、後ろ脚を動かさず前足を大きく180度以上引くことで相手の横面を捌く。あくまでも受けの相手に打たせる流れを主宰する。流れの線を描く。そこに巻き込まれる受けを止めないためには、自分が止まらないこと。とどまらない気の流れと呼吸に集中する。

技は呼吸と教えられた。なぜなのかがずっとわからなかった。呼吸を止めれば身体も止まる、こちらの身体が止まれば相手も止まる。必ず止まる。精神論ではない。始まってから投げ終わるまでがひと呼吸。自分も相手も止めめない、技の流れ、すなわち氣の流れを止めないための「ひと呼吸」なのだ。

多田先生は「ひとーつ」と数える。

その「ひとーつ」の「ひ」をどこから始めるか。相手が打ってきたのを受けてから、では遅い。遅すぎるのだ。

入り身しないこの脚のメリットが他にもあることにやってみてから気づく。

間合いを自分から詰めないため、相手が事らに向かってより大きく動いて打ってくることになり、その流れを大きくすることができる。つまり打ってくる相手を後方へいざなうことで、相手はおのずと崩れてくれる。

これは面白い。もっといろいろな技で次も試してみたいところだが、あさっては多田先生の久しぶりの本部講習会。来週にはまたやってみたいこと、やるべきことがまったく変わっているかもしれない。と思いながら(と、みなさんに言い訳しながら)稽古を終えました。

2023年9月30日(土) 北スポーツセンター

今日は秋の審査がある日。4級が一名と5級初審査が二名。

三人ともよく稽古していたのがわかる。

こういう初心者の審査演武を見るたび、自分が初心者だったころを思い出す。右も左もわからない、合気道の技の名前も構成もなーんもわかってないのに、合宿に参加したらいきなり前触れもなく「二日目に審査だから」と言われて、訳も分からないまま合宿所の部屋の布団の上で先輩に一夜漬けの指導をしてもらった。本番でどんなんだったかなど全く記憶にはないが、終わったとき、指導してくれたS先輩に「よかったよ」と言ってもらえた。嬉しくて、それだけは今も鮮明に覚えている。なんだがわからないけどよかったんならよかった!また明日も頑張ろう。その繰り返しで気が付けば18年も経ってしまった。

三人とも、とてもよかった。緊張して身体が立ち止まったとき、頭が真っ白になったとき、そこでどうするか、を内田先生は見ているらしい。技の出来や上手い下手より、そこが審査する側は面白い。「面白い」と言っては申し訳ないが、どうか怒らないでほしい。合気道の本質はそこにあるのだから。危機的状況(審査は別に危機ではないが)に遭遇したときにどう振るまうか。もちろん、暴漢に襲われたときに四方投げをかけるとか入り身投げで投げる、という意味ではない。危機的状況とは暴漢に襲われたりすることではない。怒りや悲しみや不安や嫉妬や対立的な気持ち、といった負の感情は毎日のように起こるが、この時、人間の生命力は落ちる。生物として危機的なのだ。18年経った今もそれを毎日稽古し続けている。

というわけで、今回の三人はこの人生のちょっとした危機的な試練をうまく切り抜けたようだ。だから「とってもよかったよ!」と言ってあげたいと思います。おつかれさまでした。これからもたゆまず精進して頂きたいです。